振り逃げプロ野球

アテネオリンピック野球日本代表の一件以来、プロ野球界に対する不信感をつのらせる者のブログ

お笑いと芸人に対する扱いの現状が、このままでいいのか!?を真剣に考えています

2005-05-31 23:37:55 | お笑い
私は子供のころから、お笑いが好きです。
お笑いがないと生きていけない人間です。

ある時、私が見に行っている、芸人さんのファンのサイトで知り合った芸人好きの人がお笑いや芸人のことを語り合っていて、「テレビでの芸人さんの扱い方」についての疑問の話が出てきました。
 そこで、日本テレビの「エンタの神様」という番組の芸人さんの扱い方の疑問の話が出ました。
 私も「エンタの神様」の、
・芸人ネタ枯れ問題
・芸人の芸風に会わないことをさせていること
・上記による、芸人の芸風を勘違いされること
・ネタ中に表示されるテロップの頻度問題
に疑問を持っています。
 そのような、お笑いや芸人について、熱く語り合っている・語り合う場を持っているのが、ELCさんのサイトfree掲示板です。
ここでは現在、同じ考え方の人・考え方を理解してくれる人を探しています。長いスレッド&レスがありますので、一通り読んでいただき、賛同、あるいは意見をいただきたいと思っています。
 『今のお笑い界が芸人さんにとって、すごしやすい世界になってほしい・する』というのが基本です。皆さん、よろしくお願いします。

芸人に対して熱い思いがある方・深く愛している方・今の芸人たち・お笑いに対して疑問や意見がある方によって結成された「S.W.E ~芸人愛護支援団体~」のホームページが出来ました。
賛同される方は一度、このホームページを見てみてください。よろしくお願いします。
↓から、お入りください。


それと、下記の文章は違うサイトの掲示板で、私がよく行く掲示板でよく、書き込んでいる男性の方が「こういうケースがあった」ということを教えてくれたときの文章です。
「ええと、まえオンバトについて詳しく言ったんですが、今日もスポーツ紙を買ったら「エンタの神様」の裏側について書いてありましたので、ちょっと報告します。

「エンタはもともとお笑い番組でなかったんです。しかし、アンケートをとってみたらお笑いが良いという意見が多かったので、2003年10月から、ドランクドラゴン、アンジャッシュ、陣さん、インパルス、はなわをレギュラーにしたそうです。そして、2004年から完璧なお笑い番組になったそうです。この新聞には五味Pが載っていてこの番組に出演するまでの裏側を語っていました。
「①徹底した芸人のネタ調査」数十人のスタッフが劇場のばらまいて芸人さんを探すそうです。これで波田さんを見つけた。
「②芸人さんを磨く」なんとここでネタが完璧になるまで、訓練させるらしいです。青木さんは2ヶ月もネタを作らされて。波田さんは5ヶ月も「ギター侍」の訓練。摩邪さんにいたっては、1年3ヶ月も「マイクパフォーマンス」を練習させられたらしいです。つまり、五味Pがネタをいじっているとも取れるのです。「③収録と編集」編集は五味Pが担当。この人がテロップを入れたりしているんです。いつ笑いが取れるタイミングとかが分かっているからできると言っています。
皆さんはどう思うか分かりませんが、ネタをいじるのはどうかと思います。陣さんはいじられてない事を祈っていますが・・・・」
エンタの神様にはいろいろ、問題がありますね…。

ちなみに私はORDINARY WORLD(今は「PENTREF MOR」に移転しました)という、お笑い中心のホームページを「red hot」というハンドルネームでやっています。
特に「お笑いについてのコラム」(今はここここになっています)というのに力を入れていますので、気が向いたら見てください。

頑張っているのは有野のほう

2005-05-05 18:37:15 | お笑い
私が好きでよく、読ませていただいているブログ「昨日の風はどんなのだっけ?」さんのブログで「めちゃイケ」で有野さんの結婚式の放送をしていましたが、そのことについて、書いてありました。

