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(07/06/01)

トゥモロー・ワールド

2006年11月18日 | 丁稚 定吉の映画日記
わてが丁稚の定吉だす。
11月18日公開の「トゥモロー・ワールド」を見て来ました。
まぁすごい迫力でした。戦争映画は好きな方ですし、割りと見てるほうだと自負していますが、こんなリアリティを感じたことはありませんでした。
映画を見ていると場面転換があるたびに、見ていて心の中で気持ちがリセットされるような部分がありますが、8分間カットのない長回しだと感情が途切れることなくどんどん積み上がっていく一方。戦場にこれ以上いたら気が狂います、最後は息が荒くなっているのを感じました。
8分間の長回し、それもセリフ劇ではなく破壊しまくりの戦闘シーン。1つNGを出すと億単位で損害が出るんじゃないでしょうか?これだけでも見モノです。
子供が生まれなくなって18年。世界の治安は失われ、排他的鎖国政策で唯一秩序を保ったイギリスで移民の黒人女性が妊娠します。公になれば国家権力から迫害される、と保護した市民団体の内ゲバで主人公との逃避行が始まります。
作品の雰囲気はほぼ全編にわたっての曇り空同様にどんよりと重く、また挿入される
イギリスのロックが退廃とその中に埋もれる生の明かりを象徴しています。
アラブ系のスラム街で人知れず生まれた長年待ち望まれた子は、あたかも馬小屋で密かに生まれた長年待ち望まれた救い主キリストのように神々しく、聖書に込められたメッセージを想起させます。
聖書にこじつけてると思われる部分はいくつかあるのですが、トータルの全体像として
この作品がまるまる聖書を形どってるとか、そんなことになってるのでしょうか?
その辺はよく分かりませんが、ただそんなことがあっても納得がいくような雰囲気でははありました。
キリスト教文化で育った欧米人がどう受け取ったか、興味があります。

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ナチョ・リブレ

2006年11月04日 | 丁稚 定吉の映画日記
わてが丁稚の定吉だす。
11月3日公開の「ナチョ・リブレ」を観て来ました。
フライ・トルメンタをモチーフに、バス男の監督が映画を撮ったとなれば「デスノート」を差し置いても見に行かざるをえません。
フライ・トルメンタは日本でもドキュメンタリー番組や漫画にもなりましたが、教会で養う孤児の食費稼ぎにルチャ・リブレの選手になった神父です。
「リブレ」とは英語でいうところのリベラル、つまり自由という意味。ルチャ・リブレというメキシコのプロレスは、自由のための戦いという意味を持っています。白人に侵略されたインカの抵抗戦争をモチーフにして、選手の覆面やコスチュームはインカ文化につながるものである場合が多いのですが、この映画の主人公・ナチョの戦う理由はなんだったのでしょうか?
そりゃもう単純かつ純粋な子供たちへの愛。
そこに複雑かつ不純なシスターへの愛が加わって物語が混沌として…はきませんね、別に。
虚栄を助長するという理由でルチャを否定するシスターとルチャドールの恋。高橋留美子の20年来未完の「1ポンドの福音」の最終回がこの映画だといわれても納得しますよ。
と思って調べてみたら「1ポンドの福音」、完結編がこの11月から始まるって!
いやー、驚いた。これまた10年近く未完だった新井素子のブラックキャットシリーズの完結並みのショックです。それはさておき。
ストーリーははっきり言ってご都合主義ですし、連戦連敗だった割りにチャンピオンにあっさり勝ってしまう印象はぬぐえません。しかしそんなことがどうでもよくなる「ぬるい」雰囲気が漂っています。メキシコ風の力の抜けた歌謡曲が実にいい感じでマッチしています。
わてはわずかの場面ではありますが久しぶりに小人プロレスを見れたので非常に満足していますが、ルチャ好き・メキシコ好き・ぬるい好きのいずれかの条件が満たされていないと不満が残るかもしれません。

