私を知る

自覚を中心に悟りのヒントを書いています。自覚とは「私」に意識を向け、一切は「私」の考えであることを自覚していくことです。

「私は在る」という錯覚について

2014年01月13日 14時28分18秒 | 自覚ワーク等の紹介
◇「私は在る」という錯覚について◇

しつこく、今日も書きます。
これは、「私」という個の意識に目覚められた方に読んで頂きたいと思います。

あなたの目の前にリンゴがあるとします(リンゴでなくても、パソコンでも何でもいいです)。
そのリンゴは、あなたが目で観る等してそれに意識を向けているときだけそこに存在し、あなたが意識を向けていないときは存在しません。
あなたが意識をむけてリンゴという考えつくっているときだけ、リンゴは存在します。
これは間違いありません。
まずは、ここをしっかりと確認していただきたいと思います。

では、「私」についてはどうでしょう。
多くの方は、リンゴについては厳然とした観察者の視線を向けられるのに、対象が「私」になると、途端に曖昧になり自分をごまかそうとします。

もう一度お伺いします。
「私は常に在るのだ」と思われますか?
リンゴは私が観ているときだけ存在すると言っておられるのに、「私」については誰も観てなくとも、常に存在するんだとお考えでしょうか?

「私は常に在るのだ」と考えられている方に申し上げたいのですが、「リンゴ」は自分が観ていときだけ存在すると言っておられるのに、「私」についてはどうして簡単に、誰も観てないのに常に在るという結論を出されるのでしょうか。
「私が私を観ているから」と仰るかも知れませんが、本当に「私」が「私自身」を観ることができるのでしょうか。
「私を観ている」というときのあなたの視点はいったいどこにあるのでしょうか。
視点だけを私の外側に置いて、私自身を観ているとでも仰るのでしょうか。
それは余りにもナンセンスです。

もっと強く、もっと厳しく「私」に意識を向けて、「私」を見つめてください。
そうすればいずれ、「私という存在」が考えであり、「私という考え」がつくられる現場に遭遇することになると思います。


補足です(2014年1月15日)。
上では、私の意識が向けられているときだけリンゴが存在すると書いていますが、この表現は正確ではありません。
リンゴに意識のスポットが向けられ、リンゴという考えが生成されているとき、そこには「私」という存在はありません。
そこには、リンゴという考えだけが存在します。
敢えて言えば、そのとき、リンゴが「私」そのものなのです。
つまり、スポットライトのように移りゆく考えそのものが「私」なのです。


コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。

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コメント (2)    この記事についてブログを書く
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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
やるねぇ! (不動の動者)
2015-07-12 13:09:01
まさに然り
自己想起の概念を言葉で説明出来るギリギリのラインだと思います
返信する
不動の動者さんへ (慧空)
2015-07-12 19:43:32
お褒め頂き、ありがとうございます。
返信する

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