めちゃイケとオンバトとサンサンTVと登龍門

この中で、
「(特に濱口の方に)有野にガンバレという前に、お前の方がガンバレと思ったクチだけど(笑)、有野さんが今まで以上に頑張らないといけない的な切り口というのは、めちゃイケ的価値観による解釈だなあと思いました。」
と書いてありました。
私もこの番組は見ていましたが、後半のこの部分にはなんとなく、違和感を感じていました。
もやもやしていたので、「昨日の風はどんなのだっけ?」さんのブログを読んで解決しました。

よゐこはもともと、シュールなコントをしているコンビ。
オチから始まるコントをし、2人ともボケというスタイルからして、シュールな2人でした。
もし、松竹みたいな大きな会社に所属していなければ、今頃はラーメンズより先に「ラーメンズスタイル」なことをしていたのではないかと思う。そう考えると惜しい気がする。これは吉本所属のザ・プラン9にもいえる。芸人によって、大きな会社に合う、合わないがあるような気がする。ジョビジョバなんて、事務所のプッシュがすごすぎて、解散してしまった)
しかし、テレビに出るうえで「わかりやすくならなければ」ならず、持ち味である「シュール」が消えつつあります。
「昨日の風はどんなのだっけ?」さんがおっしゃっていますが、
「どっちかというと僕は「アメトーク!」によゐこが出たときに、『有野は頑張ってるけど、濱口は(シュールの)欠片も残っていない』という雨上がり・宮迫さんの感想に近いし(笑)、有野さんはゲームとかマンガとかをオタク目線で語れる芸人として、ワンアンドオンリーの地位を確保しつつあるし、濱口さんが普通の芸人になってきた以上、引き芸的なポジションを有野晋哉がしっかり固めているのは、よゐこというコンビを頑張って守っていると取るべきじゃないでしょうか?」
ということです。
私も「昨日の風はどんなのだっけ?」さんや雨上がりの宮迫さんと同意見です。

よゐこを守っているのは有野さんのほう。
「めちゃイケ」はメジャー層の番組。
理想はどちらもこなせる器用さだが、それはなかなか難しい。
ただ、有野さんが守っている「よゐこカラー」を否定するような展開はいただけなかった。

ポール牧、自殺?

2005-04-22 12:49:40 | お笑い
ポール牧さんが亡くなられたそうだ。
死因は自殺と見られているそうです。
ポール牧さん死亡、飛び降り自殺か
ポール牧さん死亡、飛び降り自殺か
22日午前4時50分ごろ、東京都新宿区西新宿6丁目のマンション敷地内で、9階に住むタレントのポール牧さん(本名榛沢一道)が血を流して倒れているのを、タクシー運転手が発見した。ポール牧さんは全身を強く打っており、病院に運ばれたが間もなく死亡した。63歳だった。

 自室の窓が開いたままで、ベランダの手すり(高さ約130センチ)に乗り越えたような形跡があることなどから、警視庁新宿署は、飛び降り自殺とみて調べている。

 調べでは、ポール牧さんはこの部屋で1人暮らし。マネジャーは「最近、仕事が少ないと悩んでいる様子もあった」と同署に話しているという。遺書は見つかっていない。

 発見時は白いブレザーに黒っぽいズボン姿。21日夜はマネジャーと都内で食事をした後、午後9時ごろ一緒にマンションに戻り、マネジャーと別れたという。

[2005/4/22/11:59]


昔から、長くやってらっしゃる芸人さんの自殺(まだ、推定だが)の話を聞くと、
「昔の芸人さんだなあ」
と思う。
軽蔑の意味ではない。
昔の芸人さんの考え方が、自殺に追い込まれる要因かなあ?、と思ったからである。
上岡龍太郎さんが引退するときに「笑芸人」という雑誌でインタビューをされていて、その中で、
「昔の芸人は今ほど地位が高くなく、芸人で(人生を)生き詰まったら、あとは死ぬしかないという心理状態になる。
昔、楽屋に行って、「あいつ、自殺したね」という話しが普通にされていた。
それほど、昔は芸人の自殺は多かった」
という話をしていた。
お笑い界の地位は今も高いとはいえないものの、以前とは比べ物にならないほど、お笑い界の地位が向上した。
昔のようなことは今はないだろうと思う。

