私を知る

自覚を中心に悟りのヒントを書いています。自覚とは「私」に意識を向け、一切は「私」の考えであることを自覚していくことです。

何かを掴んでいる人と掴んでない人の違い

2015年01月29日 11時18分42秒 | 悟り
◇何かを掴んでいる人と何も掴んでない人の違い◇

何かの考えを掴んでいる人と、何も掴んでいない人の違いについて書かせて頂きたいと思います。
なお、殆どすべての人は、何らかの考えを掴んでおられます。
掴んでいる考えの内容や量が違うだけです。

何かの考えを掴んでいる人は、具体的な考えを取り上げて、「こうだ」、「こう思う」という具体的な主張があるんです。
控えめな人の場合は、主張が表に出にくいですが、心の中で「こうだ」、「こう思う」等の具体的な思いがあります。
何か主張があると、そこには間違い無く、その主張に関連した握りしめた考え(執着、あるいは囚われ)があるのです。

握りしめる考えは、いろいろです。
善し悪し等の二元的な考えや、この現実世界のことや、真我や、根源、空、神等と言ったことがらまで、本当にいろいろです。

握りしめる考えの内容はこのように様々ですが、握りしめた考えに対する思い込みの度合いや、普遍性というか絶対性のような感覚は、大凡みな同じです。
皆さん、自分の握りしめた考えを、私という存在よりも本質的で絶対的なものとして思い込んでおられます。
そのような方は、例えば、善悪等の基準に何か普遍的なものがあるに違いないとか、神は崇高に違いない等の思い込みをされます。
また、私という意識はこの肉体によって成り立っている等として、私という存在の成立根拠が肉体にある等の思い込みをされます。
そのような方にとって、肉体や現実世界は絶対的なものなのです。

そのように何か考えを握りしめると、その握りしめた考えに付随した意識の迷いが必ず起こります。
握りしめた考えが、欲や恐れを引き起こし、感情や思考、衝動を生むのです。
そうして、意識は彷徨い続けます。

一方、何も考えを掴んでいない人は、具体的な考えの主張がないのです。
そんなことはない、お前(慧空)もいろいろ出張してるじゃないかと仰る方もおられると思いますが、私は何も具体的な考えは主張していないのです。
あくまでも、すべては考えであり、幻であるとした上で、方便として何か言葉を言っているだけなのです。
すべては考えであり、絶対的なものは無いということが、よく分かっているのです。
敢えて、唯一主張があるとすると、すべては考えだという考えだけなのです。
そしてもちろん、その唯一の主張も考えであるということもよく分かっているのです。
何も掴んでいないので、意識が迷うことなく、自ずと定まるのです。
何も掴んでいないので、起こってきたことがらや考えを掴むこともなく、また引きずることもないのです。
だから、新たなカルマもつくらないのです。

この私が言っていることを頭で理解されようとしても、それは無理です。

私に意識を向け、まずは、すべてのことがらは私に起こってきている考え(認識)なんだということをしっかりと理解して頂きたいと思います。
その次に、私とは何かについて徹底的に追求して頂きたいと思います。
私も幻だということが理解できたとき、本当に一切もことがらが幻だということが理解できます。


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読んで頂いてありがとうございました。

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