NHK「フランケンシュタインの誘惑 E+」の中で「科学者とは実に興味深い生物だ 時に現実を見失う」などと形容していたが
現実を見失うのは科学者に限ったものではなく 荒唐無稽な妄想で現実を見失う大半はむしろ科学者ではない
「実に興味深い」などと偉そうに上から目線で形容しているが 優生学や超人幻想や「理性や人知を超越した実証不能の謎の英知」などというトンデモオカルト哲学を鵜呑みにしている文科系大衆マスコミの方がよっぽど「興味深い」存在である
一体どうやったら遺伝的進化を完全無欠の万能なものであることを前提に「ヒトには先天的に人間性しか組み込まれていないはずだ」などという荒唐無稽なオカルト観念を鵜呑みに出来るのか
もはやあきれるばかりである
Ende;
現実を見失うのは科学者に限ったものではなく 荒唐無稽な妄想で現実を見失う大半はむしろ科学者ではない
「実に興味深い」などと偉そうに上から目線で形容しているが 優生学や超人幻想や「理性や人知を超越した実証不能の謎の英知」などというトンデモオカルト哲学を鵜呑みにしている文科系大衆マスコミの方がよっぽど「興味深い」存在である
一体どうやったら遺伝的進化を完全無欠の万能なものであることを前提に「ヒトには先天的に人間性しか組み込まれていないはずだ」などという荒唐無稽なオカルト観念を鵜呑みに出来るのか
もはやあきれるばかりである
Ende;
罪も罰も結局は主観的感覚に過ぎない
罪というのは「感じる」ものであって 科学論理的に立証出来るような普遍性があるわけではない
サバイバーズギルトのように 当人に過失がないにも関わらず罪を「感じる」こともあり
たとえ法手続き上合法であろうとも 法律の主旨を逸脱した脱法迷惑行為もあれば
逆に法手続き上犯罪に該当しているとしても 情状酌量の余地があるケースもある
裁判における「情状酌量」などというものも 要するに感覚的な程度問題に過ぎず 何ら論理的対策にはつながらない観念論でしかない
人間社会において最も重要な「目的」とは 安全性の追求であり これは客観的論理検証によって導き出されるべきものであって 司法刑罰という主観的観念はこれを阻害するものでしかない
「感じ」という主観的な感覚というものは ヒトの脳の動物的行動習性バイアスに過ぎず 進化の過程で結果的に残された性質であって そこには何の「目的」も存在しないのである
「判決さえ出れば解決だ」というのは司法制度上には それ以上の原因究明や再発防止策を立てるための制度が存在していない上に 大衆観念上「罰さえ与えておけば気分的に満足感が得られる」という感覚が促す一種の錯覚に過ぎない
目先の満足感を優先し 社会安全性を蔑ろにすることが人間性や倫理において最適である訳ががないのだが 現在の司法制度上では社会安全性よりも罰という感覚的満足感を優先する社会制度しか存在していないのである
ヒトの多くは 自分の主観的感覚に過ぎない満足感や安心感を 短絡的に人間性か何かであるかのように錯覚しているが それこそが自己過信による傲慢であり 論理客観性を見失うヒトの先天的欠陥でもある
多数大衆のご機嫌取りを 短絡的に人間性か何かと勘違いしているのも 主観と客観の区別が出来ていないことに起因する誤謬(ごびゅう)である
自分の主観的気分にとって不都合な話を嫌うのは勝手だが 主観的に嫌いだからといって論理客観的に間違っていることの論証になるわけではないのだが
ヒトの多くは自己の主観的感覚を優先して 論理客観的な検証判断を簡単に放棄する無責任さを平気で発揮するのである
それは 自己の主観的感覚を「絶対的人間性に基づいたものである」という身勝手な錯覚に基づいた傲慢さによるものであり こうした錯覚を錯覚であると多くのヒトは認識出来ない程にバカであり 人間として欠陥品なのである
亀山郁夫のドスト:エフスキーの読書感想文が なぜ読書感想文以上の意味がないのかと言えば ドスト:エフスキーの著作の内容は主観的感覚しか描かれていないからである
主観的感覚としての罪だの罰だのをいくら論じても そこから導き出されるのは主観的感想文以上の何も出てこないのは必然である