私のお笑い中心のホームページ「ORDINARY WORLD」の中の「お笑いについてのコラム」の2004年9月17日のところの「吉本興業、もうひとつの姿~ルーキー新一の場合~」というのを書いているので、UPします。
「「吉本興業、もうひとつの姿~ルーキー新一の場合~」
今回はたいへん、ヘビーなことを書きたいと思います。

吉本興業に反旗をひるがえしてやめた場合、吉本興業の圧力で出られなくなる場合がある。吉本以外でも、芸能事務所でそれなりに力のある会社をもめて辞めると芸能活動がやりにくくなるのはどこも同じですが…。
関西の市場でやってしまうとことが深刻になる場合がある。
ここではルーキー新一さんのエピソードを中心に関西のお笑い界で起きた出来事を書いて行きたいと思います。

大阪のお笑い界の事務所は関東の事務所と違って会社の数は少なく、その会社の規模はでかいという構図がある。関西で小さな会社でお笑いを扱うのは経営上難しく、ましてや個人事務所でお笑いをやるのはよりたいへんである。つい最近も、そんなに小さくなかった大滝エージェンシーでさえ、事実上、吉本の傘下(さんか。吉本の一部化)状態になってしまったようなのだ。私は昔、大滝エージェンシーを「関西の人力舎」と勝手に呼んでいたのだが、今は人力は自力で強くなり、大滝エージェンシーは前記のような衰退状態であり、世の中はわからないなあ、とつくづく思いました。
そんな、関西お笑い界の現状がある中、昔、吉本新喜劇にいたルーキー新一さんは吉本の給料ぼったくり体質に対し、我慢ができなくなり、会社の対して反発行動を起こした。そのため、会社を追い出された。そのとき、ルーキー新一さんの弟さんも芸人だったが、弟さんもその流れで辞めざるを得なくなった。その弟さんは今は松竹芸能所属で、トリオ漫才の重鎮、レッツゴー三匹のリーダー、正児さんです。
ルーキーさんはその後、個人で活動するも吉本の圧力で仕事が入らなくなる。そして、ある日、死因が餓死に等しい状態で亡くなっていたそうです。
そのニュースを境に関西ではお笑いをやる人で個人で活動する人がいなくなったと聞きます。

他にもいろんなエピソードがあります。
東野幸治さんが一回、本気で引退を考えていたとき、それに対して、穴に埋めて阻止したり、サブローさんが一時期、吉本を離れ独立し、圧力で仕事がなくなって、仲間の説得で吉本に戻ったときも、ペナルティとして、復帰3ヶ月は給料なしで働かせたり…。

ただ、うまく離れることができたのは「漫画トリオ」です。
横山ノック、上岡龍太郎さん、青芝フックさんのトリオでしたが、中心である、ノックの吉本に対しての説得がうまく、吉本からの妨害も受けず、活動ができました。(「ノック」と呼び捨てにしているのはのちの選挙活動中のセクハラ問題のことがあるからです。あの出来事は残念でした)

そう考えるとうまく立ち回れる方法もあるようなのです。
ルーキーさんは吉本の偉い人に名前がおぼえられていたうえ、反発する行動をとったのがよくなかったのかもしれません。
それに、餓死しない方法もあったように思います。餓死することでますます、吉本の力をみんなに認めさせてしまったのは皮肉な話です。

吉本には仕事をさせすぎる問題もあります。
このことについては憶測が強くなってしまうので、そういうこともある程度にしておきます。

どこの会社にもいい面、悪い面があります。
それは吉本も同じです。
今回は「こういうこともある」ということを書きました。

追記:上岡龍太郎さんが以前「笑芸人」という雑誌で話されていたことですが、昔のお笑い界は芸能の世界でも低い地位にあったそうで、もし、お笑い界でもだめとなったら、後は死ぬしかないという状態になってしまい、昔の芸人さんはよく自殺をしたそうなのです。
ルーキーさんも古い芸人さんなので、そういうところも悪い方向になった原因があるのかなあ、と思いました。」

