拈華微笑 ネンゲ・ミショウ

我が琴線に触れる 森羅万象を
写・文で日記す。

  神仏・相対『聖』理論

2021年02月01日 | 観自在

  相対性理論・・・このなんか凄い理論に、算数(小学校中学年)すらあやういレベルの私が、なんだかんだとこれに絡もうとするのは

  チンピラが弱者に絡む心理の奥に『劣等感』がある…というのに似ていると私自身感じている今日この頃、また別の『相対性り論』を考えた。

 

  今日は名付けて 神仏・相対『聖』理論 。 これを解読するには私の『考えるな、漢字ろ!』方程式が必須となる。

  『聖』の相対といえば、まあ代表的なのが『神・仏』となる。そこでそれぞれの漢字を解読してみると・・・

  『神』=『申し示す』・・・と、上からの目線…(神が上からの目線でモノを言っても、ふつう文句言う人間はいない)

  『仏』=『人をム(無)にし、ムから仏へ』・・・と目線はあくまで自己の内側に向けられ、実際の目線は半眼で下へ落とす。

  つまり、人間の意識のベクトルが、『神』の場合は天空にむけられ、『仏』の場合は自己の内へ向けられる・・・という違いがある。

  釈尊の最期の教えとして有名な『自灯明・法灯明』が道の方向性を如実にしめしている。・・・から間違いない。

  人をしてム(無)にして、ここから空じて『仏』になる道筋を、『仏』という漢字は一文字で示してくれている(有り難い〜仏教用語)

            

   蛇足として、

  『仏語』は一般的にフランス語を表すが…

     ( 古池や 蛙飛び込む 水の音・・・Japon !(ジャポン=日本を表すフランス語))という高尚な因縁から語縁が来ている。

  しかし、実際には『仏語』は、私のブログ・タイトル『拈華微笑』を起源とする『非言語コミュニケーション』を意味しているのだ。

         (芭蕉の俳句もまた然り、ジャポンのあとの静寂に耳を傾けよ)

  

 

  



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