話の種

新聞やテレビ、雑誌などで、興味深かった記事や内容についての備忘録、考察、感想

日本の労働生産性はなぜ低いのか

2024-05-31 01:33:06 | 話の種

「日本の労働生産性はなぜ低いのか」


最近発表された日本の大企業の好決算とその問題点については、これ迄に何回かに分けて述べてきたが、ここではよく言われる労働生産性について考えてみたいと思う。

日本の労働生産性が低いということはよく言われており、現にOECDの調査によると2021年の日本の労働生産性は下記のようになっている。

・「1時間当たり労働生産性」:49.9ドルで加盟38カ国中27位。(1970年以降、最低順位)
・「1人当たり労働生産性」:81,510ドルで加盟38カ国中29位。(1970年以降、最低順位)
(これはポーランド、ハンガリーといった東欧諸国や、ニュージーランド、ポルトガルとほぼ同水準で、西欧諸国では労働生産性が比較的低い英国やスペインより2割近く低い。)
・「製造業の労働生産性」:92,993ドルで加盟主要35カ国中18位。
(これはフランス、韓国とほぼ同水準で米国の6割弱。2000年にはOECD諸国でもトップだったが、2000年代に入り順位が低落するようになり、2015年以降は16~19位で推移している。)

「労働生産性とは」(Productivity)

労働生産性:「労働力や設備などを投入したことで得られる成果量の割合」(一般的な定義)
      「生産諸要素の有効利用の度合い」(ヨーロッパ生産性本部による定義)
(*生産諸要素とは機械設備・土地・建物・エネルギー・原材料など、生産に必要なもののこと)

労働生産性は、「労働者1人あたり、又は1時間あたりに生産できる成果を数値で示したもの。」
(*一般的には「労働者1人に対しての付加価値額」を労働生産性とするケースが多い。)

*労働生産性の種類

「物的労働生産性」
・生産量の効率性を数値化(産出量の具体例としては総生産額(売上高))
・労働者1人が働いた成果に対する金額や生産量のこと。
(例えば労働者1人が働いたときに1,000個の製品を生産する現場よりも、1,500個の製品を生産できる現場のほうが物的労働生産性は高いといえる。)

「付加価値労働生産性」
・付加価値に対する効率性を数値化(産出量は、総生産額から原材料や外注費などを引いた金額)
・企業が生産した成果に対する金銭的な「価値」を示すもの。
(例えば製造業では、外部から仕入れた原材料を加工して新たなモノを作り販売する。これらの仕入れや加工にかかった金額と販売額の差を「付加価値」と考え、どれくらい付加価値を生み出しているかの効率を計るもの。)

*労働生産性を求める際の計算式
 労働生産性 = 産出量(output) / 投入した経営資源(input)
(産出量は生産量や成果(付加価値額)、経営資源は労働量(労働力や時間)のこと)

もう少し具体的に言うと、

物的労働生産性の計算式(「生産量」を成果と考える)
・物的労働生産性=生産量÷労働量(労働者数、又は労働者数×労働時間)
計算例:従業員数10人、各従業員の労働時間8時間、商品の総生産数量400個
・労働者1人あたりの物的労働生産性:生産量400個を投入した労働量(10人)で除して40個となる。
・労働時間1時間あたりの物的労働生産性:生産量400個を投入した労働量(10人×8時間)で除して5個となる。

付加価値労働生産性の計算式(「付加価値額」を成果と考える)
・付加価値労働生産性=付加価値額÷労働量(労働者数、又は労働者数×労働時間)
計算例:従業員数4人、各従業員の労働時間5時間、商品の売上額100万円、原材料費など諸経費合計60万円
・労働者1人あたりの付加価値労働生産性:付加価値額(100万円-60万円)を投入した労働量(4人)で除して10万円となる。
・労働時間1時間あたりの付加価値労働生産性:付加価値額(100万円-60万円)を投入した労働量(4人×5時間)で除して2万円となる。

*生産性向上と業務効率化との違い
「生産性向上」と「業務効率化」の主な違いは対象範囲

業務効率化とは、業務の「無理・無駄・ムラ」をなくして効率よく業務を進められるようにすること。
(業務プロセスの中で効率の悪い部分を省くことが業務効率化の具体例)
生産性向上とは、生産性を高めて企業が効率よく利益を上げられるようにすること。
(業務効率化は、生産性向上を実現するためのひとつの手段)

*企業規模別/業種別の労働生産性

企業規模別:
一般的に、大企業の方が中小企業と比べて労働生産性は高い傾向にある。
しかし、業種によって企業規模別の労働生産性には差があり、特に情報通信業や製造業などの機械化が進んでいる業種では顕著に差が見られる。
一方多くの人手を必要とするサービス業などの業種は、企業規模による大幅な差は発生していない。

業種別:
金融業や不動産業などは労働生産性が比較的高く出やすい。これは少人数でも多くの利益を生み出しやすい産業構造となっているため。
一方サービス業などの業種は多くの人手を要するため、労働生産性が低くなりがちな傾向にある。


「日本の労働生産性が低い理由」

これについては種々説明があるが、当方が納得できるもの及び考えついたものを記しておく。

・雇用形態
(年功序列と終身雇用)
給与体系は成果によるものではないので、何もしていなくても給料は支払われる。また正社員であれば身分も保証されているので、ある程度の年齢になり先が見えてくると、あまり仕事をしない或いは意欲的に働かない人も出てくる。その結果全体としての成果は同じでも人数で割った労働生産性は低下することになる。(但しこの制度自体には利点もあるが)

(新卒採用)
日本では新卒採用が大半で、社内教育をしてから社員を戦力としている。従ってこの分、時間と費用がかかるので生産性は落ちることになる。(この制度にも利点もあるが)
(米国などでは即戦力となる中途採用が一般的なので当然労働生産性は高い。)

・長時間労働
従来から日本では長時間労働をするということは、それだけ仕事をしていると見られる傾向がある。
また残業代が生活費の一部になっているということもある。
更に上司が帰らなければ帰れないという悪しき風潮(意識)もあり、これらが労働生産性を低下させる原因にもなっている。

・社内組織・制度
稟議書や報告書・会議などが多いことも業務の効率化を妨げる原因となっている。
(海外ではトップに伝わるスピードが早く、またトップの決断も早い。また決済が担当者個人の裁量に任されている部分も多い。)

・業務のアナログ管理
給与計算や書面の発行から郵送、各種申請や承認など、事務作業やデータ管理にかかわる業務を手作業で行っているところも多い。未だにFAXを使用しているとか、ハンコ文化などもその例。時間と労力の無駄となっている。

・客先回り
日本では何かにつけて体面形式を重視する傾向がある。顧客開拓のための訪問もあるが、商談は別として、さして用事がなくとも御機嫌伺などで客先に出向くことも多い。「生保レディ」と呼ばれる保険の外交員などは大量の人員がおり日々客先を訪問しているが、その成果は訪問回数・時間に見合ったものとは思えない。

*この他に日本の労働生産性が低い理由は中小企業の存在にあるとの意見もある。
日本は欧米諸国に比べて中小企業が多く生産効率を妨げているとの意見だが、これについてはそのような面もあるにせよ、一方自動車産業などに顕著に見られるように、これらの産業は中小企業の存在によって成り立っており、それにもかかわらず大企業が中小企業の利益を圧迫し、生産性を低くしているという側面も見逃してはならない。(日本の中小企業の生産技術の高さはよく知られているところ。)

*労働生産性は、収益の減少以外に、ひとつの業務に携わる人数が多くなったり、作業する時間が増えたりすれば、低くなる。欧米の先進国と比べると、同じ価値を生み出すために日本で投入されている労働者数や労働時間は多いため、結果として労働生産性は低くなっている。


労働生産性を向上させるには、「成果主義」を取り入れるとか「能力給」にするとか、或いは「チーム作業」の見直しとかいろいろと言われているが、私はこれらについては賛成できないところがある。
(欧米はこのスタイルだから労働生産性が高いのは当然で、逆に日本が低いのも当然である。)
私が成果主義に反対の理由については「年功序列と成果主義」のところで述べているが、このような欧米流の合理主義は日本人には向いていないと思われる。
(日本が総中流社会から格差社会になってしまたのも、経済状況の問題は別として、このことに起因するところが大きい。)
勿論、日本経済を発展させ国民全体の所得を向上させるには、生産性を高めるということは必要不可欠であり、このこと自体を否定するものではない。
しかしその方法は、我々国民性に合ったもので、納得できるものでなければならないというのが私の考えである。

 

(追記)

言い忘れたが、日本企業の生産性が低いのは、大企業の内部留保の貯め込み過ぎということも忘れてはならない。内部留保自体は生産性に全く寄与しない。この資金を「設備投資」「人材育成」「新規事業開発」などに投資されることによって、はじめて生産性向上に寄与する。(その可能性が出てくるということ。)

如何に資金が効率よく使われいるのかは、B/S(バランスシート)のROE(自己資本利益率)を見ると分かる。
日本企業のROEは国際比較でみるとかなり低い。東証が2022年7月に公表した資料によると、ROE15%以上の企業の割合は、日本が19%であるのに対して、米国が61%、欧州が49%となっている。
これは日本企業の資本効率が悪いということで、生産性を下げる原因にもなっている。

 

 

コメント

人手不足なのになぜ賃金が上がらないのか

2024-05-31 01:10:00 | 話の種

「人手不足なのになぜ賃金が上がらないのか」


日本の賃金がこれ迄上がらなかった理由については、企業(特に大企業)が内部留保として利益を貯め込んで従業員に還元してこなかった、一方中小企業は大企業からの値下げ圧力により賃金を上げる余裕はなく、非正規従業員・パートなどは立場の弱さから賃金は抑えられたままになっているなど、これ迄に述べてきた通りだが、今年になってようやく大企業を中心に改善の動きが見られるようになり、飲食業界なども人手不足が限界に達し、賃上げをせざるを得なくなっている。

しかし未だに多くの業界では人手不足が言われているにもかかわらず、相変わらず賃金は伸び悩んでいる。人手不足なら賃金を上げれば良いのではと思うがそうはならず、中でも注目されるのは、「病院の勤務医や看護師などの医療従事者」「介護士や保育士などの福祉事業従事者」「バス・タクシーなどの公共交通機関の運転手」「トラック輸送や宅配などの物流業従事者」などで、激務にもかかわらず賃金が安い業態ほど、この傾向が強いこと。

