拈華微笑 ネンゲ・ミショウ

我が琴線に触れる 森羅万象を
写・文で日記す。

太極拳考(1)

2018年09月23日 | 還暦録

 数ヶ月前、NHK大河ドラマ『功名が辻』にハマり、その中で織田信長による能の舞を何回か見ている時、ふと『太極拳=禅=能』の思いが強くなり、以来『太極拳』について何かが深まったようなのだ。

特に今年になってから週3回近くの公園を走り、そのあと太極拳をするのが日課になっていて太極拳は動禅であるとつくづく思い至っているこの頃である。

ボクと太極拳の関わりについて考察してみようと思う。

円覚寺老師の弟子になったのが1987年でボクが35歳の時。

翌年1988年3月より渋谷だったか、楊名時先生ではなかったが、その弟子の方に『鶴の舞』と称される太極拳を最初に習った。楊名時先生の本を2冊持っているが、写真による楊先生の太極拳は実の優雅である。しかし、当時のボクにとって太極拳は基本的には武術であると理解していたので、あまりにも優雅で、武術を感じさせない楊名時太極拳に物足りなさを感じたようだ。

1989年3月からボクは村瀬大翼氏による太極拳を学び始めている。

村瀬先生は大道学舎という組織を主催して、禅と太極拳の指導を並行して行われていた。先生にとって太極拳は動禅であると解しておられ、坊主頭に長い髭を蓄え一般人に対して親切丁寧に禅、太極拳を指導されていて非常にユニークな存在であった。

一度大道学舎による滝行をニコルと一緒に参加したことが懐かしい。当時ボクは禅を円覚寺老師に師事していたので、村瀬先生から禅の指導を受けるつもりはなかった。

この村瀬先生より同年6月に24式太極拳の試験を受け、指導資格を受けた。

村瀬グループで知り合った女性が飯田橋にある『日中太極拳交流教会』中国人指導者

李徳芳先生の存在を教えてくれ、早速8月から李先生に指導を受けている。

9月からは週2回、1991年7月まで指導して頂いたのでほぼ2年間学んだことになる。

1991年6月に24式太極拳を制定した李天驥老師の娘、李徳芳先生より専門コース修了証書を頂いた。

この時期は毎月の円覚寺での接心に参加して禅修行に打ち込んでいた時期と重なるが

寺に行っていないときはよく公園などで練功十八法と太極拳を練ったものだ。

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1990年8月代々木での太極拳武術大会に最初で最後の参加した際の図(写真を見て頂くとわかるように3人で演武を開始したが他の2人が非常にゆっくり、でボクはいつものスピードでやっているとだんだん先へ進んでしまい、それを気にした途端、頭の中が真っ白になり一時中断してしまい、失格となってしまった…)

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一方、ニコルは24式太極拳女子参加者、120名中34位という輝かしい成績を残したのだ!

こうして振り返ってみると、当時は何も考えていなかったが、錚々たる先生方におしえを受けていたのだと還暦するばかりである。

そして面白いことは、今現在ボク自身の太極拳が最初に学んだ楊名時先生の『鶴の舞』流の太極拳へより近くなっていることだ。

あらためて先生の本『太極拳』を見ると、禅僧として著名な河野太通老師の推薦の言葉と題字が寄せられ、禅と太極拳が相通ずることを証しておられた。


ゲゲゲの昭和人

2018年09月08日 | 還暦録

じつは最近ずーっと連続ドラマ『ゲゲゲの女房』にハマって、全156話、今日鑑賞完了。

なんだか、物凄い懐かしさにどっぷりと浸ってしまい感無量。

今までほとんど気にもとめなかった『昭和』であるが、ボクは昭和27年生まれだから、生粋の昭和っ子なんだぁ・・・とつくづく思ったわけだ。

1991年=平成3年にこちらスイスに渡ってきてから、西暦一辺倒で昭和はもちろん、平成も今年は何年なんだかわからないぐらい和暦の年号にはご無沙汰していた。

平成という年号も来年2019年の4月30日までだそうで、5月1日からは新年号となるようだ。

そうなると『昭和』という年号も、ボク等がイメージする『明治』みたいな感覚で受け止めるようになるのではないだろうか。違うのはITの進歩のおかげで視覚資料がたくさんあって何時でも懐かしさに浸ることができることだろうか。

来年5月を迎える前にボク等『昭和人』は僕らの『昭和の文化』の総括をする必要があるのではないだろうか。先日Youtubeで外国人が日本にすっかり定着して生活している様子を取材した番組を見ているとその外国人が『いまだ昭和の雰囲気が残っているここが好きです!』と言っているのを聞いて不思議な感じを受けたが、今の日本にはまだそういった雰囲気のところが案外残っているようであった。

再来年に東京オリンピックがあるが、1964年の東京オリンピックはある意味『昭和』に大きくはずみをつけた象徴的出来事であったが、2020年の新しい元号で迎える東京オリンピック…というのはなんだか『昭和』の位置づけをする決定的な出来事のようにも思う。

昭和といっても、ボクが知っているのは『戦後の昭和』で、高度経済成長時代とかなんとかであったようだが、それを生きてきた本人にはそれが、どういうことであるかなんかは、さっぱりわからずに生きてきたのであるが、今思うとやはり、古き良き時代みたいな感慨に陥る。

特にボクの場合、1991年湾岸戦争の年にスイスに渡った事もあって、その後スイスにて『バブル崩壊』という言葉を耳にはしていたが、今のようにネットもない時代であったから正直なんのことであるかボクは知らずにいた。それは『1973年から続いた安定成長期が終わり、失われた20年と呼ばれる低成長期に突入』を意味していたことはだいぶ後になってから知ったことで、今でもYoutubeなどでNHKクローズアップ現代などで日本の実態を取材した番組などを見ては、自分の知らない日本を見るのであった。

 

平成になって『IT技術』の目覚ましい発展の影に、様々な『負』の側面の拡大が日本に起こっていたのだ。

今の若者達はこの世の中をどうみるのだろうか?

