私を知る

自覚を中心に悟りのヒントを書いています。自覚とは「私」に意識を向け、一切は「私」の考えであることを自覚していくことです。

行為の自覚

2018年03月21日 14時16分35秒 | 自覚ワーク等の紹介
◇行為の自覚◇

考えの自覚をやれる方はそれをやられれば結構でして、ここで紹介する行為の自覚は特に必要ありません。
この行為の自覚は考えの自覚が難しいという方に試して頂きたい方法です。
なお、考えの自覚と行為の自覚を同時並行でやられても問題ありません。

行為の自覚は、その言葉の通り、自分の行為について自覚していきます。
具体的には、普段何気なくやっている一つ一つの行為について、「私がこの行為をやっているんだ」と自覚していきます。
大変でしょうが、一つ一つの行為についてできるだけ徹底的かつ丁寧に自覚してください。

歩いているときは、「私が歩いているんだ」と自覚してください。
さらには、一歩一歩の足の運びについても、「右、左、右、左」と言う具合に自分が左右の足を交互に送り出していることを自覚してください。
道を曲がるときや立ち止まるときは、私がそれらの行為をやっていることを自覚してください。
そして、自らの意志で自らの身体を目的地まで運んでいることを自覚してください。

食事を摂るときも、何にしようかメニューを考えるところから自覚してください。
材料を揃えに買い物に行くときも、料理をするときも、また何かを食べにレストランに行くときも、その途中で必要となる各行為について自覚してください。
食事中も、目の前に並んだ器の中からどれかを選び、選んだ器を手に取り、食べ物を箸で口に運び、咀嚼し、味わい、呑み込むところまで、一つ一つ丁寧に「私がやっているんだ」と自覚してください。

そうやって自覚を続けていると、一つ一つの行為を本当に自分がやっていることを実感するようになります。


行為の自覚と考えの自覚の関係について、少し補足します。
行為は行為単体で起こることは少なく、感情や思考等の考えと相まって起こることが多いです。
このため、最初は行為を主眼として自覚を行っていても、続けているうちに自ずと考えについても自覚するようになります。


◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
◇セッションのご案内はこちらです。


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8 コメント

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Unknown (あ)
2021-12-23 17:15:49
慧空さんご無沙汰しております。あです。自覚を続けております。いくつか経験したことについて書かせてください。
自分の考えを自覚する、少しずつできるようになってきました。一番ピンときたのは、同僚の話を聞いていたときに私の心に怒りが湧いた時でした。スパイク的にバババっと考えが浮かびました。このときに湧いてきたのは早過ぎて慧空さんに教えてもらわなければ気づかなかったと思いますが感情ではなく確かに考え、それに近いものであったと思いました。
この場合は、「外からの刺激→考え」となっていました。

それ以外にも、例えば自転車に乗っているときに脈絡もなく考えが浮かんだとき、考えに気づくのは考えの連鎖が3個も4個も起こってからです。最後の考えに気づいてから考えを誘起した考えを遡ります。そうすると、慧空さんが言われているように電車の音だとか、目に入った街の看板だとか、そういう外からの刺激に行き当たります。
この場合は、「外からの入力→自分の記憶→考え1→考え2→、、」という流れが認識できます。

その他の場合には、時々考えを遡ると体の中の違和感、胃のムカつきなどに行き着きます。身体症状の背後にあるものを探ろうとすると見つかるのは二種類あると思いました:1)違和感の背後にスパイク的に何かの考えがあるような気がする場合。ただ、これは慧空さんに教えてもらった知識によってスパイク的な何かがあるはずだ、という考えがつくっているもののような気もします。2)違和感の背後に食べ過ぎなどの生理的な要因が見つかる場合。
これらの場合は、外からの刺激はほとんど記憶を介さずに「外からの刺激→考え1→考え2→、、」となるような気がします。

以上3つの例を概観すると、もしかしたら全て場合で常に記憶が介在しているかもしれないと考えました。
つまり多くの場合で、「外からの入力→自分の記憶→考え1→考え2→、、」というスキームになっているかもしれません。
刺激から記憶を検索しているとすると、検索が早すぎるので、もしかしたら体の中に記憶がすでに誘起されていて、その記憶に合う刺激があると考えが認識できるようになるだけかもしれません。

自分は、「刺激→応答」という単純すぎる反応のための自動機械なのか?、と思いがっかりするような気もしました。
このプロセスの中で精神機能として一番高級そうなのは、刺激から人間らしい考えを生み出している活動のような気もします。
または、記憶に何がしかの感情を付加してを大事に保存している活動かもしれません。

