拈華微笑 ネンゲ・ミショウ

我が琴線に触れる 森羅万象を
写・文で日記す。

  畳と俺

2022年04月29日 | 還暦録

  今日は『畳の日』・・・であると、どなたかのブログに書いてあった。

  それでふと考えてみるに、1991年にスイスに住むようになってから足掛け31年間『畳』とは無縁の生活である。

 

  6歳年上の姉によると、母の実家は東京は日本橋の畳屋であったというのだが、

  私が高校1年の時他界した母からはそのことは一言も聞いたことがなかったし、実家の話は何故か一切なかった。

  母方の祖父が『畳屋』であったのだから、もう少しその話を聞きたかった、と今にして思う。

 

     

  そうそう、去年の12月にジュネーブの東洋系のミューゼアムへ行った時この絵↑(中国の陶工の生活)をみて思ったことは

  『畳が無い』・・・ことで、それがインパクトに残ったのだ。

  同じ東洋でも日本人は床に『坐』で、中国人は椅子生活であることにあらためて感慨をめぐらした。

  中国で始まり盛況をみた坐禅の『禅』が中国では滅び、日本に残って文化の中心をになっている・・・ということに何か関係があるかも??

  確かに、現在では日本でも畳生活を知らない若者達が多いと思うが、『道文化』を極める道場には『畳』が重要な役割をいまだに果たしている。

     

      そんなことも知らずに、『畳』にゴロンと横になって甘えていた・・・古き良き時代の俺の図

  

  


  胃カメラを呑んじゃった(2)

2022年04月04日 | 還暦録

  じつは一週間前の月曜日、『胃カメラ』を呑んだ。

  全身?麻酔をかけてもらったので、眼が覚めたとき何もかも終わり、検査自体は10分ほどで、そのあと麻酔が切れるまで

  一時間ほどベッドによこになっていたのか、時計をみると9時を過ぎていたので驚いた。

  看護婦さんがコーヒーとパン(ジャム、バター)の朝食をベッドに持ってきてくれた。!!へ〜っ、ホテルみたい。

 

  11年前に、初めて胃カメラをのんだ(胃カメラを呑んじゃった♫ - 拈華微笑 ネンゲ・ミショウ)

  あの時は、引っ越し作業を手伝ってくれたバイトの女の子の話を聞いて、自分も部分麻酔で楽勝・・・と思って

  胃カメラを呑んだが、死ぬ思いをした・・・経験から、二度目の今回は全身麻酔をして正解であった。

  検査をしてくれたロマンスグレーの優しそうな先生が言うには、特に異常もなく、後日検査結果を送っておくので

  担当医と話あうように…とのこと。

  モルジュに引っ越してきて、私は新しいクリニックとドクターに変わり、来週検査結果などを話を聞きにゆくことになっている。

 

  私が医者に行く時、相方がいつも心配するのは、私の低語学力のために、『Yes,No』を反対に返答しないか…である。

  相方なしで医者や看護婦さんと二人きりになる時、確かに私も一瞬不安になることがあるが、まぁ、案外結果オーライのことが多い。

         

  昨日、一昨日の土・日曜、年一度のモルジュの公園での出店『陶芸展』があって、よりによって雪がちらつくほどの

  低気温と寒風の週末で、出品した60店の人々は気の毒であったが、この街の住人となって最初の『陶芸展』を楽しく鑑賞した。

  スイスドイツ語圏からも、わざわざ出店しに来ている人が沢山いておどろき、高いクオリティーの陶器を観ることができた。

  

  

  

 

 


  両手に『華』

2022年03月29日 | 還暦録

  荒井由実は1954年、中島みゆきは私と同年の1952年生まれ…。  だからどうした? と言うことであるが

  高校時代からラジオが私の『親友』のようなものであったことを思うと、彼女たちが活躍する20歳代というのは

  私の人生をも陰日向(かげひなた)となって・・・(というのも中島みゆきは『陰』で荒井由実は『陽』そのものなので)

