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新聞やテレビ、雑誌などで、興味深かった記事や内容についての備忘録、感想、考察

平安時代の女性文学と日記

2024-05-17 13:32:24 | 話の種

「平安時代の女性文学と日記」


[源氏物語]

紫式部が夫との死別後、1002年頃から書き始めたもので、1005年頃に評判を聞いた藤原道長に召し出され、一条天皇の中宮彰子(藤原道長の娘)に仕える間に、藤原道長の支援のもと「源氏物語」を完成させた。

物語の概要は、天皇の実子だが天皇になれない宿命の主人公光源氏の栄光と没落、その政治的欲望と権力闘争の数々、光源氏の栄華復活とその死後、子と孫そして紫式部が自らを投影したとも思われる女性、この三者の世界と女性の末路など全54帖からなり、第1帖~第41帖は「光源氏」を軸に描かれ、第42帖~第54帖は「薫」を軸に描かれている(「二部構成説」)。

源氏物語は写本・版本により多少の違いはあるが、約100万文字、400字詰め原稿用紙約2,400枚、500名近くの登場人物、70年あまりの出来事が描かれ、和歌795首を詠み込み、典型的な王朝物語とされる。

現代の一般的な小説や物語には見られない特色として、歌人としての紫式部の力量が全帖にわたり発揮される源氏物語には和歌795首が詠み込まれ、それらは飾りではなく、とりわけ男女間の事柄や話の核心部分などは、文章ではなく、和歌によって婉曲に描かれる場面も多く、品位と描写を両立させる手法がとられており、この和歌が理解できないと話の展開自体がわからない場面も少なくない。
文章でそれらが描かれる際も、直接的描写はほとんどなく、自然の変化や流行の事柄などに置き換え、それらに語らせるなどの手法で一定の品位を保ち婉曲に描かれ、話の把握にはこの間接的描写への理解が要求される。
源氏物語は800首あまりから成る和歌集の側面を持つ物語とも言え、その鑑賞に和歌の理解は欠かせず、また平安中期の政治、文化、常識、風習、社会制度に囲まれて生活する千年前の読み手(主に皇族・貴族階級)を対象にして書かれており、現代の読み手は、これらを知り理解することも物語の把握に必要となる。

*「三部構成説」

第一部(第1帖~第33帖)
 光源氏が数多の恋愛遍歴を繰り広げつつ、王朝人として最高の栄誉を極める前半生
第二部(第34帖~第41帖)
 愛情生活の破綻による無常を覚り、やがて出家を志すその後半生と、源氏をとりまく子女の恋愛模様
第三部(第42帖~第54帖)
 源氏没後の子孫たちの恋と人生

*「宇治十帖」(第45帖~第54帖)第三部のうち後半の「橋姫」から「夢浮橋」までの十帖をいう。
この部分は宇治を主要な舞台としているなど、「源氏物語」の他の部分と異なる点が多いことから、他の部分とは分けて考えられる事が多い。

*NHK Eテレ「源氏物語の女君たち」で取り上げられた8人
(光源氏が愛した8人の女君はこんな女性)

「趣味どきっ!源氏物語の魅力が丸わかり」(NHK)

①藤壺の宮
光源氏の父・桐壺帝のもとに入内し、後に中宮となる。光源氏に恋慕われ密通し、懐妊してしまう。
②紫の上
10歳で光源氏に見初められ二条院に引き取られる。やがて光源氏にとってかけがえのない存在に。
③葵の上
光源氏の最初の正妻。愛のない結婚生活の末、10年目にして懐妊するが、産後に命を落とす。
④六条御息所
桐壺帝の弟の妃。光源氏と密通し、嫉妬に狂い、生き霊となって葵の上を襲う。
⑤朧月夜の君
光源氏の兄・朱雀帝の女御として入内予定だったのに、光源氏と一夜を過ごしてしまう。
⑥朝顔の君
桐壺帝の弟の娘。光源氏を慕いながらも求愛を拒み、男性に頼らず生きる道を選ぶ。
⑦明石の君
播磨の前国司・明石入道の娘。明石に来た光源氏と結ばれ懐妊。娘はやがて中宮となる。
⑧女三の宮
朱雀院の娘。14〜15歳で光源氏の2番目の正妻となる。


[平安中期~後期の日記・随筆]

「土佐日記」紀貫之(866-945?)(男性)
「蜻蛉日記」藤原道綱母(936-995?)
「紫式部日記」紫式部 (973-1018?)
「枕草子」清少納言 (966-1025)
「和泉式部日記」和泉式部(978年頃-没年不詳)
「更級日記」菅原孝標女(娘)(1008-1059?)