ボク等が若かった時代とは明らかに違う、だからといって比較しても仕方がないが。

年をいっても、ボク等だって今の世を生きているんだもな。

水木しげるの漫画は残念ながらその当時は読まなかった。彼の絵に馴染めなかった。

しかし、今は読んでみたいと思う。彼が我々に気づかせたかったことは、時代の進展とは真逆の方をじっくり観察して自然が持つ生命力の尊重であり、それはまた人間の本質への帰郷をうながすものであったと思う。

 

今朝故郷の北見の姉にスカイプした。昨日札幌方面に震度7の地震があって

大きな被害がでたと聞いたからだ。姉の話によると震源地からかなり離れている北見でもいまだに停電して24時間以上電気がないので冷蔵庫の氷が溶け出してきて困っているとのことであった。何という災害年であろうか2018年は。

 

 

 

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  『昭和は遠くなりにけり…』ってのはボクにはまだ10年早いかな?

妖怪・魑魅魍魎が取り巻く庭を背景にゲゲゲの昭和人のボク


 亀仙人への道

2018年03月05日 | 還暦録

 昨日、3/3日(土曜)は結構疲れた。
 というのも、一週間前に昔スイスのバトミントン・ダブルスのチャンピョンだった友人のローレンスが務めるチューリッヒの
 ヨネックスが一般人プレイヤーによるダブルス大会を催すので『息子のジョナスと参加しないか?』という申し入れがあり
 『まぁ、やってみようか…』と気楽に引き受けたのである。

 しかし、実際のところボクは13年ぐらいダブルスもしていないし、先週久しぶりにまともなシングル試合をして息が切れるような
 状態で体力的にも技術的にも全く自信もなく、ましてパートナーとなるジョナス(18歳)とは一度もバトミントンをしたことが
 ないし、ジョナス自体、親の期待を一身に受けて10歳くらいまで練習をしていたが、人と闘争することが好きじゃないジョナスは
 オヤジの期待虚しくバトミントンを止めていたのだから、どの程度やれるのか???
 まぁ、勝ち負けは兎に角、アマチュア・バトミントン市民による『お楽しみ会』なのだから…と思って、電車で2時間半かけて
 チューリッヒにでかけた。
 結局、6試合して2回負けたが、2位になった。
 なんでも16チーム参加したとのことで、中にはミックスダブルスのチーム、女性のダブルスチームなども参加して
 その場合、女性一人に対して5点のハンディ・キャップを与えた。
 僕らの6試合のうちに2試合は女性のダブルスのチームで、実に初心者グループであったが、残りの4チームは普段から
 練習を積んでいるパートナーとのチームのようで練習風景を見ていると、これは『勝てないナ〜』と思っていたチームで
 あったが、いざ試合となると終わってみると『勝っていた!』というかんじであった。

 ちょっとショックだったのは、僕ら二人は点を数えられないチーム…ということ。ふたりとも長年試合なんかしていないので
 点を数えられないのだ、しかも相手はドイツ語圏の人だし、まぁ、英語が出来る人もいるけど試合中何回も聞くわけにいかず
 しばらくの間、点もわからずに試合をして、時々相手に『いま何点?』と聞く始末であった・・・。


友人がほんの24秒ほど試合の様子を動画にしてくれていた 

 画面、右側が我チーム、一撮がかめはめ波スマッシュを打つところから動画がはじまっている。

 自分がバトミントンをしている所を初めて見たが、『ホンマに亀みたい・・・』という感想をもった。
 15年以上前だが、ドラゴンボールの『亀仙人に似ている』と友人家族皆に言われて、以来若干意識していたが、
 なんか、本当に亀仙人風になりつつあるようだ。その名に恥じないように心身ともに鍛えなければ!
     (若干、女好き…のところも似ているかも?)
 兎に角、ボクと孫のようなジョナスとのいい思い出になったことが、なによりの『ひな祭り』日であった。


   左より一撮亀仙人とジョナス、優勝した二人、そして3位の二人の記念写真


還暦する自分史

2017年12月28日 | 還暦録

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    『自分史』のテーマにピッタリの写真を撮れた感に満足図

先日、大好きなPodcast(~アンドロイドではCastBox)で、ラジオ版・学問ノススメ立花隆さん講師で『自分史』テーマ
のお話があった。(2014年の収録)
キッカケは50歳代以上の人を対象に、ある大学が催した講座に立花氏が講師として依頼されたもの、とのこと。
立花氏曰く、60歳は自己の歴史を振り返るのに最もふさわしい年代…とのこと。まさに、『還暦』する…である。