  私の生きた時代を、豊かに彩ってくれていたにちがいない。

  スイス在住30年、もうじき70歳になるというのに、彼女たちの歌声は、私をたちまち当時の心境に立ち返らせる・・・。

  誰もが、そういった時代を共に分かち合った…と思えるようなメロディーや贔屓の歌手がいるであろう。

  退職者になるまでは、そんなことを考える暇もなかったが、時間ができるとそういった人生のディテールをじっくり味わえるのだなぁ…

  私は特にこの二人のファンという意識はなかったが、時を超えて聴く彼女たちの歌の主人公は『私自身』でもあったのだと思わせてくれるのだ。

 

           

  


 風呂桶の響き

2021年07月23日 | 還暦録

  じつは一週間早まり、明日の金曜日に今度引っ越す新アパートの鍵を貰い受けることになった。

  何せ、引っ越すと言っても未だアパートの室内を実際に見ていないのだから、我々夫婦はもうだいぶ前から興奮気味であった。

 

  『あ〜ぁ、いよいよ30年近く住んだこのアパートや地区とお別れか・・・』と思いながら近所を歩いていた時、何故か子供の頃まで

  想いが馳せて、母とそれこそ毎日、毎日通った銭湯・・・のことを思い出し、なぜ銭湯は私を癒やすのだろうか?と、ふと思った時

  銭湯のあの独特の空間ゆえに響き渡る風呂桶の音や湯を流す音・・・それらに私は癒やしを覚えるのだと思った。

  湯に浸るだけであれば、スイスの自宅でも湯船に浸れるが、あの独特の銭湯の『響き』だけはここでは再現不可能なのだ…。

 

  育ての母には赤ん坊の時から世話になっていたが、その母はだんだん盲目になり、小学校5,6年まで私は母の手を引いて毎夕方銭湯に通った。

  その母は学校に行ったことがなく文盲でもあり、私に文字を教えたりすることは出来なかったが、

  言葉による躾と盲人ゆえ、気配から事態を察する力を私に伝えたのだと思う。

  いちいち言葉にしなくても何をすべきか、すべきではないか・・・子供の頃、毎日通った銭湯の『銭湯道』にはそういった教えが、癒やしとともに私を培っていた。

         

         私が独り立ちした後、義理の姉の息子が私の役をして、母の手を引いて銭湯に通った。(写真は約40年前のもの)

 

  『 風呂桶の 響きや耳に 故郷の 母と通った 銭湯の日々 ・・・』  一撮   

  


  在瑞三十周年の日

2021年07月18日 | 還暦録

  スイスに住んで今日で30年の歳月が過ぎた。

  『アッ!』・・・といういう間だったような。

  今になって思うのは、自分はスイスに住んでいるというより、日本の外に住むことで『日本』をより客観的に眺め、自己についてもそれまでの一切の

  シガラミを断った環境に自分を置いて、あらためて『禅と修行』について反芻する時間を十分に持つことが出来たこの三十年ではなかったか・・・という感想。

  私はスイスやヨーロッパに興味を持って、こちらに来た…というわけではなかったと思う。

  興味があったのは、『自分と禅』であり、『禅と外日本との関係』のことであった。当時はそうハッキリと意識していなかったが、

  つまるところはそうであったのだ。

  フランス語の『仏語』より、禅が示すところの『仏語』の方が私にとってより重要で意味あった。

  フランス語圏のヨーロッパに30年も住んで、フランス語より漢字により教養が深まった・・・という東洋人は珍しいだろう。

        

  この写真は定年退職した翌年の夏、大好きな近所の公園を7周する私を待っていた女性カメラマンが撮ってくれた私の肖像画。

  その女性は『Humas of My Lausanne』という地元ローザンヌに住む人々をテーマにSNSを利用した媒体で写真とインタビューをもとに

  その人物について紹介するというもの。公園を走っている時、カメラを持った女性が私に声をかけてきて、主旨を説明した上でインタビューを始めた。

  ちょうど私は定年退職してスイスに来た頃の初心に還って、自分の禅とこの土地での関わりについて模索していた時であったので、そういったことを

  話したと思うが、後で彼女がまとめた文章(英、仏)を観ると、そのタイトルは『Mr.Zen』であった。(冷汗)


 成り切る・ガイド

2021年06月26日 | 還暦録

  今、私達は8月上旬の引越しに向けて少しずつ身の回り品を片付けているが、昨日相方がお菓子用のメタル箱を私の所に持って来た『これアナタのモノよ』。

  蓋を開けると、懐かしいガイド時代に頂いたお客様からの写真入り手紙が約30通ほど入っていた。

 

