先週、こちら西欧の国々では『復活祭』ということで週末をはさみ4連休を人々は楽しだ。
フランス語で『Pâques:パーク』と言い、鶏や兎を型どったチョコレートが店のショーウィンドウを飾り
家族が集い、ゆで卵やチョコレートの卵を庭に隠して、それを子供たちが見つけるという伝統的?な遊びに興じる。
また信仰深い人々は教会に行き、他の信者とともに『キリストの復活』を祝うが、大半の人は家族とともに過ごすようだ。
以前は毎年のように、この日を迎えると、私は相方に『パークとはなんぞ?』・・・と尋ねていたが、クリスチャンではない相方は
『よく知らんがな…』的に口を濁し、一応母方のユダヤ系をある程度意識はしているがそれも深くは知らず、自称仏教徒で時々タオイスト
と言うように、宗教的にはよく定まっていない事を露呈する日でもあった。そしてそれは一応クリスチャンの家に生まれた人々も相似たりの
状態で、だいたい天候不順の『復活祭』の連休は誰もが何となく手持ち無沙汰感を醸し出す中途半端な行事・・・という事を私も感じ始めていた。
今年の復活祭はたまたま4月9日、4月8日がお釈迦様の誕生日の降誕会・・・であったことから、元々因縁無きこのお二人を
無理やり馬骨流に『因縁付け』、喧嘩を売ってみて相手に何か言い分があれば聞いてみたい気がした。
基本的に『人間は皆同じ』・・・という考えを前提にすれば、イエスも釈迦もどこか共通する処がありそうなものだ、という発想のもと
馬骨流に支離滅裂・滅茶苦茶論を披露すれば、『キリストの復活』は『釈迦の悟り』に相当し、そこに至る基本理念は共に
『一切皆苦』であり『諸法無我』であると思う。
『十字架のキリスト』は、人々の『一切皆苦』を一身に引き受けた姿の象徴であり、
坐禅の『坐』は『自己の苦』を『他己の苦』と完全同調する境涯の象徴なのである。
イエスの十字架上の磔の姿は明らかに『苦』を表しているが、一方、釈迦の坐姿は『涅槃寂静』であるようで
そこに至るまでの『一切皆苦』であり、『諸法無我』へ転換する瞬間の『坐』姿であることは、大抵の仏教徒も知らないのでは無いか。
ニコラ画伯による『十字架』と『坐』