ポール牧さんは確か、仏門に入っておられたと思うので、そちらのほうの活動をやっていればよかったのではないかと思う。
売れていた、芸人としての自分が忘れられなかったのだろうか。
理由はわからないが、命を粗末にはしないでほしかったですね。
ご冥福をお祈りします。

大阪・心斎橋筋2丁目劇場の幻

2005-04-17 10:23:57 | お笑い
私のお笑い中心のホームページ「ORDINARY WORLD」の「お笑いについてのコラム」の2004年9月11日より、アップします。
なお、題名は一部分変えました。

「私が2丁目劇場にはまったのは千原兄弟がトップになって少したったあとです。
当時の2丁目劇場は面白い芸人さんが多く、私は心底、楽しみました。
当時はファンクラブに入り、たくさんの人と交流して、情報交換をしました。というか、一方的に情報を聞いたのですが…。
今でも、当時の2丁目を知る人と話したいなあ、と思うことがあります。
まあ、今は結婚された方とか社会人で忙しい人が多いだろうし、お笑いファンから離れた人も多いかなと思うので、無理かな…、とは思いますが…。
当時を知る2丁目ファンとしては2丁目に出ていた人のせめて3分の1でも売れていてほしかったのですが、残念ながら2~3組くらいしか売れていないみたいです。現在のお笑いブームを見る中で当時を知る人は私のように、「たまに寂しくなることはあるのだろうか?」、と思うこともあります。

当時の人気の中心だったのは千原兄弟やジャリズムであった。
私は千原のファンであるが、当時は「東京で売れるのはトップの千原ではなくジャリズムではないか」という人もいました。私は個人的にはジャリズムはさほどファンではなかった。ジャリズムは渡辺さんだけ好きでした。なので、当時のファンとも「ジャリズムはさほど好きではない」という点で論点がずれます。
なぜ、ジャリズムのほうがそう言われたかというと、千原のネタはブラック度が高かったためだ。ジャリズムは不条理な感じのネタをやっても、どこか、さっぱりとした感じになって、受け入れやすくなっていた。
ただ、いざ東京へ行ってみると、共倒れの形になった。
当時の東京のお笑い界は「ボキャブラブーム」だったりの流れでネタで勝負する2組には向いていなかった。
ある人は当時、東京にあった若手が出られる劇場を吉本がつぶすきっかけを作ったのはこの2組が東京で売れなかったからだという人がいました。
つまり、吉本興業は若手育成を一時期、放棄したわけです。
そのときの7丁目劇場に出ていたのは、品川庄司、チャイルドマシーン、違う事務所に行ったが、飛石連休の藤井さんやスピードワゴンの潤さん他、多数いた。
劇場を閉鎖したことで残る人は残るべくして残ったとも考えられるが…。
2丁目劇場の最後のころは上の芸人さんが多くて、当時、下のほうだった芸人さんが出られず、つぶれていった芸人さんも多い。連鎖的に芸人が育たない環境になっていった時期だった。そして、皮肉にも、今、売れている人たちは2丁目では中心だった人ではなく、下のほうにいた人たちだった。

2丁目劇場が調子がよかったころから少なからず、疑問があった。
・千原兄弟がトップになったころから、コンビばかりになったことだ。ピンや3人以上の芸人さんが出ないのだ。これではコントラストができない。
・9期生があまり残れなかった。それは千原が好む芸人が9期にいなっかたともとれるほどだった。
・当時は「WA CHA CHA LIVE」という名前のレギュラーイヴェントをやっていたが、バンドなどの音楽をやっている人たちがセットだった。お客さんはお笑いを目当てにした人が多かった。近所から騒音の抗議もあり、やる意味があるのかは疑問があった。
これは今、千原が予想に反して売れなかったから思ったのではない。当時からの疑問だった。
それと、今、冷静になって思ったのだが、2丁目にお客さんを取り戻したのはベイブルースの力が大きかった。他の人は力がなかったわけではないが、中心は間違えなくベイブルースだった。千原に初動のファンを引き付ける力はあまりないのかな、とも思えた。