「土佐日記」
平安時代に成立した日本最古の日記文学のひとつ。紀貫之が土佐国から京に帰る最中に起きた出来事を諧謔を交えて綴った内容を持つ。
日本文学史上、おそらく初めての日記文学である。紀行文に近い要素をもっており、その後の仮名による表現、特に女流文学の発達に大きな影響を与えている。

*土佐日記はなぜ女性のふりをして書かれたのか
(土佐日記の冒頭文は「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり」というもの)
この土佐日記が書かれた平安時代中期には、日記というのは男性官人による公務の記録のことであり、漢文で書かれることが一般的だった。
一方ひらがなは当初女性によって用いられたもので、会話や和歌を描写することに長けており(和歌では男性も使用する)、紀貫之はこのひらがなの特性を活かした新しい日記文学の形に挑戦してみようという狙いで敢えて女性のフリをして書いたと考えられている。

「蜻蛉日記」
夫である藤原兼家との結婚生活や、兼家のもうひとりの妻である時姫(藤原道長の母)との競争、夫に次々とできる妻妾について書き、また旅先での出来事、上流貴族との交際、さらに母の死による孤独、息子藤原道綱の成長や結婚、兼家の旧妻である源兼忠女の娘を引き取った養女の結婚話とその破談について書かれている。
歌人との交流についても書いており、掲載の和歌は261首。なかでも「なげきつつひとりぬる夜のあくるまはいかに久しきものとかは知る」は百人一首に入っている。女流日記のさきがけとされ、「源氏物語」をはじめ多くの文学に影響を与えた。

「紫式部日記」
藤原道長の要請で宮中に上がった紫式部が、1008年秋から1010年正月まで宮中の様子を中心に書いた日記と手紙からなる。
全2巻で、1巻は記録的内容、2巻は手紙と記録的内容。

*紫式部はその日記に痛烈に清少納言の悪口を書いている。

「清少納言こそ、したり顔にいみじうはべりける人、さばかりさかちだち、まな書きちらしてはべるほども、よく見れば、まだいとたらぬことおほかり」
「かく、ひとにことならむと思ひこのめる人は、かならず見劣りし、行くすえうたてのみはべれば、艶になりぬる人は、いとすごうすずろなるをりも、もののあはれにすすみ、をかしきことも見過ぐさぬほどに、おのづからさるまじくあだなるさまにもなるにはべるべし」
「そのあだになりぬる人の果て、いかでかはよくはべらむ」

(清少納言は、得意顔でとても偉そうにしておりました人、あれほど利口ぶって、漢字を書き散らしております程度も、よく見ると、まだたいそう足りないことが多い)
(このように、人より特別優れていようと思いたがる人は、必ず見劣りし、将来は悪くなるだけでございますので、風流ぶるようになってしまった人は、ひどくもの寂しくてつまらない時も、しみじみと感動しているようにふるまい、趣のあることも見過ごさないうちに、自然とそうあってはならない誠実でない態度にもなるのでしょう)
(その誠実でなくなってしまった人の最期は、どうしてよいことでありましょうか)

物静かで慎み深いと思われる紫式部がどうしてここまで言うのかということだが、これは清少納言がライバル関係にあったことに加え、清少納言が枕草子の中で、紫式部の夫・宣孝の金峯山詣で(派手な衣装で行ったこと)を批判的に書いたことへの意趣返しだったと思われている。
また、この人物批評部分(和泉式部についての記述もある)は、誰かにあてた手紙のような形が取られており、記録としての日記ではなく、走り書きのような手紙文が日記の中に混入してしまったものとも思われる。

「枕草子」
平安時代中期に中宮定子に仕えた女房、清少納言により執筆された随筆。
「虫は」「木の花は」「すさまじきもの」「うつくしきもの」に代表される「ものづくし」の「類聚章段」をはじめ、日常生活や四季の自然を観察した「随想章段」、作者が出仕した中宮定子周辺の宮廷社会を振り返った「日記章段」(日記章段)など多彩な文章からなる。
執筆時期は正確には判明していないが、1001年にはほぼ完成したとされている。
総じて軽妙な筆致の短編が多く、作者の洗練されたセンスと、事物への鋭い観察眼が融合して、「源氏物語」の心情的な「もののあはれ」に対し、知性的な「をかし」の美世界を現出させた。
中宮に仕える女房としての生活を踏まえた日記的章段を含みつつ、多くの話題にわたり、随筆という文学形式を確立した点で特筆される。

「和泉式部日記」
和泉式部によって記された日記で、女流日記文学の代表的作品。
1003年4月〜1004年1月までの数ヶ月間の出来事をつづる。
為尊親王との恋のため父親に勘当され、夫橘道貞との関係も冷めたものとなって、嘆きつつ追憶の日々を過ごしていた和泉式部のもとに、為尊親王の弟帥宮敦道親王の消息の便りが届く。その帥宮と和歌や手紙などを取り交わし、また数度の訪問を受けるうちにお互いを深く愛する関係となり、最終的に和泉式部は帥宮邸に迎えられる。この間の和歌の取り交わしと、この恋愛に関する和泉式部のありのままの心情描写が本作品の大きな特色。