一方で、食べ過ぎの例ではもしかしたら、記憶を介さずに、「体の生理状態→考え1→考え2→、、」というスキームになっているかもしれません。
この時が問題のような気がしました。
生理状態の後に起こる考えがなくなれば、不快感も消えるでしょうか?今の私にはそうは思えない、というのが質問のメインポイントです。
身体的な感覚に伴う不快感は考えを誘起する核になりますが、そのままで十分に現実的な存在感を持っています。
不快感自体が考えではないとすると何でしょうか?
慧空さんのページの中に、痛みについてのブログがあったと思うのですが、痛みが記憶にアクセスして考えを起こしているときには、その考えに気づくと痛みの不快感の一部は無くなるかもしれないですが、痛み自体が消えるわけではないのではないかと考えました。
もしそうだとすると、「全ては考えである」というstatementは常に正しいわけでなくならないか?と思いました。
そうすると、世界が幻想であるというstatementも揺らいでしまいます。
私は身体的な感覚をかなり現実的な存在であるように認識してしまいます。
そうすると、この物質世界を幻想だと思うことが難しくなってしまいます。
歴史的な大虐殺の首謀者について、慧空さんのお考えが書かれた箇所について、うまく整合的に理解できなくなります。
悟ると痛みや空腹の不快感が消えるのであれば理解できます。

慧空さんは、やはり痛みや空腹のような生理的な感覚も考えであり幻想だと考えられるのでしょうか?
私の違和感がうまく文章になってよかったです。
あさんへ (慧空)
2021-12-23 20:14:45
コメントありがとうございます。
普通の自覚をしっかりとやっておられるようですね。
いいですねぇ(#^.^#)

ご質問のポイントについて、コメントさせていただきますね。
まず最初に申し上げるべきこととして、
全て一切のことがらは考えである
というとです。
あさんは、感覚(記憶も?)は考えではないのではないかとお考えのようですが、そうではありません。
感覚も考えなのです。
正確には、考えだと断言はできませんが、考えとして捉えることができるということです。

そのことをどう説明したらいいのでしょうね。
私的には一切のことがらは考えだということがあまりに当たり前になってしまっているので、いざそれを説明するとなると困ってしまいますw

考えとは虚体であり、物質的な概念である実体と相反するものです。
実体は固定的、恒久的なものですから、通常突然消えたり無くなったりはしません。
しかし、そのような実体も、私という自我がそれを認識して初めて、その実体の存在していると言えるのです。
例えば、月は実体であり、通常の理解ではいつも宇宙空間の地球の周りに存在しているものですが、突き詰めて考えると、自分が月を見ていないときに、月が存在していると言えるのでしょうか。
結論から申し上げると、自分が見てないときに、月があるとは言えないはずなのです。
さらに突き詰めると、月を見ているときでさえ、本当にその月が実体としてあるものなのでしょうか。
これも結論から申し上げると、自分が月を見ていても、その月が本当に実体であるかどうかは誰にも分からにことなのです。

という具合に、実体について突き詰めて考えれば考えるほど、虚体でさる考えとの境界が曖昧になってきます。
そうした思索や体験を繰り返しているうちに、一切は考えであるということが腑に落ちるようになります。

あるいは、涅槃(完全に意識が途絶し、夢も見てない状態)を経験すれば、一切が考えであるということが腑に落ちるかもしれません。

「一切は考えである」と言葉にするのは簡単ですが、これが分かるのは簡単なことではないのでしょうね。
Unknown (あ)
2021-12-23 20:38:11
すいくうさん
ご返信ありがとうございます。痛みや空腹感も考えなのですね。正確には痛みや空腹感があるという考えによって存在することになっている、と言われたのだと理解しました。
これであっているとして前に進みます。

問題は、電車の音を聞いて記憶から取り出された狭義の考えはそのことに気づくと消えてしまいます。憎しみのような感情も憎しみを作り出すために絶えず湧いて出る考えに気づくと消えてしまいます。

でも、痛みや空腹感はどうでしょうか?
原理的には痛みがある空腹感があるという考えに気づいたら消えてくれるでしょうか?
例えば性欲のような感覚はどうでしょうか?

前者は考えに気づくと同時に消えてくれますが後者はなかなか消えてくれません。憎しみを維持するために活動し続けている考えがあるように、生理的な感覚を維持するために活動している考えが存在しているのでしょうか?
あさんへ (慧空)
2021-12-23 20:56:35
確かに、痛みや空腹感は根強く続きやすい傾向にあります。
それでも、他の何かに意識が向いているときは、忽然と消えているはずです。
つまり、痛みや空腹感も意識の状態に応じて、消えたり現れたりするものなのです。
ただ、憎しみ等とは違い、肉体の生理と直結していますから、肉体の状態が変化しないと継続しやすい傾向があるのだと思います。
性欲はもう少し複雑でしょうね。
Unknown (あ)
2021-12-23 21:05:40
ありがとうございました。
デカルト的に、この世に少なくとも私は存在しているかもしれない、という考えからスタートして、痛みや空腹感も幻想かもしれない、と考えるわけですね。痛みと性欲の間に違いがあるのは意外ですが、ひとまず方向性は見えたような気がします。
痛みや飢えの感覚から離れない限り二元の囚われからは逃れられないように思いました。二元の囚われから出るのは相当難しいですね。
痛みや飢えの感覚に囚われたまま、二元の囚われを部分的に乗り越えて部分的に悟りの道は先に進む(幸福感に包まれたりとか)ようなことはできないのでしょうか?
あさんへ (慧空)
2021-12-23 21:34:48
>デカルト的に、この世に少なくとも私は存在しているかもしれない、という考えからスタート

