水俣国際会議、あれから19年…

2011年05月03日 01時01分33秒 | Weblog

 朝刊を読むと、胎児性水俣病の男性と取材を通して関わってきた毎日新聞記者さんのことが特集記事で掲載されていた。西日本版だけなんだろうか、それとも九州版のみ? 全国版であってほしい。 水俣と普段、関わりを持たない人達にこそ、読んで欲しい。 そして、出身地は水俣です、と今も堂々と言えない人達にこそ考えて欲しい…そんな記事だった。

 ただの羅列日記で「読みづらい」よ。だから読まなくてもいいので。じゃぁ、なんでアップするの?って言われそう。御免なさい。覚えておきたいから、ただ、それだけかな・・・この記事も、一つ前の記事も。

 

 重度の身体障害者や胎児性水俣病の方は 殆ど御自分で身体を動かすことが出来ず、話すことも余り出来ない、だからって心が無いわけでも一方的に介助を提供される側だというわけではない、そのことに記者になって3年目の駆けだしの頃に、胎児性水俣病の方と関わりを持つようになって初めて気がついた・・・

 こんな風に書かれた手記。 とても正直な記者さんだなと思った。「最初の出逢い」は誰もが似たようなものではないか・・・と。自分もそうだった。 時々 街中でちらっと見かける程度の、身体にハンディを持っておられる人々。 初めて近くで手を取るように接したのは中学生の時だった。 中学校(北九州)の体育祭に彼らが招かれたからだ。 その時の私の心の内、8割は「かわいそう」という感情が占めていた。 その一方で「すごいな」とも思った。何が凄いのだろう。 辛そうなのに…それでも生き続ける、生きようと懸命な生命力? 自分だったら耐えられないかも…とも思った。 何か言わなきゃ…でも、何を喋ったらいいんだろう・・・迷いながら、話しかけてみる・・・・すると懸命に目で追ってくれる。 視点は合っていないのに。 なんだか、心の奥がドクン・・・となった。 「夢乃ちゃん、一緒に走ろう。 見ていてね」 自分が書いた短編小説の中のあの台詞は、自分がスタートラインにつくときに、実際に思ったことだった・・・・。

 話を記者さんの記事に戻す。 彼も最初は私と同じように思ったんだ。でも、「胎児性水俣病の男性が御自分の手で撮影した写真展を今度、開かれる国際会議の際に開きたいと言っている」 と、記者さんが集まった人々に協力を求めたとき、皆、反対したそうだ。 写真展なんて、開きたいと思っちゃいないよ・・・騙されているんじゃないか、みたいに。 その時、胎児性水俣病の方は、「うおおおお~~~!」と叫んだらしい。 (自分は写真展を開きたいんだ!)・・・と。 当然だが身体は不自由でも 言葉が上手く話せなくても 「意思」があり「感情」がある。 何も分からない訳じゃない。そして実現したという。写真展・・・。 私もあの国際会議を会場で聴いている。祖父と二人で。 そう、19年前だった。 私が大学生の頃。 学割を発行してほしいというと、大学は渋った。 「平日なのに講義に出ずに、水俣へ行くのは認めない」と。 それで日帰りだった。 だから認められたの。 そのくらい行きたい国際会議だった。 だから覚えている。 飛び入りで水俣病患者の方達が 「訴えて」いたのも聴いている。 パネルディスカッションが始まった後だった筈。

 記事を読みながら、さまざまな記憶を辿った。 あぁ、あの時の・・・あの時代の・・・その直後、この記者さんは胃の手術を受け、命も危なかったらしい。ストレスが原因。 周囲の反対もあり、水俣病患者さん達の取材は出来なくなったという。 あれから19年の空白。 そして今も水俣病そのものがなくなってしまった訳ではない。 海は よみがえったとしても・・・。