「更級日記」
平安時代中期頃に書かれた回想録。
作者の父菅原孝標は菅原道真の5世孫。母は「蜻蛉日記」を書いた藤原道綱母の異母妹。
夫の死を悲しんで書いたといわれており、作者13歳から52歳頃までの約40年間が綴られている。
東国・上総の国府(市原郡、(現在の千葉県市原市))に任官していた父・菅原孝標の任期が終了したことにより、1020年9月に上総から京の都へ帰国(上京)するところから起筆する。「源氏物語」を読みふけり、物語世界に憧憬しながら過ごした少女時代、度重なる身内の死去によって見た厳しい現実、祐子内親王家への出仕、30代での橘俊通との結婚と仲俊らの出産、夫の単身赴任そして康平元年秋の夫の病死などを経て、子供たちが巣立った後の孤独の中で次第に深まった仏教傾倒までが平明な文体で描かれている。(後世、作者は「源氏物語」のオタクとして知られるようになる)


(参考)「日記文学」

主として平安時代から鎌倉時代にかけて仮名で書かれた日記の中で、文学性のあるもの。 
日付を追って書く「土左日記」のような形式もあるが、ある時点で自己の生涯を自伝的に回想する「蜻蛉日記」のような形式が多い。 
自照性が強く、多くは女流の手になり、「紫式部日記」「更級日記」などが知られる。


(参考)[百人一首]より

09. 花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに
    小野小町(古今集 春 113)
35. 人はいさ心も知らずふる里は花ぞ昔の香に匂(にほ)ひける
    紀貫之(古今集 春 42)
56. あらざらむこの世のほかの思ひ出に今ひとたびのあふこともがな
    和泉式部(後拾遺集 恋 763)
57. めぐりあひて見しやそれともわかぬまに雲隠れにし夜はの月かな
    紫式部(新古今集 雑 1499)
58. ありま山ゐなの笹原風吹けばいでそよ人を忘れやはする
    大弐三位(紫式部の娘 藤原賢子)(後拾遺集 恋 709)
59. やすらはで寝なましものをさ夜ふけてかたぶくまでの月を見しかな
    赤染衛門(後拾遺集 恋 680)
60. 大江(おおえ)山いく野の道の遠ければまだふみも見ずあまの橋立
    小式部内侍(和泉式部の娘)(金葉集 雑 550)
62. 夜をこめてとりのそらねははかるともよに逢坂の関は許さじ
    清少納言(後拾遺集 雑 939)

 

 

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紫式部とその時代(制度)

2024-05-17 13:25:35 | 話の種

「紫式部とその時代(制度)」


[朝廷の官職と位階]

「二官八省」
これは中国の官僚制度を模したものだが、制度をうまく回すために、日本では序列を厳しく定めていた。

「二官」
神祇官(祭祀を担当)
太政官(行政を担当)

「八省」
中務省 … 詔勅や上奏など天皇の側近として政務を担当
式部省 … 文官の人事、教育などを担当
治部省 … 外交、雅楽、葬儀などを担当
民部省 … 地方行政、財政を担当
兵部省 … 武官の人事、軍事を担当
刑部省 … 裁判、処罰を担当
大蔵省 … 租税や貢献物の管理・出納を担当
宮内省 … 宮中の庶務を担当

「官名と位階」

太政大臣 (正一位、従一位)
左大臣  (正二位、従二位)
右大臣  (ー”ー)
内大臣  (ー”ー)
大納言  (正三位)
中納言  (従三位)
参議   (正四位下)
~     ~
小納言  (従五位下)
~     ~
     (従六位下)     

*序列による差
平安時代中期からは、天皇が住む清涼殿に入ることができるのは基本的に五位以上の官人から選ばれた人たちで、この人たちのことを殿上人と呼ぶ。(但し蔵人は六位からも任じられた)
律令では五位と六位との差は収入にも如実に表れていて、奈良時代の記録を見ると、五位の収入が現在の金額に換算しておよそ3千万円なのに対し、六位はおよそ7百万円と大きな差があったようである。
三位以上と四位の参議のことを公卿と呼び、彼らが中心となって天皇を補佐して政治を行っており、朝廷の待遇もさらに厚かった。
収入は生活に直結するので、平安時代の貴族たちが高い位を求めた理由を、この待遇の違いからも見ることができる。
一方、この時代には七位以下の位階はほとんど授けられなくなり、下級官人のほとんどは六位という位階を持つことになったが、位階にともなう収入はほとんどなくなったので、特に官職に就いていない下級官人の生活は非常に苦しかったと思われる。
彼らはさまざまな儀式に参列する際に下賜されたり、有力者に仕えることでもらえる禄が主な収入源だったと思われ、そういう役も全員に行きわたるわけではないので、生活はなかなか大変だったであろうと思われる。
(ドラマでも紫式部の父為時は当初官位は最下位の従六位下でまた役職がなかったので、苦しい家族生活が描かれている。)
(為時はその後花山天皇即位の際に式部丞・六位蔵人の官位を受け、その後藤原道長の執政になった時は越前守に任じられ従五位下、そして最終的には正五位下で越後守となる。)