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父親たちの星条旗

2006年10月29日 | 丁稚 定吉の映画日記
わてが丁稚の定吉だす。10月28日公開の「父親たちの星条旗」を見て来ました。
まずはっきり言っておきますが、かなりグロいです。年齢制限がかかってないのが不思議なくらいです。ネットで見かける惨殺画像に匹敵するものが大スクリーンに映し出されます。ちぎれた腕、生首、はみ出た内臓、CGなのか小道具なのか特殊メイクなのか動物の死体を使っているのか、わてもそれこそインターネット時代以前のギニーピッグの時代からこの手のものを見ていますが、作りものの残酷死体の中では一番リアルに見えました。
もちろんモノの出来の良さも、輝度を抑えた画面の効果もありますが、なにより命というものに対して真摯に向かって、冷静に語りかける切り口がリアリティを引きたてています。
最近は邦画でも戦争映画がずいぶん公開されていますが、見ていて安心できないんですよ。パソコン上でコラージュしただけの合成映像を見ているとヒヤヒヤします。戦場の嘘っぽさが命の嘘っぽさのように感じられてしまって。洋画だと安心して見れます。
本編終了後に硫黄島2部作の後編、日本から見た立場の「硫黄島からの手紙」の予告があったのですが、本作と映像の使いまわしをしたりはしないのでしょうか?それともアメリカで売れないから予算がケタ違いなのか?予告編だけでガッカリする嘘っぽいCGでびっくりしました。
構成がやや入り組んでいてわかりにくい部分もありますが、ドクが主人公で父、この1点を抑えていれば大丈夫です。
硫黄島に星条旗を立てた、しかも最初にあった星条旗を取り替えただけなのに英雄に祭り上げられてしまった3人の兵士。戦費調達の国債のマスコットに仕立て上げられますが、戦場を知る3人と戦争を知らない世間とのギャップ、演じる茶番劇、切り離せない真実との葛藤。戦争映画であり、それぞれ大人になっていく過程を描いた青春劇でもあります。
また一方で当時のアメリカ本土の空気を教えてくれる歴史映画でもあります。
わては「欲しがりません勝つまでは、の国がトムとジェリーを見てケラケラ笑ってる国に勝てるわけがないだろ」と思ってたのですが、戦費調達という点の苦しさを実感することはありませんでした。
この作品はハリウッド映画に(政治的意図によって)ありがちなアメリカの正義を一方的に描くものではありません。そのことが日本人としてのアイデンティティをくすぐる部分があるのですが、それ以上に感じられることは、クリント・イーストウッド監督は今のアメリカで数少ない、いい映画を作ろうとして誰の言うことにも左右されず思った通りの作品を作れる数少ない存在ではないだろうか、という危惧です。
コメント (3)
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トンマッコルへようこそ

2006年10月29日 | 丁稚 定吉の映画日記
わてが丁稚の定吉だす。10月28日公開の「トンマッコルへようこそ」を見て来ました。
やっぱり韓国映画で朝鮮戦争モノは別格です。中途半端なものはないですよね。どんな形であれ、アイデンティティや魂といったものと向かい合った、どんな形であれ真摯に作られたものになります。
この作品は一見ファンタジー形式。笑顔をもたらすいろんなものが降って来る映画でした。ポップコーン、雨、雪、そして爆弾。
トンマッコルは桃源郷なのでしょうが、中高年以上と子供しかいないのが印象的でした。若者は桃源郷に住む資格がないって示唆と見るのはうがち過ぎ?
久石譲音楽はさほど印象には残りませんでしたし、猪の場面をはじめ選曲音響はガタガタでした。
とはいえ実写版のジブリの世界の具現化、あるいはラストサムライの韓国版ともいうようなローカルな伝統的世界だけどどっかずれている、という雰囲気で、そのまったりとした雰囲気がファンタジーというか癒し系というか、せめて映画館にいる2時間強くらいはそんな時間があってもいいんじゃないの?と思わせるものでした。
エンディングはありがちながら秀逸で、一瞬死語の天国の描写かと思わせる桃源郷での一番幸せな時間、その重ね映しかたが見事の一言。
朝鮮戦争を寓話化して、いわゆる太陽政策の匂いも漂うため、南北協力して鬼畜米英をやっつけよう!なんて受け取りかたをされかねませんが、それではス・ミスさんに失礼です。そもそもアメリカをやっつけるような戦いなんかしていませんし。
なぜ命を奪う爆弾が爆弾が降ってきて、ポップコーンが降ってきた時以上の笑顔でいたか?戦う目的が純粋で、かつその思いを誰に利用されているわけでもなく全うしたからこそ、ファンタジー形式とあいまって悲劇的な結末の中に爽やかさと光明が感じられたのだと思います。