(*但し、医師、看護師、介護福祉士(単なる介護士ではなく)、保育士などは国家資格が必要という制度の問題などもあり、他の業種とは事情が異なり、以下の説明とは異なる面もあるので、例外としておくが。)

通常であれば需給の法則で、人手不足になれば賃金も上がるはずだが、そうはなっておらず不思議でならない。

そこで調べてみたところ、

「医療」は、国(厚生労働大臣)が診療報酬(事業者への点数制度による支払額)を定めている。
「介護」は、国(厚生労働大臣)が介護報酬(事業者への支給限度額)を決めている。
「バス」は事業者が上限運賃を定めるが(下限はその8割)、国(国土交通大臣)の認可が必要。
「タクシー」は国(運輸局)が運賃の上限/下限を認定し、その範囲内で事業者からの申請を認可する。

このように国がサービス価格を設定している業態は、事業者もその範囲内でしか従業員への給料は払えないということで、賃金が上がらない理由も分かり易い。(但し、分配の問題はあるが。)

では他の分野では何故賃金が上がらないのだろうか。

これについては、失われた30年と言われるように長期のデフレ経済下にあって、日本の消費者或いはサービスの利用者に於いては値上げへの抵抗感はかなり強く、供給側としたら値上げをしたら需要が落ちるのではとの不安があること、また日本の経営者には賃金は一度上げたら下げるのは難しいとの認識があるので、なかなか賃上げには踏み切れないでいると言うことが挙げられる。

更に、これらの業種は中小企業が多く(大手の下請けなども含め)、構造的な問題を抱えているということも考えられる。

例えば、2024年問題(時間外労働の上限規制)で話題となった物流業界である。
トラック運送や宅配ドライバーの過酷な労働環境(労働条件・勤務形態)は常々問題視されていたが、今回の長時間労働の禁止により、人手不足の問題が一気に深刻化した。
当初述べたように、それならば賃金を上げれば良いのではと思うが、これがなかなかそうはならない。

まずは荷主がそう簡単には配送料の値上げには応じないということ。
そして労働環境の悪さからそう簡単には人が集まらないということ。

*他の業種でも、人手不足に陥っているところは「過酷な労働状況」「労働条件の悪さ(賃金を含む)」がネックとなっているということは共通して言えることだと思う。
(*医療、介護などの資格を要する業種は、事業者がそこで働く人たちの使命感に甘えているところはないだろうか。)


ではなぜこれら業種の従業員がエッセンシャルワーカー(必要不可欠な労働者)とされているにもかかわらず、低処遇のまま安く使われるようになってしまったのだろうか。

田中洋子氏(筑波大学教授)は次のように述べている。(情報労連 2024.01-02)

[低処遇の背景]

(問題の根底にあるのは)構造改革や行政改革、「官から民へ」「小さな政府」という新自由主義的な政策の存在です。

こうした新自由主義的なイデオロギーに基づく経済とは、人件費をできる限りカットして、企業の都合に合わせて人を安く使うほど、企業の業績が良くなり、競争力が高まるとする考え方です。
(*当方としては、このように言い切るのはやや決めつけ過ぎではとも思うが。)
こうした考え方が1990年代から30年間で日本中に広がった結果、エッセンシャルワーカーの低賃金構造がもたらされた、というのが研究によって見えてきたことでした。

[コストカットの拡大]

それらは次のような形で社会に影響を及ぼしました。

一つ目は、コストダウンのための女性や若者を中心とした非正規雇用の活用です。1980年代まで、パート・アルバイトなどの非正規雇用は、家計補助型の働き方であり、社会問題化していませんでした。しかし、バブル崩壊後に男性正社員の雇用・給与が不安定化すると、これらは生計維持型に変化していきます。それでも企業はコストカットのため低賃金の非正規雇用を積極的に活用し続けています。

二つ目が、公共サービスの削減です。「官から民へ」の大合唱の下で、公務員の数や予算は劇的に減らされ、公共サービスは圧力にさらされました。その結果、公務の現場では大きく非正規化が進んでいます。特に、多くの専門職の人たちが非正規に追いやられました。その処遇は低く、フルタイムで働いても年収が200万円に届くか届かないかです。

三つ目は、請負や業務委託の拡大です。日本にはバブル崩壊前にも下請け構造はありました。しかし1990年代以降は、下請け企業への配慮がなくなり、買い叩けるだけ叩く、応えられなければ安い業者、海外の業者に出すということが広く行われるようになりました。その結果、低価格競争が進み、ピラミッド構造の中での「中抜き」も進みました。それが、実際に現場を担って働いている人たちの低賃金を生みだしました。

これら三つの出来事は、共通した考え方の下で進んできました。それがコストカットと市場競争に任せるという新自由主義的な考え方です。これらが政府や企業の方針となり、それが国民にも受け入れられていったことで、日本の低賃金構造が生まれたのだといえます。」

(参考)

「新自由主義とは」(東証マネ部 2023.11.19)

「新自由主義とは、政府の経済への介入を抑え、自由競争によって経済の効率化や発展を実現すべきという考えを指します。英国のサッチャリズムや、レーガノミクスが具体例です。

日本の新自由主義の例
日本でも、新自由主義に基づく政策がいくつか存在します。代表的な例が、以下の2つです。

・中曽根康弘首相による三公社の民営化
・小泉純一郎首相による聖域なき構造改革

日本で2人の首相が実施した政策について、詳しく解説します。

中曽根康弘首相による三公社の民営化
中曽根康弘は、日本の第71〜第73代内閣総理大臣(1982-1987)です。中曽根元首相は、サッチャー元首相やレーガン元大統領と同時期に、新自由主義に基づく政策を進めました。

国鉄(現JR)・電電公社(現NTT)・日本専売公社(現JT)の三公社の民営化を実現したことが、中曽根元首相が実施した政策における具体例のひとつです。

小泉純一郎首相による聖域なき構造改革
小泉純一郎は、日本の第87〜第89代内閣総理大臣(2001-2006)です。

小泉元首相は聖域なき構造改革を掲げ、不良債権処理の加速化、規制緩和、歳出の見直しなどを進めました。また、郵政民営化を実現したことも、聖域なき構造改革のひとつです。

その一方で、聖域なき構造改革が格差拡大につながったとの批判もあります。」


以上は低賃金構造の理由を説明したものだが、では人手不足の原因は何なのだろうか。

まず言えるのは「少子高齢化」。
少子化は言うまでもなく、賃金が上がらないので子供を育てる余裕がなく、先行きにも不安があるため。
高齢化は定年退職などによる労働者数の減少。(生活防衛或いは生きがいのために働く高齢者もいるが、働き場所・機会が限られていることもあり、絶対数は減っている。)

次は「需要と供給のミスマッチ」。
若者たちは人手不足を背景に割の合わない職場は敬遠するようになり、それがこれら過酷な労働環境の業種での人手不足を招いていると考えられる。
(更に先行き不安により、若者たちは「資格取得」「キャリアアップ」を目指すようになり、これら人手不足に陥っている業種では、それらは望めないということもあると思われる。)

そして「円安の影響」。
円安により日本での賃金が相対的に安くなったことから、日本で働く魅力が無くなり、海外からの出稼ぎ労働者の流入が減少傾向にあること。(他方日本を出て海外で働く人たちは増えている。)

*(参考)朝日新聞(5月30日)の記事。
(超円安時代)
「日本→母国、送金の目減り直撃」
「稼げる」一転「家族の生活に足りず」
「内定辞退し他国へ 人材確保に暗雲」

「記録的な円安が続く中、日本で働き、故郷に仕送りをする外国人が苦境に立たされている。円で受け取った給与を母国の通貨に替えると、以前より大きく減ってしまうためだ。日本が働く場として選ばれず、「働き手の確保が難しくなってくる」と懸念の声が上がっている。」


人手不足により、経営者は従業員の賃上げの代わりに、様々な形での合理化を行っており、これも賃金が上がらない理由の一つと言える。

人手不足及び合理化が私たちの生活にどのような影響を及ぼしているかというと、

例えば、
・介護は施設や介護士不足で家族による自宅介護が増え、働きに行けない人も出てきている。
・保育は施設や保育士不足で、母親が勤めを断念するケースもある。
・バスは路線廃止や減便などを行っている。
・タクシーは国がライドシェアなるものの導入の検討を始めた。
・スーパーのレジなどは客に操作をさせるようにしている。
・飲食店では客にタブレットで注文させるようにしている。
・電話での問い合わせなどに対する応対は自動音声となっている。

勿論生産性の向上のためには合理化も必要だが、一方でこれらはどれも利用者に不便をもたらしたり、労務を転嫁したりしたものといえる。つまり、事業者は賃上げの代わりに、我々利用者に人手不足の穴埋めを押し付けていることになる。
(デジタル対応については、若い人たちは抵抗がなくむしろ便利になったと言う人たちもいるが。)
人手不足なのに賃金が上がらないということは、単にそこで働く人達だけの問題ではなく、サービスを受ける我々にもそのしわ寄せが来ているということで、困ったものである。


(参考)

冒頭で述べた、企業収益が従業員に還元されていないということについて、朝日新聞(5月24日)に下記報道があった。(これも賃金が上がらない理由の一つ)

「物価上昇、賃金に回らず 昨年度GDP分析、大半は企業収益に」
「2023年度に相次いだ値上げによる物価上昇は、多くが企業収益となり、賃上げにはほとんど回っていないことがわかった。」(中略)
「24年3月期決算で、上場企業の純利益の総額は3年連続で過去最高となり、値上げが利益を押し上げた企業も多かった。値上がりした分が賃金にどう回ったのかをGDPデフレーターから計算したところ、23年度の上昇分(4.1%)のうち、賃上げ要因は0.3%分にとどまった。割合では1割に満たない。」(以下略)


(参考)

朝日新聞の声欄の投稿。

・「人手不足 賃上げで解決できる」(会社員(35)5月22日)

