誠文堂 昭和六年 転載
2006/02/26 08:23:00
ちょっと思った。第一次大戦がなければ、升田・大山は別の形で出現したのだ。
専門家となるまで
木 見 金 治 郎
私は明治十一年六月廿四日、岡山県窪屋町倉敷村(現今の倉敷市稲荷町)の木見慶長男として生れました。
備中の倉敷と云う処は、昔から将棋は相当流行した土地で、天野宗歩師時代には近郷から
香川英松、佐々木政四郎等有名な棋士が出ています。又無段の名手として堀武之助、通称備中の武之助、或は武先生とも云っていましたが、倉敷の出生で其の土地に居られた関係もあって、現今でも将棋は、郷里の誇りとしている様です。
此の堀武之助の技倆は、当時四国で有名な鳥指しの四ノ宮金吾に、半香の手合で対局していました。第一局は、慶応三年讃岐國多度津港大津屋に於て、右香落四ノ宮金吾の勝。第二局は、後に備前國下津井港に於て、平手番堀武之助の勝。以上指分となっていますが、右香落は、針付銀の異名のある棋譜です。これは私の手元にありますが、平手番の棋譜が残っていない事は遺憾です。
第二の故郷となった、種々思い出の深い神戸に両親につれられて移住したのは、未だ私の幼い時分でした。それは神戸で商売していた叔父亀山某が、仕事が多忙になった為め、父が呼び寄せられた様に記憶しています。
其の当時郷里には高橋松蔵、横山清蔵(三段)高橋虎吉(後岡山市に居住し関根師から五段を免許された)の三氏が、倉敷の三福対と称されていました。又此の外に隠れた指手も相当あった様です。
父は高橋松蔵氏に飛車を落されて指して居られた様に記憶します。ですから神戸へ来て後、道具商を始めましたが、好きな道として、一寸の余暇でも同好者と将棋を指していました。
私はそれを見ている中に段々と興味が出て来て、自然と少し位は指せる様になっていました。
私が十九歳の時でした。仲町四丁目の村藤と云う棋席へ、関根と云う強い先生が来ているからと、知人齋藤某に誘われ同行しました。其の時初めて現名人関根師に照会せられて、四枚落で教えて頂きました。処が無筋であるから勝てる訳がない、負け越す一方ですから、是れではいけないと思い、早速定跡本を探しましたが、其の頃の神戸の本屋には棋書がありませんでした。勿論当時は棋書も尠く、只今の様に何処の書店にもあると云うものではなく、膝元の東京でも、或る専門の書店に限られていた様な時代でしたから、然し漸く手に這入った本が、将棋の秘訣でした。それで四枚落棒銀の端崩を独習して、遂に勝越す様になりました。
其の間に高段者手合を初めて観戦しました。それは関根師と(飛角落交り)勝浦松之助氏との三番組でした。又後に盲人将棋、即ち無盤で関根氏と(香落)勝浦氏との対局でした。
其の後は一層興味も加わり将棋に熱中する様になって、古い棋書と云う棋書を出来るだけ蒐集して調べ、実戦に用いて研究した結果、相当技倆も進歩した様でした。後に関根先生から一躍三段を免許せられて、順次進級の機会を与えられました。
関西将棋会が今日の隆盛を来たしたのは、大阪時事新報に棋譜が掲載され、又大阪朝日新聞に、関根、阪田両氏の香角香三番手合を図面を入れて掲載されたのにもよるが、後に神戸新聞社主催、日本三大家出席の将棋大会を、神港倶楽部に於て開催されたのが、重なる発展の原因となった様に思います。其の時の席上手合、関根八段と井上八段との平手対局は翌午前三時頃終局、関根氏の勝。又小菅八段(香落)阪田六段の対局は指掛けとなtって、翌日山手倶楽部で指継ぎ、阪田氏の勝となりました。其れからの京阪神の棋界は非常な活気を呈して来ました。其の後伊勢四日市の大会で、小菅八段と関根八段両先生の対局等観戦して、私は随分裨益する点がありました。
大正三年五月当時です。私は東京に於て専門棋士になる積りで上京しました。土居氏が未だ本所相生町に居られた時で、種々御世話になり、浜町三丁目の菅原氏仮寓に住居する事になりました。其の間、関根氏の御尽力と、同盟者各位の御厚意に依って、芝浦浅羽楼に於いて歓迎会を催して下され、新聞将棋に加入させて頂きました。
それから小野名人、井上先生の御引立を蒙り、愛棋家白石氏、菅原氏、前田氏、森本氏等の後援と、寺田一家の御厚意で、一年有余その道に精進する事を得ました。処が以外の故障が起ったのです。それは間接ですが世界大戦です。神戸の親戚から、早く帰神して商業に従事する様にと、再三再四書面が来るので、已むを得ず最初の意志を翻えし、作成中であった原稿、将棋必勝法を著し、在京中御厚意を受けた各位に御別れして帰神する事になりました。
帰神後は元町三丁目に住居して、親戚の相生町五丁目銅鉄船具寺岡商店に通って居りましたが、其の傍自宅で教授所を開始し、矢張り将棋の研究を継続していました。
私が鳥指しを研究し始めたのは其の頃からです。其の後度々上京して各棋士と対局の機会を得て、奮闘努力した結果が、今日ある基礎となった様に思います。
大正十四年関根名人から八段を免許せられ、専門家となって爾来今日に及んで居ります。