松尾豊は「人間は間違える権利がある」と述べたが 権利があるかどうかは知らないが ヒトである以上間違えることは避けられないものであり 他人の間違いのアゲアシ取りで糾弾しても 間違いというものの論理客観的原因究明にも 再発防止にもつながらず ヒトの先天的差別排除バイアスを満足させているだけの大衆迎合にしかならないのである
多数大衆のご機嫌取りをしたところで それによって社会安全性が蔑ろにされている現実を無視しているというのは 何ら人間性を伴わないのである
ヒトは産まれてくれば初期的には全て子供であり 成育過程において個人が自律的な社会的責任判断選択を出来るようになることで人間性や倫理として機能するのであって
多数派の同調圧力に屈する形の強迫観念的な「超自我」では自律に一切ならない
「怖いか安心か」とか「好き嫌い」とか「カッコイイかどうか」などといった主観的観念というものは 何ら自律には結びつかず これら主観的観念を客観的に論理検証する本質的な人間としての意識が働かないことには人間性も倫理もスッタクレもあったものではないのである
お育ちのおよろしいお坊ちゃまお嬢ちゃまの主観的観念に基づいた「恩返し」的美談で大衆人気を得るのは簡単であろうが 人間性や倫理というものは たとえ「社会から殺されて」でも自発的自律的に社会安全性を追求する意思が必要であり 「社会に生かされている」などという謙虚さを演出することで多数人気を得ることは人間性の論証には一切ならない
それは大衆迎合以上の何の意味もないのである
それとも何か? ナチス政権下ではナチスに反対したら「生きられない」からといって反対しないことの方が正当化出来るとでも言うのであろうか?
どんなに生存に固執したところで 所詮ヒトは誰しもが必ず死ぬのであり そもそも生存への執着とはドーパミンの常習性が作り出した動物的行動バイアスに過ぎず 「死にたくない」というのは主観的感覚以上の意味はないのである
「死にたくない」などというのは 所詮は主観的好き嫌いの範疇に過ぎない
たとえ自己が永遠に生きられるとしても 東池袋の路上で3歳児が母親もろとも暴走車に轢き殺されてしまうような社会が続いてしまうのであれば それは無間地獄でしかないのである
養老孟司は「自分が死ぬことは人生の一大事」だとか言っていたが これこそが大衆観念に迎合した強迫的多数派同調に過ぎず 本当に人生にとって重要なのは自分の利己的生存などではないのである
自己の主観的感覚をも客観視し 何が錯覚で何が真理なのか 何が本当の人間性なのか 人生にとって最も重要なものが何なのかを統合的に判断出来なければ 人間性も倫理もスッタクレもありゃしないのである
ヒトの多くは目先の多数派に同調し迎合しておけば人間性か何かだと簡単に錯覚妄想しがちだが そうした多数派迎合性こそがナチス政権を作り出したことを他人事として無視しているご都合主義に他ならない
最近の民族主義的差別の流行は 養老の著作人気によって多数の大衆が主観と客観の区別が出来なくなったことが要因ではないだろうか
かつてニーチェ人気によって超人幻想を鵜呑みにし 優生学などという大嘘によって大衆がバカになったのと同じように 養老による「安心して同じを求めれば良い」などという訳の判らぬ実証不能の観念を大衆が鵜呑みにしたことが昨今の差別の流行の大きな要因であろう
一度バカになると バカというのは中毒であり難治性が非常に高いため カルト宗教の信者に何を言っても聞く耳を持たないのと同様 ニーチェや養老による洗脳も バカな大衆にとっては「神のお言葉」になってしまい 疑うことを誰もしなくなる
論理客観的な安全性の追求というものは 主観的観念にとっては気分が悪く 面白くもないが
多くのヒトにとっては主観的観念による洗脳や陶酔程気分が良く 面白いのである
だから簡単に流行し 大衆は何も「考え」なくなるのである
「考え」ない状態を「バカ」と言う
他に形容詞を私は知らないし 知りたくもない
*:サバイバーズ・ギルト (Survivor's guilt) は、戦争や災害、事故、事件、虐待などに遭いながら、奇跡的に生還を遂げた人が、周りの人々が亡くなったのに自分が助かったことに対して、しばしば感じる罪悪感のこと。
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罪というのは「感じる」ものであって 科学論理的に立証出来るような普遍性があるわけではない
