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平安時代の女性文学と日記

2024-05-17 13:32:24 | 話の種

「平安時代の女性文学と日記」


[源氏物語]

紫式部が夫との死別後、1002年頃から書き始めたもので、1005年頃に評判を聞いた藤原道長に召し出され、一条天皇の中宮彰子(藤原道長の娘)に仕える間に、藤原道長の支援のもと「源氏物語」を完成させた。

物語の概要は、天皇の実子だが天皇になれない宿命の主人公光源氏の栄光と没落、その政治的欲望と権力闘争の数々、光源氏の栄華復活とその死後、子と孫そして紫式部が自らを投影したとも思われる女性、この三者の世界と女性の末路など全54帖からなり、第1帖~第41帖は「光源氏」を軸に描かれ、第42帖~第54帖は「薫」を軸に描かれている(「二部構成説」)。

源氏物語は写本・版本により多少の違いはあるが、約100万文字、400字詰め原稿用紙約2,400枚、500名近くの登場人物、70年あまりの出来事が描かれ、和歌795首を詠み込み、典型的な王朝物語とされる。

現代の一般的な小説や物語には見られない特色として、歌人としての紫式部の力量が全帖にわたり発揮される源氏物語には和歌795首が詠み込まれ、それらは飾りではなく、とりわけ男女間の事柄や話の核心部分などは、文章ではなく、和歌によって婉曲に描かれる場面も多く、品位と描写を両立させる手法がとられており、この和歌が理解できないと話の展開自体がわからない場面も少なくない。
文章でそれらが描かれる際も、直接的描写はほとんどなく、自然の変化や流行の事柄などに置き換え、それらに語らせるなどの手法で一定の品位を保ち婉曲に描かれ、話の把握にはこの間接的描写への理解が要求される。
源氏物語は800首あまりから成る和歌集の側面を持つ物語とも言え、その鑑賞に和歌の理解は欠かせず、また平安中期の政治、文化、常識、風習、社会制度に囲まれて生活する千年前の読み手(主に皇族・貴族階級)を対象にして書かれており、現代の読み手は、これらを知り理解することも物語の把握に必要となる。

*「三部構成説」

第一部(第1帖~第33帖)
 光源氏が数多の恋愛遍歴を繰り広げつつ、王朝人として最高の栄誉を極める前半生
第二部(第34帖~第41帖)
 愛情生活の破綻による無常を覚り、やがて出家を志すその後半生と、源氏をとりまく子女の恋愛模様
第三部(第42帖~第54帖)
 源氏没後の子孫たちの恋と人生

*「宇治十帖」(第45帖~第54帖)第三部のうち後半の「橋姫」から「夢浮橋」までの十帖をいう。
この部分は宇治を主要な舞台としているなど、「源氏物語」の他の部分と異なる点が多いことから、他の部分とは分けて考えられる事が多い。

*NHK Eテレ「源氏物語の女君たち」で取り上げられた8人
(光源氏が愛した8人の女君はこんな女性)

「趣味どきっ!源氏物語の魅力が丸わかり」(NHK)

①藤壺の宮
光源氏の父・桐壺帝のもとに入内し、後に中宮となる。光源氏に恋慕われ密通し、懐妊してしまう。
②紫の上
10歳で光源氏に見初められ二条院に引き取られる。やがて光源氏にとってかけがえのない存在に。
③葵の上
光源氏の最初の正妻。愛のない結婚生活の末、10年目にして懐妊するが、産後に命を落とす。
④六条御息所
桐壺帝の弟の妃。光源氏と密通し、嫉妬に狂い、生き霊となって葵の上を襲う。
⑤朧月夜の君
光源氏の兄・朱雀帝の女御として入内予定だったのに、光源氏と一夜を過ごしてしまう。
⑥朝顔の君
桐壺帝の弟の娘。光源氏を慕いながらも求愛を拒み、男性に頼らず生きる道を選ぶ。
⑦明石の君
播磨の前国司・明石入道の娘。明石に来た光源氏と結ばれ懐妊。娘はやがて中宮となる。
⑧女三の宮
朱雀院の娘。14〜15歳で光源氏の2番目の正妻となる。


[平安中期~後期の日記・随筆]

「土佐日記」紀貫之(866-945?)(男性)
「蜻蛉日記」藤原道綱母(936-995?)
「紫式部日記」紫式部 (973-1018?)
「枕草子」清少納言 (966-1025)
「和泉式部日記」和泉式部(978年頃-没年不詳)
「更級日記」菅原孝標女(娘)(1008-1059?)