還暦も半ばになり大雑把でも俯瞰できる『自分史』をしてみようと思った。

1~10歳:遊戯三昧期
     まったくもってよく遊んだ。今考えるとボクの性格形成の基盤がこの時期の『遊び』にあるような気がする。
     育ての母は眼が不自由で、文盲であったから、日常の躾は厳しかったが、それ以外のことは放任されていたので
     暗くなるまで、冬は長靴に毛糸で編んだ脚絆をはいて雪にまみれ、帰宅してストーブにあたると軽い凍傷なのか
     足が痛くなったりしたものだ。まだスポーツとは無縁でも、大自然のなかでの遊びで体が鍛えられた時期。

11~20歳:小、中、高校の学生期
     小学校では『歯磨き』から教えてもらった。それまで、多分歯を磨く習慣がなかったように思う。
     『紙芝居』が大好きで、夢中で見ている子供だった。クラスは多く50~55人ぐらいいたが、どの先生も
     熱心で一所懸命教えてくれた。お陰様で高学年ではまあまあの成績でクラスの子とも仲良く、特に稲田君とは
     ふざけあって、映画『マタンゴ』というキノコの化物に稲田君がなって追っかけられるボク…は忘れられない。

     中学校では、部活が中心の生活だった。夏は柔道部、冬はスケート部。その前に毎朝自転車で『牛乳配達』をした。
     ボクの田舎、北見は国鉄職員の子女が多く、進学する者がほとんどで北見市内で進学校は柏陽と北斗高校があって
     皆、そこを目指していた。ボクもなんとなく高校ぐらいは出てないと将来大変だ…ぐらいに思っていたようで
     300人中30番ぐらいの成績で、柏陽高校に入学した。

     高校一年生の時、実母が死に、姉も嫁に行ってボクは一人になった。市役所の福祉職員のお世話で
     市会議員の方の家に卒業するまで夕食付きの下宿。進学校であったので、ボクのように進学する気がなかった
     者にとって、この時期は結構辛かった。皆大学受験を目指している中、そうでない者が何人かいてボーツとして
     いたが、それじゃまずいと、自分なりにこれはと思う本を授業中に読んだり、3年生のときは自転車で北海道3分の2周
     した時、同校の野球部が甲子園出場してこの時優勝した箕島高校にやぶれた。友達が一人もいない三年間、成績は多分
     卒業させられないレベルであったと思うが、お情け卒業し、東京のオープン間近の京王プラザホテルに就職。

21~30歳:写真三昧期。カメラは一番小さくて、安いペンタックスSP。
     東京から何故か、神戸に渡って六甲道の牛乳屋さんに3人共同の住み込みしながら、写真学校へ。
     ボクの田舎とは全く違う環境で、写真という目標を見出して最高に充実していた。
     写真学校~同校助手勤務~英会話学校(車で弁当配達)~東洋鍼灸専門学校+無為塾(某学校宿直勤務)~禅を始める

31~40歳:33歳で鍼灸学校を卒業・免許取得後、36歳ぐらいまで、ヨーロッパ、ニューヨークなど行ったり来たりして過ごす。
     36~39まで円覚寺にて居士として禅修行&太極拳を村瀬大翼、李徳芳先生に学ぶ。(夜間クレジットカード会社勤務)

40~50歳:バトミントン三昧期。 39歳、ニコルと結婚しスイス在住。フリーの観光ガイドを始める。
     来瑞当初、練功十八法(中国体操)を教えていたが、それで食べていけずガイド業に専念。
     1995年ローザンヌでバトミントン世界選手権が行われたが、丁度この年ボクは43歳でバトミントンを始めた。
     多い時は週に3回、家から近いバトミントン場へ通い、一回に3時間ぐらい練習、これを2005年まで継続。

51~60歳:写真再開期。2001年(49歳)例の9・11でスイスへの観光客激減が決定的になった頃、2003年引越し屋の話があり勤務。
     以来、収入とバカンスが安定したため写真活動を再開。初めは自宅に暗室を設けて再開したが、2006年にカメラを
     デジタルにしてPhotoshopに移行。 2011年(59歳)3・11があり6月にスマートフォンを買い、ツイッターで俳句を
     始め、ツイッターやその他のネット情報で日本の政治状況に目覚め、2012年12月の衆議院総選挙に初めて投票権を使用。
 現65歳:引越し屋を15年勤め5月に定年退職。4月に自分の写真に短歌を刻んだ作品で展示。

 こう書き始めると案外、あれやこれや思い出し始めたが、大雑把なところでまとめる。
 先のことはわからないが、ざっとこうして俯瞰してみると来年の抱負への参考ぐらいにはなるだろう。
     


 愛と力

2017年11月28日 | 還暦録

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      ニコルの伯母を老人ホームへ訪ねた時、一緒にした散歩の途中で見かけた少女像のある池

 年金の手続きの為、戸籍抄本が必要になり、それがどんなものだったか?
 思い出すためにニコルと結婚した時(28年前)準備した書類の中に戸籍抄本やら謄本なるものが
 あったわいナ~とタンスを調べるとあったあった。
 なんとなく戸籍謄本を見ていると、46歳で亡くなった母の欄に彼女が生まれた住所が書いてあるではないか。
 母は大正12年、東京府南葛飾郡…とういうところで生まれていた。

