私を知る

自覚を中心に悟りのヒントを書いています。自覚とは「私」に意識を向け、一切は「私」の考えであることを自覚していくことです。

思い出ばなし(宇宙と虚無)(2)

2014年05月29日 16時54分34秒 | 個人的なこと
◇思い出ばなし(宇宙と虚無)(2)◇

前回の記事からの続きです。

宇宙やそれに含まれる事象の根本原因等について思索を巡らせ、その根本原因等には我々人間は到達不可能であるという理解を得たときには、私は受験勉強を含めたいろいろなことに対してすっかりやる気を無くし、どっぷりと虚無の中に浸っていました。
ひょっとすると、事象の根本に対する思索を巡らせ始めたときには、既に虚無の中にどっぷりと浸っていたのかもしれません。

そうして、私は高校3年からその翌年の自宅で浪人した年の暮れにかけて、自宅にほぼ閉じこもり、まるで鬱病者のような生活をしていました。
その間、受験勉強は全くと言っていいほど手に着きませんでした。

虚無感が深まるに連れ、引き寄せられるようにして死を意識するようになっていきました。
すべてのことについて意味が無いことはもう理解してましたから、生きることの意味を見出すこともできず、死に憧れるというか、死を求めるようになっていきました。

そして、それは浪人した年の暮れにピークを迎えました。

(どうも書きにくいし、書いてて気分も悪いし、自分でどうしてこれをここに書くのかが分からず、何度も中断しながら書いています、苦笑)

死ねるかどうか試してみようとして、よく研いだ包丁を首筋に押し当ててみたんです。

首筋に押し当てた包丁をぐっと引こうとしたのですが(引こうとしてみたと言った方が正確か)、引けませんでした。
引けそうにありませんでした。
奥底からこみ上げてくる恐怖心と、よく分からない抑制本能のような壁があり、私にはその壁を越えられそうにありませんでした。
数日くらいの間に、2度か3度やってみましたが、ほぼ同じような結果でした。

しかし、自分の首に包丁を押し当てるというその愚行は、私の心に転機をもたらせました。
その愚行により、人間、少なくとも私自身は簡単には死ねないんだと強く納得したのです。

「死ねない」ということは、「生きるしかない」ということを意味していました。
そしてそれは、生きていくしかないんだという覚悟に繋がりました。

私はこのとき生まれて初めて、生きることに対して積極的になれたのでした。
それはまるでボールが地面で跳ね返るような感じでした。
死を求めていた自分が嘘だったかのように、私の視線が生きること、自分の人生を展開していくことに移ったのでした。

そして、私は取りあえず大学へ行こうと思い、自分が受かりそうないくつかの大学を慌ててピックアップし、受験しました。
運よくある大学に合格することができ、その大学に入学しました。


当時の私の状態について、一時はいわゆる思春期鬱の一種かと思ったりもしていたのですが、いまは、そうではないのだろうと思っています。
青春時代のあの出来事は、その後に悟りを得るための途中の過程だったのだろうと思っています。
なぜなら、いまの私は、今回の自分の人生のテーマはいい大学に入ることやいい仕事に就くことではなく、私の内面を見つめ、悟ることだと知っているからです。


<補足>
極論というか、深い悟りの視点で観たとき、生きることに意味などありません。
意味は私たちの自我が考えている考えであり、幻です。
しかし、多くの方々は意味がないことを例え頭で理解したとしても、その幻である「意味」を握りしめ、追い求めてしまいます。
中途半端で無理に納得しようとせず、あたなに見える「意味」を、あなたが感じる「意味」をとことん追い求めてみて頂きたいと思います。


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読んで頂いてありがとうございました。

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コメント (2)
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