お笑いはいつ売れるかわからない。昭和のいるこいるさんも売れるのに30年かかった。だから、今、売れないからって「今後、絶対売れない」とは決めつけられない。だから、千原やジャリズムには続けてもらいたい。あのころに2丁目劇場が「幻ではない」ということの証明のためにも。」

喜味こいし師匠、被爆を告白

2005-04-13 14:37:03 | お笑い
(あえて、「お笑い」のカテゴリーで書かせていただきます)


兄弟漫才師、夢路いとし・喜味こいし。
いとし師匠が亡くなられて、こいし師匠は今は漫才をやっておられない。

このことを書こうか迷いました。
広島のNHKのみでこいし師匠はお話になったからだ。
ただ、今までお話にならなかったことを被爆した広島の土地へ赴き、お話になった姿はすごく印象的でこのことを書きたいなあ、と思いました。

いとし・こいし、両師匠は神奈川県横浜市出身です。
その後、関西を中心に漫才をやられていたので、てっきり、大阪出身のように思われていた方もいらっしゃると思いますが、横浜のご出身です。
関西漫才界には関西以外のご出身の方は多いですよ。
同じ兄弟漫才のくにお・とおるさんも岩手県出身です。

こいし師匠は日本が戦時中、召集されて、広島に行きました。
その際、原爆ドームの近くで被爆をしたそうです。
ピカー、と光ったとき、とっさに物陰に隠れて、背中は大やけどを負いましたが、命は助かったそうです。
負傷し、広島の似の島という島があり、そこが野戦病院があって、そこへ入院されていたそうですが、たくさんの方が亡くなられたそうです。
そのことを思い出すのがつらく、今まで、戦争のこと、被爆のことはお話しにならなかったそうです。

原爆については語り部になられる方もいらっしゃいますが、こいし師匠にように、話さない方もいます。
どっちがいい、悪いわけではなく、それだけ、体や心に負った傷が深いからです。

こいし師匠がこのことをお話になられたのは戦争が終わって60年たったのもあったようです。
漫才の相方である、兄のいとし師匠が亡くなられて、しばらくしての告白でした。

漫才師としては後輩のカウス・ボタン師匠がおっしゃっていましたが、
「漫才師の生き様を見せてくれる漫才師。
やすし・きよしは途中でやめてしまった。年を重ねた漫才を見せてくれなかった。
いとし・こいしは年を重ねた漫才を見せてくれている。
私たちもああいう風に年を重ねて、やりたい。
漫才をやるのであれば、途中でやめないでほしい」
とおっしゃっていました。
いとし・こいしは漫才を続けた。
漫才師の鏡のような漫才師。

つらいことがあったけど、いわずに漫才をやられていたことを今回知りました。
広島のテレビでは娘さんといっしょに取材を受けておられました。
娘さんが原爆資料館へ行ったとき、こいし師匠は見に行かれませんでした。
戦争のことは思い出したくないことだと思います。

日本の戦争が終わって60年。
戦争の傷は一生消えるものではないことがこいし師匠を見て、改めてわかりました。
世界中の悲惨な戦争やテロなどが早く、この世からなくなってほしい。
どんなに過ちを犯しても人間は学べないのか?。
今の世の中を見て感じます。
真心ブラザーズの「拝啓 ジョンレノン」ではないが、
「あなた(ジョンレノン)が死んでずいぶんたちますが、この世は悲しみにあふれ、平和ではありません」
とても、悲しいことです。

林家こぶ平、九代目・正蔵を襲名

2005-03-14 21:06:28 | お笑い
今の若い人にはわからない人も多いと思うが、!!。正蔵を継ぐことっつーのはすごいことなんだぞー!!。

こぶ平嗚咽、正蔵お練りに14万5000人
こぶちゃんの「正蔵」襲名パレードに14万5000人! 21日に9代目林家正蔵を襲名する林家こぶ平(42)の襲名記念パレードとお練りが13日、東京・上野の鈴本演芸場から浅草演芸ホールまでの7キロで行われ、主催者発表で延べ約14万5000人が沿道を埋めた。歌舞伎を含めた芸能人のパレードで最大規模の人出に、目を真っ赤にしたこぶ平は「落語家に生まれて良かった。1つでもいい落語を聞いていただけるよう精進します」と決意を新たにした。

