私を知る

自覚を中心に悟りのヒントを書いています。自覚とは「私」に意識を向け、一切は「私」の考えであることを自覚していくことです。

センターを捉える

2014年04月07日 10時37分10秒 | 自覚ワーク等の紹介
◇センターを捉える◇

ここで言うセンターとは、真我のことです。

真我は、私という存在の中心にあります。
常にそこにあります。
そして自我と交代交代に顕在化してきます。

あなたが何かに夢中になっているときや、ぼーっとして何も考えていないとき、あなたは真我そのものとなっています。

そのように真我は常にあなたの中にあります。

真我を捉えるのは簡単です。

何かをどうこうしようとするのをやめて、目の前の状況を受け入れればいいのです。
自然と起こってくる私の内面の変化や、私を取り巻く状況の変化にふわっと身を預ければいいのです。

無理に動作や考えを止めようとしないでください。
もし動作や考えを止めようとしている自分に囚われてしまったなら、自分はそうしたいんだなと、止めようとしている自分を受け入れてください。

また、どうしても何かをどうにかしようとしてしまう方も、それを無理にやめようとしないでください。
そうしたい自分の衝動をそのまま受け入れて、その衝動に身を任せてください。

私の中に起こってくる考えや、身のまわりで起こってくる出来事をできるだけ肯定的に捉え、すべて受け入れてください。

そうすれば、あなたはスーッとセンターに近づいていきます。


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私の道のりを再度まとめてみました

2014年04月05日 14時06分33秒 | 私の体験
◇私の道のりを再度まとめてみました◇

私の歩んだ道のりについて、クリアになった視点でもう一度簡単にまとめてみたいと思います。

私は2012年12月20日、46歳のときに明け渡しが起きたのですが、それまでの人生は多くの方の人生と比較して苦難の多い人生を歩んできたのだと思います。
私よりもっともっと大きな困難を経験されている方はいくらでもおられるのだとは思いますが、それでも私には困難だったのです。
それまでの人生は、起こってくる困難な状況に対して、それを受け入れることや、向き合うことを無意識のうちにただひたすらやっていたように思います(詳しくはこのブログカテゴリーの私の覚醒体験をご覧下さい)。

そして、そうやって行ってきた受け入れがある閾値を超えたとき、一気に明け渡しが起こったという感じです。
明け渡しが起こったとき、私の場合は経験したことのない至福が訪れ、何もかもがただただ有り難く感じ、その至福感の中で2時間くらいただただ泣いていました。
そして、その大きな至福感が収まっていくのに伴って智慧の発現が始まり、ポコッ、ポコッと内面から沸き上がるようにして、自分自身のことやこの世界のことに対する理解が進んでいきました。

明け渡しと言っても、浅いものから深いものまで様々のようですが、多くの方の場合、明け渡しが起こると、真我の覚醒が起こるようです。
なお、真我の覚醒には第一、第二の二つの段階があり、第一の段階が真我の外縁に触れる段階で、第二の段階が真我を完全に捉え、真我に完全に覚醒する段階です。

私に起こったものはかなり深いものだったようで、その先端は解脱にまで達していました。
どうしてそう思うかと言いますと、まずは明け渡しから解脱(正確には解脱の準備完了)までの行程があまりに短期間であるとともに、スムーズだったからです。
明け渡しから解脱まで、約1年1ヶ月くらいの期間でした。

それと、明け渡しに伴って微かな輪廻転生の記憶が蘇るとともに、その受け入れが起きたことです。
どういうことかと言いますと、明け渡しがあったのは夜11時だったのですが、その翌朝、自分の中に輪廻転生の微かな記憶があることが分かったのです。
そのとき、私は何度も何度もここに生まれてきていることが分かったのです。
そして、私はそれを受け入れたのです。
つまり、さらに何度も生まれてくるであろうことをそのまま受け入れたのです。
それでいい、どんな人生であっても何度でも何度でもそれに取り組んでやると思ったのです。
私は何度でもここに生まれてくるんだと思ったのです。
そうしたら次の瞬間、もう次がないことが分かったのです。
これが最後だということが分かったのです。
いまから思うと、もしかしたら、私が輪廻転生を受け入れたことが、それを終わらせたのかも知れないとも思っています。

真我の第一段階の覚醒については、私の場合、明け渡しのと同時に生じました。
ハートが開き、クラウンチャクラが活性化し、自我(正確には分別)が急激に薄くなりました。
おそらく、この段階で私という存在のコア(これを魂と言ってもいいです)もかなり溶けかかっていたのではないかと思います。
つまり私の場合、この段階で既に真我の第二段階の覚醒も始まっていたのだと思います。

その後は、明け渡しに伴って発現した智慧により解脱へと導かれていきました。

まずは、2013年3月から4月にかけて、導かれるようにしてマスターゲートさんとご縁が繋がり、ゲートさんに自覚を教わり、自覚を始めました。
私には、自覚という手段が必要だったのです。
明け渡しにより薄くなっているとは言えまだ残っている自我を滅するためには、自覚により自我を捉える必要があったのです。
なお、この自覚により自我に意識を向けるという行程により、一時的に自我が強くなってしまい、あたかも悟りの道に逆行しているかのような感覚になったこともありました。