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ゆれる

2006年10月26日 | 丁稚 定吉の映画日記
わてが丁稚の定吉だす。
ミニシアターでロードショーされている「ゆれる」を見て来ました。
前評判に違わぬ本格派の心理劇でした。凶悪事件が時効を迎えるたびに時効の壁なるものが現われますが、その壁がなぜ必要なのかもよく分かります。結末でドンデン返しがあるのですが、それとて「ゆらぎ」であって事実とは限らないのですから。
弟に思いを寄せる女に思いを寄せる兄、弟と女がデキてしまったことに気付いた後に3人で行ったつり橋から女が落下死。遠くから見た一瞬の出来事の真実とは?
しかし弟を演じるオダギリジョーの上手さにも驚きましたが、それよりも兄を演じた香川照之でしょ。以前からこの人は「狂った日本兵」を演じたら映画史に名を残す人だと思っていましたが、それだけではない演技の幅が広さを思い知らされました。「狂った兄」もハマリ役だったんですね。狂った役しか出来ない、という意味ではなくて、動的な狂い方と静的な狂い方、そして狂ってるのかどうか微妙な狂い方、狂い方一つでこれだけ演じ分けられる人はいないでしょう。そしてその狂気の中に、狂気に至るまでの人生を見せてくれます。
この映画は徹頭徹尾、弟視線で描かれていますが、ほとんどシナリオには描かれていない兄のそれまでの生活や逡巡の一部始終が香川照之の演技から見て取れます。単純に嫉妬したわけでも、憎さだけで唾を吐きかけたのではないわけでも、犯罪者が無罪を勝ち取るために嘘をついたのでもないことが伝わってきちゃうんですよ。事故の瞬間を見ていない観客が分かっちゃうんです。
弟視線のストーリーは弟視線の映画を見なければ分かりませんが、兄視線のストーリーを弟視線の映画から見て取れる、この違い。
まぁでも真実は分からないんですけどね、誰にも。
ただリセットしようとする兄と追いかける弟がいるだけ。それと、いい方にゆれた「真実」を真実だと信じる心理行動に心当たりがあって、深層心理に押しこめていたイヤな記憶を思い出した観客と。

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ヨコハマメリー

2006年10月25日 | 丁稚 定吉の映画日記
わてが丁稚の定吉だす。
横浜発で文字通りのロードショーをしている「ヨコハマメリー」を見て来ました。
生きざま、というものを考えさせられる良質のドキュメンタリーでした。
当時、横浜にいた人なら誰でもが知っているホームレスの女性。多くの人にとってみればただしっているだけの存在だったのではないでしょうか。
静岡にも似たような人がいます。誰でもが知っていて、印象に残っているくせに、誰からも顧みられないホームレス。今日も呉服町の地下道の真ん中に正座して背のはがれた革表紙とおぼしき本を読んでいることでしょう。
いつも同じ本を読んでいます。読んでいる振りをしているだけなのかもしれませんし、一生かかっても究めたいなにかが書かれている本なのかもしれません。遠目に見た感じ、インディアンペーパーを使ってるように見えましたから聖書か辞書ではないかと推測しているのですが…
で、結局遠目に見て通り過ぎています。
フリフリのドレスを着て顔を白塗りした老女ホームレスのメリーさんの周りには、メリーさんに関わった人たちがいました。映画は説得力をもたらす往時の風俗を入り混ぜて、その人たちの証言で構成されています。
そして一番深く接したのがシャンソン歌手の永登元次郎さん。元次郎さんの視点での思いと距離感を大切にした経緯が切々と語られ、最後に正体こそ明かされるものの、結局メリーさんとはなんなのか、分からないままに終わります。
なにが分からないかといえば、この人の頭は実はおかしいんじゃないか、って。
http://www.ne.jp/asahi/shuuichi/photos/merrysannotegami.htm
この山洋子さんの文章で全てが完結しました。
「孤独をひっそりと癒した」なんてフレーズでは収まらない、まったく確約されないお互いの一方的な思いでだけつながることしか許されなかったことが、まさに究極の愛とでも言うべき昇華しきった関係を生み、手をつないで歩くだけの姿をどんなカップルよりも神々しいものとして映し出しています。

縁ある人 万里の道を越えて 引き合うもの 縁なき人 顔をあわせ すべもなくすれ違う(「縁」 by 中島みゆき)