  ちょうど30年前、スイスに来てすぐ始めた仕事が『スイス観光ガイド』で、約10年ほどこの仕事をやったが、私にとってガイドという仕事は

  地元の言葉フランス語が出来ない、物の名前を圧倒的に知らない…という劣等感などがあり、正直『穴があったら入りたい・・・』ぐらいの気持ちで、

  自分史の中では早く忘れてしまいたい時期、さほど重要でなかった道草を喰った…ような時期であったと思っていた。

 

  これらの手紙を処分するかどうか?とりあえず一通一通読んでみることにした。

  ガイドであった私は、バス中ではマイクを持って色々な話をし、現地観光スポットにつけば説明したり、お客様の記念写真撮影をしたりするが

  その時に、『記念に一緒に写ってください・・・』と頼まれることがよくあり、そういった時の写真をお客様は数ヶ月後ぐらいに、よく送ってくださったのだ。

  頂いた手紙はほとんどが、『おかげさまで、本当に楽しい旅でした…』という書き出しで始まっていた・・・。

  全ての手紙を読み、写真に目を通してみて思ったのは、私はこの時期に実に沢山の日本人に出逢ったのだなぁ・・・という感想であった。

  スイスに来る直前まで、寺での禅修行と夜間のバイトに明け暮れていた私が、スイスに来て沢山の同胞の衆と交流していたなんて!

  写真には、私がガイドとして何かを説明している場面や、お客様と一緒にチーズフォンデュを食べている場面などがあって

  写真の中の私は、ガイドとしての劣等感などすっかり忘れているかのように、一生懸命説明し、共に楽しそうに笑って食事をしていた・・・のだ。

 

  そうしてみれば、いたずらに劣等感をもって『なきモノにする時期・・・』では案外なかったのでは…と、ちょっぴり反省。

  まあ、いずれにせよ『迷ガイド』であったことは間違いなく、しっかり自覚することにして、これらの手紙と写真は40歳代の私の生き様の証明として残すことにした。

  ガイドとしては『迷ガイド』であったが、禅修行で学んだ『成り切る』、その場その場でその役に成り切る…生き方はしていたように思う。

               

                    今となっては、場所も思い出せない『迷ガイド』

  

  


 海外在住について馬骨の場合

2021年04月16日 | 還暦録

  観光ガイドやっていた時、お客さんによく聞かれた質問… 『なんでスイスまで来たんですか?』

  私は『小指を立てて、私はこれで日本を発ちました・・・』と答えては、笑いを取ったりしていたが、冗談半分、真実半分ではあった。

  鍼灸の勉強をしている時、私の師を訪ねて来た日本人がスイス人を3人連れてきた。そのうちの女神が私をスイスに招待してくれたことが

  スイスを知ったキッカケとなった。スイスがどこに有るのかも知らなかったのに・・・。(ちなみに女神とは相方ではない)

  その後、ニューヨークへ行って写真で一旗揚げよう・・・などという、すっかり間延びした夢を引っさげてアメリカへ行ったりしたが

  結局、スイス経由でスイスで出会った相方と日本に戻り、円覚寺へ直行し5年を期限に禅修行をし直しすることになった。

  期限を迎え40歳を目前に、相方と一緒にスイスへ戻って、現在に至る・・・大雑把に言うとこうなる。

 

  スイスへ行っても、なんとかなるだろう…なんて、今考えると無謀だったような気がするが、幸いすぐに観光ガイドとして生計のめどはついた。

  スイスに来た本当の理由は、恥ずかしくて言えない…というか、鈴木大拙の影響を受け、おっちょこちょいな私は、何にも知らないのに

  『禅を世界に広めにゃ…』と、真剣に考えていたが、いざ現地に来てみると仏語(フランス語)はもちろん、自分の言葉で仏語(仏について)を

  一言も発せない自分を発見。・・・では、『何かが自分の中で発酵するまで、待ちましょう・・・』で、30年掛かったわけだ。(特に何をしたわけでもないが…)

 