 Google map で調べてみると旧中川と大きな川、荒川に挟まれた現在は江戸川区の小松川に生まれたのだ。
 母が生まれた頃はきれいな川があり、海にも近く適度に自然があってさぞかし住みよいところであったろう。
 3歳年下の道産子の父と出会うまで畳屋の一男三女の長女としてこの地に暮らしていたのだ・・・。

 母の生まれ故郷をGoogle-map で見ていると、なんだか切なくなってきた。
 好きな男に付いて北海道の北見まで来て、姉を産んで、ボクを産んだ30歳頃、体調を崩し子供の面倒が
 みられなくなり、よそに預けたりして苦労している時、父は姿を消した…。
 姉は孤児院、赤ん坊だったボクはよその家を転々として最後に育ての母の家に落ち着いた。
 一家が離散してしまったのだ。
 その頃、母はどんなに寂しかっただろうか… 想像できない。
 ボクは小学校に通う頃から母と姉のもとに戻り、実母と育ての母の間を行ったり来たりしていた。
 ボクが高校一年のとき母は亡くなった。

 高校をでたボクはその後、神戸を経由して東京には全部で8年ぐらい住んでいたけれど
 江戸川区方面には一度も行ったことがなかった。
 母の生地を今日まで知らなかったから…
 母の名は『愛子』、父の名は『力弥』だった。


 一撮いよいよ映画デビュ〜

2017年09月22日 | 還暦録
 ローザンヌにある日本食品店で若い人妻(日本人)が、笑顔で声をかけてきた。
 人違いでは?・・・と思ったら、そうではなく
 
 今年モーリス・ベジャール・バレエ・ローザンヌ創設30周年、そしてモーリス・ベジャール亡くなって10周忌となり、記念公演準備中でそのワンシーンとして
 ダンス実演の横に映写する映像に日本人(年配の)を探している・・・のだけど、興味ありますか?と、言いながらボクの風貌を観察していた。

 彼女自身は関係者の友人から適当な日本人を探すように頼まれただけということで、興味があれば連絡してください、とメモをもらった。
 
 ここが、定年退職者の『暇の見せ所』・・・これといって予定もなし、ちょっと好奇心+バイト料も少ないけど出してくれるという。
 早速、キャスティング専門の女性に電話して面会。・・・その場でOK! あと候補者が3人いて、そのうちからもう一人を決めなければいけないそうだ。
 つまり、年配の日本人男性が2人必要であるとのこと。

 21(木)昨日がその撮影日で、駅で待っていると、もう一人の日本人男性が挨拶をしてきた。S氏はスイス在住40年になるそうだ。
 だからスイス・フランス語圏の様々なことに詳しく、話をしていて楽しく、今日一日だけでも良い仲間ができた感じ。

 送迎バスはいったんベジャールの稽古場に行き、ダンサーを4人のせ、郊外にある撮影スチューディオへと向かった。
 ダンサーの内2人は若い日本人男性で、一人は大貫と名乗っていた。彼も日本ではよく知られたダンサーなのだろう。

 撮影所は比較的新しく、撮影所としてはとても小さなもので、着替え場所も狭かった。
 ボクは着物+袴姿、S氏は着物に羽織・・・というところであるが、着付け専門の男性もさすがに日本の着物の着付けは良く知らないようで
 ボクの禅修行中に体験した袴着付けを参考にしたが、ボクの方に帯が用意されていなくて、袴のヒモだけで腰に装着するのはそう簡単ではなく
 後で考えると袴の前でのヒモの蝶結びは『おかし』かったようだ。・・・まァ、その辺は向うも適当なもんだが、これを日本人に見られると思うと
 今から、若干気が重い。   こんな感じ ⬇︎
                    

 相棒のS氏も着付けしてもらったものの、数歩あるくと帯がバサリ!…と足元に落ちて、2人で大笑いした。これが撮影中だったら傑作だったのに・・・。
 
 準備ができて、スチューディオに入ったのだが、それから僕らの前に撮影しなくてはならない、アフリカ編というか、3人のアフリカによるダンスの撮影になんども
 やり直しがあって、つくづく大変だな〜・・・とも思い、映画作りの面倒さにうんざりすると同時に自分が映画と関わりがなかつた幸運を思ったりしていた。
 それにしても、映画関係者の若い女性達はどういうわけか、美人が多いような気がするが、それは映画だからか?(たとえ出演しなくても)
 監督のまわりに助手の女性、着付けの女性、ライティング関係の女性、記録をとっている女性、メイクの女性その他なにやっているんだかわからない女性等がいた。

 さて、いよいよ僕らの出番になってきたが、スタジオに設定されたにわか障子と六畳間の狭いセッティングにボクと相棒は立たされ、指示されたのはじっと見つめる
 方向のみ・・・。(もっと状況を説明すべき…だとは思うよ!)
 僕ら二人の前で日本人ダンサーが一見太極拳のような動き(8,9秒)から場面から飛び出て、代わってアフリカ人ダンサーが入れ替わって画面にはいってくる…というシーン。

 これが、踊るタイミング、照明のタイミングその他様々なタイミングがぴったり監督が納得いくまで繰り返され、我々はじっと立っている脚が痛くなってきた。
 しかも、ボクの目線はライティングのランプにあるので、眼がおかしくなってくるし、、、。

 ここで、監督の指示よりも、一つ印象に残ったのはダンサーに振り付けの指示をした男性であった。日本人ダンサーも彼の指示でこれまでの迷いがストンと落ちた感じがしたが、
 果たして、帰宅してからモーリス・ベジャール・バレエをググって写真を見てその男性こそがベジャール氏亡き後の後継者ジル・ロマン氏であったことがわかった。(さすが!)

