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書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

無能者の選択

2021年12月01日 17時46分06秒 | 意識論関連

松沢哲郎は「チンパンジーの行動習性から人間としての社会性を立証できるかも知れない」などと称して文化功労賞まで獲得しているが ヒトであっても先天的行動習性の中には人間性を欠いたものも存在しているのであり

1960年代には既にスタンレー:ミルグラムのアイヒマン実験によってヒトの危険性は「立証」されているのである

そもそも松沢が「行動習性から人間としての社会性」を立証しようと言い出したのは 私が生物学上の「社会性(封建的服従統率的協調行動習性)」というものが人間としての社会性とは無関係であることを指摘したことに対する「はぐらかし」に他ならない

11億を超える研究費不正流用をするような松沢が「人間性」を論じようなどというのは支離滅裂も甚だしい 約束事すら守れない奴が「人間としての社会性を立証」できるわけがなかろう バカバカしい

残念ながらミルグラムは 「サイバネティクスの観点から」と称して従来の生物学的誤謬に基づいた論証までしてしまっているものの 決して一面的効用だけを根拠に本能習性の全てが合理的であることの立証になるわけではない

「サイバネティクスの観点」とは シーケンシャル(自動制御的)な効果を意味するものであり 封建的統率服従性を特定の状況下における有用性だけを取り上げて正当化しているに過ぎず 何ら普遍的人間性や安全性の論証になっているわけではない

ヒトの先天的習性を利用して盲目的服従集団を作れば 反社会的暴力者集団に対しての対抗組織として使うことも可能ではあるが 逆に統率者が暴力的に民衆弾圧をする際にも「便利に使える」のであって 一面的効用だけを抽出して全面的有用性であるかのように言い張るのは「こじつけ」でしかない

 

ヒトの先天的な行動習性というものから人間性を立証することは原理的に不可能である

特定環境下においてどのような行動習性を抽出してきたとしても ヒトという種の生物が既に行ってきたあらゆる残虐行為を反証することは不可能だからである

振り込め詐欺師が仲間内で食事を奢ろうが 東京電力や日大の組織腐敗体制にとって都合の良い統率性を発揮しようが それらはむしろ「組織の利益を優先し 個人が自律的な社会的責任を負わない」という非人間性の立証にしかならないのである

山極寿一は「ヒトには先天的に人間性が組み込まれているはずだ」などという根拠のない予測で衆愚から人気を集めていたが その一方で安倍内閣を「ゴリラと一緒で忖度だらけ」などと形容しているのである

「忖度する」のはゴリラやヒトの先天的習性であって それこそが組織腐敗や隠蔽の温床となる原因であり 山極の言っている内容には論理的一貫性がなく その場限りの衆愚迎合に過ぎず 極めて無責任である

ゴリラやチンパンジーにジェンダー平等は通用しない

ゴリラは障害を負った仲間を排除はしないが 助けもしないのである

先天的本能習性というものは 祖先の生息環境や統率協調性が生存や繁殖の継続にとって有利に働いたことによる収斂進化の結果であって 常に人間性にとって適した行動を促してくれるような都合の良いものではないのである

いきあたりばったりに都合の良いこじつけで衆愚人気を集めるのは簡単で 占い師が「ズバリ言うわよ」などと宣言しておきながら「占い師の言っていることなんか真に受ける方が頭がおかしい」などと言い出すのと同じで 言っている内容に論理整合性がないというのは 要するに「無責任だ」ということである

ところがマスコミ衆愚は人気者や権威の言っている内容の論理整合性には全く興味を示さず その場限りの論説を鵜呑みにして満足するだけであり これは洗脳状態と何ら違いはないのである

 

ヒトという種の生物は そのほとんどが自分の頭では物事を論理客観的には検証しようとはせず 権威肩書など主観的に安心できる相手を盲目的に信頼し 唯々諾々と服従忖度迎合同調して満足し その主観的満足こそが自発的論理検証性を放棄させ 思考停止に陥れるのである

日大の組織腐敗に対し マスコミの大半はトップの「責任者」だけが悪いかのように形容しているが 「腐った頭」に服従忖度迎合する集団に迎合し 自分が属する集団組織の存続させることで自分の地位権益をも温存しようとする大多数の服従者の無責任性こそが組織腐敗の根源的原因なのである

何度も言っているが 「個人が自律的な社会的責任判断選択をすること」こそが人間性の根源本質であり 単に多数派に同調迎合しているだけでは「真実を見極めた」ことにはならない

自分の頭で考えても「わからない」というのであれば これは判断として間違っているとは言えないが 本当は「わかりもしない」のに権威組織の多数決を鵜呑みにするというのは 科学的には正しい判断とは言えないのである

「わからない」ことを正直に「わからない」として判断保留をするならまだしも 本当は「わかっていない」のに既存の権威の多数決を鵜呑みにして垂れ流すというのは 報道機関として無責任である

 

ヒトは今までイマヌエル:カントの「純粋理性批判」における「絶対に知覚することのできない叡智界」などという論理客観的根拠のないカントの勝手な妄想観念を鵜呑みにしていたバカが大半である

