観戦記は大丈夫?(下書き)

2006-12-15 15:01:52 | 将棋
 観戦記がこれから新聞紙上で生き残るのは愈々難しい。結構充実した竜王戦第2局の中継を見て改めてそう思った。あれだけの情報量を棋譜と共に与えられて、新聞掲載の観戦記を読もうというのはよほどの物好きではないか。今はまだいい。紙のメディアしか見ないファンがいるから。
 私の考えるところの、観戦記の価値は
 1.棋譜の解説
 2.対局情景の描写
 3.棋界情報の提供
 4.文章
 くらい。
 紙面が限られているというボトルネックがあるからか、いずれも物足りない。
 1.は基本的にもう破綻している。タイトル戦のようなあらゆる将棋メディアで扱われるものについては、雑誌を読むなり、テレビを見るなりすれば補完できる。しかし、他で扱われないほとんどの対局の解説はどうしてくれようか。読者の多種多様な解説に対する要求を満たすのは不可能だとしても、まとまりのない観戦記の多いこと。筆者自ら「逆転」と書いておきながら、なぜ逆転したのか、どうすれば逆転しなかったのか書かないのまである。ひどい。
 2.3.は書き手に依存するところが大きい。業界外タレントのゲスト観戦ならともかく、年に何本も観戦記を書くライターや記者たちが、自分の朝の行状や、棋士との(対局当日とは関係ない)交友関係を読者に読ませて何が嬉しいか。名人戦騒動が勃発してしばらくの毎日観戦記もバカヤローだ。対局中の棋士の行動に絡めて書くならともかく、単なる毎日の主張を観戦記のスペースでしてどうすんねん。
 観戦記にまず求められるのは整った1.とそれなりの2.3.だが、それがなくても4.さえ面白ければ読む人はいる。
 しかし、4.単独で面白い観戦記が多いとは到底思えないし、その原因を紙幅の制限に負わせることはできない。観戦記の担い手は、棋士・女流棋士・将棋専業ライター・担当新聞記者が大半を占める。プロの文筆家ではないので、文章だけを見た場合はつまらなくて当然だ。わかりやすく整った文章を書く能力と、面白い文章を書く能力は別物だ。書き手の多くはエッセイストでも小説家でもないのだから、彼らの文章に面白さや感動を求める方が酷かも知れない。また、ほぼ業界内の人間で固められているため、新聞社側・連盟側という多少の違いはあっても、視点が固定されていて切り口に新鮮味がかけるのも問題だ。
(2006-11-23)

遠山雄亮のファニースペース経由、My Life Between Silicon Valley and Japanby梅沢望夫 毎日新聞2006/12/05夕刊「ダブルクリック」欄・第九回「将棋の魅力」より最後段落を引用
 紙面という物理的制約の範囲内で将棋の面白さをどう表現するか。それは新聞の将棋欄でもずっと追求されてきた。これからはそれに加え、ネットの無限性を活かし「将棋の魅力」の深さをいかに表現し伝達するか。将棋のさらなる普及のためにはそれが急務だと痛感したのである。
これに尽きる。ただ新聞観戦記が独自の価値を回復できるだろうか。メニューというか教科書というか、入口として機能するよりない気がする。(2006-12-15)

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