■萌え文化よ、さようなら。 - Something Orange
■最近のオタクの半分はネタでできてると思うんだ - 記憶のメモ帖
こういうエントリを見た時、ついこう言いたくなってしまう。
「自己紹介乙」
・・・と。
要するに、自分のオタク趣味に対する立ち位置を明らかにしたいが為のエントリでしかないよね。これって。
萌え文化に対して飽きや閉塞感を語るのは、オタクの性ゆえの事だから当然ある事だと思うけど。
>もうそんなに生真面目にオタク文化に接する必要はないのである。
と言い切ってしまっているが、岡田斗司夫的なオタクエリーティズムも、本田透的な「萌え」求道主義も、そもそもオタクの作品へ接し方としては元来のものであり、
オタクはそのいわば「リスペクト」を持ちつつ、ニコニコ動画などのコンテンツ上では「ネタ」を「ネタ」として楽しむという人がいまだ多数なのではないだろうか。
そうでなければ、ニコニコ動画のコメントが溢れている今、2chやブログ上で作品に対する感想、批評が溢れている訳は無いだろう。
もちろん「萌え」に対しての閉塞感が無いとは言わないが、今「萌え」が消費され、失いつつあるのは「商品価値」であり、「萌え」そのものの「価値」という意味ではない。
キャラクタへの表しようのない愛情表現を定義づけた「言葉」である「萌え」が失われる事は、もはやないだろう。
勿論、自分の心の中にある「情動」である「萌え」を失う事ももはや無い。
「萌えは死んだ!」と叫んで「ネタ」に走る。もちろんそれも一つの方法である。
しかし、ネタに走り、流行を追いかけ、更にそのネタを追いかける事に疲れた後には、何が残るのか?
走っていく前に少し考えて欲しい。
オタ的流行に振り回されて、自らの立ち位置、起源を見失ってはいけないと私は思う。
勿論、それがオタクから脱却したいからそうするのだ。という話なのであれば、全く筋違いの主張であるが。
そう思う一方で、私は「オタクというモノは、単に対象物への興味からの脱却では卒業し得ない」と思っている。
これは自分を省りみてもそうであるし、周りの元オタクを見ていても感じる事である。
「オタク」というのは、一般人が言うようにオタク的なメディアに触れているから「オタク」なのではない。
それは一般人が解りやすいように、レッテルを貼りやすいようにデフォルメしているだけに過ぎない。
「オタク」とは、メディアや物に対する接し方が一般の理解を超え、語りたがり、調べたがり、時に偏執的になり、それを人に指摘されても止められない「性質そのもの」である。
逆に言えば、この性質そのものが自分の中にあると自覚するのならば、興味を持って触れるモノ全てがオタク的になりうる。
又、この性質を持っているのであれば、オタ的流行に乗ろうが乗るまいが問題ではない。
立ち位置、起源をしっかり持っているのだから、いつでも「オタク」に戻る事ができるだろう。
粛々と自分の趣味に勤しみ、2chやニコニコで気炎を上げたりもできるのである。
(そもそも、性質を持つ人は「萌えは死んだ!」などと言い出したりはしないのか。)
オタクというのは「性質」だ。少なくとも私はそう思っている。
だからこそ、このブログの説明部にはこう書いてあるのである。
「モヲタ&ラヲタ&焼酎ヲタ&ゲヲタ&アニヲタ日記?」と。
・・・そう、つまり、このエントリも元のエントリも単なる
「自己紹介乙」
であり、一般人の目から見れば「どう見てもオタクです。本当にありがとうございました。」と言われるだけのモノなのである。ぎゃひぃ!