*蔵人は日本の律令制下の令外官(律令の令制に規定のない新設の官職)の一つ。天皇の秘書的役割を果たした。


「左大臣」「右大臣」
太政大臣と同じく律令制度の下に定められた役職。太政大臣に次ぐ位だが、太政大臣は実務を行わないため事実上の最高位ともいえる。

左大臣と右大臣は同列ではなく左大臣の方が上位。
右大臣には左大臣を補佐したり、左大臣が不在のときに代わりに政務を行ったりする役割がある。現在の日本で例えるなら、左大臣が内閣総理大臣で右大臣が副総理といえる。

「太政大臣」
太政大臣は太政官の筆頭長官。職掌はなくふさわしい人物のみが就任できる名誉職で通常表に出ることはない。適任者がなければ設置する必要はなく欠員とする。

日本初の太政大臣は天智天皇の息子の「大友皇子」で、天智天皇が任命した。
平安時代には藤原氏が太政大臣になることが多かったが、太政大臣になっても摂政・関白にならないうちは政治の実権をにぎれなかったので、太政大臣は貴族の家柄の格を表すというただの肩書になってしまった。
基本的に太政大臣に就任するのは貴族だが、平安時代末期に武家政権を樹立した「平清盛」が朝廷から武士として初めて「太政大臣」に任命された。 

(参考)

「関白」(成人している天皇を補佐する役職)

実際に政治を行うのは天皇で、関白は助言者のような立場。
関白という役職は律令で規定されたものではなくどこにも属さない自由な立場で、権限も強く実質的に政治を動かす力を持っていた。
関白はもともとは「関(あずか)り白(もう)す」の意味で、天皇に差し出される文書を天皇より先に見てから天皇に差し出すこと。884年に光孝天皇が天皇になったとき、その役目に任命された藤原基経が最初の関白にあたる。
やがて天皇が幼いときは摂政、成長後は関白をおいて政治を行わせることが習わしになり、藤原道長の子孫が摂政と関白の役職をひとりじめにすることになった。
藤原氏以外で関白になったのは、戦国時代の武将「豊臣秀吉」と息子の「秀頼」のみ。

「摂政」(天皇に代わって政務を行う役職)

幼くして即位した天皇や、女性天皇、病弱で政務ができない天皇の代行者として政治を取り仕切る。
日本で最初の摂政は、6世紀後半の「厩戸皇子(後の聖徳太子)」といわれてる。
叔母の推古天皇に能力を認められ政治を任されたもの。
皇族以外では藤原良房が、清和天皇が幼かったために任命されたのが最初。


「宮中に於ける女性の身分」

「宮中での序列」

(天皇の后と妃)
中宮(ちゅうぐう)
  皇后の別称。皇后が複数いる場合は2番目以降の者を指すことが多い。
女御(にょうご)
  皇后・中宮に次ぐ地位で、皇族や大臣の娘がなる。皇后や中宮になる予定でも、まずは女御になるのが基本。
更衣(こうい)
  女御に次ぐ地位で、大納言(だいなごん)以下の娘がなる。定員は12名。

(女官)
尚侍(ないしのかみ)
  内侍司 (ないしのつかさ:後宮十二司のひとつ) の長官。天皇の秘書のような役割で定員は2名。摂関家の娘が選ばれることが多い。
典侍(ないしのすけ)
  尚侍に次いで仕事を取り仕切る役割で、定員は4名。公卿の娘が選ばれることが多い。
掌侍(ないしのじょう)
  典侍に次いで実務を行う。定員は4名。

女孺(にょじゅ)
  下級女官で定員は100名。雑務を担当する後宮十二司の末端職員。
命婦(みょうぶ)
  天皇の儀式や神事を担当する。官位相当や定員はない。
東豎子(あずまわらわ)
  内侍司に所属する下級女官。行幸(ぎょうこう:天皇が外出すること)の際は男装してお供した。定員は3名または4名という説がある。

「女房」

女房は朝廷や身分の高い人々に仕えた女性の使用人のこと。「房」とは部屋のことで、屋敷に部屋を与えられていた。天皇に仕える女房を「上の女房」と言い、中宮に仕える女房は「宮の女房」と言う。

*女房は、仕えた主人が周りの貴族達に尊敬されたり、天皇の寵愛を受けたりするように務めることが求められので、教養や知性に優れた中流貴族の娘が女房に選ばれることが多かった。
彼女たちは、主人の身の回りの世話や読み聞かせ、話し相手などの幅広い業務をこなしていた。

*宮の女房は、多くが妃に付けられて後宮に入った妃の実家の人々。平安時代中期以降は中級貴族の娘が出仕するケースも多く、教養に優れた人材が多かった。

*女房によってひらがなで書かれた日記や随筆、物語などは「女房文学」とも呼ばれ「清少納言」「紫式部」「和泉式部」などが代表的な作者。
紫式部による「紫式部日記」や清少納言の「枕草子」、「菅原孝標女」による「更級日記」には女房として初出仕したときの様子が書かれている。

