数日前は『合掌は悟りの象徴』と書いたが、『悟り』などという気難しいワード以前に『幸せ』としての『仕合わせ』の行為
が『合掌』であると言うほうが、本質がわかりやすいであろう。
『合掌』は洋の東西を問わず、『祈願』の行為であることは間違いないと思う。
仏教、なかでも『禅』は『己事究明』を旨とする仏の教えであれば
『自分〜自ずと分かれ、自ずと分かる』・・・この『分かれて、分かる』その行為そのものが『合掌』であり『仕合わせ』で
その象徴が『合掌』なのだとわかる。
その分かった先に『不二の法門』が開かれ、主語のない『幸せ』を願う自分を見るだろう。
ここに、そういった『幸せ』を願う一人の男のことが語られている・・・