「土佐日記」
平安時代に成立した日本最古の日記文学のひとつ。紀貫之が土佐国から京に帰る最中に起きた出来事を諧謔を交えて綴った内容を持つ。
日本文学史上、おそらく初めての日記文学である。紀行文に近い要素をもっており、その後の仮名による表現、特に女流文学の発達に大きな影響を与えている。

*土佐日記はなぜ女性のふりをして書かれたのか
(土佐日記の冒頭文は「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり」というもの)
この土佐日記が書かれた平安時代中期には、日記というのは男性官人による公務の記録のことであり、漢文で書かれることが一般的だった。
一方ひらがなは当初女性によって用いられたもので、会話や和歌を描写することに長けており(和歌では男性も使用する)、紀貫之はこのひらがなの特性を活かした新しい日記文学の形に挑戦してみようという狙いで敢えて女性のフリをして書いたと考えられている。

「蜻蛉日記」
夫である藤原兼家との結婚生活や、兼家のもうひとりの妻である時姫(藤原道長の母)との競争、夫に次々とできる妻妾について書き、また旅先での出来事、上流貴族との交際、さらに母の死による孤独、息子藤原道綱の成長や結婚、兼家の旧妻である源兼忠女の娘を引き取った養女の結婚話とその破談について書かれている。
歌人との交流についても書いており、掲載の和歌は261首。なかでも「なげきつつひとりぬる夜のあくるまはいかに久しきものとかは知る」は百人一首に入っている。女流日記のさきがけとされ、「源氏物語」をはじめ多くの文学に影響を与えた。

「紫式部日記」
藤原道長の要請で宮中に上がった紫式部が、1008年秋から1010年正月まで宮中の様子を中心に書いた日記と手紙からなる。
全2巻で、1巻は記録的内容、2巻は手紙と記録的内容。

*紫式部はその日記に痛烈に清少納言の悪口を書いている。

「清少納言こそ、したり顔にいみじうはべりける人、さばかりさかちだち、まな書きちらしてはべるほども、よく見れば、まだいとたらぬことおほかり」
「かく、ひとにことならむと思ひこのめる人は、かならず見劣りし、行くすえうたてのみはべれば、艶になりぬる人は、いとすごうすずろなるをりも、もののあはれにすすみ、をかしきことも見過ぐさぬほどに、おのづからさるまじくあだなるさまにもなるにはべるべし」
「そのあだになりぬる人の果て、いかでかはよくはべらむ」

(清少納言は、得意顔でとても偉そうにしておりました人、あれほど利口ぶって、漢字を書き散らしております程度も、よく見ると、まだたいそう足りないことが多い)
(このように、人より特別優れていようと思いたがる人は、必ず見劣りし、将来は悪くなるだけでございますので、風流ぶるようになってしまった人は、ひどくもの寂しくてつまらない時も、しみじみと感動しているようにふるまい、趣のあることも見過ごさないうちに、自然とそうあってはならない誠実でない態度にもなるのでしょう)
(その誠実でなくなってしまった人の最期は、どうしてよいことでありましょうか)

物静かで慎み深いと思われる紫式部がどうしてここまで言うのかということだが、これは清少納言がライバル関係にあったことに加え、清少納言が枕草子の中で、紫式部の夫・宣孝の金峯山詣で(派手な衣装で行ったこと)を批判的に書いたことへの意趣返しだったと思われている。
また、この人物批評部分(和泉式部についての記述もある)は、誰かにあてた手紙のような形が取られており、記録としての日記ではなく、走り書きのような手紙文が日記の中に混入してしまったものとも思われる。