「宅配の委託会社の正社員で働いている。委託元である荷主の正社員より荷物量は2倍、配達件数も2倍弱だが給料は3割低い。委託元では賃上げがあったが、我々には全くない。同じ仕事で給料も安く、逆に荷量と件数は多く、割に合わない。
委託料が上がらない限り、我々の給料は永遠に上がることはない。今まで数え切れないほど、社員が辞めた。全ては仕事量に対する安月給が原因である。給料が上がらない限り退職者は減らないのに、なぜかたくなに賃金を上げないのか。嫌なら辞めればよい、代わりはいくらでもいると言われているようなものだと思ってしまう。
退職者が毎月のようにいるため、有給休暇すら取れず、ストレスと不満がたまる。授業参観、子どものインフルエンザでさえ休ませてもらえない。自分が病気になった時でも出社をしてくれと言われたくらいだ。
賃金格差が生み出す、人手不足。退職者が出るたびそのしわ寄せは社員にくる。物価と食料は値上がりするが、唯一給料は上がらない不可解な現状である。全ては賃上げ、賃金格差是正が、問題を解決すると私は思う。」

・「物価とともに最低賃金も上げて」(成年後見人(51)5月22日)

「私は成年後見人の仕事をしていますが、それだけでは生活費が足りないので、要介護認定調査のアルバイトをしています。今年の春、大手企業での賃上げが相次いだというニュースを見て、もしかしたら私のアルバイト先でも、という淡い期待を持ちましたが、全く変わりませんでした。
介護業界は介護報酬(委託事業は委託料)に左右されるので、企業の賃上げとは無関係ということになるのでしょうが、他にも賃上げしづらい業界は多いと思います。
現状では個人が収入を増やす対策としてできることは、単純に仕事量を増やすほかはなく、しかし一人でこなせる仕事量には限界があり、これ以上は厳しい状況です。
物価高は今後も続くでしょうから、物価の上昇とともに賃金が上がるよう、大企業だけでなく非正規やアルバイトの最低賃金も大幅に上げてほしいと切に願っています。」

 

コメント

政治と金について

2024-05-21 12:36:18 | 話の種

「政治と金について」

このテーマは昔からのもので、様々な問題が指摘されているが、ここではそれを一つ一つ取り上げて論ずることはしない。

ただ、このところ連日マスコミに取り上げられている、自民党派閥の裏金問題、政治改革の問題に関連して、朝日新聞の政治改革2024と題した次のような記事(5月12日付)が目を引いたので、ここに記載しておく。

「選挙対策、かさむ出費 地元会合1万円×数百回、風評恐れ減らせず」

「自民党派閥の裏金事件を受け、政治資金の規制強化の議論が本格化している。
しかし、問題の根本は、多額のカネがかかる政治活動にあるとされる。
特に出費がかさむのが選挙対策。一部の有権者にはびこる悪弊と議員心理から、会費がふくらむ実態があるという。」

「年次総会へのご招待」。毎年、年末年始の時期になると、こんな招待状が、多数の業界団体から国会議員の事務所に届くようである。
東京選出の自民議員の元秘書は「議員が出席する団体の会合は、この時期1カ月だけで400件を超える」と話し、招待状の多くは金額の記載はないが、議員側は「会費1万円」を支払うのが相場とのことで、そのため、年末年始だけで会費の総額は数百万円に膨れ上がる。
勿論、出席しなかったり、会費なるものを減らしたりすればよいのだが、選挙での悪影響を考えればそれは出来ないとのこと。

そしてこのようなケースだけでなく、有権者側が議員側に金品を要求するケースも少なくないとのことで、次のような例を挙げている。

「東京選出の野党議員は数年前、地元の祭りにカネも酒も持たずに参加した。すると、主催者側の住民から「何も持ってこなかったのか」とどやされた。
公職選挙法では、政治家が選挙区内の人や団体に対して、寄付をすることを一切禁止している。
そのため、この議員は「持ってきたら違法になる」と説明したが、「あなたの妻の名義で持ってくれば問題ない」と言い返された。「そういうやり方で金品を持ってくる人がいるんだ」と思ったが、議員は渡さなかった。」

「東京選出の別の衆院議員の元秘書は、10年以上前、地元の町内会長にあいさつした際、「酒くらいもってこい」と露骨に要求された。渡せば違法だが、渡さなければ「けちだ」と風評が広まり、支持を失いかねない。元秘書は、後日、日本酒の一升瓶2本を持って町内会長を再び訪れた。
日本酒代は数千円だったが、違法行為のため事務所の経費とすることはできない。元秘書は自腹で支払った。あいさつの場や会合で物品を要求されるケースは「それなりにあった」。1件あたり数千円の日本酒でも、積み重なれば「100万円単位の金額になる」。元秘書は「事務所に裏金があれば、日本酒代はそこから出すことができ、自腹を切らないで済む」と話す。]

これらは私のように東京に住んでいて政治家とも全くつながりのない人間にとっては縁のない話で、多くの人がそうだろうと思うが、地域、中でも地方に行けばよく見られることかもしれない。
そして選挙ともなれば人とのつながりで、政党、政策に関係なく投票してしまうケースも多いかと思う。(現に私自身も知人が衆議院選挙に立候補したとき、意に反した政党だったが、一回だけその人に投票したことがあった。)

つまり何を言いたいかと言うと、政治改革の問題は勿論政治家たち本人の対応・行動の問題で、その責任に於いて対処すべきものだが、一方この問題の根底には政治家に対する有権者の態度・行動の問題もあり、いくら我々が口で政治、政治家がどうのこうのと批判をしていても、有権者の対応及び投票行動が変わらなければ、根本的な問題解決にはならのではと言うこと。(勿論政治家たち自身が大いに反省し変わることが出来れば良いが、彼らの性格や資質の問題もあり、現在の政治資金規正法の改正問題の議論を見ていてもこれは期待できないと思うが、果たしてどうだろうか。)

(追記)

本日のTV朝日「ワイドスクランブル」で、「政治に金がかかるということは選挙に金がかかるということ」とのコメントがあった。
そこで思い出したのは昔「この程度の国民ならこの程度の政治」と言った政治家がいたこと。
(ネットで確認したところ、警視総監から法務大臣になった秦野章氏で、この人は他にも「政治家に徳目を求めるのは八百屋で魚をくれというのに等しい」などの発言をしており物議を醸している。)

更に検索を続けたところ、松下幸之助氏もPHP誌で次のように述べている。
「国民が政治を嘲笑しているあいだは嘲笑いに値する政治しか行なわれない」
「民主主義国家においては、国民はその程度に応じた政府しかもちえない」

そしてこの記事の筆者は次のように述べている。(谷口全平(元PHP研究所取締役、現客員=当時))
(松下幸之助は)国民一人ひとりがもっと自分のこととして政治に関心を寄せなければならないと呼びかけたが、家庭においても学校においても政治の大切さを啓発するとともに、何が正しいか、何が国民全体にとって利益となるのかを見極める眼を育てる教育が大切だと訴えたのである。

「松下幸之助.com」
https://konosuke-matsushita.com/monthly/2016/12/seiji4.php

 

コメント

「先生」という呼称について

2024-05-20 18:47:25 | 話の種

「先生」という呼称について

少し前の話になるが、朝日新聞の声欄に下記記事があった。(2024年3月14日=要旨)

「自分を「先生」と呼ぶのやめよう」(元中学校教員(63))

「テレビで教師役の俳優が「先生は……」と生徒に語り出した。学校現場では当たり前のことかもしれないが、私は違和感を覚えた。
教員時代、懇親会の席で保護者の方から「先生たちはどうして自分のことを『先生』と呼ぶんですか。『先生』って敬称ですよね。一般社会ではあり得ないことですよ」などと言われた。それがきっかけで「学校では誰も教えてくれないことを、私のために話してくれたのだ」との気持ちになり、自分を「先生」と呼ぶのをやめた。
敬称は、人名の下につけてその人への敬意を表す呼び方で、教員が自分のことを「先生」と呼ぶのはおかしい。話し始めるとしたら「私は……」ではないか。4月から教壇に立つみなさん。児童生徒の前では、「私は……」で話し始めてみませんか。」

これを読んで私は(?)と思った。
学校の先生が、生徒に対して自分のことを先生と呼ぶことに特に違和感は感じない。
この人の言おうとしていることは分かるが、それほど神経質にならなくともということ。

この投稿に対して新聞社側が読者の意見を募ったところやはり賛否両論あった。
多くは私と同じようなものだったが、なるほどなと思ったのは次のような意見。(2024年4月17日)

・「時と場合で使い分ければよい」(元小学校教員(78))

「投書にあったように教員が自身を「先生」と呼ぶのはおかしいとの指摘はある意味、正当な意見ではある。しかし全てのシーンできっちり当てはめる必要はないと思う。
私自身、小学校で勤務した時、「自分に先生の敬称を付けて話すのはやめよう」との学校長からの提案を受けて実践したことがある。しかし子供たちを前に話した時の子供たちの反応の悪さと言ったらなかった。「先生」は、子供たちにとっては「お母さん」と同じような感覚で、あくまでも「敬称」というよりは「一般名称」的な感覚だった。
教師側も、保護者や同僚に対して自身に「先生」をつけて話す人はよもやいまい。家庭内で「ちゃん」付けで呼び合っても、一歩外へ出るとしないのと同じである。時と場合により使い分ければよい問題であると思う。」

・「学校空間での関係性から使う」(高校講師(62))

「「先生」の呼称は、学校空間の人間関係を表している。教員が自身を「先生」と呼ぶ場面は二つある。
一つは、先生の「立場」で生徒と対応する場面だ。考えや感情が直接ぶつかり合うのを避けるために、教員は公的な学校で生徒を指導する立場・役割の意味を持つ「先生」を用いる。
二つ目は、生徒とより近い関係を結びたい場面だ。集団として最年少者を基準に構成員を呼び合う傾向があると思う。家族のような私的空間では子供を基準として「お父さん」などと自称する。教員も、生徒への親しみの気持ちから先生と自称することがあり、スムーズなコミュニケーションが成立する。「私」より「先生」がくだけた自称になる場合がある。
このように学校は公的・私的空間が重なった場所であり、「先生」という自称に敬称の意味は薄い。」

今回私が何故この問題を取り上げたかと言うと、話は少し逸れるが、政治家同士がお互いに先生と呼び合っていることに常々違和感(というよりは嫌悪感)を持っていたから。(このバカ同士が、といった感覚)

この先生が使われる対象としては医師や弁護士などもあるが、これらは正しく専門知識を持った相手に対する敬意からくるものであろう。この意味では教師もそれに含まれるが、果たして政治家はどうだろうか。
敬意に値する政治家もいないことはないだろうが、政治家同士がお互いを先生と呼び合うのは、相手に阿(おもね)るもの、或いは自己欺瞞でしかないと思える。(尤もこの人達も自分のことは先生とは言わないが)