  でも、今日言いたかったことは、そういう方面の事ではなく、『海外在住』はかなり大変なことである・・・ということ。

  特に男が海外で生計を立てるには、読み書き、会話が出来き、伝手やコネクションがあればよいが、そうでなければ出来る仕事はかなり制限をうける。

  スイスのような小さな国(九州ほど)に3ヵ国語(仏・独・伊)の壁があれば、地域的制限が更にあるのだからややこしい。

  観光ガイドの仕事が激減した時、引越し屋(日本企業)の仕事に移行できたのは針の穴を通るぐらいラッキーであったが、

  同時に、企業側から言えば、働き盛りの日本人男性を現地スイスで見つけるのはほとんど不可能・・・で、働き盛りを少し過ぎた50男、私を雇うはめになった。

  しかし、私はその頃バトミントンを週3回(3時間)やる元気男で体力的にはかなり充実して張り切っていた時期であった。

           

           こんな感じで、⬆︎何故か『手』だけは年中守っていた引越屋時代の写真

  ただ、10年ぐらい前からインターネットが急速に発展し、海外在住も事情がかなり変わった事は間違いない。

  一昔前の情報不足による『悲壮感』はほとんど無くなった今、温泉と日本食への望郷・・・の念ぐらいか?

  いや、やっぱり日本語が通じない、文化の違いで気持ちが通じないストレスはいまだ多分にあり

  海外在住は『楽ではない』・・・と、書こうと思ったとき、正反対の意見が頭に浮かんだ、『気を使う日本文化から開放され』じつに楽ちん!

  

  

  

  

  


 馬骨の南無

2021年03月23日 | 還暦録

  還暦も今年で9年目にもなると、自分の過去のアレコレを微に入り細に入り探求してみる。(今年5月で69歳になる)

  還暦とは一面、片足を棺桶に突っ込んでいる状であるから、今のうちに還暦を精査して腑に落ちる形にしておきたい。

 (その意味で、定年退職70歳を政府は計画しているようだが、健康寿命は男で72歳であれば、還暦する暇さえなく、賛成しかねる)

  自分が30歳の時、縁があって坐禅を始めたけれど、自分でも不思議だったことは、人生で最も大切な時期と思える三十代を

  禅の修行に、何故打ち込んだのか?・・・しかも、『禅』が何者、何物なのか全く分かっていなかったにも関わらず???なのだ。

  私の場合、修行中『悟り』たいと思った事がなかった。『悟り』が何であるか、分からなかったからで、

  『悟り』を馬を誘導する為の『人参』のようにして修行することが出来なかったのだ。公案をもらって参禅するようになってからも

  そういった心持ちであったから、指導する側としてみれば『やりにくい奴…』と思われていたと思う。回りはだいたい3年を期限に

  修行に来ている世襲の若い雲水で、彼らの必死さの横で泰然自若に坐っている中年オッサンの存在は邪魔であったろうか?

  今、この時期のことを考えた時、これは恐らく私の仏法に対する『帰依』の姿であった…としか思えないのだ。

  初めて坐禅をした時、何だかわからないが、『何かある…』と直感して、これについていけば、この『道』を行けばいいんだ…と

  肚を決めた…という大袈裟な気持ちではなく、ただそういう風に思ったのである。(若気の至り)

  昨日、松岡正剛著の本を読んでいたら『帰巣本能』という言葉があって、魚のサケや渡り鳥の話とともに、人間にもそういう本能

  のようなモノがあるのでは…という話の流れなのだが、私が、『悟り』は『郷里サトリ』であると主張するのもそう言った脈絡

  で言っていることを思った。だから、『悟り』が一部の特殊な人達の境涯なのではなく、誰もが心にある『郷里』への帰巣本能

  に意識を向ける・・・これこそが『帰依』=『南無』の姿で自他救済の第一歩なのではないかと思うのだ。

   (南無とは昔のインドの言葉サンスクリット語(Namas)から音写したもので、敬意を表すこと=帰依すること)

     


国際女性デー…に思うこと

2021年03月08日 | 還暦録

          

                   【国際女性デー特集】外国人女性が語る 「力になった日本の女流作家の魅力」より

 

  Youtube の ネバネバ・チャンネルを主宰している花子さん(日本人の母、英国アメリカ人の父を持つハーフ)とTessさん(イタリア人)の動画を今朝みて

  今日が『国際女性デー』であることを知りました。数ある日本大好き外人Youtubeの中でも、ネバネバの二人の真摯な生き様に好感を持ちいつも動画を拝見しています。

  さて、今日の動画にはそれぞれ国籍の違う若い5人の女性が登場し、日本人女性作家の文章を紹介していました。知っている名前も、知らない名前の作家もいました。

  女性作家…ということで私の本棚(4箇所に分散)を思い浮かべるに、女性作家の本ってびっくりするほど少ない・・・のでビックリ!!