取り敢えずは、そう考えておられても結構です。
ですが、最終的には「考え=私」となります。
つまり、私も痛みも憎しみ等もすべて考えであり、それらはすべて私であるということになります。

>痛みや飢えの感覚から離れない限り二元の囚われからは逃れられないように思いました。

そんなことはないです。
それに、どんなに悟ろうと痛みや飢えの感覚から離れられませんw

>痛みや飢えの感覚に囚われたまま、二元の囚われを部分的に乗り越えて部分的に悟りの道は先に進む(幸福感に包まれたりとか)ようなことはできないのでしょうか?

誤解がおありのようですが、痛み、飢えと二元の囚われとは別物です。
痛みや飢えは、特殊なケースを除いてそれらは囚われに関係なくあるものであり、どんなに悟っても無くならないものなのです。
Unknown (あ)
2021-12-24 09:02:09
>誤解がおありのようですが、痛み、飢えと二元の囚われとは別物です。
>痛みや飢えは、特殊なケースを除いてそれらは囚われに関係なくあるものであり、どんなに悟っても無くならないものなのです。

多分ここです、私がお聞きしたかったポイントは。
二元の囚われは良いvs悪いまたは正義vs悪のframeworkで現実を切り取ってしまうこと、と理解しております。良いvs悪いまたは正義vs悪がどのように湧いて出るかを考えると、生理的な不快、特に痛みと飢えを与える要因を悪い、悪として認識することから出発しているように思えたのです。良いor正義は人それぞれの立場によって多様性がありますが、痛みと飢えは多くの人間に共有される不快だと思いました。痛みと飢えを与える対象を悪者と認識する考えです。

ですから、痛みと飢えを与える対象を悪者と認識する考えをどうにかしない限り二元の囚われからは脱出できないのではないか、と考えて上の質問になりました。

どうしてもお聞きしたかったので質問させてください。例えば、小説や戦争の記録にサディスティックな拷問の描写が出てきますね。サディスティックであることが重要なので、もちろん痛みや飢えから解放される死に至らないように長期間継続的に加えられるとします。例えば、私がされる側になったとすると、相手を悪者と認識し、そこから救ってくれる人を正義と考えたりしてしまいます。

最終的な悟りに至ると、悟っているとは言え現実の世界に存在しているその人の自我は、痛みや飢えをどのように認識するのでしょうか?そこから逃れたい、とやはり思うのでしょうか?もしかしたら、雪が降っている、というような感じで加えられる暴力を認識できたりするのでしょうか?

もう一点質問です。
自分の生理的な欲求に気づいてそれに対処することは、本心に生きることのベースになると考えていました。本心に生きることは悟りの工程を進むことに重要だと考えていました。悟りの工程を進むと生理と本心のリンクが外れたり、関心が亡くなってしまったりするのでしょうか?
あさんへ (慧空)
2021-12-24 19:59:07
二元の囚われについていろいろ疑問を持たれてるようですが、それがどういうものかは、それを悟ってみて初めて分かることなのです。
あさんは頭がいい方なので考えて理解されようとしておられるのでしょうが、そもそもが無理なことなのです。
と言ってしまうと見も蓋もないので、何かヒントになることが言えないかと考えてみました。

>痛みと飢えは多くの人間に共有される不快だと思いました。痛みと飢えを与える対象を悪者と認識する考えです。

そもそも痛みや飢えは、非常にシンプルな生理的反応ですので、痛みや飢えが生じたときは(それを認知したときは)、それに対する基本的にシンプルかつ典型的な反応(身体的反応や思考等)が生じます。
そこに、二元の囚われが反応する余地はありません。
二元の囚われが反応するとしたら、痛みや飢えに直接反応しているのではなく、痛みや飢えの発生から二次的に派生した何らかの考えに反応しているはずです。
つまり、二元の囚われがある人は、痛みや飢えに対する連鎖的な反応の過程で、二元の囚われが反応する場合がありますが、二元の囚われが無ければ、そのような反応は起きないのです。

>最終的な悟りに至ると、悟っているとは言え現実の世界に存在しているその人の自我は、痛みや飢えをどのように認識するのでしょうか?そこから逃れたい、とやはり思うのでしょうか?

上述した通り、それを無理やり説明することも可能ですが、説明したところで分かるものでもありませんから、お答えは省略させてもらいます。

>自分の生理的な欲求に気づいてそれに対処することは、本心に生きることのベースになると考えていました。

本心は、基本的に意識のかなり深い部分にあることが多いですから、多くの場合、生理的欲求との関連性は低いでしょうね。
しかし、生理的欲求に対処する過程を飛び越えて、いきなり本心に取り組むというのも多くの方の場合、困難でしょうね。

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