只今大阪毎日新聞社から将棋を嘱託されて居ります。(終)
備中の倉敷と云う処は、昔から将棋は相当流行した土地で、天野宗歩師時代には近郷から
香川英松、佐々木政四郎等有名な棋士が出ています。又無段の名手として堀武之助、通称備中の武之助、或は武先生とも云っていましたが、倉敷の出生で其の土地に居られた関係もあって、現今でも将棋は、郷里の誇りとしている様です。
此の堀武之助の技倆は、当時四国で有名な鳥指しの四ノ宮金吾に、半香の手合で対局していました。第一局は、慶応三年讃岐國多度津港大津屋に於て、右香落四ノ宮金吾の勝。第二局は、後に備前國下津井港に於て、平手番堀武之助の勝。以上指分となっていますが、右香落は、針付銀の異名のある棋譜です。これは私の手元にありますが、平手番の棋譜が残っていない事は遺憾です。
第二の故郷となった、種々思い出の深い神戸に両親につれられて移住したのは、未だ私の幼い時分でした。それは神戸で商売していた叔父亀山某が、仕事が多忙になった為め、父が呼び寄せられた様に記憶しています。
其の当時郷里には高橋松蔵、横山清蔵(三段)高橋虎吉(後岡山市に居住し関根師から五段を免許された)の三氏が、倉敷の三福対と称されていました。又此の外に隠れた指手も相当あった様です。
父は高橋松蔵氏に飛車を落されて指して居られた様に記憶します。ですから神戸へ来て後、道具商を始めましたが、好きな道として、一寸の余暇でも同好者と将棋を指していました。
私はそれを見ている中に段々と興味が出て来て、自然と少し位は指せる様になっていました。
私が十九歳の時でした。仲町四丁目の村藤と云う棋席へ、関根と云う強い先生が来ているからと、知人齋藤某に誘われ同行しました。其の時初めて現名人関根師に照会せられて、四枚落で教えて頂きました。処が無筋であるから勝てる訳がない、負け越す一方ですから、是れではいけないと思い、早速定跡本を探しましたが、其の頃の神戸の本屋には棋書がありませんでした。勿論当時は棋書も尠く、只今の様に何処の書店にもあると云うものではなく、膝元の東京でも、或る専門の書店に限られていた様な時代でしたから、然し漸く手に這入った本が、将棋の秘訣でした。それで四枚落棒銀の端崩を独習して、遂に勝越す様になりました。
其の間に高段者手合を初めて観戦しました。それは関根師と(飛角落交り)勝浦松之助氏との三番組でした。又後に盲人将棋、即ち無盤で関根氏と(香落)勝浦氏との対局でした。
其の後は一層興味も加わり将棋に熱中する様になって、古い棋書と云う棋書を出来るだけ蒐集して調べ、実戦に用いて研究した結果、相当技倆も進歩した様でした。後に関根先生から一躍三段を免許せられて、順次進級の機会を与えられました。
関西将棋会が今日の隆盛を来たしたのは、大阪時事新報に棋譜が掲載され、又大阪朝日新聞に、関根、阪田両氏の香角香三番手合を図面を入れて掲載されたのにもよるが、後に神戸新聞社主催、日本三大家出席の将棋大会を、神港倶楽部に於て開催されたのが、重なる発展の原因となった様に思います。其の時の席上手合、関根八段と井上八段との平手対局は翌午前三時頃終局、関根氏の勝。又小菅八段(香落)阪田六段の対局は指掛けとなtって、翌日山手倶楽部で指継ぎ、阪田氏の勝となりました。其れからの京阪神の棋界は非常な活気を呈して来ました。其の後伊勢四日市の大会で、小菅八段と関根八段両先生の対局等観戦して、私は随分裨益する点がありました。
大正三年五月当時です。私は東京に於て専門棋士になる積りで上京しました。土居氏が未だ本所相生町に居られた時で、種々御世話になり、浜町三丁目の菅原氏仮寓に住居する事になりました。其の間、関根氏の御尽力と、同盟者各位の御厚意に依って、芝浦浅羽楼に於いて歓迎会を催して下され、新聞将棋に加入させて頂きました。
それから小野名人、井上先生の御引立を蒙り、愛棋家白石氏、菅原氏、前田氏、森本氏等の後援と、寺田一家の御厚意で、一年有余その道に精進する事を得ました。処が以外の故障が起ったのです。それは間接ですが世界大戦です。神戸の親戚から、早く帰神して商業に従事する様にと、再三再四書面が来るので、已むを得ず最初の意志を翻えし、作成中であった原稿、将棋必勝法を著し、在京中御厚意を受けた各位に御別れして帰神する事になりました。
帰神後は元町三丁目に住居して、親戚の相生町五丁目銅鉄船具寺岡商店に通って居りましたが、其の傍自宅で教授所を開始し、矢張り将棋の研究を継続していました。
私が鳥指しを研究し始めたのは其の頃からです。其の後度々上京して各棋士と対局の機会を得て、奮闘努力した結果が、今日ある基礎となった様に思います。
大正十四年関根名人から八段を免許せられ、専門家となって爾来今日に及んで居ります。
只今大阪毎日新聞社から将棋を嘱託されて居ります。(終)
2006/02/26 08:23:00
ちょっと思った。第一次大戦がなければ、升田・大山は別の形で出現したのだ。