私は1987年7月から2003年後半までの15年間、日本ハムファイターズのファンをやっていました。
ヤクルトのファンを当時のオーナーの「巨人に勝たなくてもいい」という姿勢に反発を覚え、怒り、3ヶ月でやめたというトラウマがあったときでした。
もう、ひいきチームは作るまいと思っていた私の前に現れたのが、日本ハムファイターズだった。
人気のない日本ハムはどうにか目立つために、当時、明石家さんまさんがやられていたギャグ、「やったー」というのがあり、それを「珍プレー・好プレー」で流してもらおうとしていたのだと思う。
それでファンが増えたとは思えないが、私がその、けなげな姿を見てファンになったのだから、そんなに無駄ではなかったのではないかと思う。
日本ハムファンを始めてみると、意外と考え方の進歩した球団だった。
お金は貧乏なので年俸が安い球団ではあったが、大人の球団という感じだった。
チームはおとなしくて地味。
実に私好みだった。
私は数度、浮気をしたことはあったが、やはり、好きな球団は日本ハム。
ファンをやめる数年前からは本当に熱狂的な日本ハムファンになった。
ただ、いかんせん、人気がない。
プロ野球は人気商売である。
このままではいけないので、日本ハムはプロ野球球団が無い、北海道へ移転を決めた。
私は正直、寂しかった。
いまだに複雑な気持ちがあることは否定しません。
このままの気持ちではファンは続けられないと思い、2003年、愛する球団のチームのファンをやめる決意をしました。
今は影ながら応援という感じでいます。
そんな、愛するチームを理解し、応援してくれていた、大社オーナーが亡くなられた。
日本ハムの大社義規氏死去 ~ 創業者で球団前オーナー
日本ハムの大社義規氏死去 ~ 創業者で球団前オーナー
ハム・ソーセージ業界最大手の日本ハム創業者で、北海道日本ハムファイターズ前オーナーの大社義規氏が27日午後5時45分、心不全のため兵庫県内の病院で死去した。90歳。香川県出身。葬儀・告別式は5月1日午後零時半から大阪市中央区本町4ノ1ノ3、本願寺津村別院で。喪主は日本ハム取締役常務執行役員の長男啓二(ひろじ)氏。
1934年、旧制高松高商を中退し、叔父が経営する養豚組合に就職。42年に27歳で日本ハムの前身、徳島食肉加工場を設立した。戦後、大阪や東京に進出し事業を拡大。さらに同業他社との合併や米国メーカーとの提携で、業界のトップ企業に育てた。だが2002年、農水省の制度を悪用した牛肉偽装問題が発覚、責任を問われ引退した。
1973年11月に日拓を買収して以来、球団に情熱を注ぎ込み、球界発展のために寄与してきた。元気なころは球場にもよく足を運び、仕事で来られない時でも試合の途中経過を逐一、報告させていたことは有名なエピソードだった。
81年の初優勝の時、指揮を執っていた大沢啓二氏(現野球評論家)は「おやじのような存在で何でも話せる人でした。優勝の時『ビールを頭から飲んだのは初めてだ』と子供のように喜んでいた姿が思い出に残っている」と惜しんだ。
28日は球団事務所、チームともに休日だったが、ヒルマン監督、小笠原選手会長らが球団を通じてコメントを発表。29日から札幌ドームでの試合が続くため、合間を縫って今村球団社長、高田GM、ヒルマン監督らが大阪を訪れる予定になっている。野球を愛した故人をしのび、監督、コーチ、選手全員が29日のオリックス戦(札幌ドーム)で喪章をつけてプレーすることも検討している。
◆ヒルマン監督 「非常に悲しい。直接会いに来てくれ、野球の話に花を咲かせたり、手を握ってくれたことを鮮明に覚えています」
◆高田GM 「監督時代どんなに負けている時も温かく激励してくれた。もう一度優勝してオーナーを胴上げしたかった」
◆小笠原選手会長 「選手たちを息子のようにかわいがってくださり、本当に野球を愛してくれたオーナーでした。球場に足を運んでくれ、声をかけてくれたのが何よりの励みでした」
私はこれほど、プロ野球を理解してくれた日本のオーナーはいなかったと思う。
なので、日本ハムの会社のほうの不祥事(牛肉偽装問題)でオーナーをおやめになったときは本当に残念でした。
優勝した日本ハムの姿をオーナーに見てほしかったです。
ヤクルトファンをオーナーが嫌いになり、ヤクルトファンをやめた私が、15年間も愛することができたチームは日本ハムしかない。
私はヤクルトの体質に気づかず、ヤクルトファンをやめなかったら、日本ハムファンにならなかったら、私はこんなに野球にくわしくならなかったと思います。
本当、大社オーナー、ありがとうございました。
ご冥福をお祈りします。