これについては、何時かは書いておきたいと思っていたことなので、これですっきりした。

 

コメント

企業の好決算と問題点

2024-05-18 14:10:44 | 話の種

「企業の好決算と問題点」


昨日(5月17日)の朝日新聞の社説に次のような記事があった。

「企業の好決算 賃上げ定着につなげよ」

この論説の骨子は「企業利益の「果実」は働き手や取引先に正しく還元し、賃上げの持続につなげるべきだ」というものだが、好決算の背景について下記述べている、

「牽引役は自動車企業で、営業利益が初めて5兆円を超えたトヨタ自動車は円安による押し上げが6,850億円に達し、車の値上げも増益に大きく寄与した。航空や鉄道、ホテル事業を手がける不動産などでも、訪日客の急回復を背景に、好決算が相次いだ。
 顧客にとって価値ある製品やサービスの提供が値上げを可能にし、好業績をもたらしたのなら望ましい。ただ、欧州では、コロナ禍後の急激な物価上昇時に企業が費用増を大きく上回る値上げで利益を増やしたとの見方が広まり、"強欲インフレ"とも呼ばれた。日本でも働き手への分配が十分かどうかといった好業績の内実が問われる。
 実際、過去2年にわたり、物価高に賃上げが追いつかず賃金は実質的に目減りし続けてきた。昨年の春闘での賃上げの不十分さが、今回の好決算の背景にあるともいえる。下請けの立場にある中小企業では、大企業側が適正な価格転嫁を受け入れないため、賃上げが進まない現実も指摘されている。
 好決算のトヨタは、今後3千億円を取引先の賃上げ支援などに振り向けるという。だが、日本商工会議所の小林健会頭は先日の記者会見で、下請けへの還元は「必要なコストとしてあらかじめ入れておかないとおかしい」と述べ、もうけを出してから次の年度に還元するような姿勢に疑問を示している。」

トヨタの最高益決算の疑問点については小欄「トヨタの最高益決算について思うこと」(5月11日掲載)でも述べたが、全く同じことをこの社説でも指摘している。


また、朝日新聞の同日(5月17日)の総合面(2面)に「株高なのにGDPマイナス」との記事があった。
このGDPマイナスの要因は個人消費の低迷によるところが大きい。

「GDPの過半を占める個人消費が0.7%減り、4四半期連続のマイナスになった。これは「100年に1度の危機」のリーマン・ショックが影響した09年1-3月期までの4四半期以来のこと。
もともと経済の回復の勢いは強くない。直前(昨年10-12月期)の実質GDPは年率換算で0.01%増と、ほぼ横ばい。その前(昨年7-9月期)は3.6%減だった。物価高で消費が停滞し景気の重しになっている。」

要するに、企業が好業績で過去最高の(或いはそれに近い)利益を揚げ、賃上げも過去最高水準だったといっても、それは大企業だけの話であり、中小企業及びそこで働く人々には還元されず、従って個人消費も落ち込んだままになっている。(賃上げも物価高には追いついていない状態)

当方の若いころは、インフレの時は結構予備買いということも行っていた。
これは物の値段が先々上がるなら、今のうちに買っておこうということで、これは給料も上がるという裏付けがあったから出来たことだろう。
現に今の米国などはインフレが続いており、FRBがそれを抑えようとしていくら金利を上げても、個人消費は衰えていない。
しかし日本の場合は、給料が上がらないので、消費者は生活防衛のため消費を抑えるしかなくなってしまっている。(そして生活関連商品の生産企業や飲食業などのサービス業者もそれが分かっているので、価格を抑えるしかなく、それが従業員の賃金にしわ寄せされてしまっている。)

大企業、特にその経営者が、自分たちさえよければよいという考えを改めない限り、日本経済の復活及び人々の生活の向上は望めないであろう。(そのしわ寄せはやがて自分たちにも来るのだが、と思うが。)

 

コメント

平安時代の女性文学と日記

2024-05-17 13:32:24 | 話の種

「平安時代の女性文学と日記」


[源氏物語]

紫式部が夫との死別後、1002年頃から書き始めたもので、1005年頃に評判を聞いた藤原道長に召し出され、一条天皇の中宮彰子(藤原道長の娘)に仕える間に、藤原道長の支援のもと「源氏物語」を完成させた。

物語の概要は、天皇の実子だが天皇になれない宿命の主人公光源氏の栄光と没落、その政治的欲望と権力闘争の数々、光源氏の栄華復活とその死後、子と孫そして紫式部が自らを投影したとも思われる女性、この三者の世界と女性の末路など全54帖からなり、第1帖~第41帖は「光源氏」を軸に描かれ、第42帖~第54帖は「薫」を軸に描かれている(「二部構成説」)。

源氏物語は写本・版本により多少の違いはあるが、約100万文字、400字詰め原稿用紙約2,400枚、500名近くの登場人物、70年あまりの出来事が描かれ、和歌795首を詠み込み、典型的な王朝物語とされる。

現代の一般的な小説や物語には見られない特色として、歌人としての紫式部の力量が全帖にわたり発揮される源氏物語には和歌795首が詠み込まれ、それらは飾りではなく、とりわけ男女間の事柄や話の核心部分などは、文章ではなく、和歌によって婉曲に描かれる場面も多く、品位と描写を両立させる手法がとられており、この和歌が理解できないと話の展開自体がわからない場面も少なくない。
文章でそれらが描かれる際も、直接的描写はほとんどなく、自然の変化や流行の事柄などに置き換え、それらに語らせるなどの手法で一定の品位を保ち婉曲に描かれ、話の把握にはこの間接的描写への理解が要求される。
源氏物語は800首あまりから成る和歌集の側面を持つ物語とも言え、その鑑賞に和歌の理解は欠かせず、また平安中期の政治、文化、常識、風習、社会制度に囲まれて生活する千年前の読み手(主に皇族・貴族階級)を対象にして書かれており、現代の読み手は、これらを知り理解することも物語の把握に必要となる。

*「三部構成説」

第一部(第1帖~第33帖)
 光源氏が数多の恋愛遍歴を繰り広げつつ、王朝人として最高の栄誉を極める前半生
第二部(第34帖~第41帖)
 愛情生活の破綻による無常を覚り、やがて出家を志すその後半生と、源氏をとりまく子女の恋愛模様
第三部(第42帖~第54帖)
 源氏没後の子孫たちの恋と人生

*「宇治十帖」(第45帖~第54帖)第三部のうち後半の「橋姫」から「夢浮橋」までの十帖をいう。
この部分は宇治を主要な舞台としているなど、「源氏物語」の他の部分と異なる点が多いことから、他の部分とは分けて考えられる事が多い。

*NHK Eテレ「源氏物語の女君たち」で取り上げられた8人
(光源氏が愛した8人の女君はこんな女性)

「趣味どきっ!源氏物語の魅力が丸わかり」(NHK)

①藤壺の宮
光源氏の父・桐壺帝のもとに入内し、後に中宮となる。光源氏に恋慕われ密通し、懐妊してしまう。
②紫の上
10歳で光源氏に見初められ二条院に引き取られる。やがて光源氏にとってかけがえのない存在に。
③葵の上
光源氏の最初の正妻。愛のない結婚生活の末、10年目にして懐妊するが、産後に命を落とす。
④六条御息所
桐壺帝の弟の妃。光源氏と密通し、嫉妬に狂い、生き霊となって葵の上を襲う。
⑤朧月夜の君
光源氏の兄・朱雀帝の女御として入内予定だったのに、光源氏と一夜を過ごしてしまう。
⑥朝顔の君
桐壺帝の弟の娘。光源氏を慕いながらも求愛を拒み、男性に頼らず生きる道を選ぶ。
⑦明石の君
播磨の前国司・明石入道の娘。明石に来た光源氏と結ばれ懐妊。娘はやがて中宮となる。
⑧女三の宮
朱雀院の娘。14〜15歳で光源氏の2番目の正妻となる。


[平安中期~後期の日記・随筆]

「土佐日記」紀貫之(866-945?)(男性)
「蜻蛉日記」藤原道綱母(936-995?)
「紫式部日記」紫式部 (973-1018?)
「枕草子」清少納言 (966-1025)
「和泉式部日記」和泉式部(978年頃-没年不詳)
「更級日記」菅原孝標女(娘)(1008-1059?)

「土佐日記」
平安時代に成立した日本最古の日記文学のひとつ。紀貫之が土佐国から京に帰る最中に起きた出来事を諧謔を交えて綴った内容を持つ。
日本文学史上、おそらく初めての日記文学である。紀行文に近い要素をもっており、その後の仮名による表現、特に女流文学の発達に大きな影響を与えている。

*土佐日記はなぜ女性のふりをして書かれたのか
(土佐日記の冒頭文は「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり」というもの)
この土佐日記が書かれた平安時代中期には、日記というのは男性官人による公務の記録のことであり、漢文で書かれることが一般的だった。
一方ひらがなは当初女性によって用いられたもので、会話や和歌を描写することに長けており(和歌では男性も使用する)、紀貫之はこのひらがなの特性を活かした新しい日記文学の形に挑戦してみようという狙いで敢えて女性のフリをして書いたと考えられている。

「蜻蛉日記」
夫である藤原兼家との結婚生活や、兼家のもうひとりの妻である時姫(藤原道長の母)との競争、夫に次々とできる妻妾について書き、また旅先での出来事、上流貴族との交際、さらに母の死による孤独、息子藤原道綱の成長や結婚、兼家の旧妻である源兼忠女の娘を引き取った養女の結婚話とその破談について書かれている。
歌人との交流についても書いており、掲載の和歌は261首。なかでも「なげきつつひとりぬる夜のあくるまはいかに久しきものとかは知る」は百人一首に入っている。女流日記のさきがけとされ、「源氏物語」をはじめ多くの文学に影響を与えた。

「紫式部日記」
藤原道長の要請で宮中に上がった紫式部が、1008年秋から1010年正月まで宮中の様子を中心に書いた日記と手紙からなる。
全2巻で、1巻は記録的内容、2巻は手紙と記録的内容。

