落合陽一は「人は一人では生きていけないから共生する」と述べていたが
「生きること」自体を目的にしても永遠に生きられるわけではない
「生きている」という生物としての結果は人間性や倫理とは整合性がなく
人間性や倫理に適うのは「個人が自律的な社会的責任を負うこと」であり これは必ずしも「生きる」こととの両立が成立するわけではない
自己が死ぬことは不可避であり 死ぬことを前提としてなを生き続けることの理由とは「生存」自体にあるのではなく 社会安全性や公平性を求めることである
個人が自律的に社会安全性や公平性を求めるために必要なのは自主性・主体性・能動性である
どう「生きるか」と どう「死ぬか」 何に「命を賭ける」のかは同義であり ただ漫然とかりそめの「生存」のために共生を求めることには主体性が欠如しているのである
その「命を賭ける」だけの価値ある「信念」というものに論理客観的根拠が伴うのかどうかが重要なのであって 「実証不能の観念」に囚われ懲罰や暴力破壊で「解決」しようとする衆愚の正義が危険なのである
フリードリヒ:ニーチェは「信念は真理の敵」だと決めつけたが 信念というものに論理客観的根拠(真理)が伴うかどうかが重要なのであって 頭ごなしに「信念の全ては真理の敵」であるかのような決めつけこそが「嘘」であり 正に「真理の敵」なのである
衆愚というのは自分の頭で物事を判断せず 他人の「迷言」の類いを盲目的に信奉して安心満足することしかしたがらない
それこそがヒトという種の生物の先天的欠陥・認知的欠陥なのである
Ende;