サバイバーズギルトのように 当人に過失がないにも関わらず罪を「感じる」こともあり
たとえ法手続き上合法であろうとも 法律の主旨を逸脱した脱法迷惑行為もあれば
逆に法手続き上犯罪に該当しているとしても 情状酌量の余地があるケースもある
裁判における「情状酌量」などというものも 要するに感覚的な程度問題に過ぎず 何ら論理的対策にはつながらない観念論でしかない
人間社会において最も重要な「目的」とは 安全性の追求であり これは客観的論理検証によって導き出されるべきものであって 司法刑罰という主観的観念はこれを阻害するものでしかない
「感じ」という主観的な感覚というものは ヒトの脳の動物的行動習性バイアスに過ぎず 進化の過程で結果的に残された性質であって そこには何の「目的」も存在しないのである
「判決さえ出れば解決だ」というのは司法制度上には それ以上の原因究明や再発防止策を立てるための制度が存在していない上に 大衆観念上「罰さえ与えておけば気分的に満足感が得られる」という感覚が促す一種の錯覚に過ぎない
目先の満足感を優先し 社会安全性を蔑ろにすることが人間性や倫理において最適である訳ががないのだが 現在の司法制度上では社会安全性よりも罰という感覚的満足感を優先する社会制度しか存在していないのである
ヒトの多くは 自分の主観的感覚に過ぎない満足感や安心感を 短絡的に人間性か何かであるかのように錯覚しているが それこそが自己過信による傲慢であり 論理客観性を見失うヒトの先天的欠陥でもある
多数大衆のご機嫌取りを 短絡的に人間性か何かと勘違いしているのも 主観と客観の区別が出来ていないことに起因する誤謬(ごびゅう)である
自分の主観的気分にとって不都合な話を嫌うのは勝手だが 主観的に嫌いだからといって論理客観的に間違っていることの論証になるわけではないのだが
ヒトの多くは自己の主観的感覚を優先して 論理客観的な検証判断を簡単に放棄する無責任さを平気で発揮するのである
それは 自己の主観的感覚を「絶対的人間性に基づいたものである」という身勝手な錯覚に基づいた傲慢さによるものであり こうした錯覚を錯覚であると多くのヒトは認識出来ない程にバカであり 人間として欠陥品なのである
亀山郁夫のドスト:エフスキーの読書感想文が なぜ読書感想文以上の意味がないのかと言えば ドスト:エフスキーの著作の内容は主観的感覚しか描かれていないからである
主観的感覚としての罪だの罰だのをいくら論じても そこから導き出されるのは主観的感想文以上の何も出てこないのは必然である
松尾豊は「人間は間違える権利がある」と述べたが 権利があるかどうかは知らないが ヒトである以上間違えることは避けられないものであり 他人の間違いのアゲアシ取りで糾弾しても 間違いというものの論理客観的原因究明にも 再発防止にもつながらず ヒトの先天的差別排除バイアスを満足させているだけの大衆迎合にしかならないのである
多数大衆のご機嫌取りをしたところで それによって社会安全性が蔑ろにされている現実を無視しているというのは 何ら人間性を伴わないのである
ヒトは産まれてくれば初期的には全て子供であり 成育過程において個人が自律的な社会的責任判断選択を出来るようになることで人間性や倫理として機能するのであって
多数派の同調圧力に屈する形の強迫観念的な「超自我」では自律に一切ならない
「怖いか安心か」とか「好き嫌い」とか「カッコイイかどうか」などといった主観的観念というものは 何ら自律には結びつかず これら主観的観念を客観的に論理検証する本質的な人間としての意識が働かないことには人間性も倫理もスッタクレもあったものではないのである
お育ちのおよろしいお坊ちゃまお嬢ちゃまの主観的観念に基づいた「恩返し」的美談で大衆人気を得るのは簡単であろうが 人間性や倫理というものは たとえ「社会から殺されて」でも自発的自律的に社会安全性を追求する意思が必要であり 「社会に生かされている」などという謙虚さを演出することで多数人気を得ることは人間性の論証には一切ならない
それは大衆迎合以上の何の意味もないのである
それとも何か? ナチス政権下ではナチスに反対したら「生きられない」からといって反対しないことの方が正当化出来るとでも言うのであろうか?