それでも「入試に合格した大学で教えられている内容なら 絶対に間違ってなどいないはずだ」という思い込みによって 誰も「話がおかしい」とは言い出さないのである

学力成績評価という抽象化された「脳への報酬」だけが目的になっているために 自律的に論理検証して疑うという批判精神が全く働かないからである

京大学長や文化功労賞受賞者を批判しても 「勝てそうにない」と主観的に思えば誰も批判しなくなるものである

フリードリヒ:ニーチェの「できそうにないことは やらない方が良い」などという基準のあやふやな「迷言」を鵜呑みにし 都合よく何もやらないことの方が安心で満足なのは当たり前である

ヒトという種の生物は 自律的に社会的責任判断選択をするよりも その場限りに多数派や権威に迎合同調忖度服従することで 主観的に安心満足することの方を優先する先天的習性がある

だから日大やミャンマー政府軍のような組織腐敗が暴走するのである

長谷川眞理子は散々「〇〇のために進化を選んだのよ」などという「説明」をしてきたのであり これはチャールズ:ダーウィンの進化論とは論理整合性が全くとれていないのである

2015年の段階で長谷川は ダーウィンが差別主義を糾弾している立場であったことを述べているが ダーウィンは遺伝的進化はただの自然現象であって 特定環境への適応によって生存や繁殖が継続可能になる「結果」を論証しただけであって 「○○のために進化を選んだ」という説明はしていないはずである 私は原語版が読めないので明確にはわからない上に 翻訳が国内の生物学者(養老孟司訳まである)によるものである以上信頼性が著しく低く意味がない

遺伝的進化というものが選択可能であるかのように言うのであれば 先天性疾患を持って産まれてきた障害者は「愚か」だという理屈になり これが優生学の温床となってきたのである

遺伝的進化というものには主体的選択可能性は存在せず あくまでシーケンシャルな自然現象という「結果」であって 特定の「結果」の必然性の中から一面的合理性だけを抽出枚挙してきても遺伝的進化の全てが「正しい」結果をもたらす「目的」であることの論拠には全くならない

 


本ブログが匿名のままなのは 「他人から見た目の主観的印象で判断されたくない」のが理由である

一般には「匿名の書き込みは信用ならない」とされているが そもそも学術権威の大多数を批判する以上は敵が多すぎて到底実名が出せる段階にはない

私自身の信頼性はともかく 内容自体は論理客観的理解判断が可能かどうかは全く別次元の話であり 主観的に「信じたくない」かどうかは「内容を理解すること」とは同列にはならない

遺伝的進化における誤謬についても 「刑法判決で解決」としてしまう司法制度の欠陥も 決して私だけが主張している特異な持論ではなく 一部の学術権威や知識人も言っていることである

意識の本質について論じる上においては ヒトの主観的安心満足を提供するような人気取りとは完全に逆行する必要があり どうしたって「苦言」や「批判」にしかならない

生物学界や哲学界の組織的腐敗に対して何の批判精神も持たずに同調迎合忖度服従したり 傍観放置して責任逃れに終始することは簡単だが それは社会的責任を全く負わない「無能なデクノボウの選択」に過ぎない

無能なデクノボウしかいない社会がどのような結果に至るのかは 私の責任の範疇にはない

 

 

 

Ende;


短絡的正義

2021年12月01日 12時34分51秒 | 意識論関連

遺伝的進化において変異による多様性拡大は不可欠なものであるが だからといって「人間社会において多様性を許容すること」とは意味が全く異なる

遺伝的進化というのは 全て結果的に死滅せずに繁殖を継続することに成功しただけであって 変異の結果生存に適さない個体の全てを淘汰(見捨てる)ことで起こった「結果」でしかない

人間社会において「変異に失敗したから淘汰断種の対象」にするなどというのは非人道的も甚だしい

ヒトは その遺伝的進化の過程において 民族浄化バイアスが組み込まれているために 異質な個体を差別排除するという先天的本能習性があるため 多様性を許容することが出来ないのである

少数異端を「火炙り」にでもしておけば安心満足で 何が真実なのかを個人が自律的に検証することはほとんど誰もせず ただ既存の権威や多数や「常識」に則って機械手続き的に「複数の信頼できるメディア」を信用しておけば良いと勘違いしている

遺伝的進化における誤謬に関しては 生物学界の大多数が間違った「説明」をしているのであって その多数決だけでは科学的根拠に基づいた事実の根拠にはならない

デマに洗脳されてエコーチェンバーに陥り 強迫観念でデマを信じ込む危険性も 結局は個人的主観や印象が作り出す錯覚によるものであり 自律的に論理検証して科学的に正しいかどうかを自分の頭で「考え」れば 「○○のために進化を選んだ」などというバカ生物学者共の「説明」が間違いであることは明らかであり 遠藤秀紀などの一部の生物学者はこれを「典型的な間違い」だと指摘しているのである