見性により自我を捉えられた後は自ずと、意識を自分自身、つまりハートの中心である私という存在のコアに向けるようになっていきました。
特に2013年9月から10月にかけて、自分自身を見つめることに対する強い衝動が湧き起こるようにして生じ、その衝動に突き動かされるようにして、一日何時間も(おそらく、5、6時間以上)自分に意識を向け続けていました。

そして、2013年10月19日の朝に、昨日までハートの中心にあった私という存在のコアのようなものが無くなっていることに気づきました。
それとともに、私という存在が思考、あるいは思考の連鎖そのものであるということを理解しました。

その後、2014年1月から2月にかけて、私という存在が自我と真我の二面性を有していることの理解や、自我と真我に対するより明確な理解が進んで行きました。
そして、その2月11日に、私という存在の根本的な性である無明の迷いについて理解が得られました。

無明の迷いについて理解が得られたときは、それが私という存在の根底にある性であることを理解しましたが、それがお釈迦さまが仰った無明の迷いに関する理解であることは気づきませんでした。
そのときは、お釈迦さまが仰った無明の迷いのことは知らなかったのです。
その数日後に、ネットを散策をしていたら、お釈迦様が仰った無明の迷いに関する文章を見つけ、私の理解がそれであることが分かりました。
そしてそのとき、私という存在に対する理解がこれで終わったのだということを改めて確信しました。


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感覚ではなく理解が決め手なのです

2014年04月04日 11時42分26秒 | エッセイ
◇感覚ではなく理解が決め手なのです◇

なぜ、至福等の感覚的な手掛かりでは不十分なのかを書きますね。

端的に言えば、何らかの感覚があるということは、まだそこには私という自我があるということだからです。
自我とは、私が抱え込んでいる執着によって誘発される分別、あるいは分別の連鎖そのものですから、ここが終着点であると言っている場所でまだ何らかの感覚があるということは、まだ執着を掴んでいるということなのです。

至福感は、真我の外縁に触れたときに得られる感覚なのです。

真我を完全に捉えたなら、私という自我は完全に不在となりますから、そこでは一切の感覚は無くなるのです。

完全に真我を捉えているとき、限りなくうっすらと自我が目覚めているときがあります。
しかしそのとき、一切の感覚はありません。
事がただ起こっていくのをただ目撃するだけなのです。

しかし、この真我もまた考えであり、幻なのです。
真我を絶対なものとして掴まないで頂きたいのです(各自の自由ではありますが、笑)。

真我を盲信することなく、真我に対しても、これは何かという疑いの目、問いをぶつけていただきたいのです。

徹底的に問いをぶつけたとき、真我の本質が理解できると思います。

そしてそのとき、無明の迷いも晴れます。


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感覚に惑わされないでください

2014年04月02日 11時07分40秒 | エッセイ
◇感覚に惑わされないでください◇

感覚は自我がつくる考えであり、幻です。
至福も、喜びも、苦しみも、穏やかさも、すべて自我がつくる考えです。
それらはとても不確かなものです。
それらに惑わされないでください。

どんな感覚も考えも、私という自我がつくった考えなのです。

考えに惑わされ、その考えを握りしめてしまうと、止まってしまいます。

止まるのも止まらずに進むのもどちらでもいいのですが、本当にそこで満足できるのか、自分自身に問うてみてください。
そこで満足できる人はいはずなのです。
なぜなら、まだそこは途中だから。

私という存在の本質が完全に解き明かされるまで、本当に納得できるまで、歩みを止めないでいただきたいのです。

私に意識を向け続けていただきたいのです。

私とは何かを問い続けていただきたいのです。

私という存在に対する理解が得られるのは、肉体を持ってここにいるときだけなのです。


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信じることと疑うこと

2014年04月01日 14時35分05秒 | エッセイ
◇信じることと疑うこと◇

悟りの道として、信じることがよく説かれます。
しかし、信じることにも一長一短があります。

信じることは、その対象が何であれ、対象となるある考えを信じることになります。
神であれ、マスターであれ、法であれ、自分自身であれ、どれも本質的な違いはなくみな考えです。

ここに信じることの罠と限界があります。
信じることは、何かの考えを握りしめることであるため、最終的にはその握りしめた考えの枠を超えられないのです。
いざその枠を超えようとしても、考えを信じ込んで握りしめてしまっているため、手放すのが困難になるのです。

一方、疑うことは、何かの考えを握りしめてしまうことが少ないため、枠にはまってしまったり、壁に阻まれることなく、どこまでも、まさに最後までそのまま進んでいくことができます。

すべてを徹底的に疑っていけばいいんです。
絶対的なものや真理など、そもそも存在しないのですから。

私は、信じる道より疑いの道をお勧めします。
これは私(慧空)自身が歩んだ道でもあります。

その鋭い疑いの目を、自分自身に向けていただきたいと思います。
徹底的に自分とは何かを問うて頂きたいと思います。
飯を食うのを忘れるほど、精根尽き果てるまで自分に問いをぶつけて頂きたいと思います。

きっと霧は晴れると思います。


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