三木正夫 好きです須坂! がんばろう!

信州須坂から徒然なるままに様々なことを書き記してまいります。

吉田茂のユーモア(ウキペディアから)

2012年10月06日 | Weblog

吉田茂のユーモア(ウキペディアから)

癇癪持ちの頑固者であり、また洒脱かつ辛辣なユーモリストとしての一面もあった。公私に渡りユニークな逸話や皮肉な名台詞を多数残している。

  • 寺内正毅が首相に就任する際、寺内の朝鮮総督時代にその秘書官であった吉田は、直接寺内から総理秘書官就任を要請された。しかし吉田の返答は「秘書官は務まりませんが、総理なら務まります」。
  • ある日、会いたくなかった客人に対して居留守を使った吉田であったが、その客人に居留守がばれてしまった。抗議をする客人に対して、吉田の返答は「本人がいないと言っているのだから、それ以上確かな事はないだろう」。
  • 皇太子明仁親王から皇太子妃に関して記者に追いかけられて困っているとの話があった際に、「そういう記者には水をぶっ掛けておやりなさい」と返答した(吉田は気に入らない質問をした記者に水をぶっ掛けたことがあった)。それに対して皇太子は「吉田さんのようにはいかない」と応じて苦笑したという。
  • 憲法改正を急ぐ吉田に疑問を呈する議員たちに対して「日本としては、なるべく早く主権を回復して、占領軍に引き上げてもらいたい。彼らのことをGHQ (General Head Quarters) というが、実は “Go Home Quickly” の略語だというものもあるくらいだ」と皮肉をこめた答えを返した。
  • 単独講和に反対していた松野鶴平に、「このご時世、番犬くらい飼っているだろう?」と切り出し、「それがどうした」と返されると、「犬とえさ代は向こう持ちなんだよ」。
  • 終戦直後のまだ国民が飢えと戦っていたころ、吉田はマッカーサーに「450万トンの食糧を緊急輸入しないと国民が餓死してしまう」と訴えたが、アメリカからは結局その6分の1以下の70万トンしか輸入できなかった。しかしそれでも餓死者はでなかった。マッカーサーが「私は70万トンしか出さなかったが、餓死者は出なかったではないか。日本の統計はいい加減で困る」と難癖をつけた。それに対して吉田は「当然でしょう。もし日本の統計が正確だったらむちゃな戦争などいたしません。また統計どおりだったら日本の勝ち戦だったはずです」と返した。これにはマッカーサーも大笑いだったという[19]
  • 戦後の物資不足の折、葉巻を愛好する吉田に対し、フィリピンにタバコ畑を所有していたマッカーサーから葉巻を贈りたいと言われたが「私はハバナ産しかたしなみませんので」と慇懃無礼に辞退したという。
  • バカヤロー解散における広川弘禅農林大臣らの裏切りについては「坊主は三代祟る」(広川農相は僧籍を持っている)と皮肉を言った。
  • 晩年に大勲位の勲章を授与された後、養父である吉田健三の墓の前で「(養父の)財産は使い果たしてしまったが、その代わり陛下から最高の勲章を戴いたので許して欲しい」と詫びたという。
  • 1964年(昭和39年)11月の宮中園遊会で、昭和天皇が「大磯はあたたかいだろうね」と吉田に呼びかけた。吉田は「はい、大磯は暖かいのですが、私の懐は寒うございます」と答えてその場を笑わせている。
  • 日米修好通商百年祭に日本の代表として訪米し外国人記者団に質問されたとき、元気な様子を褒められると、「元気そうなのは外見だけです。頭と根性は生まれつきよくないし、口はうまいもの以外受け付けず、耳の方は都合の悪いことは一切聞こえません」。特別の健康法とか、不老長寿の薬でも、という質問には「はい、強いてあげれば人を食っております」とすました顔で即答した[20]
  • 吉田は米寿をすぎてもまだかくしゃくとしていたが、ある日大磯を訪れたある財界人がそんな吉田に感心して「それにしても先生はご長寿でいらっしゃいますな。なにか健康の秘訣でもあるのですか」と尋ねると、「それはあるよ。だいたい君たちとは食い物が違う」と吉田は答えた。そういった食べ物があるのならぜひ聞きたいと財界人が身を乗り出すと、「それは君、人を食っているのさ」と吉田はからからと笑った。これが吉田がこの世に残した最後のジョークとなった[21]
  • 雪子夫人がカトリックだったこともあり、吉田家は長男の健一を除いてみな信者で、吉田もカトリックには好意を持っていた。昭和39年(1964年)に建設された東京カテドラル聖マリア大聖堂の後援会の会長も引き受けている。ただし岳父・牧野伸顕のアドバイスもあって、極右による標的となることを避けるため、吉田自身は生涯洗礼を受けていなかった。それでも東京大司教館司教だった濱尾文郎に「元気なときはともあれ、死にそうになったら、洗礼をうけて“天国泥棒”をやってやろう」と語っていたこともあって、濱尾は吉田に死後ただちに洗礼を授け、「ヨゼフ・トマス・モア」として天国に送っている[22] [23]
  • 落語が好きで、六代目春風亭柳橋を贔屓にしていた。さすがに自分から寄席に行けないので、しばしば柳橋を官邸に呼び、当時珍しかったテレビを高座代りにして一席演じさせていた。孫である麻生太郎は、吉田に連れられて鈴本演芸場に行くエピソードを著書で紹介している。

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