《賢治年譜のある大きな瑕疵》
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*****************************なお、以下は本日投稿分のテキスト形式版である。****************************
ということが解ったので、もしかするとこのことは当事者のM氏自身も実は認識していたのではなかろうか、と思わざるを得なくなった。
関の賢治関連著作について
先にも少し触れたように、当時『賢治随聞』のような著作をM氏がかたっているような理由で出版したかったのであれば、他人の著作をここまで改稿したりせずに、既に関登久也本人が出版していた『宮澤賢治物語』(岩手日報社)をそのまま再版した方がはるかに良かったのではなかろうか。
ところが現実はそうでなかったということは、逆に言えば、このような表向きの改稿理由ではなくて隠された事情が実はあったのではなかろうかということも探らねばなるまい、ということになるのだろうか。
そこで、まずは宮澤賢治関連の関登久也の著作等を時系列に従って以下に並べてみよう。
【表8 関登久也の宮澤賢治関連著作等リスト】
(1)『宮澤賢治素描』關登久也著 協榮出版社
昭和18年9月15日発行
(2)『宮澤賢治素描』關登久也著 眞日本社 昭和22年3月5日発行
(3)『續 宮澤賢治素描』關登久也著 眞日本社 昭和23年2月5日発行
<関登久也夫人岩田ナヲ没 昭和24年9月21日>
(4)『宮澤賢治物語』関登久也著 『岩手日報』新聞連載 昭和31年1月1日~6月30日
<関登久也没 昭和32年2月15日 >
(5)『宮沢賢治物語』関登久也著 岩手日報社 昭和32年8月20日発行
(6)『賢治随聞』関登久也著 角川書店 昭和45年2月20日発行
(7)『新装版 宮沢賢治物語』関登久也著 学習研究社 平成7年12月12日発行
このリストを概観してみると、なぜわざわざ関登久也の名で『賢治随聞』がこの時期に出版されたのかやはり不自然な気がしてくる。もう既に関登久也は(1)~(4)の四書を書き上げている訳だし、『賢治随聞』が出版される10年以上も前に関は亡くなっているからである。
百歩譲って、『賢治随聞』が出版された昭和45年頃になると『宮澤賢治素描』や『續 宮澤賢治素描』はたまた『宮澤賢治物語』が入手できにくくなったし、出版元では再版の予定もないということだからここは遺族の了解を得て別の出版元から再版したい、というようなことであればそれは分からぬことでもない。ちょうど関登久也のご子息岩田有史氏がそう考えて、後年〟(7)『新装版 宮沢賢治物語』〝を出版したのと同じように。ところがM氏はそのような理由で出版したとも説明しているわけでもない。
あるいは、もしかするとこの『賢治随聞』の出版年「昭和45年」は賢治にとって何か特別意味を持った年次だったのだろうか。仮に、そのようなことがあって『賢治随聞』を出版したとでもいうような説得力に富む説明をM氏がしてくれていればこの不自然さを払拭できたかもしれないが、そのようなこともM氏は語ってくれている訳でもない。私などはせいぜいこの「昭和45年」頃について思い浮かぶことは、高瀬露が帰天した頃であり、一方で『校本宮澤賢治全集』(筑摩書房)の出版が胎動し始めたのがこの頃ではなかろうかということだけである。もしかすると、これらのことが遠因だったのだろうか。
結局、隠された事情があったのかなかったのかこれらだけからでは私には解らなかったが、この著作等のリストを見ながら強く感じたことは、やはり『賢治随聞』の出版は奇妙であるということである。
『宮澤賢治物語』出版の意図
ここまで辿ってきて、私は〟(3)〝所収の「澤里武治氏聞書」のチェロに関する記載と、『宮澤賢治物語』(関登久也著、岩手日報社)の記載内容を比べてみると後者の方がより詳しいことを思い出した。ならば、『宮澤賢治物語』の出版の意図を知る必要があるぞ、と思い付いた。
そこで実際に同書を見てみると、この『宮澤賢治物語』の「前がき」には