*紫式部はその日記に痛烈に清少納言の悪口を書いている。

「清少納言こそ、したり顔にいみじうはべりける人、さばかりさかちだち、まな書きちらしてはべるほども、よく見れば、まだいとたらぬことおほかり」
「かく、ひとにことならむと思ひこのめる人は、かならず見劣りし、行くすえうたてのみはべれば、艶になりぬる人は、いとすごうすずろなるをりも、もののあはれにすすみ、をかしきことも見過ぐさぬほどに、おのづからさるまじくあだなるさまにもなるにはべるべし」
「そのあだになりぬる人の果て、いかでかはよくはべらむ」

(清少納言は、得意顔でとても偉そうにしておりました人、あれほど利口ぶって、漢字を書き散らしております程度も、よく見ると、まだたいそう足りないことが多い)
(このように、人より特別優れていようと思いたがる人は、必ず見劣りし、将来は悪くなるだけでございますので、風流ぶるようになってしまった人は、ひどくもの寂しくてつまらない時も、しみじみと感動しているようにふるまい、趣のあることも見過ごさないうちに、自然とそうあってはならない誠実でない態度にもなるのでしょう)
(その誠実でなくなってしまった人の最期は、どうしてよいことでありましょうか)

物静かで慎み深いと思われる紫式部がどうしてここまで言うのかということだが、これは清少納言がライバル関係にあったことに加え、清少納言が枕草子の中で、紫式部の夫・宣孝の金峯山詣で(派手な衣装で行ったこと)を批判的に書いたことへの意趣返しだったと思われている。
また、この人物批評部分(和泉式部についての記述もある)は、誰かにあてた手紙のような形が取られており、記録としての日記ではなく、走り書きのような手紙文が日記の中に混入してしまったものとも思われる。

「枕草子」
平安時代中期に中宮定子に仕えた女房、清少納言により執筆された随筆。
「虫は」「木の花は」「すさまじきもの」「うつくしきもの」に代表される「ものづくし」の「類聚章段」をはじめ、日常生活や四季の自然を観察した「随想章段」、作者が出仕した中宮定子周辺の宮廷社会を振り返った「日記章段」(日記章段)など多彩な文章からなる。
執筆時期は正確には判明していないが、1001年にはほぼ完成したとされている。
総じて軽妙な筆致の短編が多く、作者の洗練されたセンスと、事物への鋭い観察眼が融合して、「源氏物語」の心情的な「もののあはれ」に対し、知性的な「をかし」の美世界を現出させた。
中宮に仕える女房としての生活を踏まえた日記的章段を含みつつ、多くの話題にわたり、随筆という文学形式を確立した点で特筆される。

「和泉式部日記」
和泉式部によって記された日記で、女流日記文学の代表的作品。
1003年4月〜1004年1月までの数ヶ月間の出来事をつづる。
為尊親王との恋のため父親に勘当され、夫橘道貞との関係も冷めたものとなって、嘆きつつ追憶の日々を過ごしていた和泉式部のもとに、為尊親王の弟帥宮敦道親王の消息の便りが届く。その帥宮と和歌や手紙などを取り交わし、また数度の訪問を受けるうちにお互いを深く愛する関係となり、最終的に和泉式部は帥宮邸に迎えられる。この間の和歌の取り交わしと、この恋愛に関する和泉式部のありのままの心情描写が本作品の大きな特色。

「更級日記」
平安時代中期頃に書かれた回想録。
作者の父菅原孝標は菅原道真の5世孫。母は「蜻蛉日記」を書いた藤原道綱母の異母妹。
夫の死を悲しんで書いたといわれており、作者13歳から52歳頃までの約40年間が綴られている。
東国・上総の国府(市原郡、(現在の千葉県市原市))に任官していた父・菅原孝標の任期が終了したことにより、1020年9月に上総から京の都へ帰国(上京)するところから起筆する。「源氏物語」を読みふけり、物語世界に憧憬しながら過ごした少女時代、度重なる身内の死去によって見た厳しい現実、祐子内親王家への出仕、30代での橘俊通との結婚と仲俊らの出産、夫の単身赴任そして康平元年秋の夫の病死などを経て、子供たちが巣立った後の孤独の中で次第に深まった仏教傾倒までが平明な文体で描かれている。(後世、作者は「源氏物語」のオタクとして知られるようになる)


(参考)「日記文学」

主として平安時代から鎌倉時代にかけて仮名で書かれた日記の中で、文学性のあるもの。 
日付を追って書く「土左日記」のような形式もあるが、ある時点で自己の生涯を自伝的に回想する「蜻蛉日記」のような形式が多い。 
自照性が強く、多くは女流の手になり、「紫式部日記」「更級日記」などが知られる。


(参考)[百人一首]より

09. 花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに
    小野小町(古今集 春 113)
35. 人はいさ心も知らずふる里は花ぞ昔の香に匂(にほ)ひける
    紀貫之(古今集 春 42)
56. あらざらむこの世のほかの思ひ出に今ひとたびのあふこともがな
    和泉式部(後拾遺集 恋 763)
57. めぐりあひて見しやそれともわかぬまに雲隠れにし夜はの月かな
    紫式部(新古今集 雑 1499)
58. ありま山ゐなの笹原風吹けばいでそよ人を忘れやはする
    大弐三位(紫式部の娘 藤原賢子)(後拾遺集 恋 709)
59. やすらはで寝なましものをさ夜ふけてかたぶくまでの月を見しかな
    赤染衛門(後拾遺集 恋 680)
60. 大江(おおえ)山いく野の道の遠ければまだふみも見ずあまの橋立
    小式部内侍(和泉式部の娘)(金葉集 雑 550)
62. 夜をこめてとりのそらねははかるともよに逢坂の関は許さじ
    清少納言(後拾遺集 雑 939)

 

 

コメント

紫式部とその時代(制度)

2024-05-17 13:25:35 | 話の種

「紫式部とその時代(制度)」


[朝廷の官職と位階]

「二官八省」
これは中国の官僚制度を模したものだが、制度をうまく回すために、日本では序列を厳しく定めていた。

「二官」
神祇官(祭祀を担当)
太政官(行政を担当)

「八省」
中務省 … 詔勅や上奏など天皇の側近として政務を担当
式部省 … 文官の人事、教育などを担当
治部省 … 外交、雅楽、葬儀などを担当
民部省 … 地方行政、財政を担当
兵部省 … 武官の人事、軍事を担当
刑部省 … 裁判、処罰を担当
大蔵省 … 租税や貢献物の管理・出納を担当
宮内省 … 宮中の庶務を担当

「官名と位階」

太政大臣 (正一位、従一位)
左大臣  (正二位、従二位)
右大臣  (ー”ー)
内大臣  (ー”ー)
大納言  (正三位)
中納言  (従三位)
参議   (正四位下)
~     ~
小納言  (従五位下)
~     ~
     (従六位下)     

*序列による差
平安時代中期からは、天皇が住む清涼殿に入ることができるのは基本的に五位以上の官人から選ばれた人たちで、この人たちのことを殿上人と呼ぶ。(但し蔵人は六位からも任じられた)
律令では五位と六位との差は収入にも如実に表れていて、奈良時代の記録を見ると、五位の収入が現在の金額に換算しておよそ3千万円なのに対し、六位はおよそ7百万円と大きな差があったようである。
三位以上と四位の参議のことを公卿と呼び、彼らが中心となって天皇を補佐して政治を行っており、朝廷の待遇もさらに厚かった。
収入は生活に直結するので、平安時代の貴族たちが高い位を求めた理由を、この待遇の違いからも見ることができる。
一方、この時代には七位以下の位階はほとんど授けられなくなり、下級官人のほとんどは六位という位階を持つことになったが、位階にともなう収入はほとんどなくなったので、特に官職に就いていない下級官人の生活は非常に苦しかったと思われる。
彼らはさまざまな儀式に参列する際に下賜されたり、有力者に仕えることでもらえる禄が主な収入源だったと思われ、そういう役も全員に行きわたるわけではないので、生活はなかなか大変だったであろうと思われる。
(ドラマでも紫式部の父為時は当初官位は最下位の従六位下でまた役職がなかったので、苦しい家族生活が描かれている。)
(為時はその後花山天皇即位の際に式部丞・六位蔵人の官位を受け、その後藤原道長の執政になった時は越前守に任じられ従五位下、そして最終的には正五位下で越後守となる。)

*蔵人は日本の律令制下の令外官(律令の令制に規定のない新設の官職)の一つ。天皇の秘書的役割を果たした。


「左大臣」「右大臣」
太政大臣と同じく律令制度の下に定められた役職。太政大臣に次ぐ位だが、太政大臣は実務を行わないため事実上の最高位ともいえる。

左大臣と右大臣は同列ではなく左大臣の方が上位。
右大臣には左大臣を補佐したり、左大臣が不在のときに代わりに政務を行ったりする役割がある。現在の日本で例えるなら、左大臣が内閣総理大臣で右大臣が副総理といえる。

「太政大臣」
太政大臣は太政官の筆頭長官。職掌はなくふさわしい人物のみが就任できる名誉職で通常表に出ることはない。適任者がなければ設置する必要はなく欠員とする。

日本初の太政大臣は天智天皇の息子の「大友皇子」で、天智天皇が任命した。
平安時代には藤原氏が太政大臣になることが多かったが、太政大臣になっても摂政・関白にならないうちは政治の実権をにぎれなかったので、太政大臣は貴族の家柄の格を表すというただの肩書になってしまった。
基本的に太政大臣に就任するのは貴族だが、平安時代末期に武家政権を樹立した「平清盛」が朝廷から武士として初めて「太政大臣」に任命された。 

(参考)

「関白」(成人している天皇を補佐する役職)

実際に政治を行うのは天皇で、関白は助言者のような立場。
関白という役職は律令で規定されたものではなくどこにも属さない自由な立場で、権限も強く実質的に政治を動かす力を持っていた。
関白はもともとは「関(あずか)り白(もう)す」の意味で、天皇に差し出される文書を天皇より先に見てから天皇に差し出すこと。884年に光孝天皇が天皇になったとき、その役目に任命された藤原基経が最初の関白にあたる。
やがて天皇が幼いときは摂政、成長後は関白をおいて政治を行わせることが習わしになり、藤原道長の子孫が摂政と関白の役職をひとりじめにすることになった。
藤原氏以外で関白になったのは、戦国時代の武将「豊臣秀吉」と息子の「秀頼」のみ。

「摂政」(天皇に代わって政務を行う役職)

