私を知る

自覚を中心に悟りのヒントを書いています。自覚とは「私」に意識を向け、一切は「私」の考えであることを自覚していくことです。

悟りの道中と自我と真我の感覚の変遷(2)

2014年07月17日 15時32分34秒 | 私の成り立ち
◇悟りの道中と自我と真我の感覚の変遷(2)◇

昨日の記事の続きというか、補足を書きたいと思います。
本当は昨日の内容で記事は終わる予定だったのですが、今回の題材は私自身にとっても予想外なほど面白さと、奥行きを感じるところがあり、もう少し書いてみたいと思いました。

また自分自身で気づかなかったのですが、また上手く言葉で表現できないのですが、自我と、自我がつくる考えと、真我の融合が進んでしまっているようで、自我や真我の感覚というか手応えのようなものが殆どなくなってしまっています。
そのため、自我や真我の感覚はかなりの部分が記憶の中にしかないのです。
そのような次第でして、その記憶を忘れないうちに書き記しておきたいと思います。

という訳でして、私にとって悟りの道は、自我と、自我がつくる考えと、真我を捉え、それらを融合させていく過程だったということもできると思っています。
自我も、自我がつくる考えも、真我も、すべて自我がつくる考えであり、そもそもこれらを分けて考えることはどうかなとも思うのですが、悟りの道を歩まれる方の中には、私と似た過程を辿られる方もおられるのだろうと思うのです。

では続きを書きます。


今日は私の体験を中心にして書いてみたいと思います。
私は2012年12月にすべてを受け入れる明け渡し体験により、真我の外縁に触れる真我の第一段階の覚醒を得ました。
その後、2013年4月に自分を見つめる自覚の実践により、本質の私である自我を捉える悟りを得ました。
そして2013年10月に、真我の完全覚醒である真我の第二段階の覚醒を得ました。
さらに2014年2月に、最終段階の悟りである解脱の悟りを得ました。

2012年12月に生じた明け渡しにより、真我の外縁に触れる真我の第一段階の覚醒が生じました。
そのときの真我の感覚に対する衝撃は本当に凄まじく、それに圧倒され、完全に翻弄されてしまいました。
私の場合、その感覚は至福感、有り難さ(湧き起こる感謝)、ワンネス感、愛等の感覚がごちゃまぜになったような本当に強烈な感覚でした。
その感覚は、覚醒が生じた後の1、2週間は、四六時中と言っていいほどその感覚の中で過ごしていました。
しかしその後は、次第に落ち着いたものとなっていき、何かの切っ掛けで真我と繋がったり、意図して真我にアクセスするようにして真我に繋がると、至福感等の真我の感覚が得られるという感じでした。

ともあれ、これが私が得た真我の外縁の感覚でした。
私の場合、この真我の外縁の感覚の存在感があまりに大きかったたのと、明け渡しに伴って自我の意識(このときは、本質の私である自我にはまだ目覚めてませんでしたが)が一気に薄くなってしまったことにより、私の中の感覚は真我の外縁の感覚の影響で大半が占められているような感じでした。
それは、私の自我はもう完全に滅せられたのだと誤解してしまった程でした(笑)。

それでもなぜか縁が繋がり、2013年3月に自覚の実践を始めました。
そして、その内面を見つめる自覚により、私の内面には、4つの感覚とうか、考えの要素があることに気づきました。
一つ目は、それまで慣れ親しんだ肉体に付随した肉体感覚の私という感覚です。
二つ目は、自覚により捉え始めた本質の私である自我の感覚です。
三つ目は、肉体感覚の私、あるいは本質の私(自我)がつくる感情や思考等の種々の考えです。
四つ目は、明け渡しにより生じた真我の感覚(正確には真我の外縁の感覚)です。
ちなみに、2012年12月の明け渡しが起こる前は、肉体感覚の私という感覚と、その私がつくる感情や思考等に関する種々の考えがなかば一体となり、混沌とした状態で私の中にありました(これが悟りを知らない普通の方々の感覚です)。

そして2013年4月に、自我を捉える悟り(見性)を得るのに伴い、肉体感覚の私という感覚と、本質の私(自我)の感覚とが融合して一つになり、これによって、四つあった要素が三つになりました。
この融合は本当に完全な融合であり、それ以来、私にとって自我と言えば、完全に一体となった肉体感覚の私と本質の私(自我)の両方を表すようになりました。