かつて私は「宮沢賢治素描」という本を書いたが、今読んでみるとあまり簡略すぎて、読む人に果たして了解してもらえるかどうかという不安をもつている。そこで、それらの素材をもう一度丹念に改めてみたいと思う。………①
<『宮澤賢治物語』(関登久也著、岩手日報社)より>
とあった。そこで私は、「やはりな。だからあのような表現を澤里武治はしたのか」とひとりごちた。というのは、昭和23年2月5日発行の『續 宮澤賢治素描』では
確か昭和二年十一月頃だつたと思ひます。…(略)…その十一月びしょびしょみぞれの降る寒い日でした。……②
となっていたのが、昭和31年2月22日付『岩手日報』に載った『宮澤賢治物語(49)』では
どう考えても昭和二年十一月ころのような気がしますが、宮沢賢治年譜を見ると、昭和二年には先生は上京しておりません。…(中略)…その十一月のびしょびしょ霙(みぞれ)の降る寒い日でした。 ………③
(傍点いずれも筆者)
となっているからだ。
これで準備はできたので、このことを織り込みながら次からは思考実験を試みる。
思考実験(『宮澤賢治物語』の改竄)
実はM氏はあのような「改稿」理由が挙げてはいたが、その裏には次のような隠された事情があったのである。
それを時の流れに沿って以下に説明する。
(1) まずは、昭和23年以前に澤里武治は関登久也から聞き取りを受けて
「確か昭和2年11月頃の霙の降る日にチェロを持って上京する賢治をひとり見送った」
という意味のことを答えた。これが②に当たる。
(2) 次に、この聞き取り「澤里武治氏聞書」を所収した『續 宮澤賢治素描』が昭和23年2月に出版された。この出版により、その滞京中の三ヶ月間にわたるチェロのはげしい勉強で賢治は遂に病気になって帰郷したことが公に知られることになった。
(3) 同時にこの頃ある人物X氏はこの滞京の事情が広まることを憂慮した。このようなことが「羅須地人協会時代」の賢治にあったということになれば賢治のイメージにふさわしくないので、この滞京はなかったことにしようとX氏は動き始めた。
そこでまずは手始めに、それまでは殆どの「宮澤賢治年譜」には記載のあった昭和2年9月の上京を「宮澤賢治年譜」から削除しようと思い始めた。併せて昭和3年1月の「…栄養不足にて漸次身體衰弱す」も同様に。
(4) その後、『續 宮澤賢治素描』出版から約8年を経た関登久也は、前掲①のような理由から『正・續宮澤賢治素描』を丹念に改めた内容の著作を再び世に伝えようと思って、昭和31年1月1日~6月30日の『岩手日報』紙上に『宮澤賢治物語』を連載した。その連載のうち昭和31年2月22日付『岩手日報』に載った『宮澤賢治物語(49)』「セロ一」の中に上掲③が述べられていた。
(5) ②と③は同じ時のことを言っている訳だが、『續 宮澤賢治素描』では問題にならなかったこの「昭和2年11月頃」について、新聞連載の時には問題が生じた。この際に澤里が基にして証言しなければならなかった「宮澤賢治年譜」はX氏からこれが正しい年譜だと言われて提示されたもので、それには昭和2年の賢治の上京はないことになっていたものだったからである。
(6) それゆえ、澤里武治はそのことを訝しく思いながら、さりとて自分の記憶「昭和2年11月頃」には自信があるから、『續 宮澤賢治素描』では「確か昭和二年十一月頃」であった部分を『宮澤賢治物語(49)』では「どう考えても昭和二年十一月ころ」という表現にした。
そこで、X氏は慌てた。この『宮澤賢治物語(49)』を読んだ読者の中には、澤里が妙な「宮澤賢治年譜」を基にして証言させられていることを敏感に察知した人物が居るのではなかろうかという不安に襲われたからだ。つまり、
どう考えても賢治は昭和2年に上京しているはずだと澤里は思っているのに、澤里が見せられた「賢治年譜」には従前の年譜と違って「昭和二年には先生は上京しておりません」というものになっていて変である。
ということを、マスコミを通じて結果的に澤里は指摘したことになったと言える。
(7) そこへもってきて、昭和32年にはこの新聞連載が単行本として出版される運びとなったのでX氏はさらに困惑した、この『単行本』化を避ける手立てはなかったからである。