幼くして即位した天皇や、女性天皇、病弱で政務ができない天皇の代行者として政治を取り仕切る。
日本で最初の摂政は、6世紀後半の「厩戸皇子(後の聖徳太子)」といわれてる。
叔母の推古天皇に能力を認められ政治を任されたもの。
皇族以外では藤原良房が、清和天皇が幼かったために任命されたのが最初。


「宮中に於ける女性の身分」

「宮中での序列」

(天皇の后と妃)
中宮(ちゅうぐう)
  皇后の別称。皇后が複数いる場合は2番目以降の者を指すことが多い。
女御(にょうご)
  皇后・中宮に次ぐ地位で、皇族や大臣の娘がなる。皇后や中宮になる予定でも、まずは女御になるのが基本。
更衣(こうい)
  女御に次ぐ地位で、大納言(だいなごん)以下の娘がなる。定員は12名。

(女官)
尚侍(ないしのかみ)
  内侍司 (ないしのつかさ:後宮十二司のひとつ) の長官。天皇の秘書のような役割で定員は2名。摂関家の娘が選ばれることが多い。
典侍(ないしのすけ)
  尚侍に次いで仕事を取り仕切る役割で、定員は4名。公卿の娘が選ばれることが多い。
掌侍(ないしのじょう)
  典侍に次いで実務を行う。定員は4名。

女孺(にょじゅ)
  下級女官で定員は100名。雑務を担当する後宮十二司の末端職員。
命婦(みょうぶ)
  天皇の儀式や神事を担当する。官位相当や定員はない。
東豎子(あずまわらわ)
  内侍司に所属する下級女官。行幸(ぎょうこう:天皇が外出すること)の際は男装してお供した。定員は3名または4名という説がある。

「女房」

女房は朝廷や身分の高い人々に仕えた女性の使用人のこと。「房」とは部屋のことで、屋敷に部屋を与えられていた。天皇に仕える女房を「上の女房」と言い、中宮に仕える女房は「宮の女房」と言う。

*女房は、仕えた主人が周りの貴族達に尊敬されたり、天皇の寵愛を受けたりするように務めることが求められので、教養や知性に優れた中流貴族の娘が女房に選ばれることが多かった。
彼女たちは、主人の身の回りの世話や読み聞かせ、話し相手などの幅広い業務をこなしていた。

*宮の女房は、多くが妃に付けられて後宮に入った妃の実家の人々。平安時代中期以降は中級貴族の娘が出仕するケースも多く、教養に優れた人材が多かった。

*女房によってひらがなで書かれた日記や随筆、物語などは「女房文学」とも呼ばれ「清少納言」「紫式部」「和泉式部」などが代表的な作者。
紫式部による「紫式部日記」や清少納言の「枕草子」、「菅原孝標女」による「更級日記」には女房として初出仕したときの様子が書かれている。

「女房の序列」

女房の階層は3つで、出身の階級によって分けられていた。

・上臈(じょうろう)
 官位:大臣や大納言の娘など、三位以上。
 職務:中宮の食事の給仕を務める役目の者、髪をすいたり化粧をしたりする役目の者、中宮を楽しませる役目の者などがおり、禁色を許されていた。
・中臈(ちゅうろう)
 官位:四~五位
 職務:女童(中宮や姫君の身の回りの世話をする未成年の少女)や下臈の女房たちの仕事を監視し、雑用もこなした。清少納言や紫式部はこの階層に属する。
・下臈(げろう)
 官位:摂関家の家司や神社の家の娘たち。
 職務:下級の女官で後宮十二司に勤務。中宮、上臈とも会話をする機会はほとんどない。

「後宮の仕事」

後宮に存在する以下12の役所が「後宮十二司」と呼ばれ、神事や食事、行事などの与えられた仕事を行う。内裏には1,000人を超える女官が仕えていたと言われてる。

内侍司(ないしのつかさ)
蔵司(くらのつかさ)
書司(ふみのつかさ)
薬司(くすりのつかさ)
兵司(つわもののつかさ)
闡司(みかどのつかさ)
殿司(とのもりのつかさ)
掃司(かにもりのつかさ)
水司(もひとりのつかさ)
膳司(かしわでのつかさ)
酒司(さけのつかさ)
縫司(ぬひとのつかさ)

*内侍司(ないしのつかさ)
人数が多かったのは内侍司で、ここは今でいう秘書室のような役割を果たしていた。
つねに天皇のそばに控えていて、お言葉の伝達などが仕事だった。

内侍司の人員構成

・尚侍(ないしのかみ)…2名
・典侍(ないしのすけ)…4名
・掌侍(ないしのじょう)…4名
・女孺(にょじゅ)…100名

尚侍には有力貴族の娘が選ばれることになっていて、平安時代には尚侍が天皇の后となるのが一般化した。実質的な内侍司の長官は典侍だったようでである。

内侍司はあこがれの職場だったらしく、清少納言は「枕草子」でたびたび話題にし、「なほ内侍に奏してなさん(ぜひとも内侍司に推薦しよう)」とほめられて喜ぶ場面もあるほど。

内裏(だいり):天皇が住む宮殿
後宮(こうきゅう):天皇の妃や女官達が住む場所

*後宮
天皇が政務を行った「紫宸殿」や、天皇の居住区・清涼殿が並ぶ「内裏」の後方(北側)にあったことからこのように呼ばれるようになった。 天皇に入内した女性達はいずれも七殿五舎の内どれかひとつを割り当てられる。
当時の後宮は仁寿殿北側にある七殿五舎の建物で構成され渡り廊下で連結されていた。
天皇の住居である内裏の北半分を占めている。
後宮というと江戸時代の大奥のように男子禁制の印象が強いが、それとは異なり男性官人や貴族が自由に出入りすることができた。


(参照)

「平安時代の貴族システム 官職と位階」(NHK)
「平安時代朝廷における女性の仕事」(ホームメイト)
「七殿五舎で暮らす平安時代の女性の身分」(ホームメイト)

 

コメント

紫式部とその時代(人物)

2024-05-17 12:48:30 | 話の種

「紫式部とその時代(人物)」

紫式部といえば源氏物語の作者、源氏物語といえば光源氏というプレイボーイの色恋の物語ということしか知らず、また平安時代についても公家社会の軟弱な時代と言うことで、さして興味もなかったが、NHKの大河ドラマ「光る君へ」が始まったことで、いろいろとその解説を見聞きするにつれ、その時代背景について俄然と興味が湧いてきた。

*NHK Eテレの「趣味どきっ!源氏物語の女君たち」(全8回)では、物語のキーパーソンとなる8人の女君の生き方を切り口に紹介、清泉女子大学文学部の藤井教授の解説付きで、取敢えずこの8人のキャラクターの背景を知っておけば大丈夫(物語の真髄が分かる)ということで、確かに(ああ、こういう内容なのかと)分かり易く面白かった。

(NHKのドラマも公家の顔が他のドラマでよく見られる眉毛を剃って上に短く描いたようなものではなく、
言葉も公家がよく使う「おじゃる言葉」かつオカマのような軟弱な物言いではなく、現代口語の日常会話のスタイルなので、すんなりと受け入れやすい。)

まず平安時代だが、厳しい階級社会・身分社会で、武力闘争はなくとも権謀術数をめぐらせた公家社会の熾烈な権力闘争、身分社会に於ける女性の立場や生き方など非常に興味深いものがあり、また藤原氏一族の天皇家との関係や繁栄の理由などについては一部学校の歴史で習ったもののうろ覚えで、認識を新たにした。

そして源氏物語については当時の朝廷・貴族社会の様子、女性の立場などをほぼ忠実に垣間見ることができ、単なる恋愛物語ではなく歴史的にも貴重な資料であることが分かった。
このようなものがよく書き残せたなと思うと同時に、作中での人間関係や生き方、それに伴う悩みや心情などは現代でも通じるものがあり、それらが素直に表現されていて、これが千年以上も前に書かれたものと思うと驚きである。

そこで今更ながらだが、この時代について当方が興味を持った、或いはドラマを見るうえで必要と思われること(背景)を「人物」「制度」「文学」に分けて整理してみた。
(NHKのドラマでは虚実入り混じっているので、史実として明らかにされているものを整理した)

(参考)NHKのドラマと史実との違いについては取敢えず下記参照
(この記事の後部に、ドラマ「光る君へ」に関連した記事のインデックスがあり、いろいろと参考になる)

「大河ドラマ「「光る君へ」は史実と違う?」(ホームメイト)


[天皇家と藤原氏一族]

[天皇家]

(61)朱雀天皇(930-946)(女御)煕子女王、藤原慶子
  (父)醍醐天皇(第11皇子)
  (母)藤原基経(摂政関白)の娘・中宮藤原穏子(やすこ)
(62)村上天皇(946-967)(女御)徽子女王、荘子女王、藤原述子、藤原芳子
  (父)醍醐天皇(第14皇子)
  (母)藤原基経(摂政関白)の娘・中宮藤原穏子(やすこ)
(63)冷泉天皇(967-969)(中宮)昌子内親王(朱雀天皇皇女)(女御)*藤原懐子、*藤原超子、藤原怤子
  (父)村上天皇(第2皇子)
  (母)藤原師輔(右大臣)の長女・中宮藤原安子(やすこ)
(64)円融天皇(969-984)(中宮)藤原媓子、藤原遵子(女御)*藤原詮子、尊子内親王
  (父)村上天皇(第5皇子)
  (母)藤原師輔(右大臣)の長女・中宮藤原安子(やすこ)
(65)花山天皇(984-986)(女御)藤原忯子、藤原姚子、藤原諟子、婉子女王
  (父)冷泉天皇(第1皇子)
  (母)藤原伊尹(摂政太政大臣)の娘・冷泉天皇の女御藤原懐子(ちかこ)
(66)一条天皇(986-1011)(皇后)藤原定子(中宮)*藤原彰子(女御)藤原義子、藤原元子、藤原尊子
  (父)円融天皇(第1皇子)
  (母)藤原兼家(摂政関白太政大臣)の次女・円融天皇の女御藤原詮子(あきこ)
(67)三条天皇(1011-1016)(皇后)藤原娍子(中宮)藤原妍子
  (父)冷泉天皇(第2皇子)
  (母)藤原兼家(摂政関白太政大臣)の長女・冷泉天皇の女御藤原超子(とおこ)(贈皇太后)
(68)後一条天皇(1016-1036)(中宮)藤原威子
  (父)一条天皇(第2皇子)
  (母)藤原道長(摂政太政大臣)の長女・一条天皇の中宮藤原彰子(あきこ)
(69)後朱雀天皇(1036-1045)(皇后)禎子内親王(中宮)藤原嫄子(女御)藤原生子、藤原延子(東宮妃)*藤原嬉子
  (父)一条天皇(第3皇子)
  (母)藤原道長(摂政太政大臣)の長女・一条天皇の中宮藤原彰子(あきこ)
(70)後冷泉天皇(1045-1068)(皇后)藤原寛子、藤原歓子(中宮)章子内親王
  (父)後朱雀天皇(第1皇子)
  (母)藤原道長(摂政太政大臣)の六女(道長・倫子夫妻の末娘)、後朱雀天皇の東宮妃藤原嬉子(よしこ)(贈皇太后)
  (*紫式部の娘大弐三位が後冷泉天皇の乳母)