  犬飼道子(3冊)、瀬戸内寂聴(2冊)、パトリシア・コーンウェル(7冊推理小説)、アンネ・フランク…ぐらい?だろうか。

  私が読書に目覚めたのは・・・、というか正直、いまだに目覚めていないかもしれない。(これからだ…たぶん)

  高校生のときにノンフィクション『冒険物』の本を少し読むようになったが 小、中学校生のときは読んだと言っても『漫画』であったから、

  古典、しかも女流作家となると、全くの皆無でその無教養ぶりが恥ずかしい。(本を読む時、性別を考えたことが一度もなかった…)

  今思い出したが、雑誌『高校時代』だったか?(雑誌名不明)雑誌を通してペンフレンドができ、奈良に住んでいた山本良子さんとは

  真面目に文通して、おおいに励まされたものだ。(道産子の私が、古都を思い浮かべる最初であったろうか…、メールのない古き良き時代の産物)

  改めて考えると、私にとって文学ではないが、女性文学的なものは昭和40年代の歌謡曲や演歌ではなかったであろうか。

  最近、津軽海峡・冬景色を口ずさむと、東京から父を追って北海道で46歳で病死した母がかぶさってくる。今まで、そんな発想をしたことがなかったのに。

  江戸っ子で畳屋の長女だった母が、夜行列車で青森で青函連絡船にのりかえさらに7,8時間汽車にゆられて北見まで来た母のことを思うと・・・。

  今日は『母の日』ではなく、『国際女性デー』でしたね…。


 『昭和っ子』ブルース

2021年01月21日 | 還暦録

                           

  インスタグラムで友人のアメリカ人が何故か『東京キッド』という昔の歌を日本語で披露しているYoutubeを私に送ってきた。

  赤毛のヤングマンの流暢な日本語による『東京キッド』・・・なかなかシュール。

  で、その動画が終わってその次に来たのが この⬆︎動画だった。いきなり演歌。

  5人の女演歌歌手の『港町ぶルース』… わずか2,3フレーズで さまにカーッと頭というか胸にこみ上げる『演歌熱』の凄さ・・・一気に熱くなった。

  海外在住者として、和食、温泉…はよく思い浮かべるが、久々に『演歌』を聞いて、血が湧いて・・・『そうだ、俺は道産子であり演歌っ子』だったと認識。

  同じ日本人でもこの『血が湧く、演歌』都はるみ、八代亜紀、石川さゆり・・・は昭和っ子でなければ解らないだろうよ。

  ふだん禅とか悟りとか言っている自分が、演歌を聞いたとたん血が騒ぐ…のがカワイイ。色即是空・空即是色 

  子供の頃はもちろん分からなかったが、演歌は貧乏人クラスの芸能で、日常の我慢を『演歌』で溜まった想いを、発散させてもらっていたんだろうなあ。

    

   時々、相方と自分たちが死んだとき、どんな葬式をしたいか…なんて話すことが年に2,3回あるが、

  私はこの演歌のことをわすれていた。彼女たちの演歌メドレーがスイスの葬式場に流れるのは人生の幕引きには『おつ』なものであろうなぁ〜・・・

  ちなみに、カラオケにはあんまり行ったことなかったが、好きな歌は『北の国から』と『津軽海峡・冬景色』と『中の島ブルース』だった。(八代亜紀も大好き)

  


