拈華微笑 ネンゲ・ミショウ

我が琴線に触れる 森羅万象を
写・文で日記す。

  『十字架』 と 『坐』

2023年04月14日 | 東洋自分なり研究所

  先週、こちら西欧の国々では『復活祭』ということで週末をはさみ4連休を人々は楽しだ。

  

  フランス語で『Pâques:パーク』と言い、鶏や兎を型どったチョコレートが店のショーウィンドウを飾り

  家族が集い、ゆで卵やチョコレートの卵を庭に隠して、それを子供たちが見つけるという伝統的?な遊びに興じる。

  また信仰深い人々は教会に行き、他の信者とともに『キリストの復活』を祝うが、大半の人は家族とともに過ごすようだ。

  

  以前は毎年のように、この日を迎えると、私は相方に『パークとはなんぞ?』・・・と尋ねていたが、クリスチャンではない相方は

  『よく知らんがな…』的に口を濁し、一応母方のユダヤ系をある程度意識はしているがそれも深くは知らず、自称仏教徒で時々タオイスト

  と言うように、宗教的にはよく定まっていない事を露呈する日でもあった。そしてそれは一応クリスチャンの家に生まれた人々も相似たりの

  状態で、だいたい天候不順の『復活祭』の連休は誰もが何となく手持ち無沙汰感を醸し出す中途半端な行事・・・という事を私も感じ始めていた。

 

  今年の復活祭はたまたま4月9日、4月8日がお釈迦様の誕生日の降誕会・・・であったことから、元々因縁無きこのお二人を

  無理やり馬骨流に『因縁付け』、喧嘩を売ってみて相手に何か言い分があれば聞いてみたい気がした。

 

  基本的に『人間は皆同じ』・・・という考えを前提にすれば、イエスも釈迦もどこか共通する処がありそうなものだ、という発想のもと

  馬骨流に支離滅裂・滅茶苦茶論を披露すれば、『キリストの復活』は『釈迦の悟り』に相当し、そこに至る基本理念は共に

  『一切皆苦』であり『諸法無我』であると思う。

 

  『十字架のキリスト』は、人々の『一切皆苦』を一身に引き受けた姿の象徴であり、

  坐禅の『坐』は『自己の苦』を『他己の苦』と完全同調する境涯の象徴なのである。

  イエスの十字架上の磔の姿は明らかに『苦』を表しているが、一方、釈迦の坐姿は『涅槃寂静』であるようで

  そこに至るまでの『一切皆苦』であり、『諸法無我』へ転換する瞬間の『坐』姿であることは、大抵の仏教徒も知らないのでは無いか。

 

       

                ニコラ画伯による『十字架』と『坐』

                                           


  マイ花粉症開幕かな・・・(2023)

2023年04月14日 | 娑婆惰罵駄(シャバ・ダバダ)

  マイ花粉症・・・。いつ頃から始まったのか? ハッキリしないけど多分、還暦あたりでけっこう遅咲きだった。

  花粉症って大したことない…と高を括っていたら、年々症状がクリアーに観え、侮(あなど)れない病気と感じ始め

  その苦しさを、『短歌』にして綴ったのが 2021年6月27日のブログ記事〜 花粉症-21

 

  2015年〜『 花粉症 くしゃみ鼻水 満開で ティシュ散乱 春は爛漫 』

  2016年〜 『 五月とは 殺気ひめたる 季節かな 陽気が妖気 醸し出す月 』

  2018年〜 『 ギックリ(腰)も お目々かゆいも 定期便 忘れた頃の 春の兆しの 』

  2019年〜 『 不粋でも 一応風粒 花粉症 五月の季語に 鼻を垂らして 』

  2020年〜 『 血の道は 女狂わす 月のもの 男狂わす 花の粉の舞う 』

  2021年〜 『 ウィルスに 花粉を添えた (二千)二十一 不可視の粒に 憂鬱な春 』

  

  花粉症は、私の神経を逆撫でし、私から日常の平安を奪い去るかのように、普段の落ち着いた心持ちをズタズタに切り裂く…。

  そういったこれまで経験したことのない、苦しい心境を数年に渡って短歌にして詠んだものだが

  たかが、花粉で人の心がこれほど乱れるものである・・・ということを身を以て体験しているところ、という事か。

  花粉症の人は沢山いるであろうが、皆さんよく耐えていらっしゃる。

  まぁ、私も仕事をしていた頃は、花粉症も忘れて仕事をしていたっけ。そういった意味では仕事に助けられていたといえる。

 

           

            花粉症だが、相方が買ってくれたホメオパシーの薬が目下のところ良く効いているようで、(本日4日目)

            飲めば症状が楽になる・・・。これでこれからの3ヶ月耐えられるだろうか?