私を知る

自覚を中心に悟りのヒントを書いています。自覚とは「私」に意識を向け、一切は「私」の考えであることを自覚していくことです。

悟りの道中と自我と真我の感覚の変遷(1)

2014年07月16日 12時00分00秒 | 私の成り立ち
◇悟りの道中と自我と真我の感覚の変遷(1)◇

悟りの道を歩む中で、自我と真我の感覚がどう変化するのかについて、主に私の実体験をもとに書いてみたいと思います。
なお、ここで言う「自我」とは、悟りを知らない普通の方が自分だと認識している肉体に付随した自我感覚のことではありません。
「自我」とは、本質の私である創造主としての私という意味です。

まず初めに、悟りは階梯について簡単に説明します(悟りの階梯については詳しくは過去の記事等をご参照ください)。
悟りの行程には、階梯というか、いくつかの段階がある階段状の構造になっていて、その各段階ごとに自我や真我に対する特徴的な感覚(理解と言ってもいいです)が得られます。
第一の段階が、自我を捉えること、あるいは真我の外縁に触れること(真我の第一段階の覚醒)のいずれか一方を得る段階です。
第二の段階が、自我を捉えることと、真我の外縁に触れること(真我の第一段階の覚醒)の両方を得る段階です(天界層の悟りです)。
第三の段階が、真我に完全に覚醒する段階です(真我の第二段階の覚醒、梵天界層の悟り)。
第四の段階が、最終的な悟りである解脱の悟りです。

まず第一の段階で、自分の内面を見つめる自覚等を行うことにより、それがうまくいった方は、本質の私である自我を捉え始めます。
そうやって自我を捉え始めた方は、それまで慣れ親しんできた肉体に付随した自分という感覚(自我感覚)の他に、自分に関する何か別の感覚というか、視点に気づき始めます。
典型的な例としては、それまで意識していなかった本質的な自分という感覚(自我)に気づき始めるとともに、その自分(自我)という感覚と、自分がつくる考えとが別ものであるという理解が生じ始めます(自我と考えとの分離です)。
そして、本質の私である自我をある程度捉えることができれば、自我の悟りを得た、つまり見性したということになります。

自我を捉え始めたころは、多くの場合、それまで慣れ親しんだ肉体に付随した自我感覚の自分と、本質の私である自我との間に分離感があります。
また、本質の私である自我をしっかり捉えられてないため、その存在を見失ってしまうこともしばしば起こります。
しかし、自我をしっかり捉えられるようになるにつれ、肉体に付随した自我感覚の自分と本質の私である自我とが、いずれ融合し、一つになります(人によっては、この段階で見性となる人もおられると思います)。
このように肉体の自我感覚の自分と本質の私である自我とが統合されると、自分に意識を向けることや、自分がつくる考えを見守るという自覚をなかばオートマチックに行えるようになります。

真我の第一段階の覚醒が起きると、真我の存在に対する認識(理解)が生じます。
しかしこの段階では、真我の外縁に触れ、その存在に気づいただけなので、真我と自分との間にまだ分離感があり、不安定です。
真我と繋がっているという感覚はありますが、常に真我と一体になっているという感覚は殆どありません。
また、真我の外縁は静寂の中の平穏さや、至福感、ワンネス感等の心地よい感覚を誘発することが多いため、その感覚に酔ってしまい、その感覚を果てなく追求してしまう方がおられます。

第二の段階では、自我の悟りと真我の第一段階の悟りの両方が得られているため、自我と真我の両方の感覚を体感することができます。
しかし、自我がまだそれなりの量の考えを抱え込んでいて自我がの厚みが大きいため、多くの場合、自我と真我の間の分離感が大きく、まだ不安定な感じです。
この第三の段階を進むうち、自我がより薄くなっていき、自我と真我の一体感も増していきます。
またこの段階で、ハートの中心にある私という感覚(自我)の中心(コア)の存在に気づく方がおられると思います(気がつかないまま進まれる方も結構おられるだろうと思います)。

そして、自我の厚みがある閾値を超えて薄くなると、自我と真我の一体化(統合と言ってもいいです)が生じます。
これが第三の段階の悟りである真我の第二段階の覚醒です。
この悟りに伴って、主体(自我)とその客体である考えとの統合が生じます(これに伴って、上記の自我の中心(コア)が消失します)。
また、「見る者は見られるもの」や、「出来事は起こり行為はなされていく、しかしそこに行為者はいない」等の感覚が得られます。

しかし、この第三の段階でも、そう多くはないもののまだ自我がいくつかの考えを掴んでいるため、自我の滅却が不十分なのです。
典型的には例えば、真我は絶対的だ等の真我に関する考えや、自分はこの素晴らしい真我に関する悟りを得たんだという考えを掴んでしまっているのです(これにより、例えば掉挙、慢、と言った煩悩もまだ残っています)。
そのため、自我と考えの統合がまだ不十分であり、自我と考え(例えば、自分の感情や行動等)との間のずれや分離感が残っています(但し、これは本人は気づきにくいようです)。
自己の内面を注意深く徹底的に見つめることにより、自分と自分がつくる考えとの間の分離感がまだ残っていることに気づくことができ、掴んでいる考えを手放すことができます。

そして、掴んでいる考えをすべて手放し、自我が十分に滅せられると、それに伴って第四段階の悟りである解脱の悟りが生じます。
この段階では、自我が十分に滅せられているため、自我と考えとの分離感がほぼ完全になくなります。
このため、自我が自分の自我(考え)を自覚することもできなくなります。
また、自我がその効力である主導権と主体性をほぼ完全に喪失してますから、何か考えを積極的につくったり、掴んだりすることもなくなります。
自我が一人歩きすることも完全になくなります。
考えを掴みませんから、考えを引き摺ることもなくなり、執着(カルマ)を残さなくなります。
但し、自我と考えとの分離感がほぼ完全に消失するため、第一段階の悟りである自我の悟りを得る前の状態、つまり普通の人の感覚に戻ったような感覚になります(笑)。


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読んで頂いてありがとうございました。

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