 こぶ平をはじめ、林家木久蔵、春風亭小朝、笑福亭鶴瓶、春風亭昇太、立川志の輔、柳家花緑、弟の林家いっ平…。一行を乗せた4トントラックがJR上野駅に横付けされると、駅前広場、歩道橋は人、人で埋まった。上野駅広場に集まったのは2万5000人。この日のためにつくられた「こぶ平 下町感謝の日」と書かれた緑の小旗が一斉に振られると、こぶ平の目から早くも涙があふれた。

 義兄小朝の「こぶちゃんに代わる新愛称が決定しました。正蔵(しょうぞう)のぞうを取って『ゾウさん』です。皆さんで『ゾウさん』と呼びましょう」とのかけ声に合わせ、2万5000人が「ゾウさん」と大合唱すると、「パオー」と象の雄たけびをして笑いを誘ったが、平常心でいられたのもここまで。後は涙のオンパレードだ。

 上野寛永寺では1625年の開山以来初のお練りと、襲名興行の成功祈願が行われた。祈願後、10歳と8歳の2人の息子から花束とともに「頑張ってください」と励まされ、苦笑いと同時に目頭が熱くなった。こぶ平の似顔絵などで装飾したトラックなど7台のパレード一行が生まれ育った根岸を通過した時には、雪が降り始めた寒さの中で近所のおばさん、おじさんに拍手で迎えられ、涙が嗚咽(おえつ)に変わった。

 寛永寺から浅草雷門までの沿道で5万人を数えたが、雷門前はもっとすごいことになっていた。路上にまで人があふれ、雷門から仲見世を経由して浅草演芸ホールまでのお練りには約7万人。1月の18代目中村勘三郎の3万人を超える人出に、鶴瓶も「少ないとかわいそうだなと心配していた。本当に皆さんに愛されていることが分かった。噺(はなし)家として幸せですなー」と感激。こぶ平は「父(林家三平さん)のかばんを持って初めて足を踏み入れた寄席の浅草演芸ホールで、あいさつができて感謝します。未熟なところがありますが、精進して1つでもいい落語を聞いていただきたい」と涙ながらに抱負を話した。

[2005/3/14/09:57 紙面から]


ワイドショーで見たけど、すごい人の数だった。
落語界、久々の大きな出来事ではあるが、一般的であるのかは正直、心配だったが、わかる人はわかってくれた。
なんか知らないが、お笑い好きで、落語を聴いて育った人間としてはなんかうれしかった。
このことについては手前味噌ではありますが、私のもうひとつのホームページ「ORDINARY WORLD」の「お笑いについてのコラム」の2005年3月14日のところにも書きましたので、読んでいただけると幸いです。
こぶ平さんがWAHAHA本舗の創設メンバーだったが、家の人に反対されて、やめた話とか、父・三平に弟子入りしたときの話など、いろいろ書きました。

まずはおめでとうと言いたいです。
そして、名前に恥じぬ活躍を期待したいです。

爆笑問題の話

2005-02-17 13:22:06 | お笑い
私は爆笑問題を大田プロ時代でコントをやっていたときから知っている。
とにかく、シビアで面白いコントをやっていた。
私は好きでしたね。
ところが浅草キッドと仲が悪かったり、ビートたけしさんに言いがかりをつけたり、松本人志さんにお笑いのことではなく、どうでも服装のこといちゃもんつけて、松本さんが後輩を使って、太田さんを…(以下、自主規制)など、いろいろあり、太田プロもやめ、仕事がなくなっていった。

そして、太田さんの奥さんが社長となった「タイタン」という会社を興して、地道にやるようになってから、もともとあった実力で這い上がってきた。
まあ、確かにあれだけ才能があって、素直に売れても深みがないといえば深みがない。
しかし、今のお笑いブームといわれている状況下の厳しい競争があったわけでもない時代に若手として、評価されていたのに、そのチャンスを自ら逃したのはいただけなかった。

