本当の賢治を渉猟(鈴木 守著作集等)

宮澤賢治は聖人・君子化されすぎている。そこで私は地元の利を活かして、本当の賢治を取り戻そうと渉猟してきた。

『賢治昭和二年の上京』(136p~139p)

2016-01-20 08:00:00 | 『昭和二年の上京』
                   《賢治年譜のある大きな瑕疵》








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*****************************なお、以下は本日投稿分のテキスト形式版である。****************************
 これほどまでに、自分の証言がある部分だけ使われてその他の一部は無視されたり、改竄されたりしたとなれば、いかな賢治の愛弟子の澤里でさえも不本意ながら緘黙せざるを得なかっただけのことではなかろうか。もちろんこれはあまりにも理不尽な話であり、私は澤里に同情を禁じ得ない。一方で、晩年になってからは、それが決して賢治のためではないと思って「ありのままの賢治を話すことにした」という彼の心境の変化は私にもよく理解できる、それは澤里のせめてもの賢治に対する敬意と自身のプライドであったと私は思うからである。
 一方、「通説○現」に対する柳原の心中も正直穏やかならざる
ものがあったであろうこともほぼ明らかであろう。しかし、同
級生や恩師のことを思って、思慮深い柳原は「○柳」を胸に秘め
たままであったということではなかろうか。
 H氏の単独担当
 ところで、『修羅はよみがえった』には次のようなことが述べられていた。
 そもそも旧校本全集第十四巻所収の年譜は、H氏(筆者による仮名化)の単独担当で、氏の多年にわたる努力、資料収集のつみかさね、「評伝」の刊行などの達成にもとづくもので…(中略)…
 新校本全集でも、基本的に<H年譜>が土台となっている。
 …(中略)…新校本全集は、H氏の記述を出来うる限り尊重しながら、出来るかぎりその出所出典を客観的に再調査・再検討し、さらに多くの新資料を博捜・校合してさまざまな矛盾点を解決し、解決しきれない事項は、本文から下段註へ移したり、場合によってはあえて削除して、出来る限り客観的に、信頼しうる年譜作成をめざした。
<『修羅はよみがえった』((財)宮沢賢治記念会、
ブッキング)389p~より>
これを見た時、「そうか、やはりそういうことだったんだ」と私は膝を叩いた。仄聞していたことではあったが、これで「旧校本年譜」はH氏の単独編纂だったことが確認できたからだ。そしてなおかつ、H氏は「新校本年譜」の編纂については直接タッチしていないということもこれでわかった。
 だから、「新校本年譜」では
 ただし、「昭和二年十一月ころ」とされている年次を大正一五年のことと改めることになっている。
<「新校本年譜」(筑摩書房)326p~より>
という奥歯に物が挟まったような表現がなされ、奇妙な処理がなされていたのだということに私は合点がいった。あの澤里武治の証言を「旧校本年譜」であのように扱ってしまった責めの多くはH氏にあったのだ。最初はそう思った。
 そこで以前見たことがある「賢治年譜の問題点―H氏に聞く」を読み直してみた。するとそこには次のような「大正15年の年末の上京」に関するH氏自身の発言があった。
 あのとき、セロの猛勉強をしていますが、その詳しいことをこの年譜には入れていない。そのことも気になっています。
<『國文學 53年2月号』(學燈社)176pより>
 ということは、H氏自身も澤里の証言の使い方については気に掛けていたと言うことだろう。おそらくH氏の言うところ「セロの猛勉強」とは澤里が証言するところの「三か月間のそういうはげしい、はげしい勉強」のことであり、あの三日間の特訓でないことは明らかだ(三日間では猛勉強とはとても言えない)。
 そしてH氏の「気になっています」の意味はおそらく、「澤里の証言の一部は使い他の一部は無視していることに呵責を感じている」という意味なのであろう。あるいは澤里に対してH氏は気が咎めていたということを正直に吐露していたということなのかもしれない。なぜならば、H氏には申し述べにくいことであるが、大正15年12月2日の「現通説」にはもともと澤里武治の証言を当て嵌めることはできないからであり、そのことに気付かぬH氏であるはずがないからである。
 ところがここまで推論してきて私はふと立ち止まらざるを得なかった。H氏一人だけを論うわけにはいかぬのだ、ということに思い至ったからだ。なぜならば、『岩手日報』紙上に載ったあの「○澤」のその後の改竄にH氏が直接関与などできる訳な
どないからである。
たしかに、次の二つ
・「新校本年譜」の中の、澤里の言っている「どう考えても昭和2年の11月の頃」を大正15年とすること。
・『宮澤賢治物語』の中の、「昭和二年には先生は上京しておりません」を改竄して「昭和二年には上京して花巻にはおりません」とすること。
はその狙いが似ているとは思うが、それぞれに携わっている立場が違うからである。
 とまれ、この改竄をした、あるいはその指示をしたX氏が誰なのかが私には現時点ではわからぬから、その人のことがある程度わからぬうちは少なくともH氏を論うわけにはいかない。
 せいぜい現時点で私が言えることは、仮説
 賢治は昭和2年11月頃の霙の降る日に澤里一人に見送られながらチェロを持って上京、3ヶ月弱滞京してチェロを猛勉強したがその結果病気となり、昭和3年1月に帰花した。                ………………♧
は検証に耐えることができたのでこれは歴史的事実だと確信しているということである。そして言いたいことは、X氏はこの「歴史的事実」は賢治のイメージとしては「不都合な真実」であると思い込んでいたのであろうということである。
第九章 「不都合な真実」
 本書の始まりは、関登久也著『宮澤賢治物語』における何者かによる「改竄」行為に気付いたことであった。しかしその時からずっと、何故このようなことが為されたのかがいまひとつ解らないままにここに至ってしまった。

