鉄人 須藤 將のホームページ

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「水素ロータリーがル・マンを制覇する日」その5

2009-07-25 01:48:33 | 車・バイク
それまですこぶる堅調だった景気も1991年2月頃をピークに急速に悪化。そしてついに地価も同年秋頃をピークに暴落し、バブルは崩壊していった。
バブル景気を背景にマツダが国内で展開していた5チャンネル販売政策にかげりが出始め、国内販売台数が急激に減少、経営状態が悪化していった。
そうした、1991年10月に3代目RX-7であるFDが市場導入された。クルマそのものは好評裏に市場で受け入れられ、同年に設立されたRJC第1回カーオブザイヤーを取得した。
しかし、米国市場は「高性能スポーツカー冬の時代」の到来を告げていた。円対ドルの為替レートが90円/$を切る円高の進行により販売価格が上昇。さらに、高性能スポーツカーに対する自動車保険料のさらなる高騰と顧客の価値観の変化によるSUVの台頭により、FDの対米輸出を断念せざる得なくなった。ニッサンのZ、トヨタのスープラと同様にRX-7も1995年に対米輸出を中断した。
マツダの経営悪化が進み、1996年にフォードが経営権を握った。
どう建て直すかということがマツダのメインの課題となった。リスクを持ったスポーツカーの開発の優先順位が下がた。
明日のめしを食えるビジネスということで、フォードとのジョイントの汎用エンジン。ファミリア、MPVあたりを先に出して明日につなげることに資源を投入することになった。

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