 私にとっての水俣病はどうだろう? 母は私が「夏休みは水俣へ遊びに行く」 と小学校の担任の先生に報告するのを嫌がった。

「水俣といってはだめ。 熊本って言いなさい」 「どうして?」 不思議だった。 もう少し大きくなって(高学年)水俣病のことは知った。 それでも「隠そう」という親の心理は理解できなかった。 いいじゃない、水俣って言っても。 全く言うことを聴かず、「水俣へ帰る」と言っていた。 意地になっていたよね。 里帰り出産で、生まれてから1カ月、水俣に居ただけ。 すぐ、父の実家、大分県の いなかで暮らしている。 父の仕事の都合で北九州の社宅に引っ越してきた訳で、(幼児ながら嫌いだった、この賑やかしい街が) ほんとは福岡出身だと言ってもいいんだよね。 でも、水俣といいたがらない母に反発するように、水俣や熊本にこだわった気がする。 幼い心が「へんだ」と感知したからだろう。 そう思うと親の態度だけが子供に影響を与える訳じゃないみたい。 親の態度すべてを引きずらない、自由意思。 ちょっとだけ・・・ほっとする。

 国際会議では、熊本大学(当時)の原田先生が、 「水俣出身の社会学者が出てきて欲しい」と言った。 これからは医学の方面のみならず、社会学的に考察する必要性が高い、といったような事をおっしゃったの。 社会学! 漠然と「英語の為の英語ではなく、他に専門を持ちたい。大学院レベルで留学したい。でも何を? 国際貢献やアジアに興味があるならアジア学? 社会学?」 ラミール達とそう話していた頃だった。 アジア学に傾いていた当時の私を 原田先生のひとことが決意させた。 「水俣出身の私。 オーストラリアの大学院で社会学を専攻する!」 そこまでは良かった。 卒業し、ワールドビジョン、オーストラリアを通じてスポンサーチャイルドとの交流を楽しんだ。 ここまでは思い描いた通りだった。 でも、この先、興味の対象は永住権にシフトした。 だから、God's will でこうなったのね。 ゆうちゃん、お誕生日おめでとう☆ 

 母はもはや、私に「水俣出身だと言わないように」とも、「先生には熊本へ行くと言いなさい」とも言わない。 世間の偏見がそう言わせたのだろうし、今では反感も持たない。誰が何といおうと、物心着いた頃から水俣が大好きだった。 国際会議の途中、休憩時間があって外へ出ると、カリフォルニア大のアメリカ人教授とかカナダの教授が話していた。 思わず駆けより、声をかけた私。 英語で喋ることが楽しかった。 教授といえど、陽気な人達。 近寄りがたいところなんて、全く無いのが海外出身者。 おじいちゃんったら、急に帽子を取って、頭を撫でながら、「光っとるで!」と言い、がはは~と笑った。 教授達も大笑いする。 この後、夜にあるパーティには参加するのか? と聞かれ、出来る訳がない、関係者では無いので、と答えると、自分が インバイトするよ(招待)とまで言ってくれた。 丁寧に断ったけれど。 休憩時間が終わり、席へ戻ると、祖父の隣に座っていた日本人男性が、「大学教授ですか? さっき、外国の先生と英語で話していらっしゃったから」と祖父に話しかけてきた。 これには祖父も驚き、

「いやぁ、ワシは ただの人で・・・こっちは孫で、大学生です」と照れていた。 そんな思い出の水俣国際会議。 当時はフセインの隣国侵攻、そして湾岸戦争。 Stop the war!!! と生協を通じてブッシュに英語で手紙を書いた(本人が読む訳ないのだろうけど) 

 あれから19年… 何が変わったのだろう? 私にとっての水俣は? 世界情勢は? 

 変わらないもの・・・故郷に対する愛着。 そして Stop the war から 合言葉は ストップ ザ テロリズム…だ。 

 ソトン…暴走しないでね。

 ラミール…アメリカはワールドポリスだと思ってる。彼らにはそうするしかない。気の毒だ、と言っていたね。あの頃。あの頃は私、まだ経験が乏しすぎた。 あれから色々な国の人に会ったよ。いろんな体験もした。 だから・・・今こそ会話したいね。夜が明けるまで・・・。もしも元気でいたら、今の世の中を貴方はどう見るのだろう・・・?

 もうすぐ夜が明ける・・・あとで話そう♪ おやすみ☆

 


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