「女房の序列」

女房の階層は3つで、出身の階級によって分けられていた。

・上臈(じょうろう)
 官位:大臣や大納言の娘など、三位以上。
 職務:中宮の食事の給仕を務める役目の者、髪をすいたり化粧をしたりする役目の者、中宮を楽しませる役目の者などがおり、禁色を許されていた。
・中臈(ちゅうろう)
 官位:四~五位
 職務:女童(中宮や姫君の身の回りの世話をする未成年の少女)や下臈の女房たちの仕事を監視し、雑用もこなした。清少納言や紫式部はこの階層に属する。
・下臈(げろう)
 官位:摂関家の家司や神社の家の娘たち。
 職務:下級の女官で後宮十二司に勤務。中宮、上臈とも会話をする機会はほとんどない。

「後宮の仕事」

後宮に存在する以下12の役所が「後宮十二司」と呼ばれ、神事や食事、行事などの与えられた仕事を行う。内裏には1,000人を超える女官が仕えていたと言われてる。

内侍司(ないしのつかさ)
蔵司(くらのつかさ)
書司(ふみのつかさ)
薬司(くすりのつかさ)
兵司(つわもののつかさ)
闡司(みかどのつかさ)
殿司(とのもりのつかさ)
掃司(かにもりのつかさ)
水司(もひとりのつかさ)
膳司(かしわでのつかさ)
酒司(さけのつかさ)
縫司(ぬひとのつかさ)

*内侍司(ないしのつかさ)
人数が多かったのは内侍司で、ここは今でいう秘書室のような役割を果たしていた。
つねに天皇のそばに控えていて、お言葉の伝達などが仕事だった。

内侍司の人員構成

・尚侍(ないしのかみ)…2名
・典侍(ないしのすけ)…4名
・掌侍(ないしのじょう)…4名
・女孺(にょじゅ)…100名

尚侍には有力貴族の娘が選ばれることになっていて、平安時代には尚侍が天皇の后となるのが一般化した。実質的な内侍司の長官は典侍だったようでである。

内侍司はあこがれの職場だったらしく、清少納言は「枕草子」でたびたび話題にし、「なほ内侍に奏してなさん(ぜひとも内侍司に推薦しよう)」とほめられて喜ぶ場面もあるほど。

内裏(だいり):天皇が住む宮殿
後宮(こうきゅう):天皇の妃や女官達が住む場所

*後宮
天皇が政務を行った「紫宸殿」や、天皇の居住区・清涼殿が並ぶ「内裏」の後方(北側)にあったことからこのように呼ばれるようになった。 天皇に入内した女性達はいずれも七殿五舎の内どれかひとつを割り当てられる。
当時の後宮は仁寿殿北側にある七殿五舎の建物で構成され渡り廊下で連結されていた。
天皇の住居である内裏の北半分を占めている。
後宮というと江戸時代の大奥のように男子禁制の印象が強いが、それとは異なり男性官人や貴族が自由に出入りすることができた。


(参照)

「平安時代の貴族システム 官職と位階」(NHK)
「平安時代朝廷における女性の仕事」(ホームメイト)
「七殿五舎で暮らす平安時代の女性の身分」(ホームメイト)

 

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紫式部とその時代(人物)

2024-05-17 12:48:30 | 話の種

「紫式部とその時代(人物)」

紫式部といえば源氏物語の作者、源氏物語といえば光源氏というプレイボーイの色恋の物語ということしか知らず、また平安時代についても公家社会の軟弱な時代と言うことで、さして興味もなかったが、NHKの大河ドラマ「光る君へ」が始まったことで、いろいろとその解説を見聞きするにつれ、その時代背景について俄然と興味が湧いてきた。

*NHK Eテレの「趣味どきっ!源氏物語の女君たち」(全8回)では、物語のキーパーソンとなる8人の女君の生き方を切り口に紹介、清泉女子大学文学部の藤井教授の解説付きで、取敢えずこの8人のキャラクターの背景を知っておけば大丈夫(物語の真髄が分かる)ということで、確かに(ああ、こういう内容なのかと)分かり易く面白かった。

(NHKのドラマも公家の顔が他のドラマでよく見られる眉毛を剃って上に短く描いたようなものではなく、
言葉も公家がよく使う「おじゃる言葉」かつオカマのような軟弱な物言いではなく、現代口語の日常会話のスタイルなので、すんなりと受け入れやすい。)

まず平安時代だが、厳しい階級社会・身分社会で、武力闘争はなくとも権謀術数をめぐらせた公家社会の熾烈な権力闘争、身分社会に於ける女性の立場や生き方など非常に興味深いものがあり、また藤原氏一族の天皇家との関係や繁栄の理由などについては一部学校の歴史で習ったもののうろ覚えで、認識を新たにした。

そして源氏物語については当時の朝廷・貴族社会の様子、女性の立場などをほぼ忠実に垣間見ることができ、単なる恋愛物語ではなく歴史的にも貴重な資料であることが分かった。
このようなものがよく書き残せたなと思うと同時に、作中での人間関係や生き方、それに伴う悩みや心情などは現代でも通じるものがあり、それらが素直に表現されていて、これが千年以上も前に書かれたものと思うと驚きである。