 まァ、なんだかんだで一時間半位かかって終了。しかし、僕らにはその場面を見せてくれなかったので、どんな感じで我々が映っているのやら。
 この記念公演は最初に今年12月ローザンヌであるのでその時は是非みにいくつもりであるけど、若干正直『こわい!』穴があったら入りたい心境になるかも・・・
 いずれにしても僕らが映っている場面は 20秒ぐらい 音楽+踊りとともにモーリス・ベジャール氏の日本人への思いを語る声がダブルのである。乞うご期待!!

  『Nippon』卒業!

2017年06月06日 | 還暦録

 五月末、いわゆるスイスでの男性65歳『定年退職』となった。
 それに関して会社をはじめ下請けの仕事仲間、友人達などが、それぞれ違った形で『祝』ってくれた。

 仕事でもプライベートでもだいたい『独り』ぺースで生きてきたので、こういった『会』で真ん中に席をもうけられると
 落ち着かないが、そういったボクの質をしっている人達はわりとユルリとした会にしてくれたのが有難かった。

 これまで様々な職業を転々としてきたなかで、もっとも嫌いな『引っ越し』を職業にするとは思いもしなかったし、
 しかも、仲間と一体になって成し遂げるチーム隊形でキャプテンの役まわりを期せずしてやる羽目になって
 それが案外やりがいや、面白みのある仕事であった、というかそういう仕事にすることが出来たことは
 ラッキーであったとつくづく思う。

 ( ちょっと説明を要するが『引っ越し』と言っても『海外引越』で、仕事のメインパートはまず『梱包』
  そして倉庫までの『運搬』、最後に船積み用コンテナに載せる前段階の『荷の大箱詰め作業』・・・となる )

  15年間、『引越し屋』をやってきたわけであるが、思い出ということになると、ハッキリとよく覚えている思い出は
  つらかったり、嫌な思い・・・ばかりであるのが、笑える。

  引っ越しが無い時、ボクは空港と税関が一体になっている大きな建造物の中で、他の貿易会社の連中に混じって荷の出し入れの
  仕事をしていたが、皆から『Nippon』と呼ばれて親切にしてもらった。男ばかりの世界で、一見荒々しい雰囲気の中でも 
  彼等は案外皆親切で、助けあっていた。中でも僕らが出し入れする荷がどこよりも一番でかい荷で、しかもリフトなどの機械
  を使わず自分の手と足で引っ張るトランスパレット(仏語)で移動させていたから、かなり目立った存在であったろう。

  今日アップする写真は ボクの引っ越しチームの下請けの親玉ポルトガル人・アントニオが催してくれた『お祝い会』
  アントニオの倉庫をパーティ会場にして彼の得意の炭焼きバーベキューの様子。

   
     どこか日本人に通じる人情の男アントニオと。

  
 自分の引っ越し屋を立ち上げたばかりの時に、下請けでボクとチームをくむことになって以来のアントニオと仲間たち。

   
   皿包嬢のメンバーも子連れで参加してくれた。彼女らにボクはどれだけ助けてもらったか・・・感謝!

                 
            F1のチャンピオンのようにシャンパンを開けろと、言うが、なんせ初めてなんで、と・・・もたつく図
           首に掛かっているレイとその先についているメダルに『定年』『祝』と書き込んだメダルは皿包嬢が作ってくれた。

  会社でも心温まる『送別会』を催してくれた。いま、そうした送別会をボクは何故か『卒業』・・・という感じで受け止めて
  それが、一番気持にピッタリする言葉のような気がする。『卒業』は別れであると同時に新しい旅立ちであるから。

 

 最後の霊山参り

2017年05月27日 | 還暦録

  五月というのはボクの生まれ月であるから、まちがいなく依怙贔屓して『爽やかな五月』・・・ということに長い間
  なっていたのが、花粉症の怖ろしさを心底知ってからは、五月の花粉症は一年のいい季節を迎えるに当たっての
  『通過儀礼』と受けとめることにした。
  ボクの辞書に『落ち込み』はなかったが、花粉症の陰にかくれて存在していたようだ。

  中旬まで寒い五月だったのが、ここ最近晴天の爽やかであるはずの五月の陽の光はボクの眼のふちを苛立つほど
  痒くし、鼻やら目やら口周りをたえず触っている自分に気づく・・・。


  『 無粋(ぶすい)でも  一応風流(粒) 花粉症  五月の季語に 鼻を垂らして・・・』 一撮


  それでなくても若干『退職』センチメンタル症にかかっているのに、そのうえ花粉症からくる殺気(五月)は
  自分でも持て余しそうだ・・・

  そんな数日前、『最後の霊山』参り・・・に行ってきた。
  これを書いていて初めて気づいたが、地名:Leysin(レイザン)は漢字だと『霊山』になるなぁ!
  というのは、普段はジュネーブやローザンヌ近辺で仕事をしているが、年に4〜5回ジュネーブから150Kmぐらい
  のレイザンという山中に日本人高校があって毎年この季節に卒業する生徒の荷を回収しに行く。

  天気がいいと途中レマン湖を上から見下ろす、山に上ると雪を頂いたアルプスの山々の絶景がみられるので、
  同行するスタッフ(5人)もこのレイザン行を楽しみにしている・・・それが、この日が最後になるのだ。

     
      最後の霊山参りの帰路相棒の運転で、我が愛車の姿・・・はミラーに隠れてしまったが、

  

 『いつ来る?』= It’s cool!