1 『賢治随聞』出版の奇妙さ
 今冬花巻は降雪が多い。しばしば雪掻きをしなければならない。そんなある時の雪掻きを終え、ほっとして炬燵に入って「伸び」をしようとしたときに「あれっ!」と思った。
 関が出版できる訳がない
 関登久也が『賢治随聞』など出版できる訳がないじゃないかと閃いたからであった。 そして、もしかすると先の「何故」のヒントがそこにあるのではなかろうかと直感したのだった。私の頭の中は一気に玉突き現象が起こり始めた。
(1) むっ?、あの『賢治随聞』を関登久也が出版などできる訳がないじゃないか! たしか関登久也は昭和32年に亡くなったはずだ。ところが『賢治随聞』の出版は昭和40年代のはずだ。関登久也が亡くなった後に、なぜどのようにして関登久也著『賢治随聞』が発行されたというのだ。
(2) 一方、「新校本年譜」の例の大正15年12月2日についての典拠は『賢治随聞』であることが
 関『随聞』二一五頁の記述をもとに校本全集年譜で要約したものと見られる。
とその註釈で明らかにされている。
(3) その「二一五頁」とはそれこそ『賢治随聞』所収の
 「沢里君、セロを持って上京して来る、今度はおれもしんけんだ、少なくとも三か月は滞在する」
などという証言が含まれている「沢里武治氏聞書」のことだ。
(4) しかし、これとほぼ同じ内容の「セロ」が所収されている『宮澤賢治物語』(岩手日報社)の方は既に昭和32年に出版されており、そしてそれはその前年の31年に『岩手日報』紙上に連載されたものだ。
(5) しかもこれと同じ内容の証言は、既に昭和23年に発行された『續 宮澤賢治素描』所収の「澤里武治氏聞書」にも載っているし、それがこの証言の初出のはずだ。
(6) にもかかわらず、その初出の方ではなくて、しかもその後のものでもなく、あろうことか関登久也自身が直接出版したものでない方の、関登久也が亡くなってしばらく経ってから出版された最後の『賢治随聞』の方が典拠とされているのはなぜなのだろうか…。
 『賢治随聞』の「あとがき」
 私は慌てて『賢治随聞』を本棚から引き抜いた。案の定、『賢治随聞』の発行は昭和45年2月20日、昭和40年代の半ばの発行だ。「やはり何かおかしい」と、私はそう感じた。
 そこで、まずは同書の「はじめ」はどうなっているかを見てみようと思って頁を捲ってみたがない。さりとて、「序」とかもない。一般に単行本の場合には必ず「はじめ」やそれに相当するものがあるものとばかり思っていた私は、ないこともあるのだと訝しく思いながら、それじゃ止むを得ぬ「あとがき」だ。そう思って捲ってみたならばこちらの方はあった。ただしあるにはあったのだが、その「あとがき」を著しているのは関登久也ではなくてM氏だった。これも変なことだと思いつつその「あとがき」を読み進めた。その中には以下のようなことが書かれていた。
  あとがき
M  
 …(略)…関登久也が、生前に、賢治について、三冊の主な著作をのこした。『宮沢賢治素描』と『続宮沢賢治素描』、そして『宮沢賢治物語』である。…(略)…
 さて、直接この本についてのことを書こう。