私が太田さんを見ていて、惜しいと思う点がある。
それはお笑い芸人が持っておいてほしい、
「本当の実力を読み取る能力」
である。
実例をあげると、倉木麻衣が出たてのころ、宇多田ヒカルとよく比較されていたが、
「倉木は宇多田をぬいた」
ということを言っていた。
今の状況を見ていただいたらわかるが、倉木麻衣はその後、大衆的ポップス歌手になっている。
宇多田ヒカルは今でこそ、アメリカ進出に「?」というのはあるが、日本では大物に近い歌手になっている。
そんなもん、当時から実力の差はわかっていていいはずである。
しかし、太田さんはこの力が不足している。
だから、実力があるのに売れるのが遅かったように思う。
つまり、時代の流れに惑わされない、観察力を持つ必要があると思うのだが、太田さんはこれに欠けているように思う。
残念で仕方がない。
この能力が少しでも多くあれば、トップにいける力があると思うのだが…。

爆笑問題が若手のころ、後に私が勝手にお笑いとプロレスの師と思っている浅草キッドが好きになるので、爆笑のことは頭からほとんど消えていた。
ただ、当時のことを冷静に考えたら、浅草キッドも売れる機会を逃している。
ただ、浅草キッドの場合は爆笑のような「芸人として疑われるような」失敗ではなく、勝負時に受けなかったというタイミングの悪さが原因ではあるが…。
この時期に出た芸人で順調に売れたのはキャイ~ンである。
この両組に天野ひろゆきさんのような、クレバーさと割りきりがあればよかったと思う。(キャイ~ンはウド鈴木さんの他の追随を許さないキャラクターもあるが、ブレインは明らかに天野さんである)

ちなみに爆笑問題は今は漫才をやっている。
理由は、
「場に応じてねたが変えやすい」
からだそうです。
これは一理ありですね。
GAHAHA KINGの優勝したときのネタが「GAG!GAG!GAG」という本の中に載っていて、そのネタが好きでしたね。
やはり、太田さんの書くネタはすごいと思いました。

今はある程度世間に合わすことをおぼえたな、と思いますね。
今後は爆笑にしか出来ない仕事をしてほしいな、と思いました。

余談です。
私は「ORDINARY WORLD」という、お笑いを中心としたホームページを持っています。
その中で、「お笑いについてのコラム」というのも書いていますので、読んでやってください。

「四角い仁鶴がまあるくおさめます。」

2005-02-03 14:26:34 | お笑い
落語家の笑福亭仁鶴師匠が吉本興業の特別顧問に就任されたそうです。
仁鶴顧問がまぁるく収めまっせ

お笑いがディープのお好きな方はご存知だと思いますが、吉本興業で芸人さんだけの上下関係でいえば、一番偉いのは仁鶴師匠で、三枝師匠も西川きよし師匠もこの人の前では小さくなるほどだと聞いたことがあります。
その人が吉本興業の特別顧問に就任したというのだから、実質的な意味でも権力を握ったといえるわけですね。

その仁鶴師匠は島田紳助に対してもこんなことをいっている。
「お客さんに育てられたという気持ちがあれば、ちょっと踏み外した行動にもブレーキはかかる。一社会人として身に付けるものは必要。今までのようにおうようにというのは変わってきているんやから」。
師匠、ついていきます。
といいたくなるお言葉。
関西の芸人界も変わらなくてはいけない時代に入ったのかもしれない。
それを師匠も感じておられるようだ。
法律番組の司会の先輩としても。