2016年05月12日 | 還暦録
 今日、5月12日・・・世界的に言うと別にどうということのない日であるが、ボク一撮の誕生日である。しかも、第64回!
 天上天下唯我独尊的に言うとボクにとっては自分に『甘茶』をかけてやりたいくらいの日でもある。

 年を取れば取るほどいつ逝ってもいいくらいであるのだから、今年も無事自分の誕生日を迎えた!ということは案外たいした事で
 あるように思えるようになった。
 こちらヨーロッパでは習慣として誕生日を大事にしているように思う。家族や友人が『誕生日おめでとう!』の一言を伝えてくる。

 今朝は、歯医者に、歯石をとりに行ってくる。前回ちょっと痛くされたので2年近くサボっていたのが、
 相方にバレて予約を入れられてしまった。ヨーロッパでは歯の治療に保険が効かないので、ウチの相方は『歯』には非常にうるさい。
 今日の歯石除去師(?』とは初対面で強いなまりのフランス語を話す50歳前後の女性、ナニジン?と聞くとアメリカ人で
 痛みもなく非常に丁寧に歯石を取ってくれた。

 その後、街で相方と合流してウチの電話会社サンライズの店にいく。
 というのは今のウチのWifi出力が弱いので、ボクの誕生日という名目で強いヤツに交換することでボクの誕生日プレゼント
 にしてほしい・・・と決めていたのである。
 僕等夫婦を担当してくれたのは丸坊主頭のガタイのいいアラブ系のお兄さん。
 彼と色々話している内に8カ国語話せる事、お母さんが通訳だった、お父さんがろうあ者で手話もできる、等など。
 機器を設置するのに無料で人を派遣してくれる・・・という話が出たところで
 ボクが相方に『いつ来る?』と日本語で聞いた時、そのアラブのお兄さんには『It’s cool!』と聞こえたらしく、
 『Oui, It’s cool!』・・・と言ったので僕等は一旦キョトンとしたあと、お兄さんにわけを言って大笑いとなった。

 店を出て、50メートル信号のある小さな通りの横断歩道のそばに何を書いてあるのかカードを手に持ってほぼ毎日正座して
 路上に座っている若い女性の物乞いの缶の中に相方は10フラン紙幣を入れた。何時もは街角街角に物乞いの人達が座っている
 状態がイヤでイヤで遠回りしても避けて行くのに・・・。

 午後は誕生日ということで近所のタイ・マッサージに行ってきた。ここには3人の女性タイ人がいて3人とも非常に上手で何時も感心。
 ただ、今日は一番若い女性(33)しかいなくてちょっと世間話もしてきた。彼女は英語、フランス語が堪能であるから、他の仕事でも
 充分出来る人であると思うのだが、タイのマッサージがこれほどのレベルである事をボクに教えてくれた最初の人でもある。
 本格的なタイのマッサージは自分が疲れないように自己の体をうまく利用して有効的な施術(ツボをついてくる)を行う。
 そのテクニックの多彩なことに本当に感心する。
 『タイのほうが住みやすいじゃないの?』と聞くと、『スイスに比べてタイの人はキチッ・キチッとしていないところが、どうも・・・』
 との回答。へ~っ、そうなんだ、と意外感。まぁ、しかし、少しわかる気が・・・。
 ボクの誕生日と言うと、タイのお茶葉とオイルの小瓶をプレゼントしてくれた。

 ところで、これを書いている途中で、休暇中のボクに社長から突然『誕生日おめでとう!』の電話があった・・・!
 勤め始めて15年間で初めての出来事!! うれしい・・・というよりなんか、変じゃね?!の妙な気分。あしたは雪じゃろか!

 夕方、数日前にブログに書いた、16歳のジョナスがボクの誕生日の為に自作したカードをわざわざ持ってきてくれた。

 夜、僕ら夫婦共通の友人 近所に住んでいるスイス禅坊主2人を招いて 寿司と餃子と酒で『クール』な誕生日会を過ごした。

        
         《 還暦の 祝にくれた 玉手箱 開けてビックリ 齢い六十  : 一撮 》

 玉手箱に最近こだわっている。
 4年前に迎えた還暦という節目は実は『玉手箱オープン儀式』であった、と今は認識し始めている。
 侘び寂び・渋みを深めるにはどうしてもこの箱を開けなければならないのだ・なぁ~・・・と。
 

  生きてる証

2015年05月20日 | 還暦録
 自分の誕生日から早、一週間たってしまった。
 5月12日の誕生日は朝から晴天で清々しい一日となるはずであったが、花粉症が始まったのか、『ハクション!』とやった同時に『ギクッ!』と腰にいや~な感触。
 その日小さな引越しがあり、この春一番の温かい陽よりの中、張り切って額に汗して荷を運んだまでは良かったが、帰宅する頃には腰回りの雲行きはよくなかった。
 案の定、翌13日には 痛みのために起き上がることが出来ず、午前中は休み午後は地元ローザンヌの小さな引越しに指示するだけという条件で出かけた。

