拈華微笑 ネンゲ・ミショウ

我が琴線に触れる 森羅万象を
写・文で日記す。

  坐禅 の ” 坐 ”

2022年01月17日 | 観自在

  動画で禅僧の坊さん?、が自分が開発した『坐り方』というのを異常な熱意で説明しているのを見て違和感をおぼえた。

  此岸から彼岸へTeleportatiion(念力移動)するのに乗る乗り物としての『坐』であれば、その操縦は自分で学ばなければ『坐』は飛ばない。

  言い方を変えれば、『坐禅』を始めた瞬間から『坐』はその人にとって好むと好まざるとにかかわらず『公案』となる。

 

  私のような凡蔵(ボンクラ)は30歳になるまで、何の『?』も持たずに、のほほ〜んと生きてきたが、

  坐禅したその時、『大疑』が起きた。自分のこれまでの『時間観』に疑問をもったのだ。

  坐禅は『問』を持たぬ者に『問』をもたせ、『問』を持つ者から『問』を奪う・・・。

 

  坐禅の『坐り方』は、基本的なことを教えたら、あとは本人の気付きにまかせ、基本から外れている時のみ注意する程度で良いと思う。

  禅修行中は考えもしなかったが、今思うに坐禅の『坐』そのものがじつに公案であった。

 

  『動中の工夫は、静中に勝ること百千億倍す…』とはかの有名な白隠禅師の言葉である。

  彼岸〜此岸の移動が自在になれば、『坐』というUFOは不要になることを言っていると思う。

  宗教とそれ以上のモノとの違いは、人に信じる事を教えられた後に信じるモノと自らの内から湧き上がってくる確信の違い…であろうか。

  悟学では、『坐』の字は『土』の上に『人』二人を書くが『自他不二の世界』を表している・・・それが芯から分かるまで『坐』せということか。

       

                  『 坐のままで 娑婆駆けめぐる 菩薩かな 三十余年 坐る間もなく 』 馬骨

  

 



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