アルバイト人生考

2020年12月01日 | 還暦録

これまでの68年間の人生で、どれほどの職種・・・というより、バイト的シチュエーションを経験してきたかを数えてみた。

例えば、レストランでウエイターを2回、皿洗いを一回とすると、3回のバイト数とし、正社員として雇われたものもバイトとして

数えると全部で21のバイトとなった。自分的には50ぐらい…と思っていたが、案外少なかった。

最初が小6の時で、クラスの友達が新聞配達を始めたのをみて、『カッコいい…』と刺激されたのが、キッカケで新聞配達

を皮切りに、中学、高校と牛乳配達、高卒で正社員として有名なホテルに就職したが3ヶ月で辞職、その後神戸で住み込み

で再び牛乳配達をして写真専門学校を卒業した。

アルバイトのおかげで写真専門学校と鍼灸専門学校、それと学校ではないが、禅の修行4年半を実行することができた。

私が盛んにバイトをした1970〜1990年代は今から思うと、アルバイターにはほんとうに恵まれた時代だった。

私の人生は結果的にバイト人生と言えると思うが、ガキの頃に培った『思想』が強く影響していたのだと、わかる。

ガキの頃に観た沢山の東映映画の勧善懲悪ストーリーに学んだことは、『金や権力』からの距離を置く…ということだった。

自分では『思想』なんて高尚なモノは全くなし、と思っていたが案外、人格形成に強い影響をおよぼしていたのだろうか。

仕事と自分のやりたい事のあいだに『間』を置く…かといって仕事に手を抜くということではなく、仕事は仕事でプロフェッショナル

の意識をもって当たる事を色々な職場、職種を通して学んだものだ。

貧しくて、大学進学という選択肢はなかったがアルバイトのおかげで、その時々出来る範囲で自由を得ることができた。

それは、映画から学んだ『金や権力に無縁になる』=『自分の面倒は自分でみる』という社会での責任を果たす事は自己に課していた

信念であったと思う。

人生には忍耐と理不尽なことの見極めが要求される。その中で最善の道を選ぶ…にしてもやはり運不運があるに違いない。

           

            専門学校の助手を辞めて、英語を勉強するために始めた『トラック運転手』のバイトをする一撮27歳の頃

写真学校時代、今で言うセルフィ(自写像)を作品として撮り始めたが、それは自分自身の中に『間』を探る行為であったと思う。

それがのちに、『禅修行』につながることになった。人間にとって『間』は伊達ではないのだ。

 

 

 

 

 


スピードスケート

2020年01月31日 | 還暦録

先日のローザンヌ・ユース冬季オリンピックでのスピードスケート・ショートトラック500m競技を見て、ボク自身のスポーッ歴の一幕を思い出した。

小学生の時、初めてスケートした日にスイスイ滑れたボクは、町内のスケート大会で一等賞を総なめし、中学校では即スピードスケート部に入って、初めて仲間たちとスケートリンクのコーナーを滑ったとき、自分の体も、前を滑っている仲間たちの体も45度内側に傾いていることに感動したことを未だに鮮明に覚えている。

北海道のオホーツク海方面手前内陸の片田舎、北見市の南中学校のスケートリンクは

体育の先生方が太い水道ホースで雪で枠取りしたスケートリンクに水をまき、マイナス20度の冬の気温で作ったリンクだった。どうもスケート部は僕らの学年が最初だったようで先輩がいなく、先生もバスケット専門でスケートは出来ない人であった。

中学1年生というと13歳であるが、地区大会で当時は汽車にのって網走という町へ遠征にいき、強い風が吹き、リンクは吹雪いて前方もよく見えないような天候のなか、8人ぐらいがスタートラインにならんで一斉にスタートした500mを薄っすらと覚えている。中学一年生と三年生とでは大人と子供ぐらいに体格体力の差があって、僕らは自分がひよ子になったような気分であった。

中学時代、夏は柔道部、冬はスケート部でスポーツ三昧であったけれど、まともな指導者を得られないながらも、我が柔道部は地区優勝、スケートも三年生のとき、1500mで

誰も予想しないボクが3位になって、それを見ていたクラスの女の子が、交際を申し込んできたのには驚き、奥手なボクは何を話していいのかわからないという理由で断った思い出がなつかしい。

高校はブラスバンド部に入ってしまったので、43歳ぐらいにバトミントンに目覚めるまでは太極拳とか気功体操をのぞきスポーツからは離脱していた。

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心肺(心配)機能の低下

2019年09月12日 | 還暦録

だからオヤジギャグはやめられない…

この言葉はうまい具合に老化による機能低下を表している。

オヤジギャグといえば、こちらスイスのオヤジ達もやるらしい…

先日、相方の姉が彼女のボーイフレンド(70歳)のオヤジギャグにうんざり…しているとう話をしていた。どこの世界のオヤジ達も頑張っているようだ。

 

