岩手の野づら

『みちのくの山野草』から引っ越し

東禅寺跡(10/27)

2017-11-01 08:00:00 | 遠野周辺
 この10月27日又一の滝を訪れたのだが、車中で「東禅寺跡」について話題になった。
 一方、「東禅寺」と言えば私が直ぐ思い出すのは、高瀬露がかつて「東禅寺小学校」に勤めていたということだ。ただし現在その小学校はもうなくなってしまったという(1976年に遠野市立附馬牛小学校へ統合)。そこで、その「東禅寺跡」を訪ねてみることになったのだった。
《1 》(平成29年10月27日撮影)

《2 》(平成29年10月27日撮影)

《3 クリの大木》(平成29年10月27日撮影)

《4 》(平成29年10月27日撮影)

《5 》(平成29年10月27日撮影)

《6 》(平成29年10月27日撮影)

《7 鼓楼跡》(平成29年10月27日撮影)

《8 西浄跡》(平成29年10月27日撮影)

《9 三門跡》(平成29年10月27日撮影)

《10 サワアザミ》(平成29年10月27日撮影)

《11 》(平成29年10月27日撮影)

《12 ナンブアザミ?》(平成29年10月27日撮影)

《13 タマブキ》(平成29年10月27日撮影)

《14 マムシグサ》(平成29年10月27日撮影)


 ちなみに、高瀬露(改姓後は小笠原露)は次のような歌を詠んでいる。
     賢治の集ひ 小笠原露
   師の君をしのび来りてこの一日心ゆくまで歌ふ語りぬ
   教へ子ら集ひ歌ひ語らへばこの部屋ぬちにみ師を仰ぎぬ
   いく度か首をたれて涙ぐみみ師には告げぬ悲しき心
   女子のゆくべき道を説きませるみ師の面影忘られなくに
        <『イーハトーヴォ第十號』(宮澤賢治の會、昭和15年9月発行)>
なお、同号は小笠原露について、
   ○小笠原露氏 岩手遠野小學奉職、賢治の教へを受く。
と紹介している。
 それから、「宮澤賢治の會」の機関誌『イーハトーヴォ第四號』(昭和15年2月発行)には、
     賢治先生の靈に捧ぐ 露草
   君逝きて七度迎ふるこの冬は早池の峯に思ひこそ積め
   ポラーノの廣場に咲けるつめくさの早池の峯に吾は求めむ
   オツペルの虐げられし象のごと心疲れて山に憩ひぬ
   粉々のこの日雪を身に浴びつ君がの香によひて居り
   ひたむきに吾のぼり行く山道にしるべとなりて師は存すなり
                (昭和十四年十二月二十三日作)
という歌が4首載っていて、作者「露草」氏について同号は、
   ○露草氏 曾て賢治に師事せし人、岩手上閉伊にあり。
と同誌では紹介しているから、小笠原露(高瀬露)とほぼ断定できる。
 それは、どちらにも「師」という尊称を用いた詠み方をした歌があり、しかもその作風はよく似ているし、「露草」の〝露〟は小笠原露の〝露〟でもあるからである。さらには、同『第四號』の「喜捨芳名」の中には「(上閉伊郡附馬牛村)小笠原露」という記載があり、当時露は上閉伊郡東禅寺尋常小學校の訓導をしていた(「「宮澤賢治伝」の再検証(二)-<悪女>にされた高瀬露-」(『七尾論叢第11号』)より)からでもある。この「東禅寺」という地名は現在も遠野市附馬牛町にあって、そこは昭和29年までは「附馬牛(つきもうし)村」だったという。
 しかも、賢治周縁の人でこのような歌を詠む人は高瀬露以外には知られていない。したがって、
   「露草」氏とは小笠原露すなわち高瀬露のことである。
と判断できる。

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 なお、ブログ『みちのくの山野草』にかつて投稿した
   ・「聖女の如き高瀬露」
   ・『「羅須地人協会時代」検証―常識でこそ見えてくる―』
や、現在投稿中の
   ・『「羅須地人協会時代」再検証-「賢治研究」の更なる発展のために-』
がその際の資料となり得ると思います。



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