 14日は本格的『腰痛』に突入し、久々に激痛を味わった。 いちいちボーズを変えるたびに『激痛!』があり、何度かやっているうち激痛の直後『無痛時間』が
 瞬秒あることを発見し、そのすきに立ち上がったりしていたが、時にこの法則に裏切られて『激痛地獄』に下った。

 そんな中、何故か『再自撮』を決意して 『杖つく63』を撮った。 情けない様子は見せられないジジイの意地がいじらしい図となっている。

     『 腰痛は 生きてる証 杖ついて  よりにもよって 誕生の日に 』  一撮

 それと、相方から教えられたアイパッド・アプリを利用して複数の写真を一気に載せるピッコラージュを初めて利用した写真がこれ ↓
 結構面倒臭い・・・のが玉のキズであるが、うまく使えるようになれば ハマるであろう。

          

 誕生月の5月の出来事を早々に 総括したような写真群は 友人の娘の出演した大学演劇! いつの間にか イッチョマエの娘に成長したことに感動して
                            我が写真展『Ave Maria;With your child』から
                            先日見かけたレマン湖畔の 白鳥の親子風景より
 

  銀婚式

2015年02月26日 | 還暦録
  今日2月26日は 我々の25回目の結婚記念日で 『銀婚式』ということになる。
  今朝になって本当に25年目なのであろうか?と相方ニコルは、どこにしまってあったのかスイス版入籍書を持ちだしてきて、1990年の今日である事を確認。

  何でもいいけど、『銀』だと言われるとチョット うれしいような、それじゃ『金』を!・・・と一瞬思ったが
  『金』まで更に25年・・・それはチョットという気がするが、それが実現するとしたらボクは88歳、相方85歳なんだけど・・・。
  そう考えると80歳代まで生きるという事は思っているほど『簡単』ではないことを実感することになった。

   
   この写真はだいたいボクらが入籍した頃のもので、東京の目蒲線西小山に住んでいたので 多摩川へよく散歩に出かけたものだ。

  今日どなたかのブログで『邯鄲の夢』(かんたんの夢)という中国の有名な故事を学んだ。
  意味についてはググってみてもらいたいが、ボクもその昔、ニューヨークで婚約した女性の両親をシカゴに訪ね、彼等の若き日の写真を
  スライドで見せていただいた時『意味不明の衝撃』を受け、その女性と別れる決心をしたが、アレはボクの『邯鄲の夢』だったのだと思う。

  その写真に写っていたのは海兵隊の制服をバッシリ決めた青年、日本から帰還したその彼を港に迎えに来た美しい女性の笑顔・・・まるで映画のワンシーンを
  見ているような素敵な写真だった。その青年は医者として成功し、3人の子供に恵まれ奥様と幸せな家庭を築いていた・・・のに。
  ボクは その人達の人生の縮図を『瞬時に見た』思いがしたのだと思う。ボクはその婚約者との結婚が怖くなってしまったのだ。自分自身にどこか
  嘘をついていたことに気付いたのかもしれない。
 
  

  寝正月 落語でこころ 暖めて : 一撮

2015年01月01日 | 還暦録

  別にしたくてしたわけじゃない 寝正月は 風邪で起きる元気がなかったのだ。
  しかし、寝床でアイパッドを使いYoutubeで落語それも『古今亭志ん朝』を朝9時位から~結局、元日中『落語三昧』になってしまった。
  
  昨日、たまたまタイムワープの言葉を使ったけれど 過去の出来事をことごとく見せてくれる『Youtube』こそは、ボクの生きるエポックにおける
  タイムワープだろう。
  古今亭志ん朝といえば、ボクが10歳ぐらい?のころNHK番組で見た『若い季節』に出演していた『志ん朝』(彼は24歳)しか知らないのだから、
  Youtubeでみる彼の落語の立派なのに ボクはビックラこいたのだ。
  その間 彼を見たことがなかった・・・という事実にも ビックラこいたけど!!
  そう言えば、12,3年前に 友人が『志ん朝は上手いね~・・・』って言っていたけど、ボクはその時『志ん生』と聞き間違えていたとずーっと
  思っていたのだけれど、そうではなかったのだと 今日2015年の元日にわかったのだ。

  古今亭志ん朝の落語のおかげで 元日を元日らしい雰囲気で過ごすことができた。
  正月というと海外に住んでいる者達は『正月ノスタルジー』におちいるものだと思う。おいしい故郷の料理、温泉、初詣の雰囲気など、など。
  特にボクなんかは『温泉』がなんとも言えない・・・そんな中、今日落語三昧を経験したが、そこには自分なりに新しい発見があったように思う。
  この『落語』こそ我が日本人にとっての『心の温泉』であることを。


                 

  この落語の冒頭7分ぐらいの所で、志ん朝は『買物なんかへ行った時、店員さんなんかが親切にしてくれると、なんかホットするんですよね・・・』
  てなことを言うんですが、ここなんですよ、僕らのようにヨーロッパに住んでいる者が『よう言ってくれた!』と合点するところは。
  日本にいても、そんな感想を志ん朝はもらすんですから、店員の親切心なんて期待しようものなら気持ちがボロボロになるであろうこと
  間違いないであろうこの地にいる現在、彼のこの一言に『心の温泉』を強烈に感じましたわけで・・・。
    (それにしても、志ん朝さん 2001年に63歳で逝かれたということで、確かに残念です。)