「枕草子」
平安時代中期に中宮定子に仕えた女房、清少納言により執筆された随筆。
「虫は」「木の花は」「すさまじきもの」「うつくしきもの」に代表される「ものづくし」の「類聚章段」をはじめ、日常生活や四季の自然を観察した「随想章段」、作者が出仕した中宮定子周辺の宮廷社会を振り返った「日記章段」(日記章段)など多彩な文章からなる。
執筆時期は正確には判明していないが、1001年にはほぼ完成したとされている。
総じて軽妙な筆致の短編が多く、作者の洗練されたセンスと、事物への鋭い観察眼が融合して、「源氏物語」の心情的な「もののあはれ」に対し、知性的な「をかし」の美世界を現出させた。
中宮に仕える女房としての生活を踏まえた日記的章段を含みつつ、多くの話題にわたり、随筆という文学形式を確立した点で特筆される。

「和泉式部日記」
和泉式部によって記された日記で、女流日記文学の代表的作品。
1003年4月〜1004年1月までの数ヶ月間の出来事をつづる。
為尊親王との恋のため父親に勘当され、夫橘道貞との関係も冷めたものとなって、嘆きつつ追憶の日々を過ごしていた和泉式部のもとに、為尊親王の弟帥宮敦道親王の消息の便りが届く。その帥宮と和歌や手紙などを取り交わし、また数度の訪問を受けるうちにお互いを深く愛する関係となり、最終的に和泉式部は帥宮邸に迎えられる。この間の和歌の取り交わしと、この恋愛に関する和泉式部のありのままの心情描写が本作品の大きな特色。

「更級日記」
平安時代中期頃に書かれた回想録。
作者の父菅原孝標は菅原道真の5世孫。母は「蜻蛉日記」を書いた藤原道綱母の異母妹。
夫の死を悲しんで書いたといわれており、作者13歳から52歳頃までの約40年間が綴られている。
東国・上総の国府(市原郡、(現在の千葉県市原市))に任官していた父・菅原孝標の任期が終了したことにより、1020年9月に上総から京の都へ帰国(上京)するところから起筆する。「源氏物語」を読みふけり、物語世界に憧憬しながら過ごした少女時代、度重なる身内の死去によって見た厳しい現実、祐子内親王家への出仕、30代での橘俊通との結婚と仲俊らの出産、夫の単身赴任そして康平元年秋の夫の病死などを経て、子供たちが巣立った後の孤独の中で次第に深まった仏教傾倒までが平明な文体で描かれている。(後世、作者は「源氏物語」のオタクとして知られるようになる)


(参考)「日記文学」

主として平安時代から鎌倉時代にかけて仮名で書かれた日記の中で、文学性のあるもの。 
日付を追って書く「土左日記」のような形式もあるが、ある時点で自己の生涯を自伝的に回想する「蜻蛉日記」のような形式が多い。 
自照性が強く、多くは女流の手になり、「紫式部日記」「更級日記」などが知られる。


(参考)[百人一首]より

09. 花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに
    小野小町(古今集 春 113)
35. 人はいさ心も知らずふる里は花ぞ昔の香に匂(にほ)ひける
    紀貫之(古今集 春 42)
56. あらざらむこの世のほかの思ひ出に今ひとたびのあふこともがな
    和泉式部(後拾遺集 恋 763)
57. めぐりあひて見しやそれともわかぬまに雲隠れにし夜はの月かな
    紫式部(新古今集 雑 1499)
58. ありま山ゐなの笹原風吹けばいでそよ人を忘れやはする
    大弐三位(紫式部の娘 藤原賢子)(後拾遺集 恋 709)
59. やすらはで寝なましものをさ夜ふけてかたぶくまでの月を見しかな
    赤染衛門(後拾遺集 恋 680)
60. 大江(おおえ)山いく野の道の遠ければまだふみも見ずあまの橋立
    小式部内侍(和泉式部の娘)(金葉集 雑 550)
62. 夜をこめてとりのそらねははかるともよに逢坂の関は許さじ
    清少納言(後拾遺集 雑 939)

 

 


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