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スネーク・フライト

2006年10月22日 | 丁稚 定吉の映画日記
わてが丁稚の定吉だす。
10月21日公開の「スネーク・フライト」を見て来ました。
逃げ場のない飛行機に無数の毒ヘビ、このアイデア一発だけなのに手抜きなく細部まで、そしてグロテスクに、また爽やかに、特にユーモラスに、丁寧に作りこまれた誠実なB級映画でした。
全編を通じてそれこそ志村後ろ後ろ!ではありませんが、ヘビが来るぞ来るぞ~、ほらキタ Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒(。A。)!!みたいな雰囲気なのですが、ふと気を抜いて油断してると結構ビビります。パイロットが下に落ちて覗き込んだら惨たらしい死体が…と予想してつい油断した瞬間のヘビにはいい年して飛びあがってしまいました。
人間の”敏感なところ”を選んでヘビが食いつく様は痛みがよく伝わってきます。その1秒前まで平和であるがゆえに、なおさらです。にょろにょろグルグル、空を飛んだり、ぶら下がったり、死人の口から出て来たり、およそ人がヘビに抱く全ての恐怖を具現化しています。
その一方で立ち向かう客室乗務員は客を守り、パイロットは命がけで操縦し、捜査官はヘビと戦い、兄は弟を守り、犬は主人に知らせ、それぞれの役割を真摯に果たしている姿は実に清々しく、そこがこの作品をただのパニック劇に終わらせず、味わいを深くする要因の一つです。

とはいえグロなのは確か。人気のない真っ暗な映画館で緊張して見るのもいいですが、DVDなんかが出た後に悪友とわいわいやりながら見るのも面白いと思います。

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天使の卵

2006年10月16日 | 丁稚 定吉の映画日記
わてが丁稚の定吉だす。
10月21日公開の「天使の卵」の試写会を観て来ました。
絵を見ていても飽きないけど、話を見ていると飽きるという不思議な映画でした。
美大浪人の主人公には押しかけ彼女がいて、電車で一目ぼれをした相手が実はその彼女の姉で実は親父の主治医、しかもその旦那は実は絵描きで実は親父と同じ死因。
なんなの、この実は実はの繰り返しの糞設定は?
あげく、たまたま居合せる、ふと見たら現われる、偶然見つかってしまう、なんなの、このご都合展開は?
自分の幸せのためにガンガン行動を起こそう!というバックボーンがあるので、理屈なんかどうでもいいのかもしれないのかもしれませんが。
読んだ事はありませんが、多分原作が変なんだと思います。変な世界があって、その世界の中ではこの変な原作がウケてるんじゃないでしょうか。そこにまともな演出と役者が絡んで、ズレだけが目だってしまったのではないかという気がします。
まさかヒロインの名前が「ハルヒ」だからってだけで変な原作を映画化したんじゃないだろうな??
こっ恥ずかしくて、スクリーンを直視出来ないことが多々ありました。
絵としては清廉潔白質実、正直なところいつの時代のどこを描いているんだろう?と思いました。携帯電話が出て来る場面、俗っぽくてはっとしたくらいです。この背景が小西真奈美を実によく引きたてていました。で、またこの人、年下に好かれるお姉さま要素を満載しているんですよね。
それを直に感じちゃいました。
この試写会、小西真奈美がキタ Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒(。A。)!!
目とか鼻とか耳とか唇とか、パーツから強烈なオーラが出ていました。
あの耳の下敷きになりたい…

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ワールド・トレード・センター

2006年10月08日 | 丁稚 定吉の映画日記
わてが丁稚の定吉だす。
10月7日公開の「ワールド・トレード・センター」を観て来ました。
緻密なリアリティと特に前半の派手な仕掛けで圧倒されるのですが、不思議とカタルシスというものとは無縁の映画でした。
911テロをネタにした映画では「ユナイテッド93」もそうだったのですが、まだ「実話」ベースの美談でしか映画を作れない空気、制約された条件というものをひしひしと感じさせます。
「ジャーヘッド」のレビューでも書いたことですが、やはり戦争を題材にするには15年以上の冷却期間が必要なのでしょう。ならば911の名作映画が出来るにはあと10年、「テロとの戦い」はまだ終わっていないそうですからこの戦いを描いた名作映画が出来るにはどれくらいかかるんでしょうか。
突入する飛行機の影だけ、あるいは2機目の突入があったことを誰も知らない混乱など、日常の中で突然始まる戦争という切り口で冒頭に見事なパニック劇を描き出したことはオリバー・ストーンが巨匠だと十分に証明してくれます。しかしその巨匠にして問題児といえども、国策に逆らうものを作れないという、今のアメリカを体感させられた印象の方が強かったのが正直なところです。それともこの不自由さこそオリバー・ストーンが逆説的に描こうとしたところだったのでしょうか。
コメント (3)
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夜のピクニック