[藤原氏一族]

藤原兼家(摂政・関白・太政大臣)*(正室)藤原時姫、(室)藤原道綱母(蜻蛉日記の作者)、他
藤原道隆(兼家の長男)(摂政・関白・内大臣)*母は時姫
藤原道綱(兼家の次男)(大納言)
藤原道兼(兼家の三男)(関白右大臣・太政大臣)*母は時姫
藤原道義(兼家の四男)(治部少輔)
藤原道長(兼家の五男)(摂政・太政大臣)*母は時姫 *妻は源倫子(正室)、源明子、他
藤原超子(とおこ)(兼家の長女*母は時姫、冷泉天皇の中宮)*三条天皇の生母
藤原詮子(あきこ)(兼家の次女*母は時姫、円融天皇の中宮)*一条天皇の生母
源倫子(ともこ)(道長の正室、父は左大臣源雅信、母は正室藤原穆子)
源明子(あきこ)(道長の妻、父は左大臣源高明、母は藤原師輔娘の愛宮)
藤原通頼(道隆の長男)(権大納言)
藤原伊周(道隆の三男)(内大臣)*名前は(これちか)
藤原頼通(道長の長男)(摂政・関白・太政大臣)*母は倫子
藤原教通(道長の五男)(関白・太政大臣)*名前は(のりみち)*母は倫子
藤原定子(さだこ)(道隆の長女、一条天皇の皇后(中宮))
藤原彰子(あきこ)(道長の長女*母は倫子、一条天皇の中宮)*後一条天皇、後朱雀天皇の生母
藤原姸子(きよこ)(道長の次女*母は倫子、三条天皇の中宮)
藤原威子(たけこ)(道長の三女*母は倫子、後一条天皇の中宮)
藤原嬉子(よしこ)(道長の六女*母は倫子、後朱雀天皇の東宮妃)*後冷泉天皇の生母
藤原寛子(ひろこ)(頼通の長女、後冷泉天皇の皇后)

*平安時代の女性の名は、教科書などでは音読みで記載されることが多いが(詮子(せんし)、彰子(しょうし)、定子(ていし)など)、これは同じ名前がいくつもでてくるので、明治以降、便宜的に音読みが使われ、一般にも広がったようで、当時は訓読みで呼ばれていた可能性が高いらしい。(いくつかの例でそれが示されている)

[藤原道長]
平安時代の最高権力者藤原道長は、その絶頂期に娘四人を相次いで宮中に送り込み「この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることのなしと思へば」という和歌を詠んだことで有名。 
道長の長女彰子に仕えたのが紫式部。 源氏物語の主人公、光源氏のモデルは道長で、物語はその栄華の世界の写しと言われている。

[藤原氏について]
(ドラマでも姓は藤原氏ばかりで混乱するが、そのルーツは次の通り)

古代の代表的な氏名、源氏・平氏・藤原氏・橘氏(四姓「源平藤橘(げんぺいとうきつ)」)の一つ。摂関政治を行った貴族。初め中臣(なかとみ)氏といい、大和朝廷の神事を司った。中臣鎌足が中大兄皇子(後の天智天皇)とともに大化改新(645年)の大業をなし、天智天皇より藤原朝臣の姓を賜ったことが藤原姓の始まり。藤原不比等の娘宮子が文武天皇妃として聖武天皇を生んだ。このことから皇室の外戚としてその力を確固たるものとした。不比等の子孫だけが藤原姓を許され、その4子が藤原四家(南家、北家、式家、京家)の祖となった。なかでも北家が藤原氏の主流となり、摂政・関白の地位に就いた。全盛を迎えたのは11世紀藤原道長・藤原頼通のころになる。
氏神は春日大社、氏寺は興福寺。

(参照)

「確かめよう、日本の歴史/藤原道長の家系図」(静岡県総合教育センター)
「藤原道長の家系図と年表」(ホームメイト)

[紫式部]

天延元年(973年)生まれ。(諸説あり)
藤原北家良門流の越後守・藤原為時の娘で、母は摂津守・藤原為信女。幼少期に母を亡くしたとされている。(父の藤原為時は官位は正五位下と下級貴族ながら、花山天皇に漢学を教えた漢詩人・歌人)
996年越前守になった父の赴任に同行、998年父を越前に残して京に戻り、遠縁で又従兄妹でもある山城守・藤原宣孝(20歳ほど年上で既に数人の妻と子もいた)と結婚し一女を産んだ。しかし結婚から3年ほどで夫と死別し、1002年頃から「源氏物語」を書き始めた。
1005年頃に評判を聞いた藤原道長に召し出され、一条天皇の中宮彰子(藤原道長の娘)に仕える間に、藤原道長の支援のもと「源氏物語」を完成させた。


「女房となった女性の名前の由来」

[紫式部、清少納言、和泉式部、赤染衛門]

紫式部: (973-1018)46歳没(諸説あり)
紫式部は通称(宮廷での女房名)で、元は「藤式部」(「藤原式部の女(娘)」の略称で、藤原は父親の姓、式部は父親の役職)だが藤式部という女房名は特に珍しい物ではなかったので、彼女の作品の源氏物語の登場人物である「紫の上」にちなんで、人々の間で「紫式部」とよばれるようになったと言われている。(一条天皇の中宮彰子に仕えた)

清少納言: (966頃-1025頃)60歳没?
清少納言は通称(宮廷での女房名)で、「清原少納言の女(関係者)」の略称。「少納言」については諸説あるが、家系(先祖、平安時代初期)に清原有雄という少納言(役職)がいたので、その先祖にちなんで付けられたと説が分かり易い。(一条天皇の中宮定子に仕えた)
読み方は(せい・しょうなごん)

和泉式部:(978年頃-1019年頃)42歳没?(没年不詳)
夫橘道貞(後に離婚)が和泉守、父大江雅致が式部省の官僚(式部丞)だったことからきた女房名。(一条天皇の中宮彰子に仕えた)

赤染衛門:(956年頃-1041年以後)85歳没?(没年不詳)
父が赤染時用で衛門府の官僚(右衛門志)だったことからきた女房名。(一条天皇の中宮彰子に仕えた)

(参考)
清少納言は一条天皇の中宮定子に仕え、紫式部は中宮彰子に仕えたので政敵ともいえるライバル関係にあったが、後宮における両者の活動時期には少しのズレがあったので、直接の面識はなかったのではと思われている。(ドラマでは会って話をしているが)


「女性名について」

紫式部、清少納言などのように官位を受けていない女房などは、通称として、姓は父親の名前(苗字)から一字とり、次に家族・親族で最も位の高かった位階を付けることが多い。
ではこれらの人たちの本当の名前は何かということだが、官位がないために正式に文献に記載されていないので分からない。
(*紫式部はドラマでは「まひろ」と呼ばれているが、これはドラマ創作上の名前)
一方、官位がある女性は、官位をもらう際に名前を届けるので、朝廷の公式文書に記載されることになる。

また、それ以外の女性については、例えば蜻蛉日記の作者は藤原道綱母、「更級日記」の作者は菅原孝標女(娘)というように父親あるいは息子との関係を示して文献上に表記されている。

女性で名前が残るのは次のような場合である。

1.歴代天皇の后妃たち
正式に天皇の后妃となった女性は朝廷の公式文書にその名を残す必要があったので、必ず本名を明かさなければならなかった。
(定子、彰子など)

2.神に奉仕した女性たち
伊勢神宮の斎宮や賀茂神社の斎院がこれに相当する。
未婚の内親王あるいは女王が選ばれて当代の帝の世のために神に奉仕した。
(恬子内親王、選子内親王など)

3.身分高き女性たち
例えば源倫子だが、この人は藤原道長の妻だったというだけで無く、後一条天皇・後朱雀天皇・後冷泉天皇の祖母になり、朝廷から従一位という最高の位を戴いたので、公式の記録に残っている。
その他、摂関家をはじめとする由緒ある貴族の場合は、その家系図を作る上での必要性から妻や娘の名前も記録に残したものと考えられる。

(参考)
源氏物語に出てくる「女三宮」だが(物語での架空の人物かつ主要人物)、朱雀帝の第三皇女で、名前ではなくこのように表記されている。(女は娘の意味で、三番目の宮様ということ)

*「宮・上・君」の使い分け(源氏物語)

宮:性別に関係なく中宮、親王、内親王に用いられる。
上:性別に関係なく高貴な人に用いられる。
君:性別に関係なくある程度高貴な人に用いられる。(「上」よりも下位、もしくは親しみのある関係に用いられる。)

(参考)女性の名前が不詳な理由

日本の歴史において、有名な女性でも名前が伝わっておらず不明なことが多い。
なぜ、女性の名前が不詳であり分かっていないのか。

まず、男性も女性も同様に、名前が無かったと言う事はあり得ない。
平安時代の女性にも、当然「名前」、つまり実名・諱(忌み名)・個人名があったはずである。
ただ、この頃は女の子の名前は身内(家族)だけで言っていたと理解する方が分かり易いかも知れない。

人の妻となった女性を他の者が名前で呼ぶのが失礼な時代で、その女性の夫は当然、妻のことを名前で呼んでいただろうが、しかし、周囲の人間や友人などは、他人の妻である女性を名前で呼ぶのはタブー(失礼)だったとされていた。また女性が他人、特に男性に本当の名前を知られるというのは、その人に自分のすべてを支配されることを意味すると言う観念もあったこともある。