 『宮沢賢治素描』正・続の二冊は、聞きがきと口述筆記が主なものとなっていた。そのため重複するものがあったので、これを整理、配列を変えた。明らかな二、三の重要なあやまりは、これを正した。こんにち時点では、調べて正すことのできがたいもの、いまは不明に埋もれたものは、これは削った。…(略)…賢治を神格化した表現は、二、三のこしておおかたこれを削った。その二、三は、「詩の神様」とか「同僚が賢治を神様と呼んだ」とかいう形容詞で、これを削っても具体的な記述をそこなわないものである。
 なお以上のような諸点の改稿は、すべて私の独断によって行ったものではなく、賢治令弟の清六氏との数回の懇談を得て、両人の考えが一致したことを付記する。願わくは、多くの賢治研究者諸氏は、前二著によって引例することを避けて本書によっていただきたい。
 …(略)…この本はかたい研究書とはちがうが、賢治研究の根本資料としての真価に、さらにうるわしい花をそえているということができよう。
 昭和四十四年九月二十一日
<『賢治随聞』(関登久也著、角川書店)277p~より>
というものである。
 私は一読して後味の悪さを覚えた。そして思ったことは三つあり、その第一は、
 『宮沢賢治素描』正・続の二冊は、聞きがきと口述筆記が主なものとなっていた。…(略)…これを削っても具体的な記述をそこなわないものである。
の部分で言えば、他人の著書をこのような理由だけで改稿して新たに出版することがはたして許されるのだろうか。一体M氏はだれの許可を得てこのようなことをしたのだろうか。この時点ではもう既に関登久也本人のみならず関夫人のナヲも鬼籍に入っているからご遺族のどなたかには了解を得たのではあろう
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《鈴木 守著作案内》
◇ この度、拙著『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』(定価 500円、税込)が出来しました。
 本書は『宮沢賢治イーハトーブ館』にて販売しております。
 あるいは、次の方法でもご購入いただけます。
 まず、葉書か電話にて下記にその旨をご連絡していただければ最初に本書を郵送いたします。到着後、その代金として500円、送料180円、計680円分の郵便切手をお送り下さい。
       〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木 守    電話 0198-24-9813
 ☆『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』                ☆『宮澤賢治と高瀬露』(上田哲との共著)           ★『「羅須地人協会時代」検証』(電子出版)

 なお、既刊『羅須地人協会の真実―賢治昭和二年の上京―』、『宮澤賢治と高瀬露』につきましても同様ですが、こちらの場合はそれぞれ1,000円分(送料込)の郵便切手をお送り下さい。
 ☆『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』      ☆『羅須地人協会の真実-賢治昭和二年の上京-』     ☆『羅須地人協会の終焉-その真実-』


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