2006年10月01日 | 丁稚 定吉の映画日記
わてが丁稚の定吉だす。
9月30日公開の「夜のピクニック」を観て来ました。
ファンタジー映画としてパーフェクトでした。
誰でも映画を見ている間は18歳に戻れます」
このコピーは嘘ではありませんでした。
この手の映画を見るたびに、「青春の時間が大切だ~」なんて青春の当事者が言うかよ、と嘲笑していましたが、あの頃、口には出さなくてもそんなようなことを思ってたのを思い出しましたよ。
ただ、逆に思い出したくないことも思い出してしまうかもしれません。その危険のある人には強くお薦めはしませんが、でもいいことのほうが少なくても1つでも高校の頃にいいことがあったなら観て欲しい作品です。その1つが戻って来ます。
この映画は見事ではありますが、言うならば枯れた善良な大人が理想とする爽やかな高校生像を描ききった点が見事なのであって、善良ではない人、あるいは大人ではない人が観ても面白くないかもしれません。
もう少し言うならば、リアリティとしての性欲を持ち合わせていない高校生の姿を、リアリティとしての性欲を失ってしまった大人が美談として求める、そのために存在する作品ですから、その世界と相容れない人が少なからずいるだろうことは容易に想像が出来ますし、それはやむを得ないでしょう。
また、リアリティという点でやや難はあるのですが、あれ以上を求めたらドキュメンタリーしかありません。実際にそれなりの距離を歩かせて撮影してもいいとも思いましたが、疲労感がこの作品の持つまったり感を損うんじゃないかとも思います。
トボトボ行列が続く様はいい味でした。リアリティとしてはこれで十分です。
ストーリーはなきも同然です。1日中歩く遠足、その間に近づこうとする一度も口を聞いた事がない腹違いの兄妹、それを恋と勘違いして応援する友人、そして朝にゴール。
上映中、いろんな思いとリンクする時間を過ごす、そんな雰囲気を味わうための映画です。

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フラガール

2006年09月23日 | 丁稚 定吉の映画日記
わてが丁稚の定吉だす。
9月23日公開のフラガールを見てきました。
生まれながらにして失敗する心配もなく育ってきた人が、
自著に内容を1ページも書けないような「再チャレンジ」という言葉を
掲げて総理大臣になろうとする今日この頃に、こんな再チャレンジを
描いた映画に出会えるから世の中ってのは不思議なものです。

炭鉱閉山を見越して、温泉余熱を利用したレジャー施設への業態変換を
めぐる悲喜劇を描いた映画です。
見たこともないどころか、肌の露出に抵抗感があった時代に、炭鉱町の
田舎娘が常磐ハワイアンセンターの売り物のフラダンスに挑む、挑戦モノ映画としては
ありがちではありますが、定番劇を取りまく背景には普遍的な示唆が感じられます。
そこがこの映画がただの爽やか青春感動映画コミカル風味に終わらないところです。

IT産業の隆盛やグローバル化の流れの中で日本の産業が歴史的な転換期を
迎えているような風潮がありますが、戦後でも農業政策やエネルギー政策の
変遷による産業のパラダイム転換の波は何度も訪れています。
そしてその変化に乗れたものがいて、乗れなかったものがいます。
本作の中でも炭鉱にこだわり、解雇されてゆく男たちの姿が描かれます。
石炭が黒いダイヤと呼ばれ、エネルギー増産の国策の中で国を支えているという
誇りを持ち、そして国策の転換で捨てられたときに初めて気付きます、誇りを持つ
自分という人間が求められていたのではなく、単なる安い労働力が必要とされていたのだと。
仕事というものを単なる労働力と賃金の交換だととらえるならば、他の労働との
代替も可能でしょう。再チャレンジもたやすいはずです。
しかし仕事に誇りを持ち、その仕事での生活が生まれつき染み付いていれば、そうではありません。
努力が報われる社会を、とは簡単に言えますが、では定めのように一途に石炭堀りに
かけた命や情熱や努力も報われるんでしょうね?

