天災によって人が亡くなるのは 誰にも責任を問えない
何万人死のうが天災は誰の責任でもないからだ
しかし 人災の場合には「死んだ人数」は関係がない
「酔っぱらい運転をしても誰も轢いてないから良いだろう」という話にはならない
「赤子のジレンマ」では「敵兵に襲われる」という条件下での判断であり 戦争状態そのものが「人災」であり これを回避しなかった時点で既に社会安全上「失敗」しているのであり 戦争状態の中での「死んだ人数」で倫理的責任など取りようがないのである
国際法上では非武装の民間人を攻撃することは許されておらず 「敵兵に襲われる」という時点で「敵兵」の方の倫理が問われるのである
ヒトという種の生物は 暴力によって相手に危害を加え 恐怖によって支配することが「解決」だという錯覚を持っており しかも この錯覚を錯覚だとすら誰も「思って」いないのである
非武装の一般民間人には手に負えない武装した暴力的反社会集団に対して警察権力が武装して対応に当たるというのは 暴力的反社会集団そのものが形成される原因究明と再発防止が最優先されるべきであり 「暴力的威圧で解決」するという発想自体は反社会集団も司法裁判制度も結局は同じものである
ヒトは怖い相手には逆らいたくない習性がある
腐敗した組織体制には迎合同調服従忖度して腐敗を温存しておいた方が利己的にも有利だからである
子供がイジメに同調したり 傍観放置したりするのは 「自分だけは被害者になりたくない」という利己的選択であり 学級内部の誰にも自律的な社会的責任判断能力がないからイジメが温存されるのみならず助長され暴走状態に陥って死者まで出てしまうのである
主観的に「怖い」かどうかは論理客観的安全性とは関係がない
学校の学級内においては 教師などの大人が統制をとらなければイジメは必ず発生し 且つ助長され暴走状態に陥るものである
「ヒトは間違えるものである」という前提に立って 「イジメは必ず発生する」という前提において大人が学級内での出来事を統制すべきであって 大人が傍観放置していたのではイジメは一切なくなることはない
学校の教師がイジメを傍観放置したり 酷い場合には一緒になってイジメをしたりするのは その教師が学生時代に学級内でのイジメを誰も対処しなかった経験を「学習」する形で「連鎖」しているからである
自分が生活していた環境で誰もイジメに対処していなければ 「学校ってそういうもんなんだな」と「学習」してしまい 自律的に「これは間違っている」といった客観的判断をしなくなるのである
人間としての本質的な「意識」とは 「教わったことを 教わった通りに鵜呑みにすること」ではなく 「教わった内容に間違いがあることに気付く」能力である
宮台真司が学生時代に「自分の頭で考えるのは10年早い 丸暗記しろ」と言われたからといって これを鵜呑みにした既成事実を正当化する形で学生に同じことを強要するのも 人間としての本質的意識や知能が働いていないからである
その原因は簡単で 「自分が唯々諾々と権威の命令を鵜呑みにした既成事実を事後正当化する形で認知的不協和を解消している」からである
ヒトは 基本的に権威の命令に背くことが嫌いである
むしろ権威とみなした対象を多数で迎合同調服従忖度しておいた方が気分的に安心満足できるため 安易に権威への忠誠忠実性を発揮し これが原因で独裁体制は簡単に形成されてしまうのである
スタンレー:ミルグラムによる服従心理実験(通称:アイヒマン実験)では 普通一般のヒトが権威の命令に服従することによって他人に危害を加えてしまう習性(無意識な行動バイアス)が存在していることを科学的に立証しているのである
ミャンマー政府軍による民主化弾圧も 香港警察による虐殺も 天安門事件も 太平洋戦争における日本軍の暴走も 日大事業部などの組織腐敗も オウム真理教のテロも 基本構造は全く同じで組織腐敗を組織内部の誰も反論しなくなる迎合同調服従忖度性こそが根本原因である
自分の頭で物事を考え 「これは本当(真理)なのか?」という客観的検証性が働かないから 主観的な安心満足だけで無意識な行動バイアスに流され あらゆる組織腐敗が傍観放置されてしまうのである
民主主義制度というのは基本的に多数決で決定される
そのため 民衆の大半がバカなら「バカ主義」にしか陥らない
ナチス政権はあくまで民主的に支持されたのであり 制度手続きさえ導入しておけば手放しで上手く事が運ぶと思うのは間違い(錯覚)である
国民主権ということは 国民に社会的責任判断選択能力が求められるのであって 利己的保身のために権威組織に忖度服従することは許されないのである
「個人が自律的な社会的責任を負うこと」なしに 民主主義もヘッタクレもあったものではない
ヒトという種の生物である以上 利己的満足を追求しがちな習性は誰にもでも存在しているものであって 利己的満足の追求において社会安全性や持続可能性や公平性も必要とするのであって 社会的責任を負わない者というのは他人からの評価報酬ばかりに意識を奪われ本当に自分が満足できることを知らないのが故の行動選択の結果である
世間的評価も収入や資産や権力も 最後は必ず死ぬことで手放さなけれはならないのである
そんなものは最終的には個人の存在尊厳にとっては何の意味も為さない
「今喰っているカップ麺の味がわからなくなりたくない」から 他人の安全性にも配慮するのであり 社会安全性と利己は本当は不可分なのである
Ende;