それでは軽く巡回~。
■物置 @ ウィキ - 新ジャンル「独占されたい欲」
これはどう考えてもヤンデレの次のステップのジャンルなのかも(時間軸的な意味で)
■オールニートニッポン(ALL NEET NIPPON)
これどうしよう・・・? コンテンツに触れようか触れまいか迷ってしまうなw
■ゲーム板見るよ! ド ラ ク エ で ゾ ク ッ と し た 瞬 間
DQ4のうらぎりこぞうで久しぶりにゾクッとしたwwwww
それ以前になるとやっぱⅢのアレフガルドでしょうか
・・・そういえば、DQ4は最後の城で賢者の石が取れません! ><
はぐれメタルの盾もまだだけど orz
■最近のオタクの半分はネタでできてると思うんだ - 記憶のメモ帖
こういうエントリを見た時、ついこう言いたくなってしまう。
「自己紹介乙」
・・・と。
要するに、自分のオタク趣味に対する立ち位置を明らかにしたいが為のエントリでしかないよね。これって。
萌え文化に対して飽きや閉塞感を語るのは、オタクの性ゆえの事だから当然ある事だと思うけど。
>もうそんなに生真面目にオタク文化に接する必要はないのである。
と言い切ってしまっているが、岡田斗司夫的なオタクエリーティズムも、本田透的な「萌え」求道主義も、そもそもオタクの作品へ接し方としては元来のものであり、
オタクはそのいわば「リスペクト」を持ちつつ、ニコニコ動画などのコンテンツ上では「ネタ」を「ネタ」として楽しむという人がいまだ多数なのではないだろうか。
そうでなければ、ニコニコ動画のコメントが溢れている今、2chやブログ上で作品に対する感想、批評が溢れている訳は無いだろう。
もちろん「萌え」に対しての閉塞感が無いとは言わないが、今「萌え」が消費され、失いつつあるのは「商品価値」であり、「萌え」そのものの「価値」という意味ではない。
キャラクタへの表しようのない愛情表現を定義づけた「言葉」である「萌え」が失われる事は、もはやないだろう。
勿論、自分の心の中にある「情動」である「萌え」を失う事ももはや無い。
「萌えは死んだ!」と叫んで「ネタ」に走る。もちろんそれも一つの方法である。
しかし、ネタに走り、流行を追いかけ、更にそのネタを追いかける事に疲れた後には、何が残るのか?
走っていく前に少し考えて欲しい。
オタ的流行に振り回されて、自らの立ち位置、起源を見失ってはいけないと私は思う。
勿論、それがオタクから脱却したいからそうするのだ。という話なのであれば、全く筋違いの主張であるが。
そう思う一方で、私は「オタクというモノは、単に対象物への興味からの脱却では卒業し得ない」と思っている。
これは自分を省りみてもそうであるし、周りの元オタクを見ていても感じる事である。
「オタク」というのは、一般人が言うようにオタク的なメディアに触れているから「オタク」なのではない。
それは一般人が解りやすいように、レッテルを貼りやすいようにデフォルメしているだけに過ぎない。
「オタク」とは、メディアや物に対する接し方が一般の理解を超え、語りたがり、調べたがり、時に偏執的になり、それを人に指摘されても止められない「性質そのもの」である。
逆に言えば、この性質そのものが自分の中にあると自覚するのならば、興味を持って触れるモノ全てがオタク的になりうる。
又、この性質を持っているのであれば、オタ的流行に乗ろうが乗るまいが問題ではない。
立ち位置、起源をしっかり持っているのだから、いつでも「オタク」に戻る事ができるだろう。
粛々と自分の趣味に勤しみ、2chやニコニコで気炎を上げたりもできるのである。
(そもそも、性質を持つ人は「萌えは死んだ!」などと言い出したりはしないのか。)
オタクというのは「性質」だ。少なくとも私はそう思っている。
だからこそ、このブログの説明部にはこう書いてあるのである。
「モヲタ&ラヲタ&焼酎ヲタ&ゲヲタ&アニヲタ日記?」と。
・・・そう、つまり、このエントリも元のエントリも単なる
「自己紹介乙」
であり、一般人の目から見れば「どう見てもオタクです。本当にありがとうございました。」と言われるだけのモノなのである。ぎゃひぃ!
それでは軽く巡回~。
■物置 @ ウィキ - 新ジャンル「独占されたい欲」
これはどう考えてもヤンデレの次のステップのジャンルなのかも(時間軸的な意味で)
■オールニートニッポン(ALL NEET NIPPON)
これどうしよう・・・? コンテンツに触れようか触れまいか迷ってしまうなw
■ゲーム板見るよ! ド ラ ク エ で ゾ ク ッ と し た 瞬 間
DQ4のうらぎりこぞうで久しぶりにゾクッとしたwwwww
それ以前になるとやっぱⅢのアレフガルドでしょうか
・・・そういえば、DQ4は最後の城で賢者の石が取れません! ><
はぐれメタルの盾もまだだけど orz