これからもいい吉本興業を築いて、私のようなお笑い好きに良いお笑いを提供してほしいと切に思うわけです。

カンニングについて 考えあって一部文章を訂正しましたので報告します。

2005-01-08 19:19:36 | お笑い
昨日、2005年1月7日に書いた文章を考えあって、一部、文章を訂正いたしました。
この文章を書いたあと、このことに関することをいろいろと検索していろんな人の意見を読まさせていただいたのですが、今回の報道に対しての批判をされている人が一部、いらっしゃいました。
私が昨日書いた文章はそれでも、ある程度の配慮をもって書かせていただいた文章ですが、医療の素人である私が軽々しく書いているかもしれない、と思った文章がありました。それを訂正したわけですが、私もうすうすは感じていることもありましたが、「すべての事実をありのまま書くべき」という考えはあまり賛成できません。
私は今回の報道を「伝えることができる範囲で配慮をして発表したこと」と受け止めています。
他の人の文章だって、まったく知らないのではなく、ネットの公共性を考えて書いた人だっていると思っています。
私のサイトはたくさん見に来ている人がいるサイトとは言いがたいのですが、やはり、これだって公共性があるものと考えています。誰が見ているのかわからないのですから。

今回の文章は抽象的でわかりにくいと思いますが、前記したように私の考えで「全部ありのまま書けばいい」という考えに賛成していないためです。今後、もしかしたら、もう少しはっきり、このことについて書く機会があるかないかはわかりませんが、もし、書く機会があるとしたら、明るい話題として書けることを願うばかりです。
わかりにくい文章ではありますが、ご理解願えるとありがたいです。

追記:骨髄バンクのことなのですが、私は骨髄バンク登録対象外の人間です。(重い理由ではありませんが、微量ですが、まだ薬を服用しております、それと、体型の理由ですね)
いとことで「骨髄バンク登録」といいますが、骨髄バンクにも条件がありますし、登録する側には登録と登録後のリスクもいろいろあるのです。(骨髄を採取する手術はたいへんだと聞きます)それをわかったうえで話すべきだと思いますし、骨髄バンクに関するCMももう少しこの点について配慮あるCMの内容にしてほしいと思います。

カンニングについて

2005-01-07 12:40:09 | お笑い
私はお笑いが好きなので、たまにはお笑い関連のことも書いて行きたいと思います。他、スポーツのことも書く可能性があります。特にハンドボールのことになると思いますが。

話を今回の本題に進みますが、カンニングの中島さんが急性リンパ性白血病で長期入院となるそうです。
http://www.nikkansports.com/ns/entertainment/p-et-tp0-050107-0002.html
竹山さんは中島さんが戻るまで長い間一人での活動となりますが、中島さんが安心して治療に専念できるよう、活躍してほしいものです。芸能界はたいへんですから…。

私はカンニングは渡辺プロ(現ワタナベエンターテインメント)時代から知っています。
といっても「続キンゴロー」という12年程前に出たお笑いの本があって、その中に「関東芸人名鑑」なるものがあって、そこでコンビ名と白黒写真で見た程度ではありますが…。
ちなみに「続キンゴロー」とはこれです。
その後、サンミュージックの移ってからも「お笑い第4世代」(今はこんな言い方はしないけどね)という音楽雑誌の増刊号扱いで出た、10年程前のお笑い関係の雑誌の中に少し載っていたこともありました。竹山さんの出身地が間違って載っていました。
なので、名前くらいは知っていたんですよ。
あとで知ったことといえば竹山さんのほうですが、福岡吉本時代、中島さんとコンビを組む前、ケン坊田中さんという芸人さんとコンビを組んでいたそうです。
ケン坊さんともコンビを解消して、福岡吉本をやめたあと、幼なじみの中島さんを誘ったのかもしれませんが、細かいことはわかりません。

福岡吉本→渡辺プロ(現ワタナベエンターテインメント)→サンミュージックと渡り、13年間やってきたコンビであるカンニングは最初は正統派で売れたかったそうですが、なかなか売れず、結成して9年ごろで現在の芸風を見つけ、今やっと売れてきたところなのに、また、たいへんな局面を迎えてしまいましたが、昔から知っているのもありますが、昔から知っていることもあって、その思い入れもあるのですが、カンニングには今くらいの人気をキープしていてほしいなあ、とつくづく思うわけです。

中島さんにはしんどい治療が続くとは思いますが、腐らず、あせらず、治療に専念してほしいですね。