地方紙『岩手日報』の連載の場合であれば、この澤里のこの指摘を読者は気付いてもその人数は限定的である。しかし単行本となればそれは違う。かなり多くの人が読む可能性が高いはずだから何とかせねばとX氏は思い悩んだ。
(8) ところが何と、その上梓直前に関登久也が急逝した。そこでX氏は大胆にも改竄という行為に及んだ。当の本人が亡くなったので、後事を頼まれた人物に近づき
・昭和二年には先生は上京しておりません。
を
・昭和二年には上京して花巻にはおりません。
と書き変えたのである。もうこのように書き変えれば、単行本で読んだ人は一体澤里武治は何と言いたかったのかを読み取れなくなってしまうから、取り敢えずカムフラージュはできるとX氏は考えた。
事実私がそうだった、何を言いたいのかそこからは読み取れなかった。おそらく、単行本『宮澤賢治物語』で初めて読む人は皆同様で、澤里のこの大切な指摘はぼやけてしまって、X氏の思惑通りカムフラージュされるであろう。
(9) さらには、昭和45年頃になると『校本宮澤賢治全集』出版の動きが始まったので、その全集所収の「宮澤賢治年譜」の資料として『宮澤賢治物語』が使われることをX氏は恐れた。X氏は改竄に関わっていただけに後ろめたさを抱いたからだ。
(10) そこでX氏はM氏に『賢治随聞』の出版を慫慂し、併せて『校本全集』の「宮澤賢治年譜」の資料としてはこの『賢治随聞』に基づくようにと関係者に勧めた。
(11) さらには念を入れて、M氏はその「あとがき」に「願わくは、多くの賢治研究者諸氏は、前二著によって引例することを避けて本書によっていただきたい」と書き添えた。
これで「改竄」したという事実もほぼ葬り去ることができるだろうと安堵した。まさか、元々の昭和31年2月22日付『岩手日報』に載った『宮沢賢治物語(49)』にまで遡って確かめるような奇特な人はいないだろうから、と。
思考実験終了
ただしこれはあくまでも理論上だけの話である。これが歴史的事実であった等ということを私は主張するつもりはない。
「三か月は滞在する』の無視
以前にも触れたように、賢治大正15年12月2日の「現通説」
一二月二日(木) セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の高橋(のち沢里と改姓)武治がひ
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《鈴木 守著作案内》
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ところが現実はそうでなかったということは、逆に言えば、このような表向きの改稿理由ではなくて隠された事情が実はあったのではなかろうかということも探らねばなるまい、ということになるのだろうか。
そこで、まずは宮澤賢治関連の関登久也の著作等を時系列に従って以下に並べてみよう。
【表8 関登久也の宮澤賢治関連著作等リスト】
(1)『宮澤賢治素描』關登久也著 協榮出版社
昭和18年9月15日発行
(2)『宮澤賢治素描』關登久也著 眞日本社 昭和22年3月5日発行
(3)『續 宮澤賢治素描』關登久也著 眞日本社 昭和23年2月5日発行
<関登久也夫人岩田ナヲ没 昭和24年9月21日>
(4)『宮澤賢治物語』関登久也著 『岩手日報』新聞連載 昭和31年1月1日~6月30日
<関登久也没 昭和32年2月15日 >
(5)『宮沢賢治物語』関登久也著 岩手日報社 昭和32年8月20日発行
(6)『賢治随聞』関登久也著 角川書店 昭和45年2月20日発行
(7)『新装版 宮沢賢治物語』関登久也著 学習研究社 平成7年12月12日発行
このリストを概観してみると、なぜわざわざ関登久也の名で『賢治随聞』がこの時期に出版されたのかやはり不自然な気がしてくる。もう既に関登久也は(1)~(4)の四書を書き上げている訳だし、『賢治随聞』が出版される10年以上も前に関は亡くなっているからである。
百歩譲って、『賢治随聞』が出版された昭和45年頃になると『宮澤賢治素描』や『續 宮澤賢治素描』はたまた『宮澤賢治物語』が入手できにくくなったし、出版元では再版の予定もないということだからここは遺族の了解を得て別の出版元から再版したい、というようなことであればそれは分からぬことでもない。ちょうど関登久也のご子息岩田有史氏がそう考えて、後年〟(7)『新装版 宮沢賢治物語』〝を出版したのと同じように。ところがM氏はそのような理由で出版したとも説明しているわけでもない。