(参考)平安時代の女性の名前の読み方については下記参照

「第48話  斎宮百話 女性に名前をたずねるなんて…」(斎宮歴史博物館)

(参考)女性の名前に「子}が多い訳

昔は「子」という字は男性名に用いられており、中国の孔子,孟子,韓非子や日本の小野妹子や蘇我馬子などがその例。
「子」という文字が女性の名前に用いられるようになったのは平安時代からで、嵯峨天皇が自身の娘たちに「子」の付く名前を授けたことが由来であるとされている。
それを機に、「子」という字は高貴な女性の名前に使われるようになり、時代を経るにつれ一般の女性にも使用されるようになった。

*平安時代初期、嵯峨天皇(第52代天皇、786-842)が皇女の命名を改めた時、内親王には「子」を付けて、臣籍降下した皇女は「姫」とした。
現在の天皇家にもこの命名法が引き継がれている。

(Yahoo!知恵袋回答より)
(嵯峨天皇には子供が50人もいたために全員を皇族としておくのは難しく、男子女子ともに大量の臣籍降下を行った。(天皇1人,男性皇族4人,女性皇族12人,臣籍降下男性18人,臣籍降下女性15人)。つまり33人を臣籍降下。
このときに臣籍降下に伴い男子女子ともに全員に源姓を賜った(嵯峨源氏)。そして皇族女子には全員に[子]の字を与え,臣籍降下した女子には全員に[姫]の字を与えた。(男子は皇族は2文字名前,臣籍降下した男子は1文字名前とした))(Yahoo!知恵袋回答より)


(参考)「平安時代/有名女性の結婚年齢」(推定)

源倫子  (24歳頃)
清少納言 (16歳頃)
紫式部  (26歳頃)
和泉式部 (18歳頃)
赤染衛門 (20歳頃)
藤原道綱母(19歳頃)
菅原孝標女(33歳頃)
中宮定子 (14歳頃)
中宮彰子 (12歳頃)

*年齢は数え年

 

コメント

トヨタの最高益決算について思うこと

2024-05-11 10:38:00 | 話の種

「トヨタの最高益決算について思うこと」

今月8日にトヨタ自動車の2024年3月期の決算発表があった。
それによると営業利益が前期比96%増の5兆3529億円で過去最高を更新し、日本企業で初めて5兆円台の大台に乗せたとのこと。(ちなみに純利益は4兆9449億円(前年比101.7%増))

この空前の好決算の要因は、大幅な円安、HV販売が好調だったこと、そして値上げによるものとのことだが、この決算数字を見て、どうにも釈然としないものを感じた。
このような膨大な利益を上げることが出来るのならば、その前にもっとすべきことがあったのではないかと。つまり下請けである中小企業への利益還元である。

このように思ったのは私だけではないようで、確か日本商工会議所の小林会頭だったと思うが、同じようなことを述べており、トヨタが来期決算予想の減益要因の一つとして仕入れ先や販売店の労務費の負担を掲げたことについても、何を今更と暗にトヨタを批判していた。

トヨタは今年の春闘でも組合の要求に対して4年連続で満額回答しているが、下請け業者への対応はどうだったのだろうか。

ここで思い起こされるのは、今年3月7日になされた日産自動車に対する公正取引委員会の勧告である。
日産自動車が下請け業者への納入代金を一方的に引き下げたとするもので、この時違法と認定された減額は過去最高となる30億円超だったとのこと。
このような大企業による「下請けいじめ」は以前から問題視されていたが、特に自動車業界では「悪しき慣行」として長年に渡り定着してしまっている。

(参考)昨日(5/10)のTV東京のWBSの報道によると、この公取委の勧告にもかかわらず今でも日産の下請けいじめはまだ続いているとのこと。(2社からの告発を紹介していた)

2022年12月末、公正取引委員会は下請け業者と協議せずに取引価格を据え置くなどしたとして13の企業・団体名を公表したが、この中にはトヨタ系列のデンソーと豊田自動織機の2社が含まれていた。

(参考)社名を公表された企業・団体:
佐川急便、三協立山、全国農業協同組合連合会、大和物流、デンソー、東急コミュニティー、豊田自動織機、トランコム、ドン・キホーテ、日本アクセス、丸和運輸機関、三菱食品、三菱電機ロジスティクス

話をトヨタに戻すと、ネット上に次のような記事があった。
これ迄述べてきたことと重複する部分もあるが、いろいろと参考になるので記事の全文を記しておく。(ZERO Management)

「トヨタ 部品価格の上昇を認める 4兆円の最高益を支える産業ピラミッドを維持できるか」
(2024.02.21)

 トヨタ自動車は2024年4月から部品価格に労務費上昇分の上乗せを認める方針を明らかにしました。2年前の2022年4月、部品メーカーに対し素材やエネルギー費の高騰に伴うコスト上昇分の加算を認めており、原価低減一本槍だった部品調達政策の軌道修正を加速します。しかし、下請けメーカーの間では価格転嫁できないとの不満が多く、実効性に疑問符も。トヨタが稼ぐ4兆円超の利益は系列部品メーカーで形成される産業ピラミッドが源泉。本当にコスト上昇分を部品に転嫁できるか。今、「最強トヨタを維持できるか」も試されているのです。

[最強トヨタの源泉は部品メーカーの力]
 トヨタは年2回、半期ごとに取引する部品メーカーと調達価格を交渉しています。もっとも、交渉といってもトヨタから部品の値下げが指示され、値上げ要請はほとんど通りません。値下げの理由は部品を生産する金型や機械などの減価償却、生産効率のアップなど。「部品の原価は低減している」を盾に毎回、数%の値下げを実施するのが通例でした。

 自動車メーカーは、1台あたり3万〜5万点の部品を組み合わせて仕上げます。部品の単価がわずか下がるだけでも、全部品に値下げが反映されれば1台あたりの利益は大きく増えます。カンバン方式に代表される工場の生産性の高さとともに、系列部品メーカーを軸にした原価低減が日本最大の利益を計上するトヨタの強さを支えています。 

[部品の価格転嫁は絵に描いた餅?]
 4月から認める労務費上昇分の反映は、政府が求める賃上げ政策に呼応する形となります。今春闘でトヨタ労組が大幅な賃上げを求めているわけですから、取引する部品メーカーも自社の従業員に対し賃上げを実施しなければいけません。本来なら、トヨタから労務費上昇分を認めるというお墨付きをもらう筋の事案ではありませんが、過去の交渉を振り返れば、トヨタ系列大手のデンソーやアイシンならともかく、2次や3次の下請けメーカーが値上げを要求できることは稀。値上げを求めても、目の前の大量受注を逃してしまったら中堅・中小の部品メーカーは空を見上げるしかありません。

 部品メーカーは価格上昇分がすんなり転嫁できるのでしょうか。1年前、こんな”事件”がありました。2022年12月末、公正取引委員会は下請け企業とコスト上昇について交渉しなかった13の企業・団体を公表しました。独占禁止法の「優越的地位の乱用」に該当する恐れがあり、違反を認定しているわけではないものの、下請け企業が求めなくても取引上優位な発注企業が主導して中小企業の経営を改善させるのが狙いと説明しています。

[公取委はデンソー、豊田織機に是正を求める]
 その13社・団体にトヨタグループからデンソーと豊田自動織機の2社が含まれていました。トヨタは2022年4月から鋼材やエネルギーコストの上昇分を反映することを認めていましたが、2次下請けなどとの価格交渉の進捗度合いはどうだったのでしょうか?公取委は「優越的地位の乱用」を認め、デンソーと豊田自動織機に是正を求めていますから、下請けとの価格交渉は難航し、公取委に駆け込んだメーカーもあったのでしょう。

 デンソー、豊田自動織機はトヨタ系列の代表選手です。この2社が下請けとの価格転嫁を受け入れていないということは、他の系列大手も同様の対応だったのかもしれません。トヨタが部品の調達方針を変更し、値上げを認めるといっても、本気で価格転嫁を認める考えだったのか?首をかしげざるを得ません。

[価格転嫁の本気度が問われる]
 トヨタは2023年3月期で3兆円近い営業利益を計上し、デンソー、豊田自動織機も好収益を上げています。同じ期間、トヨタ、デンソー、豊田自動織機は下請けからの値上げを飲む余力は十分にあったにもかかわらず、拒んでいたとしたらトヨタグループの高収益をどう理解してよい良いか。「建前と本音が違うのはビジネスの常套句」。納得するわけにはいきません。

 トヨタはそれから1年後、2024年3月期の連結純利益が前期比84%増の4兆5000億円になりそうだと発表しました。最高益の更新は2年ぶり。好業績の背景には車の機能向上に伴う値上げ、ハイブリッド車などの採算上昇、生産台数の増加、円安が貢献しています。このうちハイブリッド車の採算向上は長年生産しているメリットである原価低減が含まれています。まさに部品メーカーのおかげです。トヨタが本気で自らを支える産業プラミッドを死守しようとするなら、今度こそ身を切る覚悟が必要です。

[トヨタグループへの警鐘は鳴り続けている]
 警鐘はもう何度も鳴っています。日野自動車、ダイハツ工業、豊田自動織機の相次ぐ不正認証、デンソーが開発・生産した燃料ポンプのかつてない規模のリコール。最高益の舞台裏で、トヨタグループが軋み、傷み始めています。帝国データバンクによると、トヨタと取引する企業は4万社近いそうです。産業ピラミッドが1度崩れたら、2度と元には戻りません。エンジンから電動化への転換期にある自動車産業です。部品メーカーが消えたら・・・。トヨタに4兆円の利益に浮かれている余裕はまったくありません。

(記事URL)https://from-to-zero.com/zero-management/toyota4trillionpyramid/

 

以上だが、更に付け加えるなら、トヨタの内部留保は2014年3月期は14兆円だったのが2023年3月期には28兆円と、この10年間で倍に膨れ上がっている。
この内部留保については「年功序列と成果主義」のところでも触れたが、企業が如何にお金を貯めこんでいるかの象徴であり、大企業ほどこの貯めこみの傾向が強い。
賃上げがなかなか進まないのもこのためであり、今年になってようやく大企業では労組の要求に対して満額回答をするところも見られるようになったが、言い換えればそれだけ余裕があったということになる。
しかしこれはあくまでも大企業での話で中小企業にはその余裕はなく、その理由は上記で述べられた日本の産業構造、下請けいじめに由来するといえる。

 

コメント