goo blog サービス終了のお知らせ 

話の種

新聞やテレビ、雑誌などで、興味深かった記事や内容についての備忘録、感想、考察

市民(理性)と大衆(感情)

2025-03-14 14:15:59 | 話の種

「市民(理性)と大衆(感情)」


朝日新聞(2/14付)に市民と大衆の違いについて興味深い記事があった。

この記事はこれ迄そして今後のメディアのあり方について考察したものだが、当方の興味を引いたのは「市民(理性)と大衆(感情)」という区分けである。

当方先日(2/3)「SNSと思考力の低下」というテーマで、「近年SNSの普及もあり、人々は感性に傾き、あまり物事を理性的に考えなくなってきているのでは」と書いたが、この記事は同じような観点で市民と大衆を分けて考えている。
(このような大衆行動についてはル・ボンの「群集心理」でも述べられている)

以下参考までに同記事の要点(当方が注目したところ)を以下記しておく。


「(山腰修三のメディア私評)民意を捉える 感情か理性か、誰に何をどう語る」
(2025年2月14日)

 SNS時代の民主主義とは何かが問われた昨年の国内の選挙を受けて、朝日新聞では「民意のゆくえ」と題する記事がたびたび掲載された。まず注目されるのは、個々の内容よりもタイトルそれ自体である。つまりそれは、民主主義にとって民意を捉えることが困難な時代の到来を示している。

(中略)

 一般の人々とジャーナリズムとの距離は、ますます広がりつつあるように見える。重要な点は、それが日本特有のものでも、偶発的な問題でもないということだ。民意の流動化それ自体は、ポピュリズムの台頭に見られるように今日の自由民主主義諸国に共通する現象である。そしてその背景にはメディア環境の変容、中間層の衰退、価値観の多様化といった社会の構造的な変化がある。

 このように社会の急激な変化の中で民意が流動化する経験は過去にもあった。例えば20世紀前半には都市化、選挙権の拡大、そしてマスメディアの発達といった社会の大規模な変化の中で、民主主義の「危機」をめぐる議論が活性化した。それは民主主義を担う一般の人々は「市民」なのか「大衆」なのか、という問いでもあった。この場合、市民は理性的で自律性があり、対話を通じて政治に参加する存在であり、大衆は感情的で空気に流され、政治的な無関心と熱狂とを揺れ動く同質的な存在とされていた。

 当時のジャーナリズムもまた、新聞読者層の急増を受けて「自分たちがニュースを伝える相手は誰なのか」という問題に直面した。ここで人々に「大衆」(感情)と「市民」(理性)という矛盾した二つの顔を同時に見いだす民意の捉え方が徐々に確立されてきた。その結果、大衆向けのビジネスモデルに根差しつつ、市民に向けて語るというジャーナリズムの文化が作られたのである。

(中略)

「民意を捉える」という点からジャーナリズムは二つの選択肢に直面している。一つは大衆的側面(感情)により一層寄り添う、という道である。人々のネット上の活動を分析するマーケティング技術の発展とともに、人々が「本当に望む情報」を提供することができるようになった。この戦略は人々の感情の活性化によって駆動する今日のSNS環境とも親和的だ。しかしながら、自由民主主義にとって必要不可欠な「伝えるべき情報」を犠牲にすることになる。

 もう一つは、市民的側面(理性)に寄り添うという選択肢だ。これは20世紀的なジャーナリズムの規範を維持する上で有効だが、一般の人々の日常感覚に根差した「常識」とジャーナリズムとがますます切り離されるだろう。ジャーナリズムをはじめとするエリート的な専門文化に対する不信感が高まる中で、こうした戦略は分断を深め、自由民主主義の後退を加速させる危険すらある。

 現代のジャーナリズムは「誰に何を語るのか」という問題に取り組む必要があることは間違いない。とはいえ、同時にジャーナリスト自身はどのような立場でいかに語るのかという点も問われている点を忘れてはならないだろう。
 
(筆者)1978年生まれ。慶応義塾大学法学部教授(ジャーナリズム論、政治社会学)。近年はデジタル社会におけるメディアと民主主義について研究。主著に「ニュースの政治社会学」。

 


コメント    この記事についてブログを書く
« トランプは支離滅裂 | トップ | ICJとICC »

コメントを投稿

サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。

話の種」カテゴリの最新記事