松沢哲郎は「チンパンジーの行動習性から人間としての社会性を立証できるかも知れない」などと称して文化功労賞まで獲得しているが ヒトであっても先天的行動習性の中には人間性を欠いたものも存在しているのであり
1960年代には既にスタンレー:ミルグラムのアイヒマン実験によってヒトの危険性は「立証」されているのである
そもそも松沢が「行動習性から人間としての社会性」を立証しようと言い出したのは 私が生物学上の「社会性(封建的服従統率的協調行動習性)」というものが人間としての社会性とは無関係であることを指摘したことに対する「はぐらかし」に他ならない
11億を超える研究費不正流用をするような松沢が「人間性」を論じようなどというのは支離滅裂も甚だしい 約束事すら守れない奴が「人間としての社会性を立証」できるわけがなかろう バカバカしい
残念ながらミルグラムは 「サイバネティクスの観点から」と称して従来の生物学的誤謬に基づいた論証までしてしまっているものの 決して一面的効用だけを根拠に本能習性の全てが合理的であることの立証になるわけではない
「サイバネティクスの観点」とは シーケンシャル(自動制御的)な効果を意味するものであり 封建的統率服従性を特定の状況下における有用性だけを取り上げて正当化しているに過ぎず 何ら普遍的人間性や安全性の論証になっているわけではない
ヒトの先天的習性を利用して盲目的服従集団を作れば 反社会的暴力者集団に対しての対抗組織として使うことも可能ではあるが 逆に統率者が暴力的に民衆弾圧をする際にも「便利に使える」のであって 一面的効用だけを抽出して全面的有用性であるかのように言い張るのは「こじつけ」でしかない
ヒトの先天的な行動習性というものから人間性を立証することは原理的に不可能である
特定環境下においてどのような行動習性を抽出してきたとしても ヒトという種の生物が既に行ってきたあらゆる残虐行為を反証することは不可能だからである
振り込め詐欺師が仲間内で食事を奢ろうが 東京電力や日大の組織腐敗体制にとって都合の良い統率性を発揮しようが それらはむしろ「組織の利益を優先し 個人が自律的な社会的責任を負わない」という非人間性の立証にしかならないのである
山極寿一は「ヒトには先天的に人間性が組み込まれているはずだ」などという根拠のない予測で衆愚から人気を集めていたが その一方で安倍内閣を「ゴリラと一緒で忖度だらけ」などと形容しているのである
「忖度する」のはゴリラやヒトの先天的習性であって それこそが組織腐敗や隠蔽の温床となる原因であり 山極の言っている内容には論理的一貫性がなく その場限りの衆愚迎合に過ぎず 極めて無責任である
ゴリラやチンパンジーにジェンダー平等は通用しない
ゴリラは障害を負った仲間を排除はしないが 助けもしないのである
先天的本能習性というものは 祖先の生息環境や統率協調性が生存や繁殖の継続にとって有利に働いたことによる収斂進化の結果であって 常に人間性にとって適した行動を促してくれるような都合の良いものではないのである
いきあたりばったりに都合の良いこじつけで衆愚人気を集めるのは簡単で 占い師が「ズバリ言うわよ」などと宣言しておきながら「占い師の言っていることなんか真に受ける方が頭がおかしい」などと言い出すのと同じで 言っている内容に論理整合性がないというのは 要するに「無責任だ」ということである
ところがマスコミ衆愚は人気者や権威の言っている内容の論理整合性には全く興味を示さず その場限りの論説を鵜呑みにして満足するだけであり これは洗脳状態と何ら違いはないのである
ヒトという種の生物は そのほとんどが自分の頭では物事を論理客観的には検証しようとはせず 権威肩書など主観的に安心できる相手を盲目的に信頼し 唯々諾々と服従忖度迎合同調して満足し その主観的満足こそが自発的論理検証性を放棄させ 思考停止に陥れるのである
日大の組織腐敗に対し マスコミの大半はトップの「責任者」だけが悪いかのように形容しているが 「腐った頭」に服従忖度迎合する集団に迎合し 自分が属する集団組織の存続させることで自分の地位権益をも温存しようとする大多数の服従者の無責任性こそが組織腐敗の根源的原因なのである
