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書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

○ラジコンのハンドル操作。

2019年05月10日 12時05分48秒 | 日記
ラジコンカーの初心者が陥りがちなのが 車体が自分の方向に向かって来ている時にハンドルを切る方向と車体の向きが逆になってしまい どうしても思ったように車を操作出来ないというもどかしさがある

これに慣れるためにオイラがやったのは

先ずレシーバー(コントローラー)のステアリングホイールを水平になるよう持ち

ステアリングホイールの中心から車体の進行方向の部分を意識するようにしておけば 常に車体とステアリングホイールの回転方向が一致することになる

いちおうポンチ絵で描いとくわ



これで解るかな

要は右旋回させるのか 左旋回させるのかを操作するんであって 車体の向きに関わらず右に切れば右旋回 左に切れば左旋回になるってことなんだけど

この話 伝わってる?

あと アクセルやブレーキの操作につられてレシーバー全体の向きが動いてしまい

意図しない方向にステアリングホイールを知らないうちに切ってしまっているケースもある

これはヒトの手の構造に由来する不随意な動きだと思う

アクセルトリガーを引くとレシーバー全体が反時計回りに動いてしまい

右手ではハンドルを固定しているつもりなのに 結果的に右にハンドルを切った状態になってしまう

これを防ぐためには 右手の薬指と小指はレシーバーに添えておくようにすれば レシーバー全体の動きに左右されずに操作出来ると思う

レシーバーの底をお腹に押し当てるように固定するのも効果的



それから ラジコンのアクセルトリガーって感覚的にアクセル開度が把握しづらいので 初心者はどうしてもアクセル全開で暴走させちゃって車を激突させて破壊するっていうパターンに陥りがち

この対策としては硬質スポンジ的なものをトリガーの後ろの空間部分に両面テープで貼付けることで トリガーのトルク感とアクセル開度を近づけるようにしてた

でも 硬質スポンジって圧縮させていると潰れて来て 走行中にトルク感が変わってきてしまうことがあったので 短く切ったスプリングを硬質スポンジに捩込んで潰れないようにもしてたな

本当ならレシーバーのグリップ内部に別途スプリングを仕込んでおいて トリガーにトルク感を持たせるようにしておけば良いんだと思うが メーカーさん何とかならんかな



関係ないけどさっき巨大なハエが部屋に入ってきちゃって 追い出すのに苦労したわ

巨大なハエって春先にしか見ないような気がするんだけど

そういうものなのかしら


Ende;

○輪ゴムって意外と取り扱いが面倒臭い件。

2019年05月10日 10時45分51秒 | 日記
輪ゴムを水道の蛇口にかけておくと 輪ゴムの主成分であるブチルにはカルボン酸の性質があるため 水素ラジカルを発生させて輪ゴムのみならず金属製の蛇口までもを溶かしてしまう

ってぇ話を以前書いたような気がするんだけど

輪ゴムってポリスチレンに触れていても溶けて両方腐ってしまう

輪ゴムを保存するためには厚紙の箱か ポリプロピレンの容器が適している

とか言われたところで一般の人にはどれがポリスチレンで どれがポリプロピレンなのかなんて意識したことないかも知れないけど

製品の表示を良く読めば一応書いてあるはず

食品用密閉容器の多くはポリプロピレン(PP)で 薄く白く濁っている とは言えポリスチレンでも顔料混ぜれば白く濁った仕上げにするこた出来るんだが

透明性が高い場合はポリスチレン(PS)かアクリル(メタクリル/PMMA)だと思う

まあ とにかく輪ゴムを買った時に入っていた容器とか 輪ゴムをかける用途で造られた商品なら大丈夫ってことなんだけど

意外と輪ゴムって取り扱いが神経質なので注意しようねってお話です

一応ググってみたんだけど あんま有効な情報が出てこないのよね

ググり方に問題があるんだか そもそも誰も気にしていないのか

まあ 輪ゴムだからな



Ende;