そこで今更ながらだが、この時代について当方が興味を持った、或いはドラマを見るうえで必要と思われること(背景)を「人物」「制度」「文学」に分けて整理してみた。
(NHKのドラマでは虚実入り混じっているので、史実として明らかにされているものを整理した)

(参考)NHKのドラマと史実との違いについては取敢えず下記参照
(この記事の後部に、ドラマ「光る君へ」に関連した記事のインデックスがあり、いろいろと参考になる)

「大河ドラマ「「光る君へ」は史実と違う?」(ホームメイト)


[天皇家と藤原氏一族]

[天皇家]

(61)朱雀天皇(930-946)(女御)煕子女王、藤原慶子
  (父)醍醐天皇(第11皇子)
  (母)藤原基経(摂政関白)の娘・中宮藤原穏子(やすこ)
(62)村上天皇(946-967)(女御)徽子女王、荘子女王、藤原述子、藤原芳子
  (父)醍醐天皇(第14皇子)
  (母)藤原基経(摂政関白)の娘・中宮藤原穏子(やすこ)
(63)冷泉天皇(967-969)(中宮)昌子内親王(朱雀天皇皇女)(女御)*藤原懐子、*藤原超子、藤原怤子
  (父)村上天皇(第2皇子)
  (母)藤原師輔(右大臣)の長女・中宮藤原安子(やすこ)
(64)円融天皇(969-984)(中宮)藤原媓子、藤原遵子(女御)*藤原詮子、尊子内親王
  (父)村上天皇(第5皇子)
  (母)藤原師輔(右大臣)の長女・中宮藤原安子(やすこ)
(65)花山天皇(984-986)(女御)藤原忯子、藤原姚子、藤原諟子、婉子女王
  (父)冷泉天皇(第1皇子)
  (母)藤原伊尹(摂政太政大臣)の娘・冷泉天皇の女御藤原懐子(ちかこ)
(66)一条天皇(986-1011)(皇后)藤原定子(中宮)*藤原彰子(女御)藤原義子、藤原元子、藤原尊子
  (父)円融天皇(第1皇子)
  (母)藤原兼家(摂政関白太政大臣)の次女・円融天皇の女御藤原詮子(あきこ)
(67)三条天皇(1011-1016)(皇后)藤原娍子(中宮)藤原妍子
  (父)冷泉天皇(第2皇子)
  (母)藤原兼家(摂政関白太政大臣)の長女・冷泉天皇の女御藤原超子(とおこ)(贈皇太后)
(68)後一条天皇(1016-1036)(中宮)藤原威子
  (父)一条天皇(第2皇子)
  (母)藤原道長(摂政太政大臣)の長女・一条天皇の中宮藤原彰子(あきこ)
(69)後朱雀天皇(1036-1045)(皇后)禎子内親王(中宮)藤原嫄子(女御)藤原生子、藤原延子(東宮妃)*藤原嬉子
  (父)一条天皇(第3皇子)
  (母)藤原道長(摂政太政大臣)の長女・一条天皇の中宮藤原彰子(あきこ)
(70)後冷泉天皇(1045-1068)(皇后)藤原寛子、藤原歓子(中宮)章子内親王
  (父)後朱雀天皇(第1皇子)
  (母)藤原道長(摂政太政大臣)の六女(道長・倫子夫妻の末娘)、後朱雀天皇の東宮妃藤原嬉子(よしこ)(贈皇太后)
  (*紫式部の娘大弐三位が後冷泉天皇の乳母)

[藤原氏一族]

藤原兼家(摂政・関白・太政大臣)*(正室)藤原時姫、(室)藤原道綱母(蜻蛉日記の作者)、他
藤原道隆(兼家の長男)(摂政・関白・内大臣)*母は時姫
藤原道綱(兼家の次男)(大納言)
藤原道兼(兼家の三男)(関白右大臣・太政大臣)*母は時姫
藤原道義(兼家の四男)(治部少輔)
藤原道長(兼家の五男)(摂政・太政大臣)*母は時姫 *妻は源倫子(正室)、源明子、他
藤原超子(とおこ)(兼家の長女*母は時姫、冷泉天皇の中宮)*三条天皇の生母
藤原詮子(あきこ)(兼家の次女*母は時姫、円融天皇の中宮)*一条天皇の生母
源倫子(ともこ)(道長の正室、父は左大臣源雅信、母は正室藤原穆子)
源明子(あきこ)(道長の妻、父は左大臣源高明、母は藤原師輔娘の愛宮)
藤原通頼(道隆の長男)(権大納言)
藤原伊周(道隆の三男)(内大臣)*名前は(これちか)
藤原頼通(道長の長男)(摂政・関白・太政大臣)*母は倫子
藤原教通(道長の五男)(関白・太政大臣)*名前は(のりみち)*母は倫子
藤原定子(さだこ)(道隆の長女、一条天皇の皇后(中宮))
藤原彰子(あきこ)(道長の長女*母は倫子、一条天皇の中宮)*後一条天皇、後朱雀天皇の生母
藤原姸子(きよこ)(道長の次女*母は倫子、三条天皇の中宮)
藤原威子(たけこ)(道長の三女*母は倫子、後一条天皇の中宮)
藤原嬉子(よしこ)(道長の六女*母は倫子、後朱雀天皇の東宮妃)*後冷泉天皇の生母
藤原寛子(ひろこ)(頼通の長女、後冷泉天皇の皇后)

