私を知る

自覚を中心に悟りのヒントを書いています。自覚とは「私」に意識を向け、一切は「私」の考えであることを自覚していくことです。

悟りの階梯と自我の関係

2014年04月10日 10時13分26秒 | 私の成り立ち
◇悟りの階梯と自我の関係◇

昨日の記事との関連で、悟りの階梯と自我の関係について書いてみたいと思います。
知識ばっかりを書いてもどうかなとは思うのですが、知識から悟りに入られる方もおられるのと、拙い私の理解でも他の方の理解の確認に役立つ例もあるのだろうと思ったりしています。
それに、自覚は自分を見てくださいと言えばそれだけですし、受容についても受け入れてくださいと言えばそれまでですから、それだけだと書くことがなくなってしまうのです。
私としてもまだ何かを書きたいのです。(^o^)


大凡のケースで、自我の軽さというか、自我がつくる、あるいは掴んでいる考えの少なさと、悟りの深さとは比例関係にあります。
自我がつくる考えの量が少なくなるほど、自我の顕在意識(ハートと言ってもいいです)が拡大し、得られる悟りも深くなっていきます。
なお、考えを殆どつくらない赤ちゃんは悟っているのかと思う方がおられるかも知れませんが、それは違います。
赤ちゃんには理解がないのです。
悟りとは理解なのです。

比較的オーソドックスな悟りのルートである見性ルートで悟りの道を歩まれる方を例として、少し具体的に説明してみたいと思います。

悟りにまったく興味を示さない一般の方の多くは、自我がつくる考えがとても多く、自我の周りが分厚い考えの層で覆われているような状態です。
その状態では、私という存在の本質的な2つの要素である自我も真我も、それらを垣間見ることさえできません。
自我の周りを覆う考えの層がある程度薄くなり、自我や真我が僅かでも垣間見えるようになるにつれて、小さな気づきが始まり、自ずと悟りに導かれるようになります。

そして、自我を覆う考えの層がさらに薄くなってくると、オーソドックスな例として、まず自我を捉える悟りである見性が可能となります。
このとき、内面を観る自覚が役に立ちます。

そしてさらに自覚を続けるることにより、自我を覆う考えの層がさらに薄くなり、それに連れて自我の顕在意識(ハート)が拡大していき、意識の大きさがある閾値を超えると、意識の圏内に真我の外縁が触れるときがきます。
これが真我の目覚めです(真我の第一段階の覚醒です)。

さらにまた自覚を続けることで、自我の中心にある私という感覚のコア(これを魂と言ってもいいです)が消失すると、真我を完全に捉えた状態となります。
これが真我の完全覚醒です(真我の第二段階の覚醒です)。
この状態までくると、自我が積極的に新たな考えをつくったり、それを掴んだりすることはほぼなくなります。
ですが、この段階はまだ真我という考えを掴んでおり、そこにまだ執着があります。

さらに自覚を極め、掴んでいるすべての考えを手放すと、無明の迷いからの解放が起こります。
そして、そこに到達した人は一切の考えを掴まなくなります。
すなわち、それはすべての終わりを意味します。


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読んで頂いてありがとうございました。

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