何度も言っているが 「個人が自律的な社会的責任判断選択をすること」こそが人間性の根源本質であり 単に多数派に同調迎合しているだけでは「真実を見極めた」ことにはならない
自分の頭で考えても「わからない」というのであれば これは判断として間違っているとは言えないが 本当は「わかりもしない」のに権威組織の多数決を鵜呑みにするというのは 科学的には正しい判断とは言えないのである
「わからない」ことを正直に「わからない」として判断保留をするならまだしも 本当は「わかっていない」のに既存の権威の多数決を鵜呑みにして垂れ流すというのは 報道機関として無責任である
ヒトは今までイマヌエル:カントの「純粋理性批判」における「絶対に知覚することのできない叡智界」などという論理客観的根拠のないカントの勝手な妄想観念を鵜呑みにしていたバカが大半である
それでも「入試に合格した大学で教えられている内容なら 絶対に間違ってなどいないはずだ」という思い込みによって 誰も「話がおかしい」とは言い出さないのである
学力成績評価という抽象化された「脳への報酬」だけが目的になっているために 自律的に論理検証して疑うという批判精神が全く働かないからである
京大学長や文化功労賞受賞者を批判しても 「勝てそうにない」と主観的に思えば誰も批判しなくなるものである
フリードリヒ:ニーチェの「できそうにないことは やらない方が良い」などという基準のあやふやな「迷言」を鵜呑みにし 都合よく何もやらないことの方が安心で満足なのは当たり前である
ヒトという種の生物は 自律的に社会的責任判断選択をするよりも その場限りに多数派や権威に迎合同調忖度服従することで 主観的に安心満足することの方を優先する先天的習性がある
だから日大やミャンマー政府軍のような組織腐敗が暴走するのである
長谷川眞理子は散々「〇〇のために進化を選んだのよ」などという「説明」をしてきたのであり これはチャールズ:ダーウィンの進化論とは論理整合性が全くとれていないのである
2015年の段階で長谷川は ダーウィンが差別主義を糾弾している立場であったことを述べているが ダーウィンは遺伝的進化はただの自然現象であって 特定環境への適応によって生存や繁殖が継続可能になる「結果」を論証しただけであって 「○○のために進化を選んだ」という説明はしていないはずである 私は原語版が読めないので明確にはわからない上に 翻訳が国内の生物学者(養老孟司訳まである)によるものである以上信頼性が著しく低く意味がない
遺伝的進化というものが選択可能であるかのように言うのであれば 先天性疾患を持って産まれてきた障害者は「愚か」だという理屈になり これが優生学の温床となってきたのである
遺伝的進化というものには主体的選択可能性は存在せず あくまでシーケンシャルな自然現象という「結果」であって 特定の「結果」の必然性の中から一面的合理性だけを抽出枚挙してきても遺伝的進化の全てが「正しい」結果をもたらす「目的」であることの論拠には全くならない
本ブログが匿名のままなのは 「他人から見た目の主観的印象で判断されたくない」のが理由である
一般には「匿名の書き込みは信用ならない」とされているが そもそも学術権威の大多数を批判する以上は敵が多すぎて到底実名が出せる段階にはない
私自身の信頼性はともかく 内容自体は論理客観的理解判断が可能かどうかは全く別次元の話であり 主観的に「信じたくない」かどうかは「内容を理解すること」とは同列にはならない
遺伝的進化における誤謬についても 「刑法判決で解決」としてしまう司法制度の欠陥も 決して私だけが主張している特異な持論ではなく 一部の学術権威や知識人も言っていることである
意識の本質について論じる上においては ヒトの主観的安心満足を提供するような人気取りとは完全に逆行する必要があり どうしたって「苦言」や「批判」にしかならない
生物学界や哲学界の組織的腐敗に対して何の批判精神も持たずに同調迎合忖度服従したり 傍観放置して責任逃れに終始することは簡単だが それは社会的責任を全く負わない「無能なデクノボウの選択」に過ぎない
無能なデクノボウしかいない社会がどのような結果に至るのかは 私の責任の範疇にはない
Ende;