*平安時代の女性の名は、教科書などでは音読みで記載されることが多いが(詮子(せんし)、彰子(しょうし)、定子(ていし)など)、これは同じ名前がいくつもでてくるので、明治以降、便宜的に音読みが使われ、一般にも広がったようで、当時は訓読みで呼ばれていた可能性が高いらしい。(いくつかの例でそれが示されている)

[藤原道長]
平安時代の最高権力者藤原道長は、その絶頂期に娘四人を相次いで宮中に送り込み「この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることのなしと思へば」という和歌を詠んだことで有名。 
道長の長女彰子に仕えたのが紫式部。 源氏物語の主人公、光源氏のモデルは道長で、物語はその栄華の世界の写しと言われている。

[藤原氏について]
(ドラマでも姓は藤原氏ばかりで混乱するが、そのルーツは次の通り)

古代の代表的な氏名、源氏・平氏・藤原氏・橘氏(四姓「源平藤橘(げんぺいとうきつ)」)の一つ。摂関政治を行った貴族。初め中臣(なかとみ)氏といい、大和朝廷の神事を司った。中臣鎌足が中大兄皇子(後の天智天皇)とともに大化改新(645年)の大業をなし、天智天皇より藤原朝臣の姓を賜ったことが藤原姓の始まり。藤原不比等の娘宮子が文武天皇妃として聖武天皇を生んだ。このことから皇室の外戚としてその力を確固たるものとした。不比等の子孫だけが藤原姓を許され、その4子が藤原四家(南家、北家、式家、京家)の祖となった。なかでも北家が藤原氏の主流となり、摂政・関白の地位に就いた。全盛を迎えたのは11世紀藤原道長・藤原頼通のころになる。
氏神は春日大社、氏寺は興福寺。

(参照)

「確かめよう、日本の歴史/藤原道長の家系図」(静岡県総合教育センター)
「藤原道長の家系図と年表」(ホームメイト)

[紫式部]

天延元年(973年)生まれ。(諸説あり)
藤原北家良門流の越後守・藤原為時の娘で、母は摂津守・藤原為信女。幼少期に母を亡くしたとされている。(父の藤原為時は官位は正五位下と下級貴族ながら、花山天皇に漢学を教えた漢詩人・歌人)
996年越前守になった父の赴任に同行、998年父を越前に残して京に戻り、遠縁で又従兄妹でもある山城守・藤原宣孝(20歳ほど年上で既に数人の妻と子もいた)と結婚し一女を産んだ。しかし結婚から3年ほどで夫と死別し、1002年頃から「源氏物語」を書き始めた。
1005年頃に評判を聞いた藤原道長に召し出され、一条天皇の中宮彰子(藤原道長の娘)に仕える間に、藤原道長の支援のもと「源氏物語」を完成させた。


「女房となった女性の名前の由来」

[紫式部、清少納言、和泉式部、赤染衛門]

紫式部: (973-1018)46歳没(諸説あり)
紫式部は通称(宮廷での女房名)で、元は「藤式部」(「藤原式部の女(娘)」の略称で、藤原は父親の姓、式部は父親の役職)だが藤式部という女房名は特に珍しい物ではなかったので、彼女の作品の源氏物語の登場人物である「紫の上」にちなんで、人々の間で「紫式部」とよばれるようになったと言われている。(一条天皇の中宮彰子に仕えた)

清少納言: (966頃-1025頃)60歳没?
清少納言は通称(宮廷での女房名)で、「清原少納言の女(関係者)」の略称。「少納言」については諸説あるが、家系(先祖、平安時代初期)に清原有雄という少納言(役職)がいたので、その先祖にちなんで付けられたと説が分かり易い。(一条天皇の中宮定子に仕えた)
読み方は(せい・しょうなごん)

和泉式部:(978年頃-1019年頃)42歳没?(没年不詳)
夫橘道貞(後に離婚)が和泉守、父大江雅致が式部省の官僚(式部丞)だったことからきた女房名。(一条天皇の中宮彰子に仕えた)

赤染衛門:(956年頃-1041年以後)85歳没?(没年不詳)
父が赤染時用で衛門府の官僚(右衛門志)だったことからきた女房名。(一条天皇の中宮彰子に仕えた)

(参考)
清少納言は一条天皇の中宮定子に仕え、紫式部は中宮彰子に仕えたので政敵ともいえるライバル関係にあったが、後宮における両者の活動時期には少しのズレがあったので、直接の面識はなかったのではと思われている。(ドラマでは会って話をしているが)