 嗚呼、南無観世音

2014年08月18日 | 還暦録
  今日、普段めったにしない自分のブログ、 去年の今日はどんなことを 書いたのであろうか?・・・とちょっと覗いてみると
  『掃人』と題して 自分と掃除の人生・・・の事を書いているのであるが、

  最初に出会った禅者に いきなり『お前の部屋は汚いだろう!』・・・と言われたエピソードを書いてあった。
  実は、今読んでいる本を読みながら不思議にも このエピソードについて考えていたから 去年の今日にこのエピソードの事を書いていたという
  偶然に驚きながら読んだ。

  そして、先日昔の白黒フィルムをスキャナーしていると 『汚いボクの部屋』が動かぬ証拠として 現れてしまったのだ。

          
            いまアラ還の自分が38年前の 自分をタイムマシンに乗って 訪ねた図 ・・・

  24歳ぐらいの 神戸時代の 4畳半の ボクの部屋の様子がよくわかる写真だ。

  この頃は、自分の部屋が 『汚い』という自覚が全くなかったし、 この10年後に禅の修行をすることにならなければ 
  アラ還になった今も 『汚い』意味を知らずにいただろう・・・と思うと ゾッとする。 よくぞ仏道に導かれたものよ。 まさに『仏法会い難し、今ここに会う』・・・。
  沢山の若者達が 道を得ることを願う。
  

パリ一人旅(2日目)

2014年05月14日 | 還暦録
先日、5月12日でアラ還も2周年を迎え・・・たけど、べつに何がどうって変わったような気がしないが、知ら ないうちに勝手に弄花現象はどんどん前進しているだろう、とは思っている。

その御褒美というわけではないだろうが、神はボクに何十年かぶりの一人旅の機会を与えて下さった。
たった3泊4日であるけれど、ホテルにではなくホームステイ式のやつ・・・で、初めての試み。

旅に出る1ヶ月前 、突然ボクの大事な現像機(エプソンのプリンター)が故障し、買い換えに痛い出費となった
ため、旅行を一旦は取りやめにして予約していたホテルもキャンセルしたのだが、日が迫るにつれ 取り消し出来ないTGV (新幹線)が勿体無いような気分になってきて、安い宿を探すうちにホームステイ式が
より安いことがわかった。
それとネットで探す段階で、何百とある中、偶然にも相方がいいと思った宿とボクがいいと思った宿が同じであった事が背を押した形となりネットで予約して、、、今、泊まっているわけだ。なんか不思議。


歩き疲れて戻ってきたら 誰もいないサロンから こんな景色が見えていた。

今日は元大統領シラク氏の肝入りで出来たという博物館の常設展と特別展(インターナショナル刺青展)を見て来
きた。 刺青というよりそれをしたいという人間により興味があったが、最後まで見た結果、未開の人のそれは
別として 『単なる目立ちたがり屋』に達し、日本のヤクザに至っては『観音様 』のモンモンを彫っているのを
見るにつけ、洒落臭い腐臭が漂うようで、早々に引き返して来た。

食事は昨日も今日も、たぶん明日も 我が 『 十時屋 』で昼、夕食の二食を頂き、この旅のもう一つの目玉
を早速実行して至福。またBookOFFでは『1Q84』をジュンク堂では堤未果さんの本を超美人の店員さんから買 うことができて何重もの至福に至ることができた。
(今回のブログは旅先から、iーpade で書いたので どうゆう画面になったことか?)

 意中(いなか)の子

2014年03月05日 | 還暦録
 時折、倉庫で独り作業をするが、スマホのおかげで音楽を聞いたり、Podcastで 日本のラジオ番組(録音)を聞きながら出来るので
 単純作業をする楽しみが増した。(なんでも楽しみながら・・・というのがボクのBig Motif)

 今日は『女性と農業』をテーマにした話を聞いた。
 その中で少なからずの女性が 『出来ることなら子供を田舎で育てたい』『田舎を体験することが大切だ』・・・と話していたことが印象に残った。

 ボクには子供がいなから そういったことを真剣に考えたことがなかったので、 もし、子供がいたら・・・と、考えてしまった。

 ボク自身は『都会派』であると思い込んでいたが、生まれ育ったところは 見る人から見れば正真正銘 ド田舎といえるところだった。

 品のいい隣りの小菅のオバサンは 裏の斜面畑に肥やしを撒いて カボチャやトウモロコシを作っていたっけ。 おじさんは社会党で市会議員をしていたな。
 その畑の夏は空が埋まるほど・・・トンボが飛んでいた。蝶々もたくさん飛んでた。 ハエもたくさんいた。 今思うと信じられないほど沢山、沢山。

 その畑で 秋になると近所のガキどもと よくチャンバラをしたっけ。 冬に吹雪いた日は モグラみたいに雪の中をどんどん進むのが楽しかった。
 ソリ遊びもした。・・・・そういった思い出を 思い出すとラジオで話していた女性達が理想とする『田舎育ち』を自分はしていたのか?といい意味で反省。

             
                田舎に育ちながら 何故『都会派』と思っていたか?
                自然よりも文化の香りに憧れていたのかも?