兎に角、2年前に退職してから、週2〜3回は近くの公園を5周することにしているが、信じられないくらい心肺機能が低下していて、走ることが苦しいくらいなのだ。

わずか15、6年前は同じ公園を平気でそれ以上の距離を走っていたし、それに加えて階段も駆け足で登ってもいたのに、今はそんなことは出来そうにもない。

その低下ぶりに走るたびに驚き、苦しみ、若干悲しくなってくるが…まぁ、それも受け入れているが、それにしてもこの低下ぶりは信じられない。その件で医者に相談したが、特段どこも悪くないとのことで、それ以上はCTスキャナーとかでチェックするほかないという。

まぁ、バトミントンができるくらいであるから、心肺機能が低下しているといってもそう深刻には考えていず、長いこと走っていなかったわけであるから、徐々に慣らしていくより仕方がない…とは思って、走っている。

その心肺とは反比例なのが心配機能で、これはいい意味で低下している。

退職前は引っ越し屋であったが、引っ越しの日はやはり責任もあったし、あれこれ考えてはよく眠れない…というようなストレスもあったが、退職後すっかりなくなった。

あれほど定期便できていた腰痛も不思議なくらいなくなったし、ずーっと痛かった首まわりもいつの間にか痛みが消えていた。

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東洋の真髄

2018年11月16日 | 還暦録

二十歳から二十九まで写真一辺倒だったのが、どういうわけか東洋医学を入り口に禅修行、練功十八法、太極拳の気功法そして一週間の断食、滝行などなど東洋文化に浸りきった三十代であった。新米鍼灸師として治療所でも働いた。

そういった経験から自分が考える東洋の真髄とは…『予防だ!』といつしか思うようになった。医学はもちろん、仏教でも貪瞋痴にとらわれている者を無明と云い、未来を見通す智慧や慈悲の心の働きの無いことをいう。

そういった意味では、一撮が小学生の頃、映画は時代劇、漫画で伊賀・甲賀の忍者ものを夢中で読んだりして多大な影響を受けたが、こういうものも東洋文化の大事な心得の一つ、『用心せよ』…というものでなかったか、と今にして思うのである。

 

 

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太極拳考(2)

2018年09月26日 | 還暦録

1981年(当時29歳)に東洋鍼灸専門学校に入学したあたりから、一気に『東洋』に足を踏み入れることになった。

今から考えればボクの30歳代に起こったことは、インドや中国の影響のもと発展形成した東洋文化との出会であり、日本の伝統文化に生きている自分を発見した時期であった。

鍼灸学校への入学は、単に鍼灸を学ぶことにとどまらず禅者であった伊藤真愚、横田観風、両先生との出会いが禅への道を開き、同時期に横田先生の無為塾で気功体操(練功十八法)を知り、この体操に惚れ込んだボクは武田幸子先生の門を叩いて練功十八法を習得、指導資格を受け、それがまた一つのキッカケとなって太極拳を学ぶことになった。

こうした一連の流れは今思うと、よくぞここまで…と思うほど理路整然としているように見えるところが面白い気がする。

ボクの求めていた事というのは、その当時自分でもよくわからない抽象的なことに思えていたが、じつは『心の健康=身体の健康』…みたいな案外単純なものであったか。

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1991年に再びスイスにやってきた時、中国生まれの『練功十八法』を練功道と称し

禅仏教丸出しのテキストにして普及しようと意気込んでいた時期だった。

まぁ、この普及をライフワークに…というのはあったものの、才覚と根気が無いこともあって(父のフラフラするDNAも影響か)観光ガイドやら引っ越し屋などを経ながら今日に至るわけであるが、その間禅と太極拳などの修練を通してますますそれらの重要性を痛感するなか再び何ぞ出来ないであろうかと思案しているところである。

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  禅と太極拳が究極には『観音菩薩の舞い』・・・にまで進化した姿図

   (というよりも、大昔から先輩方はそれを示していたわけである… )