本作の中で変化に乗れないものの叫びが一言のセリフに集約されています。
「なぜ社会が変わったからといって自分が変わらなければならないのか」
変われず解雇され、次の炭鉱を求めて旅立っていっても、その炭鉱に
明るい未来がないことは明らかです。それがわかっていても炭鉱に向かう男たちの姿は
いうならば、変化する社会や労働者を使い捨てる産業に対するシルミド部隊だとも言えるでしょう。

そういった環境の中で、はじめは無力だった女性たちが手ごたえと自信とを伴って
クローズアップされていきます。
なぜ必死に生きるもの同士で対立をしなければならないのか、なぜ求められるものと
消え行くものが生じるのか、自問自答が絶えることなく続きました。

映画の世界では再チャレンジというものの本質を描いた作品が出ました。
政治の世界ではどんな作品ができるのでしょうか?

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ツヒノスミカ

2006年09月11日 | 丁稚 定吉の映画日記
わてが丁稚の定吉だす。
昨日観た「ジム」の山本起也監督の第2作として9月30日からポレポレ東中野で公開される「ツヒノスミカ」の先行上映に行って来ました。
予告や告知で受けた印象と大きく違う感想を持ちました。
地味だとか淡々だとか静謐だとか余韻だとか、そういったこの作品の奥行きの部分を、
宣伝の前面に持ってくるのは、ちょっと違うんじゃないかと思います。「豆腐とワカメの味噌汁」といえばいいものを、わざわざ「カツオブシの煮汁」と書いているような感じです。
ではこの作品の味噌汁の具にあたる部分がなにかといえば、やっぱりおばあちゃんのキャラクターと行動でしょう。
オープニングで朝食を作るおばあちゃん。リンゴとニンジンのミックスジュースを作り、納豆をかき混ぜます。ジュースを2つのグラスに注ぎ、比べて、多い方を長男の前に置きます。ここで場内に微笑の雰囲気が漂った次の場面、トーストに納豆を塗るおばあちゃん、ここで場内は明らかな笑い。さらにもう1枚のトーストで納豆を挟んで、納豆サンドをリンゴジュースに浸した瞬間、悲鳴も交えて場内爆笑。
噂に聞く、観客の反応のいいアメリカの映画館の雰囲気ってこんな感じですかね?
これだけツカミの強烈な映画を見た事がありません。一気に場内の雰囲気が弛緩します。こうなると場内200席+補助席満員のおばちゃんは黙ってません。
やれ「昔の西武の包み紙」だの「センターのポイントカード」だの「夜店市のうちわ」だの、うるさいのなんのって。でも気持ちはよく分かります。わても連れがいたら「メチャ安のサイトー」って言ってたところです。
そんな賑やかな場内でおばちゃんたちが繰り返していた言葉があります。
90歳のおばあちゃん。もちろん歩きます。しかも杖はつきません。それどころか階段を「飛んで行かなきゃ」と駆け降ります。ふすまを延々と運びます。垣根をスコップで掘り起こします。
そのたびに嘆息とともに繰り返される「達者だねぇ…」。それでいて、年寄り特有のスットボケが同居するキャラクターこそがこの作品の「具」だったのではないでしょうか?
静岡市羽鳥に住む山本監督のおばあちゃんの一人住む家が、長男と同居するために建て替えられることになります。旧宅の荷物を整理するのにあれは捨てられない、これは捨ててはいけないとつぶやくおばあちゃん。
その捨てにくいものを引き取るのがわてらの商売だったりするわけで、商売柄ですが今までの印象的な買取のお客様のことを思い出してしまいました。ロマンス小説を大量に数回に分けて、時に自宅から、時に病院からお売り下さった方。貴重な古い官能小説を大量にお売り下さったこのおばあちゃんに近い年齢のおじいちゃま。写真集とアイドル雑誌とエロ雑誌を大量にお送り下さって、その本の下から「さらば、わが青春の日々よ」というメッセージが出て来た方。この商売はお取引が成立してしまうと縁が切れてしまいますが、幸あることを陰ながらお祈りしています。
閑話休題。
人生と共にしてきたモノに人生を投影して、モノを捨てられることを人生を否定されることとしてとらえる、どうも予告を見る限りそんな印象があります。しかしおばあちゃんはまな板や、おじいちゃんの形見のぐい飲みを捨てようとします。わてはドキュメンタリー映画というものを本気で観たことがないのでなんとも言えませんが、これらの行動は作り手の意図と違った行動なのでしょうか?フィクションではありえないような、整合性のなさがリアリティを裏打ちしていましたが、それでいいものなのでしょうか?
もともとこの作品は山本監督が家族から聞いた話をもとに急遽撮影されたとのこと。なにかを描く意図のもとではなく、なにかを描けそうだという直感の元に成り立っている作品だと知ってしまった後には、どんな能書きも後付けにしか聞こえませんでした。
おばあちゃんの行動はもっと別の事を訴えているような気がしてなりません。