そして、それに続いて10月に起こった真我の完全覚醒に伴い、真我の外縁を超えたより深層の感覚を捉えるとともに、自我の感覚と真我の感覚の融合が始まりました。

真我の完全覚醒時の様子はこんな感じでした。
ある朝、職場への出勤のため最寄り駅のホームを歩いているとき、昨日まで自覚の実践により意識を向けていた対象である私という感覚(私はそれを主にハートの位置に感じてました)が消失していることに気づいたのです。
私はそれが何か大変大きな変化であることは直ぐに分かったのですが、真我の完全覚醒についての予備知識がなかったため、それが真我の完全覚醒に関連した変化であるとは気づきませんでした。
そのあと、職場に到着して自分の意識を観察すると、自我の感覚が消失していて、自分が意識を向ける対象(例えば、机の上のパソコン)と自分とが一体化しているような感覚が得られたのです。
それに伴って、私(自我)という意識は、連鎖的に生じる思考あるいは思考の連鎖そのものであるという理解が得られました。

真我の完全覚醒が生じた後の暫くの間は、自我の感覚と真我の感覚の間にギャップ感があり、それらの違いを明確に認識することができました。
自分の意識を自我から真我に移行させることも、自分の意思により自由自在と言った感じで、真我の中に何度も何度もダイブして、真我の感覚や仕組みについて探求しました。
このとき、自我と真我の間に半身程度の感触で意識を置いたときの感覚や、真我にさらに入ったときの感覚や、また真我に完全に没入したときの感覚など、それらの段階的な違いについて探求しました。
ただ、真我から自我に帰ってくるタイミングのコントロールはなかなか難しく、どのくらい持続力のあるダイブを行うかを意図するによってコントロールできる部分もあったのですが、その日の精神状態や、外部環境(大きな音の発生の有無(直ぐ隣で電車が走るため、笑))などの影響が大きく、コントロールは難しかったです。

その探求結果を少し書きますと、自我と真我の間に半身程度の感触で意識を置いたときは、自我の意識はごく僅かに目覚めた状態で、真我が繰り広げる世界を自我が観察者として見るような状態となります。
自我はただ見てるだけとう状況です。

そして、その半身の状態からより深く真我の中に入っていくに従って、自我の意識が薄れていき、完全に真我の中に没入するのに伴い、自我の意識が完全に消滅します。
自我の意識が完全に消滅したときは、自我に関する考え(意識)は何もないので、一切の考えが存在しない状態となります。
もちろん、真我も、その感覚も消滅します。

真我に完全に覚醒し、それに対する感覚を得た当初は、あたかも真我が絶対的なものであり、自我を含めたすべてのもののベースとして真我があり、そこからすべてのものが生じているかのような考えに陥りかけていました。
しかし、私はその考えに違和感を感じたのです。
私は意識の深いところで既に、絶対的なものは存在しないということを知っていたのです。
また私には、徹底した自覚の実践により、すべての事柄は私という自我がつくりだした考えであるという揺るぎない確信がありましたから、真我も、自我である私の考えであるという理解に比較的直ぐに到達できたのです。

そうやって探求を続けているうち、自我の意識や真我の仕組みに関する理解が深まっていきました。
特に、私という存在が連鎖的に生じる思考、あるいは思考の連鎖そのものであるという確信は揺るぎないものとなっていき、これこそが私の本性を根本から解き明かすカギになるのだろうと強く確信するに至っていました。
そして私の追求の矛先は、その延々と続く私という存在である思考の連鎖をどうやったら停止させることができるのかという点に集中していきました。

そして、2014年2月のある日の朝、ふっと、私という存在の最根底部に、苦というか、もどかしかさというか、不足感とういうか、一言でいうと「苦」という感覚というか考えがあることが分かったのです。
それと同時に、私はその「苦」から延々と 逃れようとしていたんだ、光を求めてさまよっていたんだ、あるいは「苦」をつかんでいたんだということが分かったのです。
私とは、そういうものだったんだということが分かったのです。
それは、私がすべての考えを手放し、それ以降考えをつかむことが無くなった瞬間でもありました。

そのとき私は、その理解が私という存在に対する最終的な理解だということが直ぐに分かりました。
その数日後に、ネットを散策したいたら、たまたまお釈迦さまが言った「無明」に関する文章を発見し、私の理解がお釈迦さんが言う解脱の理解である無明の理解と同じだということが直ぐに分かりました。