○危険性。

2019年05月10日 09時04分11秒 | 意識論関連
一般大衆が「哲学」というものに求めるのは 人生相談である

人生相談というのは 主観的気分を良くするだけの占い相談のようなものに過ぎず 到底倫理や人間性の論証には全くならない

「主観的に気分が良くなったこと」を短絡的に人間性や倫理だと勘違いして哲学だと錯覚しているのである

ヒトの多くは主観的に気分が良くなると 短絡的に「自分は頭が良くなった」と勝手に妄想し 論理思考を停止させ 何も考えなくなる

そういうペテンを大衆の多くは「哲学」だと勝手に勘違いしているのである



フリードリヒ:ニーチェを読んだ者の多くは 内容の論理客観的精査など一切せず ただ自分の主観的気分が良くなるよう誘導されることで満足し

更に 自分の主観的気分を満足させてくれるニーチェを「頭が良い」とか「人間性に優れている」などと勝手に思い込み 好きになり 何も疑わなくなる

こうした思考停止の中毒症状というのは ニーチェに限ったことではなく マルクス:ガブリエルでも養老孟司でも山極寿一や松沢哲郎でも引き起こされるものである

「ハーメルンの笛吹男」というのは実話だそうで 再現可能な洗脳傾向というものを ヒトという種の生物は先天的に持っている

ヒトは ヒトに進化する以前から 動物的本能習性としての統率的協調性を持っており 実際ヒト以外でもイヌやハダカデバネズミでも統率的な協調性を発揮する習性が見られる

権威と見なした相手を盲目的に信奉し 忠誠忠実であることへの感覚的「美しさ」というものを主観的に「感じ」るのも そのためである

カール:ライムンド:ポパーが激しく批判した「プラトンの呪い」とは こうした先天的な権威服従性への感覚的誘導を促す危険性を孕んでいるためである

生物学では久しく長い間 ヒトの先天的な社会形成習性による統率的協調性を 短絡的に人間としての社会性として「解釈」してきたが 無論 これは科学的には根拠のない生物学者達による勝手な妄想観念に過ぎない

ヒトの統率協調性というものは ナチス政権やポルポト政権 ISILやオウム真理教などのカルト宗教でも発揮されるものであり ヤクザやマフィアなどの反社会的集団組織においては むしろ顕著に発揮されるものである



ニーチェによる「超人」妄想がナチズムを精神的に支えたことは何度も述べたが それでもなを大衆の多くや「哲学者」達はゾロアスター教を哲学だと信じて疑わない

大衆や文系マスコミの多くが養老孟司の言っている内容に意味があると信じて疑わないのも 読み手が主観的に気分が良くなることを 短絡的に「自分の頭が良くなった」と勝手に勘違いしているためである

「自分の頭を良くしてくれた先生様(教祖様)」を主観的に好きになり その主観的な好きを根拠に盲目的に信頼して何も検証しなくなることで 人々はバカに陥るのである

バカとは何かと言えば 何も「考えない」状態を指す

カルト宗教の信者達が自分達の行動が異常かどうかを「考えない」ことと同様に 養老やニーチェやマイケル:サンデルやマルクス:ガブリエルの「信者」達も その内容に客観的な論理的根拠を伴った「哲学」なのかどうかも「考えない」のである



大衆が人生相談を求めるのは 主観的な「悩み(気分)」を解消するためである

従って 客観的な安全性のための人間性や倫理など 意識の中にはない

自分の主観的気分さえ良くなれば それを「哲学」だと勝手に思い込んでいるのである

それがどれだけ危険であるのかを 多くのヒトは認識していない



Ende;