従来生物学では昆虫の擬態というものの説明において 「天敵からの捕食から免れるために自らの姿を生息環境に似せた」といった説明をしてきたが 後天的に自らの遺伝的性質を「選択」することなど論理的に不可能であり こうした説明の全ては科学的根拠がないのである

擬態というのは 先天的に生息環境に似ていた個体以外が全て淘汰され続けた結果として生息環境により似た変異個体への収斂の結果であって 先天的に生息環境に似ていない個体が全て天敵に喰われ続けた結果であり こうした収斂進化のプロセスのどこにも「自らの姿を選択」するメカニズムが入り込む余地はない

大衆観念的錯覚に基づいた「遺伝的進化万能性」妄想に都合の良い「説明」の方が多数人気や支持が得られやすいものだが 科学は多数決ではないのである

大脳容積が1400ccもありながら バカみたいに日大事業部などの組織腐敗に同調迎合服従忖度傍観放置することが繰り返されるのは ヒトが「自分達は知的生命体だ」などと勝手に勘違いしているのが原因である

遺伝的進化というものに後天的な意図目的戦略「考え」「思いつき」が影響を及ぼさないことは 決してそんなに難解な話ではなく ちょっと自分の頭で考えれば間違いであることは理解可能なものであるはずだが

衆愚マスコミの大多数は学術権威肩書の多数決だけが科学的に正しい話だという「印象」によって 自分の頭で考え判断することを全くしなくなるのである

医師免許を持った大手町の医師や 日医大の特任教授ですら遺伝的進化を万能だと錯覚したまま「ウイルスは弱毒化する」などと言い出すのは ヒトが先天的に「自分の頭で物事を論理検証しない」性質(認知的欠陥)が存在するからである

遺伝的進化というものは 変異によるバリエーション拡大の時点では生存にすら適さない「失敗」変異が必ず伴うものであって 決して全てが「成功」するようなものではなく むしろ常に先天性疾患などの「失敗」を伴うものであって 到底「進化は人間より賢い」などというトンチンカンな形容詞は科学的真理とは言えないのである

ヒトの変異による先天性疾患はそれほど多くはないが これは遺伝的進化の結果的な恒常性が組み込まれているからであり 過去の膨大な進化的「失敗」によって獲得した恒常性であって それでもなを先天性疾患変異は起きるのである

遺伝的進化の過程において不可避な「失敗」も 所詮は「結果」であって 「資源効率的に無駄」だと称して断種や殺害を正当化できるわけがないのである

生物やその遺伝的進化によってもたらされる「生存」や「繁殖の継続」も全ては自然現象という「結果」であって これは選択不可能である 過剰なまでに資源効率を追求するから弱者を差別排除する優生学が正当化されてしまうのであって むしろ弱者を守ってこその「人間」性や倫理なのである

「生産性」だの「資源効率」は 「生存」や「繁殖の継続」という生物的「正義」においては適していると言うことは可能だが そもそも生物も その遺伝的性質も 「生存」も「繁殖の継続」も全て結果であって どうしてただの自然現象の「結果」における効率だけを追求しなければならないのか わけがわからない

一面的合理性や効率性だけを「正義」として扱う短絡性こそが ヒトの頭の悪さの原因であ

「生きるため」と称して既存の体制に迎合同調服従忖度しても その「共生」性は何ら人間性の論拠にはならない

 

 


Ende;


根拠のない決めつけは真理の最大の敵である

2021年12月01日 11時12分56秒 | 意識論関連

落合陽一は「人は一人では生きていけないから共生する」と述べていたが

「生きること」自体を目的にしても永遠に生きられるわけではない

「生きている」という生物としての結果は人間性や倫理とは整合性がなく

人間性や倫理に適うのは「個人が自律的な社会的責任を負うこと」であり これは必ずしも「生きる」こととの両立が成立するわけではない

自己が死ぬことは不可避であり 死ぬことを前提としてなを生き続けることの理由とは「生存」自体にあるのではなく 社会安全性や公平性を求めることである

個人が自律的に社会安全性や公平性を求めるために必要なのは自主性・主体性・能動性である

どう「生きるか」と どう「死ぬか」 何に「命を賭ける」のかは同義であり ただ漫然とかりそめの「生存」のために共生を求めることには主体性が欠如しているのである

その「命を賭ける」だけの価値ある「信念」というものに論理客観的根拠が伴うのかどうかが重要なのであって 「実証不能の観念」に囚われ懲罰や暴力破壊で「解決」しようとする衆愚の正義が危険なのである

フリードリヒ:ニーチェは「信念は真理の敵」だと決めつけたが 信念というものに論理客観的根拠(真理)が伴うかどうかが重要なのであって 頭ごなしに「信念の全ては真理の敵」であるかのような決めつけこそが「嘘」であり 正に「真理の敵」なのである

衆愚というのは自分の頭で物事を判断せず 他人の「迷言」の類いを盲目的に信奉して安心満足することしかしたがらない

それこそがヒトという種の生物の先天的欠陥・認知的欠陥なのである

 

 

Ende;