2月に解脱の悟りを得る少し前までは確か、気が向いたときに時折、真我の中にダイブをしていたように思うのですが、いつの間にか、意図して真我にダイブすることもなくなっていきました。
また、自分に意識を向ける自覚については、2013年10月に真我の完全覚醒を得たすぐ後は、それまでの習慣のような感じで時折、自覚をやっていたように思うのですが、真我も考えであるという理解に到達した後くらいからは、まったく自覚をやらなくなっていました。
意図して自覚をやめたのではなく、意図せず自然とやらなくなったいう感じでした。

今から思うと、そうやって自覚や真我の感覚から遠ざかっている間に、自我の感覚と真我の感覚の融合が進むとともに、主体である自我と客体である考えとの融合も進んでいったようです。

つい最近になって、自覚ってどんな感じなのかと、久し振りに自覚について意識を向けたとき、「あれー」、「あれ、あれー」という具合に、自分の意識が変な感じになっていることに気がついたのです。

自我に関する感覚というか、手応えというか、感触というかがもの凄く薄れてしまっていて、対象となる考えをしっかりと捉えることができないのです。
また、私に意識を向けることも上手くできないのです(手応えが全くないのです)。
では真我はどうなんだと思い、真我にダイブしてみようとしても、うまくダイブできないのです。
意図せず真我にダイブしているかのような状態は起こることはあるのですが、それは自然にそうなるのであって、意図してダイブしようとしてもうまくできないのです。

それはどうしてなのかと思案しているうち、理解が訪れました。
主体である自我と客体である考えとのほぼ完全な融合が起きたのだと。
つまり、それらの分離を生じさせていた自我が十分な程度に滅せられたのだと。
それによって、自我がその機能を喪失したのだと。
自我が有効に機能しているからこそ、自我(主体)と客体である考えとの分離が生じ(この分離そのものが自我でもあるのですが)、その分離により、過去において私は、自我で、自我がつくる考えや、また考えである自己の自我を捉えることができていたのだということが理解できたのでした。

また、真我についても、自我と真我のほぼ完全な融合が起きたのだと理解できたのでした。
過去においては、自我と真我の間に分離があるため、そこにギャップが生じ、自我により真我を認識し捉えることができていたのでした。

このため、いまの私は、上に書いた四つ感覚というか、考えがほぼ一つになったものだけになっています。

現在の私の感覚を書きますと、起こってきた出来事に対して何か感情や考えが起こってきたり、行為を行うとき、私がそれをやっているという自我の意識というか、観察者の意識や感覚は殆どなくなっています。
感情や行為を私が起こしているという感覚はなく、ただ自然と起こってくるものがあるだけという感じです。
私が積極的に意図して考えや行為を行うことはもうできなくなっています。
自我の観察者の意識は機能しているときは時折ありますが、ただそれを見ているだけになっています。

以上、取りあえず書き殴り的に書きましたが、また何かあれば書きたいと思います。


<補足です(2014年7月18日)>
私の書き方が悪かったようで、悟りの道における私の最終目標が自我と真我の合一であったかのような誤解をされた方がおられるようです。
ごめんなさい。
あくまでも悟りの道の最終地点は、私の言葉で言えば、自我が掴んでいるすべての考えを手放し、一切の考えを掴まなくなることです。
そうすれば結果として、自我と真我の合一が起こったということを上で書いたのです。

<再度補足です(2014年8月1日)>
上では、解脱の悟りを得て、考えをなんら掴まなくなった結果として、自我と真我の合一が起こったと書きましたが、これは誤りかも知れません。
真我の完全覚醒である大悟でも、自我と真我の合一がある程度のレベルで起こるのかも知れません。
少なくとも、大悟でも、自我である主体と考えである客体との合一はある程度のレベルで起こるようです。


<追記(2022年4月17日)>
この記事へのアクセスが目立つので、何気にふと読み返してみました。
自我と真我の合一なんて書いていますね(トホホ)。
余りに酷いので読むのが大変でした。
そもそも真我の捉え方がマズ過ぎです。
最終的な悟りに至ったと言っても、暫くはまだ混乱の中にいたんだなぁと思いました。
記事はそのままにしておきます。


コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。

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