作り手の意図する方向とは違うかもしれませんが、しかし作品自体の持つ魅力と深さには疑うところがありません。
東京での公開の成功を願っています。

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ジム

2006年09月10日 | 丁稚 定吉の映画日記
わてが丁稚の定吉だす。
ちょいと長い昼休みを取ってドキュメンタリー映画「ジム」を観て来ました。
決して商業的にDVD化されることもないだろうこの作品、ただ1回の上映を見逃したら2度と縁のないものとなってしまう、そんな気持ちでした。
静岡出身の山本起也監督の唯一の作品で、実際に自分でも入門したボクシングジムでの人間像を描いたドキュメンタリーです。
ボクシングのドキュメンタリーは、それこそテレビ中継されるタイトル戦を盛り上げるネタとして、あるいは夢を追う若者を描いたドキュメンタリー番組の定番として、決して珍しい題材ではありません。しかしこの作品がそれらの番組と一線を画すのは、無名のボクサーたちが仲間には見せてテレビクルーには見せることはないだろう表情が描かれていることです。
特に試合前、試合後の控室にはなかなか入れるものではありませんし、入れたテレビ映像を観たところで、所詮それはよそ行きの表情でしかないと思わせるものがありました。
全124分、前半はかなり冗長な印象を受けました。ジムの日常の表情、こういった雰囲気をうだうだ描いていくストーリーなき作品かとしばらく思ってたくらいです。もちろん雰囲気を伝えるために動きのない長回しの場面があってもいいでしょう。ただそれ以上に、意味なく長い場面が多すぎます。例えば電車を見送る場面にしても、発車してから視界から消えるまでをリアルタイムに映すメリットはどこにもないと思います。
観る者が緊張感を欠き始めた頃にやっと物語が動き始めます。
プロボクシングの世界はある意味、高校野球の世界に似ています。ごく少数の勝者と圧倒的多数の敗者。試合を重ねていくごとに一人ずつ消えていきます。
そして最後に残った一人、引き分けで新人王になった矢原隆史の、この作品でのラストも引き分けでした。しかし、この試合の後に彼がどうなったかは嫌でも想像が出来るように描かれていました。
しかし矢原って試合前にかき氷の機械を買ってきて会長に注意されたり、気分屋でミラクルを起こしたり、高橋留美子の「1ポンドの福音」を見てるようでした。
この作品の最後の矢原の試合のカメラワークは、見たこともないボクシングの映像でした。普段は目に見えないといってもいい打ち合いを、時にスローでどんなパンチをどうガードしてどんなパンチがどう当たっているかを逐一克明に見せ、時に周りをまったく見せないドアップ選手が感じているであろう熱気と迫力とがむしゃらさを余すところなく伝え、後方の客席からは思わず夢中になったおばちゃんが思わず反応して出した声が聞こえました。

医療が死との戦いであるなら、それは敗北の歴史である、というようなことを言ったのはスーパードクターKですが、夢破れて去ることが敗北であるならば、全ての戦いは敗北への道であり、人生の全ては絶望のタネということになってしまいます。
この作品では、夢とは身のほど知らずの若さが見せる一時の幻想のように、夢破れることを一種の哀愁として描いているように見えます。山本監督自身が夢を追っているはずなのに、なぜこうもネガティブな雰囲気に見せてしまうのか、実に納得のいかないところです。
コメント (1)
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グエムル 漢江の怪物

