拈華微笑 ネンゲ・ミショウ

我が琴線に触れる 森羅万象を
写・文で日記す。

  立ち上がった菩薩たち

2022年12月31日 | 東洋自分なり研究所

  ブログを書きながら、『愚脳からでまかせの適当なことをよくぞ書けますね…』と、自分で自分に突っ込みを入れる。

  確かに、まともに勉強していたら、かえって何も書けなくなるであろう、というのが『東洋自分なり研究所』の内容だ。・・・。

  ネズミのように、チーズの旨そうなところだけをあっちこっちつまみ食い…それが私の研究成果になっていると自分では思っている。

           

  で、最近ふと思ったことに… 菩薩像はほとんど立像、あるいは片膝を立てて坐っていたり・・・結跏趺坐で『坐禅』を真面目にやっていない。

  そのあたりのことを考えていると、小乗仏教が大乗に進化した事と大いに関係がある・・・というか、それが『菩薩』を産んだのだと解る気がした。

 

  『菩薩』の登場は私に少なくとも二つのことを教えてくれる。

  1〜 在家であっても『悟り』にいたることが出来たという事実

  2〜 『坐禅』の坐から立ち上がっても、禅定力の相続を可能にする能力に目覚めた。

  そういったことを踏まえた後代の仏弟子たちは、確信をもって『大乗仏教』を立ち上げたのではないだろうか。・・・

 

  そう思って、大乗仏教のど真ん中を行く、『維摩経』ではどんな事を言っているのだろうか?とのぞくとドンピシャ

  の一文にであった。

  それは、病気になっている『維摩』を見舞いに行きなさい…と世尊が舎利子に言うのですが、舎利子はそれを断ります。

  その理由というのが

  『ある時、舎利子が樹の下で坐禅をしていると維摩が近づいて言うに

   「あなたがやっているような仕方の坐禅で、坐禅の修行をすべきではない、(本当の坐禅とは)身も心も

    三界の中に現れないように坐禅すべきものなのです。定に入ったままで、しかも行・住・坐・臥が現れているような

    坐禅をしなさい。 すでに獲得した聖者としての姿を捨てないままで、しかも普通の凡人の性格をも表すように坐禅をしなさい。

    あなたの心が、内にもなく、外の物質にも向かわない、というように坐禅をしなさい。

    輪廻に属する煩悩を断たないままで、しかも涅槃に入ることにもなる、というように坐禅をしなさい。

    舎利子よ、すべてこのように坐禅を行うならば、世尊は彼らを「坐禅者」と呼ばれるのです・・・・」

  こう言われて、世尊よ、私(舎利子)は、彼の説く真理を聞いて、それに対して言葉を返すことが出来ず何も言わないままでした。

  ですから、私には、この高貴な士(維摩)の病気見舞いに行くことは出来ないのです。』

 

  およそ2000年前に書かれたお経、「維摩経」にこんなことが書かれていました。

  まぁ、仏教に興味のない方には、なんの話かさっぱり…でしょうが、『悟り』がどういうものであるか、伺い知ることができる一節

  ではあると思います。

  『菩薩』を辞書でみると、『仏の位の次にあり、悟りを求め、衆生を救うために多くの修行をかさねる者』・・・とあります。

  そうであれば、確かにじっと『坐禅』しているわけには行きません。『衆生を救う』為に奔走するわけですから・・・。

  でも、菩薩であっても維摩が示したように、往・住・坐・臥の普通の生活においてこそ、定力が保てるような『禅』で

  なければ本当の『坐禅』ではないでしょう。だからこその『観音』菩薩なのだと思います。

 

         

  今日は12月31日ということで、『2022年度我が写真大賞』で選ばれた作品を紹介します。

  この写真を観て、じつは私は驚嘆したのです。この写真は、私が西欧に居ることをしみじみと教えてくれました。

  皆さん、良いお年をお迎えください。ではまた来年もよろしくおねがいします。 馬骨ときどき一撮

  

  



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