「女性名について」

紫式部、清少納言などのように官位を受けていない女房などは、通称として、姓は父親の名前(苗字)から一字とり、次に家族・親族で最も位の高かった位階を付けることが多い。
ではこれらの人たちの本当の名前は何かということだが、官位がないために正式に文献に記載されていないので分からない。
(*紫式部はドラマでは「まひろ」と呼ばれているが、これはドラマ創作上の名前)
一方、官位がある女性は、官位をもらう際に名前を届けるので、朝廷の公式文書に記載されることになる。

また、それ以外の女性については、例えば蜻蛉日記の作者は藤原道綱母、「更級日記」の作者は菅原孝標女(娘)というように父親あるいは息子との関係を示して文献上に表記されている。

女性で名前が残るのは次のような場合である。

1.歴代天皇の后妃たち
正式に天皇の后妃となった女性は朝廷の公式文書にその名を残す必要があったので、必ず本名を明かさなければならなかった。
(定子、彰子など)

2.神に奉仕した女性たち
伊勢神宮の斎宮や賀茂神社の斎院がこれに相当する。
未婚の内親王あるいは女王が選ばれて当代の帝の世のために神に奉仕した。
(恬子内親王、選子内親王など)

3.身分高き女性たち
例えば源倫子だが、この人は藤原道長の妻だったというだけで無く、後一条天皇・後朱雀天皇・後冷泉天皇の祖母になり、朝廷から従一位という最高の位を戴いたので、公式の記録に残っている。
その他、摂関家をはじめとする由緒ある貴族の場合は、その家系図を作る上での必要性から妻や娘の名前も記録に残したものと考えられる。

(参考)
源氏物語に出てくる「女三宮」だが(物語での架空の人物かつ主要人物)、朱雀帝の第三皇女で、名前ではなくこのように表記されている。(女は娘の意味で、三番目の宮様ということ)

*「宮・上・君」の使い分け(源氏物語)

宮:性別に関係なく中宮、親王、内親王に用いられる。
上:性別に関係なく高貴な人に用いられる。
君:性別に関係なくある程度高貴な人に用いられる。(「上」よりも下位、もしくは親しみのある関係に用いられる。)

(参考)女性の名前が不詳な理由

日本の歴史において、有名な女性でも名前が伝わっておらず不明なことが多い。
なぜ、女性の名前が不詳であり分かっていないのか。

まず、男性も女性も同様に、名前が無かったと言う事はあり得ない。
平安時代の女性にも、当然「名前」、つまり実名・諱(忌み名)・個人名があったはずである。
ただ、この頃は女の子の名前は身内(家族)だけで言っていたと理解する方が分かり易いかも知れない。

人の妻となった女性を他の者が名前で呼ぶのが失礼な時代で、その女性の夫は当然、妻のことを名前で呼んでいただろうが、しかし、周囲の人間や友人などは、他人の妻である女性を名前で呼ぶのはタブー(失礼)だったとされていた。また女性が他人、特に男性に本当の名前を知られるというのは、その人に自分のすべてを支配されることを意味すると言う観念もあったこともある。

(参考)平安時代の女性の名前の読み方については下記参照

「第48話  斎宮百話 女性に名前をたずねるなんて…」(斎宮歴史博物館)

(参考)女性の名前に「子}が多い訳

昔は「子」という字は男性名に用いられており、中国の孔子,孟子,韓非子や日本の小野妹子や蘇我馬子などがその例。
「子」という文字が女性の名前に用いられるようになったのは平安時代からで、嵯峨天皇が自身の娘たちに「子」の付く名前を授けたことが由来であるとされている。
それを機に、「子」という字は高貴な女性の名前に使われるようになり、時代を経るにつれ一般の女性にも使用されるようになった。

*平安時代初期、嵯峨天皇(第52代天皇、786-842)が皇女の命名を改めた時、内親王には「子」を付けて、臣籍降下した皇女は「姫」とした。
現在の天皇家にもこの命名法が引き継がれている。

(Yahoo!知恵袋回答より)
(嵯峨天皇には子供が50人もいたために全員を皇族としておくのは難しく、男子女子ともに大量の臣籍降下を行った。(天皇1人,男性皇族4人,女性皇族12人,臣籍降下男性18人,臣籍降下女性15人)。つまり33人を臣籍降下。
このときに臣籍降下に伴い男子女子ともに全員に源姓を賜った(嵯峨源氏)。そして皇族女子には全員に[子]の字を与え,臣籍降下した女子には全員に[姫]の字を与えた。(男子は皇族は2文字名前,臣籍降下した男子は1文字名前とした))(Yahoo!知恵袋回答より)


(参考)「平安時代/有名女性の結婚年齢」(推定)

源倫子  (24歳頃)
清少納言 (16歳頃)
紫式部  (26歳頃)
和泉式部 (18歳頃)
赤染衛門 (20歳頃)
藤原道綱母(19歳頃)
菅原孝標女(33歳頃)
中宮定子 (14歳頃)
中宮彰子 (12歳頃)

*年齢は数え年

 

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