あるいは、もしかするとこの『賢治随聞』の出版年「昭和45年」は賢治にとって何か特別意味を持った年次だったのだろうか。仮に、そのようなことがあって『賢治随聞』を出版したとでもいうような説得力に富む説明をM氏がしてくれていればこの不自然さを払拭できたかもしれないが、そのようなこともM氏は語ってくれている訳でもない。私などはせいぜいこの「昭和45年」頃について思い浮かぶことは、高瀬露が帰天した頃であり、一方で『校本宮澤賢治全集』(筑摩書房)の出版が胎動し始めたのがこの頃ではなかろうかということだけである。もしかすると、これらのことが遠因だったのだろうか。
結局、隠された事情があったのかなかったのかこれらだけからでは私には解らなかったが、この著作等のリストを見ながら強く感じたことは、やはり『賢治随聞』の出版は奇妙であるということである。
『宮澤賢治物語』出版の意図
ここまで辿ってきて、私は〟(3)〝所収の「澤里武治氏聞書」のチェロに関する記載と、『宮澤賢治物語』(関登久也著、岩手日報社)の記載内容を比べてみると後者の方がより詳しいことを思い出した。ならば、『宮澤賢治物語』の出版の意図を知る必要があるぞ、と思い付いた。
そこで実際に同書を見てみると、この『宮澤賢治物語』の「前がき」には
かつて私は「宮沢賢治素描」という本を書いたが、今読んでみるとあまり簡略すぎて、読む人に果たして了解してもらえるかどうかという不安をもつている。そこで、それらの素材をもう一度丹念に改めてみたいと思う。………①
<『宮澤賢治物語』(関登久也著、岩手日報社)より>
とあった。そこで私は、「やはりな。だからあのような表現を澤里武治はしたのか」とひとりごちた。というのは、昭和23年2月5日発行の『續 宮澤賢治素描』では
確か昭和二年十一月頃だつたと思ひます。…(略)…その十一月びしょびしょみぞれの降る寒い日でした。……②
となっていたのが、昭和31年2月22日付『岩手日報』に載った『宮澤賢治物語(49)』では
どう考えても昭和二年十一月ころのような気がしますが、宮沢賢治年譜を見ると、昭和二年には先生は上京しておりません。…(中略)…その十一月のびしょびしょ霙(みぞれ)の降る寒い日でした。 ………③
(傍点いずれも筆者)
となっているからだ。
これで準備はできたので、このことを織り込みながら次からは思考実験を試みる。
思考実験(『宮澤賢治物語』の改竄)
実はM氏はあのような「改稿」理由が挙げてはいたが、その裏には次のような隠された事情があったのである。
それを時の流れに沿って以下に説明する。
(1) まずは、昭和23年以前に澤里武治は関登久也から聞き取りを受けて
「確か昭和2年11月頃の霙の降る日にチェロを持って上京する賢治をひとり見送った」
という意味のことを答えた。これが②に当たる。
(2) 次に、この聞き取り「澤里武治氏聞書」を所収した『續 宮澤賢治素描』が昭和23年2月に出版された。この出版により、その滞京中の三ヶ月間にわたるチェロのはげしい勉強で賢治は遂に病気になって帰郷したことが公に知られることになった。
(3) 同時にこの頃ある人物X氏はこの滞京の事情が広まることを憂慮した。このようなことが「羅須地人協会時代」の賢治にあったということになれば賢治のイメージにふさわしくないので、この滞京はなかったことにしようとX氏は動き始めた。
そこでまずは手始めに、それまでは殆どの「宮澤賢治年譜」には記載のあった昭和2年9月の上京を「宮澤賢治年譜」から削除しようと思い始めた。併せて昭和3年1月の「…栄養不足にて漸次身體衰弱す」も同様に。
(4) その後、『續 宮澤賢治素描』出版から約8年を経た関登久也は、前掲①のような理由から『正・續宮澤賢治素描』を丹念に改めた内容の著作を再び世に伝えようと思って、昭和31年1月1日~6月30日の『岩手日報』紙上に『宮澤賢治物語』を連載した。その連載のうち昭和31年2月22日付『岩手日報』に載った『宮澤賢治物語(49)』「セロ一」の中に上掲③が述べられていた。
