岩手の野づら

『みちのくの山野草』から引っ越し

田中智学について

2017-11-09 14:00:00 | 理崎 啓氏より学ぶ
《『塔建つるもの-宮沢賢治の信仰』(理崎 啓著、哲山堂)の表紙》
 ではいよいよ田中智学についてである。理崎氏は簡潔に次のように説明していた。
 智学は文久元年、江戸日本橋に生まれた。智学十歳の時にで逝去した父が法華の強信者だったため、志を継がせようと僧にされた。…(投稿者略)…十五歳で東京芝の日蓮大教院(立正大学の前身)に入学した。ここで、日蓮教学やその基礎となる天台教学に勤しんだ。しかし、ここでの教えに違和感を覚えて退学、還俗して独自の道を歩み始める。二十歳の時、日蓮の遺文研究と思想の鼓舞を目的に蓮華会を結成した。始めは自分でポスターを貼って講演会を開く孤軍奮闘であったが、戦闘的な姿勢と分かりやすい説教が支持されて立正安国会に発展、さらに東京鶯谷に本部を構えて国柱会となる。
             〈58p~〉
 智学は早くして父を亡くしてしまったということで、さぞかし苦労したであろうが、苦労を味わった人間は流石に違う。そのパワフルでしたたかな生き様が伝わってくる。しかし智学はそれだけでなく、
 その視点は斬新で、早くからメディアを重視していた。機関誌『妙宗』は月刊で後に週刊となるが、全国の駅に常備して客が待ち時間に読めるようにしていた。大正9年にはタブロイドの日刊新聞『天業民報』を発刊する。大変なアイディアマンで、磐梯山の噴火を視察して当時最先端の幻燈でその惨状を訴えている。また、会員が自活して信仰活動ができるように、「自活布教隊」を組織して牛乳の製造、配達の会社を設立したり、とその意匠は画期的であった。
            〈59p〉
と理崎氏は紹介していて、まさにアイディアマンでもあったようだ。そういえば、〝賢治と国柱会について少し〟で投稿した、
 国柱会との交流については、大正十二年の『天業民報』では、四月二十一日号、先述の国性文芸会入会申込者欄に「一口 岩手 宮澤賢治殿」とあります。(一口とは毎月一円の義納)。投稿は、七月三日号に「花巻農学校精神歌」、七月二十九日号に「角礫行進歌」、八月七日号に「黎明行進歌」、八月十六日号に「青い槍の葉」が掲載されています。
            <『宮澤賢治 まことの愛』(大橋冨士子著、金剛出版)155pより>
の中の『天業民報』がこれだったのか。
 そして、そこでも触れたのだが、
 この年(大正12年)は関東大震災のあった年であったが田中智学らは市内各地で心身両面で救護活動に当たったという。
ということだから、智学は確かになかなかの人物だったようだ。

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 なお、ブログ『みちのくの山野草』にかつて投稿した
   ・「聖女の如き高瀬露」
   ・『「羅須地人協会時代」検証―常識でこそ見えてくる―』
や、現在投稿中の
   ・『「羅須地人協会時代」再検証-「賢治研究」の更なる発展のために-』
がその際の資料となり得ると思います。



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