○デクノボウ学。

2019年05月10日 00時50分20秒 | 意識論関連
哲学というのは本来「科学の帝王」であり 論理的根拠に基づいた客観的真理を追求するものである

ところが ヒトという種の生物は主観的に「面白い」とか「安心満足」と感じたことを 短絡的に合理性のある論理的安全性や哲学か何かと簡単に錯覚する習性があり

哲学から逸脱した 論理客観的根拠を伴わない話であっても目先の主観的な「面白さ」で脳が酔うと 簡単に哲学か何かと勘違いするのである

亀山郁夫による「ドスト:エフスキーの読書感想文」を 現状の「哲学者」達は主観的形容に過ぎない「素晴らしい」などという論理客観的根拠のない抽象的評価によって 亀山を哲学権威として取り扱っていた

亀山はドスト:エフスキーを「現代の社会を予言した」などと述べていたが 具体的な論理的予測や推論が伴うわけではなく 単に「ノストラダムスの大予言」ヨロシク雰囲気だけに基づいた事後的こじつけにしかなっておらず 実際に何かの応用性があるわけではなく 要するに「亀山の勝手な妄想観念」以上の意味はないのである

にも関わらず放送大学では亀山が脂汗をタラタラ流しながらの熱弁を 繰り返し放送していたのである



マイケル:サンデルの講義では 倫理の本質が存在しない「トロッコ問題」で気分的(主観)な「悩ましさ」を あたかも論理的な「考え」だと錯覚させ 講義を受講した大多数のバカ学生達は「自分は頭を使った 考えた」と錯覚し その上傲慢にも「自分は頭が良くなった」などと勝手に勘違いすることで かえって自分の頭の悪さを見失い バカになることで 何の疑問も持たない痴呆状態に陥っているのである

これに対しても 現状の「哲学者」達の誰一人として反論疑議を呈せず ほぼ全員デクノボウしかいないのである



更には「世界は存在しない」だとか「時間は無限に分割すれば無くなる」などと言っているマルクス:ガブリエルにまで誰も反論しないばかりか むしろ多くの「哲学者」から多数人気を得るというトンデモない大ペテンを展開し

終いには保守主義による「理性や人知を超越した実証不能の謎の英知」なる非科学的妄想話まで傍観放置してきたのである



フリードリヒ:ニーチェを 多くの大衆や「哲学者」達は哲学だと勘違いしているが そもそも優生学の基礎ともなった遺伝的進化万能論に基づいた「超人」幻想には 論理科学的根拠は何もなく 「雰囲気」という主観的感覚を利用した文芸(脳のハック)に過ぎず 到底「哲学」にはなっていないのである

雰囲気的な「カッコイイ」という感覚を利用した大衆迎合や人気取りという文芸(芸術)を 文芸だと認識していれば人畜無害であるが これを論理的客観性に基づいた哲学や科学だと錯覚していれば社会安全性にとって重大な欠陥となる

主観的に「カッコイイ」と感じた相手の言っている内容を 哲学だと錯覚して盲目的に信奉している状態というのは 主観と客観の区別がついてない状態であり 妄想と現実(真理)の区別がついていない寝言レベルの話である

ナチス政権によるユダヤ人や障害者の絶滅計画は 遺伝的進化万能論に基づいた優生学が論拠であり ニーチェによる「超人」妄想はこれを精神的に支えたと言える

ナチス政権下の多くのドイツ人同様 ヒトという種の生物は主観的な「カッコイイ」という感覚によって 非合理な観念を簡単に鵜呑みにするという重大な先天的欠陥を持っているのである



科学や哲学というのは 「カッコイイ」だのといった気分的安心満足を得るためのものではなく 「何が間違いなのか」を知ることによって客観的真理に近づくためのものである

むしろ哲学や倫理というものは「絶望(キェルケゴール)」や「吐き気(サルトル)」を伴う精神的に過酷なものであり 多数大衆人気が得られるような安易で幼稚なものでは断じてない

「自分の何が間違いなのか」を認識して気分が良くなることはないからだ

「自分の頭の悪さ」を自覚認識してこそ 頭の悪さを脱することが出来るのである

それは気分的な救済(主観)ではなく 論理的安全性の追求という人間性(倫理)が目的である



安物のアイドル崩れの主観的感想文を哲学だと思っていたら 勘違いも甚だしい



Ende;