(5) ②と③は同じ時のことを言っている訳だが、『續 宮澤賢治素描』では問題にならなかったこの「昭和2年11月頃」について、新聞連載の時には問題が生じた。この際に澤里が基にして証言しなければならなかった「宮澤賢治年譜」はX氏からこれが正しい年譜だと言われて提示されたもので、それには昭和2年の賢治の上京はないことになっていたものだったからである。
(6) それゆえ、澤里武治はそのことを訝しく思いながら、さりとて自分の記憶「昭和2年11月頃」には自信があるから、『續 宮澤賢治素描』では「確か昭和二年十一月頃」であった部分を『宮澤賢治物語(49)』では「どう考えても昭和二年十一月ころ」という表現にした。
そこで、X氏は慌てた。この『宮澤賢治物語(49)』を読んだ読者の中には、澤里が妙な「宮澤賢治年譜」を基にして証言させられていることを敏感に察知した人物が居るのではなかろうかという不安に襲われたからだ。つまり、
どう考えても賢治は昭和2年に上京しているはずだと澤里は思っているのに、澤里が見せられた「賢治年譜」には従前の年譜と違って「昭和二年には先生は上京しておりません」というものになっていて変である。
ということを、マスコミを通じて結果的に澤里は指摘したことになったと言える。
(7) そこへもってきて、昭和32年にはこの新聞連載が単行本として出版される運びとなったのでX氏はさらに困惑した、この『単行本』化を避ける手立てはなかったからである。
地方紙『岩手日報』の連載の場合であれば、この澤里のこの指摘を読者は気付いてもその人数は限定的である。しかし単行本となればそれは違う。かなり多くの人が読む可能性が高いはずだから何とかせねばとX氏は思い悩んだ。
(8) ところが何と、その上梓直前に関登久也が急逝した。そこでX氏は大胆にも改竄という行為に及んだ。当の本人が亡くなったので、後事を頼まれた人物に近づき
・昭和二年には先生は上京しておりません。
を
・昭和二年には上京して花巻にはおりません。
と書き変えたのである。もうこのように書き変えれば、単行本で読んだ人は一体澤里武治は何と言いたかったのかを読み取れなくなってしまうから、取り敢えずカムフラージュはできるとX氏は考えた。
事実私がそうだった、何を言いたいのかそこからは読み取れなかった。おそらく、単行本『宮澤賢治物語』で初めて読む人は皆同様で、澤里のこの大切な指摘はぼやけてしまって、X氏の思惑通りカムフラージュされるであろう。
(9) さらには、昭和45年頃になると『校本宮澤賢治全集』出版の動きが始まったので、その全集所収の「宮澤賢治年譜」の資料として『宮澤賢治物語』が使われることをX氏は恐れた。X氏は改竄に関わっていただけに後ろめたさを抱いたからだ。
(10) そこでX氏はM氏に『賢治随聞』の出版を慫慂し、併せて『校本全集』の「宮澤賢治年譜」の資料としてはこの『賢治随聞』に基づくようにと関係者に勧めた。
(11) さらには念を入れて、M氏はその「あとがき」に「願わくは、多くの賢治研究者諸氏は、前二著によって引例することを避けて本書によっていただきたい」と書き添えた。
これで「改竄」したという事実もほぼ葬り去ることができるだろうと安堵した。まさか、元々の昭和31年2月22日付『岩手日報』に載った『宮沢賢治物語(49)』にまで遡って確かめるような奇特な人はいないだろうから、と。
思考実験終了
ただしこれはあくまでも理論上だけの話である。これが歴史的事実であった等ということを私は主張するつもりはない。
「三か月は滞在する』の無視
以前にも触れたように、賢治大正15年12月2日の「現通説」
一二月二日(木) セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の高橋(のち沢里と改姓)武治がひ
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《鈴木 守著作案内》
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