話の種

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「先生」という呼称について

2024-05-20 18:47:25 | 話の種

「先生」という呼称について

少し前の話になるが、朝日新聞の声欄に下記記事があった。(2024年3月14日=要旨)

「自分を「先生」と呼ぶのやめよう」(元中学校教員(63))

「テレビで教師役の俳優が「先生は……」と生徒に語り出した。学校現場では当たり前のことかもしれないが、私は違和感を覚えた。
教員時代、懇親会の席で保護者の方から「先生たちはどうして自分のことを『先生』と呼ぶんですか。『先生』って敬称ですよね。一般社会ではあり得ないことですよ」などと言われた。それがきっかけで「学校では誰も教えてくれないことを、私のために話してくれたのだ」との気持ちになり、自分を「先生」と呼ぶのをやめた。
敬称は、人名の下につけてその人への敬意を表す呼び方で、教員が自分のことを「先生」と呼ぶのはおかしい。話し始めるとしたら「私は……」ではないか。4月から教壇に立つみなさん。児童生徒の前では、「私は……」で話し始めてみませんか。」

これを読んで私は(?)と思った。
学校の先生が、生徒に対して自分のことを先生と呼ぶことに特に違和感は感じない。
この人の言おうとしていることは分かるが、それほど神経質にならなくともということ。

この投稿に対して新聞社側が読者の意見を募ったところやはり賛否両論あった。
多くは私と同じようなものだったが、なるほどなと思ったのは次のような意見。(2024年4月17日)

・「時と場合で使い分ければよい」(元小学校教員(78))

「投書にあったように教員が自身を「先生」と呼ぶのはおかしいとの指摘はある意味、正当な意見ではある。しかし全てのシーンできっちり当てはめる必要はないと思う。
私自身、小学校で勤務した時、「自分に先生の敬称を付けて話すのはやめよう」との学校長からの提案を受けて実践したことがある。しかし子供たちを前に話した時の子供たちの反応の悪さと言ったらなかった。「先生」は、子供たちにとっては「お母さん」と同じような感覚で、あくまでも「敬称」というよりは「一般名称」的な感覚だった。
教師側も、保護者や同僚に対して自身に「先生」をつけて話す人はよもやいまい。家庭内で「ちゃん」付けで呼び合っても、一歩外へ出るとしないのと同じである。時と場合により使い分ければよい問題であると思う。」

・「学校空間での関係性から使う」(高校講師(62))

「「先生」の呼称は、学校空間の人間関係を表している。教員が自身を「先生」と呼ぶ場面は二つある。
一つは、先生の「立場」で生徒と対応する場面だ。考えや感情が直接ぶつかり合うのを避けるために、教員は公的な学校で生徒を指導する立場・役割の意味を持つ「先生」を用いる。
二つ目は、生徒とより近い関係を結びたい場面だ。集団として最年少者を基準に構成員を呼び合う傾向があると思う。家族のような私的空間では子供を基準として「お父さん」などと自称する。教員も、生徒への親しみの気持ちから先生と自称することがあり、スムーズなコミュニケーションが成立する。「私」より「先生」がくだけた自称になる場合がある。
このように学校は公的・私的空間が重なった場所であり、「先生」という自称に敬称の意味は薄い。」

今回私が何故この問題を取り上げたかと言うと、話は少し逸れるが、政治家同士がお互いに先生と呼び合っていることに常々違和感(というよりは嫌悪感)を持っていたから。(このバカ同士が、といった感覚)

この先生が使われる対象としては医師や弁護士などもあるが、これらは正しく専門知識を持った相手に対する敬意からくるものであろう。この意味では教師もそれに含まれるが、果たして政治家はどうだろうか。
敬意に値する政治家もいないことはないだろうが、政治家同士がお互いを先生と呼び合うのは、相手に阿(おもね)るもの、或いは自己欺瞞でしかないと思える。(尤もこの人達も自分のことは先生とは言わないが)

これについては、何時かは書いておきたいと思っていたことなので、これですっきりした。

 


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