2006年09月03日 | 丁稚 定吉の映画日記
わてが丁稚の定吉だす。
9月2日公開の「グエムル 漢江の怪物」を観て来ました。
少なくとも観てスッキリはしませんし、怪獣映画の持つカタルシスを求めるならば、それは筋違いです。これは家族愛を描いた人情劇です。
ポン・ジュノ作品の味なのでしょうが、恐いやらおかしいやら悲しいやら、つかみどころがなく、喜怒哀楽の感情をがっちりと握られた挙句に突き放されたような、後を引くような感覚が残りました。
序盤の怪獣登場場面は映画史に残るものと言っていいでしょう。チャチさ、映像の粗さはありますが、効果音を伴わずにあっさりと登場する怪物のリアリティーと言ったら。現実の世界で、ありえないことが起きる時って、えてしてこういうものでしょ。現実の世界では効果音も音楽もありません。脳が理解力を超えてショートして呆然とする、まさにそんな姿がリアリティーをもって描かれています。
クライマックスに向かって雰囲気はやや暗く、やや古臭い印象があります。このあたりは好き嫌いが分かれるところだと思います。
怪物に娘をさらわれたダメ親父と家族が怪物と権力を敵に回しての娘救出劇。
そういう表向きのストーリーとは別に行間というか暗示している内容には深いものがあるように感じました。韓国のIMF恐慌以後の経済事情を風刺しているのはもちろん、なにかあると賄賂を贈り医者と公権力のいうことは聞く旧世代おじいさんの末路、攻撃したがゆえに救えなかった・・・、などなど。
思想性も社会性もないハリウッド作品とは違う、生命のにおいのする韓国映画特有の人間をベースにしたアクション作でした。

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UDON

2006年08月27日 | 丁稚 定吉の映画日記
わてが丁稚の定吉だす。8月26日公開のUDONを観て来ました。
実話を元にした再現ドキュメンタリーと演出過剰とも受け取れるヒューマンドラマの2本が同居した、ややまとまりのない、だからこそ迫力のある作品でした。
まず第1に美味いうどんを食ったことがあるかどうかってのがこの映画の印象を大きく左右しそうです。美味いうどんを食ったことがあって、現在美味いうどんを食えない環境だと、あのうどんは見ているだけでたまりません。
なにより緬が艶やかに光り、その白さは雪どけのせせらぎのように澄み渡り、柔らかさと弾力が奇跡の配分で同居したコシの強さ、そして喉の奥までかきまわされる超スロートキスかと思わせるほどに粘膜を刺激される喉ごし、そんなものまでもが見るだけで伝わってきます。スクリーンにはテレビ画面とは違う独特の質感があります。
しかしそれは美味いうどんを食った経験か、人知を越えた想像力か、そのどちらかの産物です。
前半のうどんブームの話はほぼ実話でしょう。先日たまたま1999年の別冊サライという雑誌でうどん特集をしている記事を読んだのですが、関西うどんや鍋焼きうどんの話がメインで、讃岐うどんは秋田の稲庭うどんなどと並んでローカルうどんの扱いでした。
地元でも当たり前のようにあって意識もされず。しかし意識の下にはうどんがあったはずです。
山で迷って、早朝にやっとたどり着いた民家の戸を叩いたら、うどん屋。しかも早朝から普通に営業している、この異常さはもっと劇的に演出してほしかったなぁ…。あと営業時間でいうと四国の人は普通に思ってるらしいですけど、昼営業と夜営業の間の中休みがないってのも異常なので盛りこんで欲しかったなぁ…。
項半のヒューマンドラマはなんとか泣かせようと演出過剰のきらいがあります。この展開ではどう演出しようと泣ける人は泣けるし、泣けない人は泣かせの理由がそもそも分からないと思います。
夢を追い夢破れ、ソウルフードに触れて自己を取り戻す。漫画の「美味しんぼ」で何回となく描かれる展開です。「美味しんぼ」を読んでいないと「これで更正して真面目な人生を送るんだな、安っぽいドラマだな」と思ってしまうところです。
夢は一種の麻薬で、そう簡単に諦められるものではありません。その諦める覚悟を姉は問います。一方で父はここに留まるな、と。足元を見つめることと、夢を追いつづけること、それは逆に見れば、夢に逃げるのか、ソウルフード(=故郷)に溺れるのかの選択でもあります。その究極の選択の結果、ガンコに一つの道を貫き通す親父の生き方とリンクしてるわけで、そこがまたいいんです。
そして最後に。
エンドテロップで席を立つと、マズイ!
ソウルを昇華させ夢の具現化を目指す姿こそがこの作品の最大のテーマですから。
コメント (4)
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