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書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

○デクノボウ学。

2019年05月10日 00時50分20秒 | 意識論関連
哲学というのは本来「科学の帝王」であり 論理的根拠に基づいた客観的真理を追求するものである

ところが ヒトという種の生物は主観的に「面白い」とか「安心満足」と感じたことを 短絡的に合理性のある論理的安全性や哲学か何かと簡単に錯覚する習性があり

哲学から逸脱した 論理客観的根拠を伴わない話であっても目先の主観的な「面白さ」で脳が酔うと 簡単に哲学か何かと勘違いするのである

亀山郁夫による「ドスト:エフスキーの読書感想文」を 現状の「哲学者」達は主観的形容に過ぎない「素晴らしい」などという論理客観的根拠のない抽象的評価によって 亀山を哲学権威として取り扱っていた

亀山はドスト:エフスキーを「現代の社会を予言した」などと述べていたが 具体的な論理的予測や推論が伴うわけではなく 単に「ノストラダムスの大予言」ヨロシク雰囲気だけに基づいた事後的こじつけにしかなっておらず 実際に何かの応用性があるわけではなく 要するに「亀山の勝手な妄想観念」以上の意味はないのである

にも関わらず放送大学では亀山が脂汗をタラタラ流しながらの熱弁を 繰り返し放送していたのである



マイケル:サンデルの講義では 倫理の本質が存在しない「トロッコ問題」で気分的(主観)な「悩ましさ」を あたかも論理的な「考え」だと錯覚させ 講義を受講した大多数のバカ学生達は「自分は頭を使った 考えた」と錯覚し その上傲慢にも「自分は頭が良くなった」などと勝手に勘違いすることで かえって自分の頭の悪さを見失い バカになることで 何の疑問も持たない痴呆状態に陥っているのである

これに対しても 現状の「哲学者」達の誰一人として反論疑議を呈せず ほぼ全員デクノボウしかいないのである



更には「世界は存在しない」だとか「時間は無限に分割すれば無くなる」などと言っているマルクス:ガブリエルにまで誰も反論しないばかりか むしろ多くの「哲学者」から多数人気を得るというトンデモない大ペテンを展開し

終いには保守主義による「理性や人知を超越した実証不能の謎の英知」なる非科学的妄想話まで傍観放置してきたのである



フリードリヒ:ニーチェを 多くの大衆や「哲学者」達は哲学だと勘違いしているが そもそも優生学の基礎ともなった遺伝的進化万能論に基づいた「超人」幻想には 論理科学的根拠は何もなく 「雰囲気」という主観的感覚を利用した文芸(脳のハック)に過ぎず 到底「哲学」にはなっていないのである

雰囲気的な「カッコイイ」という感覚を利用した大衆迎合や人気取りという文芸(芸術)を 文芸だと認識していれば人畜無害であるが これを論理的客観性に基づいた哲学や科学だと錯覚していれば社会安全性にとって重大な欠陥となる

主観的に「カッコイイ」と感じた相手の言っている内容を 哲学だと錯覚して盲目的に信奉している状態というのは 主観と客観の区別がついてない状態であり 妄想と現実(真理)の区別がついていない寝言レベルの話である

ナチス政権によるユダヤ人や障害者の絶滅計画は 遺伝的進化万能論に基づいた優生学が論拠であり ニーチェによる「超人」妄想はこれを精神的に支えたと言える

ナチス政権下の多くのドイツ人同様 ヒトという種の生物は主観的な「カッコイイ」という感覚によって 非合理な観念を簡単に鵜呑みにするという重大な先天的欠陥を持っているのである



科学や哲学というのは 「カッコイイ」だのといった気分的安心満足を得るためのものではなく 「何が間違いなのか」を知ることによって客観的真理に近づくためのものである

むしろ哲学や倫理というものは「絶望(キェルケゴール)」や「吐き気(サルトル)」を伴う精神的に過酷なものであり 多数大衆人気が得られるような安易で幼稚なものでは断じてない

「自分の何が間違いなのか」を認識して気分が良くなることはないからだ

「自分の頭の悪さ」を自覚認識してこそ 頭の悪さを脱することが出来るのである

それは気分的な救済(主観)ではなく 論理的安全性の追求という人間性(倫理)が目的である



安物のアイドル崩れの主観的感想文を哲学だと思っていたら 勘違いも甚だしい



Ende;

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