(あえて、「お笑い」のカテゴリーで書かせていただきます)
兄弟漫才師、夢路いとし・喜味こいし。
いとし師匠が亡くなられて、こいし師匠は今は漫才をやっておられない。
このことを書こうか迷いました。
広島のNHKのみでこいし師匠はお話になったからだ。
ただ、今までお話にならなかったことを被爆した広島の土地へ赴き、お話になった姿はすごく印象的でこのことを書きたいなあ、と思いました。
いとし・こいし、両師匠は神奈川県横浜市出身です。
その後、関西を中心に漫才をやられていたので、てっきり、大阪出身のように思われていた方もいらっしゃると思いますが、横浜のご出身です。
関西漫才界には関西以外のご出身の方は多いですよ。
同じ兄弟漫才のくにお・とおるさんも岩手県出身です。
こいし師匠は日本が戦時中、召集されて、広島に行きました。
その際、原爆ドームの近くで被爆をしたそうです。
ピカー、と光ったとき、とっさに物陰に隠れて、背中は大やけどを負いましたが、命は助かったそうです。
負傷し、広島の似の島という島があり、そこが野戦病院があって、そこへ入院されていたそうですが、たくさんの方が亡くなられたそうです。
そのことを思い出すのがつらく、今まで、戦争のこと、被爆のことはお話しにならなかったそうです。
原爆については語り部になられる方もいらっしゃいますが、こいし師匠にように、話さない方もいます。
どっちがいい、悪いわけではなく、それだけ、体や心に負った傷が深いからです。
こいし師匠がこのことをお話になられたのは戦争が終わって60年たったのもあったようです。
漫才の相方である、兄のいとし師匠が亡くなられて、しばらくしての告白でした。
漫才師としては後輩のカウス・ボタン師匠がおっしゃっていましたが、
「漫才師の生き様を見せてくれる漫才師。
やすし・きよしは途中でやめてしまった。年を重ねた漫才を見せてくれなかった。
いとし・こいしは年を重ねた漫才を見せてくれている。
私たちもああいう風に年を重ねて、やりたい。
漫才をやるのであれば、途中でやめないでほしい」
とおっしゃっていました。
いとし・こいしは漫才を続けた。
漫才師の鏡のような漫才師。
つらいことがあったけど、いわずに漫才をやられていたことを今回知りました。
広島のテレビでは娘さんといっしょに取材を受けておられました。
娘さんが原爆資料館へ行ったとき、こいし師匠は見に行かれませんでした。
戦争のことは思い出したくないことだと思います。
日本の戦争が終わって60年。
戦争の傷は一生消えるものではないことがこいし師匠を見て、改めてわかりました。
世界中の悲惨な戦争やテロなどが早く、この世からなくなってほしい。
どんなに過ちを犯しても人間は学べないのか?。
今の世の中を見て感じます。
真心ブラザーズの「拝啓 ジョンレノン」ではないが、
「あなた(ジョンレノン)が死んでずいぶんたちますが、この世は悲しみにあふれ、平和ではありません」
とても、悲しいことです。
兄弟漫才師、夢路いとし・喜味こいし。
いとし師匠が亡くなられて、こいし師匠は今は漫才をやっておられない。
このことを書こうか迷いました。
広島のNHKのみでこいし師匠はお話になったからだ。
ただ、今までお話にならなかったことを被爆した広島の土地へ赴き、お話になった姿はすごく印象的でこのことを書きたいなあ、と思いました。
いとし・こいし、両師匠は神奈川県横浜市出身です。
その後、関西を中心に漫才をやられていたので、てっきり、大阪出身のように思われていた方もいらっしゃると思いますが、横浜のご出身です。
関西漫才界には関西以外のご出身の方は多いですよ。
同じ兄弟漫才のくにお・とおるさんも岩手県出身です。
こいし師匠は日本が戦時中、召集されて、広島に行きました。
その際、原爆ドームの近くで被爆をしたそうです。
ピカー、と光ったとき、とっさに物陰に隠れて、背中は大やけどを負いましたが、命は助かったそうです。
負傷し、広島の似の島という島があり、そこが野戦病院があって、そこへ入院されていたそうですが、たくさんの方が亡くなられたそうです。
そのことを思い出すのがつらく、今まで、戦争のこと、被爆のことはお話しにならなかったそうです。
原爆については語り部になられる方もいらっしゃいますが、こいし師匠にように、話さない方もいます。
どっちがいい、悪いわけではなく、それだけ、体や心に負った傷が深いからです。
こいし師匠がこのことをお話になられたのは戦争が終わって60年たったのもあったようです。
漫才の相方である、兄のいとし師匠が亡くなられて、しばらくしての告白でした。
漫才師としては後輩のカウス・ボタン師匠がおっしゃっていましたが、
「漫才師の生き様を見せてくれる漫才師。
やすし・きよしは途中でやめてしまった。年を重ねた漫才を見せてくれなかった。
いとし・こいしは年を重ねた漫才を見せてくれている。
私たちもああいう風に年を重ねて、やりたい。
漫才をやるのであれば、途中でやめないでほしい」
とおっしゃっていました。
いとし・こいしは漫才を続けた。
漫才師の鏡のような漫才師。
つらいことがあったけど、いわずに漫才をやられていたことを今回知りました。
広島のテレビでは娘さんといっしょに取材を受けておられました。
娘さんが原爆資料館へ行ったとき、こいし師匠は見に行かれませんでした。
戦争のことは思い出したくないことだと思います。
日本の戦争が終わって60年。
戦争の傷は一生消えるものではないことがこいし師匠を見て、改めてわかりました。
世界中の悲惨な戦争やテロなどが早く、この世からなくなってほしい。
どんなに過ちを犯しても人間は学べないのか?。
今の世の中を見て感じます。
真心ブラザーズの「拝啓 ジョンレノン」ではないが、
「あなた(ジョンレノン)が死んでずいぶんたちますが、この世は悲しみにあふれ、平和ではありません」
とても、悲しいことです。
原爆手帳を持っている人のことを…。
今でも、被爆された方は定期的に病院に通っておられますね…。
私、原爆手帳を見た時、正直、“えっ・・?”という感じで、違和感を覚えました。
身体の中には、まだ・・原爆の後遺症って残るんだ…と思って…。現在も消えてないんだ・・と思って…。
勝手な話ですが、私の中では原爆は過去の悲しい物語になっちゃっていて、リアルな感覚で捉えてないところもあった気がします。
こいし師匠にとっては、本当につらい現実だったんでしょうね…。
私、一度しか原爆資料館に行ったことがありませんが、次回、広島球場に行った時には、必ず行こうと・・。改めて思いました。
被爆二世の人の体にも被爆は影響を与えます。
それだけ原爆というのは恐ろしいものです。
私は広島出身ではないし、家族にも広島出身の人間はいないので、被爆の経験のある家族はいないので、こういうことがあるとは知らなかったです。
私は広島に越してきて、学生時代(高校からはないです)いじめにあっていた関係で、あまり学校に行かなかった時期があり、その時期に原爆資料館への見学があったようなので、原爆資料館へ行ったことがないのですが、まだ、思っているだけの段階ですが、広島を離れようと思っていまして、そのときに1回は原爆資料館を見ようと思っています。
広島に住んでいるので、広島にあった出来事の記録は見ておきたいと思っています。
こういう、戦争などのむごいことはおきてほしくないですね。