どんなに生存に固執したところで 所詮ヒトは誰しもが必ず死ぬのであり そもそも生存への執着とはドーパミンの常習性が作り出した動物的行動バイアスに過ぎず 「死にたくない」というのは主観的感覚以上の意味はないのである
「死にたくない」などというのは 所詮は主観的好き嫌いの範疇に過ぎない
たとえ自己が永遠に生きられるとしても 東池袋の路上で3歳児が母親もろとも暴走車に轢き殺されてしまうような社会が続いてしまうのであれば それは無間地獄でしかないのである
養老孟司は「自分が死ぬことは人生の一大事」だとか言っていたが これこそが大衆観念に迎合した強迫的多数派同調に過ぎず 本当に人生にとって重要なのは自分の利己的生存などではないのである
自己の主観的感覚をも客観視し 何が錯覚で何が真理なのか 何が本当の人間性なのか 人生にとって最も重要なものが何なのかを統合的に判断出来なければ 人間性も倫理もスッタクレもありゃしないのである
ヒトの多くは目先の多数派に同調し迎合しておけば人間性か何かだと簡単に錯覚妄想しがちだが そうした多数派迎合性こそがナチス政権を作り出したことを他人事として無視しているご都合主義に他ならない
最近の民族主義的差別の流行は 養老の著作人気によって多数の大衆が主観と客観の区別が出来なくなったことが要因ではないだろうか
かつてニーチェ人気によって超人幻想を鵜呑みにし 優生学などという大嘘によって大衆がバカになったのと同じように 養老による「安心して同じを求めれば良い」などという訳の判らぬ実証不能の観念を大衆が鵜呑みにしたことが昨今の差別の流行の大きな要因であろう
一度バカになると バカというのは中毒であり難治性が非常に高いため カルト宗教の信者に何を言っても聞く耳を持たないのと同様 ニーチェや養老による洗脳も バカな大衆にとっては「神のお言葉」になってしまい 疑うことを誰もしなくなる
論理客観的な安全性の追求というものは 主観的観念にとっては気分が悪く 面白くもないが
多くのヒトにとっては主観的観念による洗脳や陶酔程気分が良く 面白いのである
だから簡単に流行し 大衆は何も「考え」なくなるのである
「考え」ない状態を「バカ」と言う
他に形容詞を私は知らないし 知りたくもない
*:サバイバーズ・ギルト (Survivor's guilt) は、戦争や災害、事故、事件、虐待などに遭いながら、奇跡的に生還を遂げた人が、周りの人々が亡くなったのに自分が助かったことに対して、しばしば感じる罪悪感のこと。
Ende;
松尾豊の生徒曰く「ゲームとは報酬系のハック」であると
それを言うのであれば 文芸だろうと音楽だろうと報酬系のハックであることに違いはない
「報酬系のハック」とはすなはち主観的に「好き」とか「楽しい」とか「カッコイイ」という感覚の制御操作である
科学分野が芸術分野と区別される部分とは 理論に客観性が伴うかどうかであり
科学というのは論理的真理を追求するものであって 客観的普遍性が伴わなければ科学ではなくなる
これは哲学においても同様で 哲学理論は客観性が伴わなければ哲学ではなく それは単なる文芸に過ぎないのだが
現状の哲学界というのは主観に過ぎない「カッコイイ」だの「素晴らしい」だの「面白い」といった感想を根拠に人気評価をしているに過ぎず
故に「世界は存在しない」などと言い出したマルクス:ガブリエルなんぞを鵜呑みにしているのである
マイケル:サンデルによるトロッコ問題には倫理の本質が存在しないことにも誰も気付かず 大多数の「信者」達は自分の頭が良くなったかのような錯覚すら認識することなく鵜呑みにし 人気を集めている
養老孟司による非科学的オカルト観念を 哲学者の誰も批判しないことからも 現在の哲学界というのは誰一人として客観的論理検証をしないバカの集団に他ならない
原田まりるはニーチェを哲学だと勘違い錯覚しているが その根拠は「センター性がある」だの「人生を豊かにしてくれる」「カッコイイ」などという極めて主観的感想に基づいたものであり 何ら客観性を伴う論理的検証根拠が成されていない
松尾豊は電子工学が専門であるため ニーチェがどういう内容なのかを知らず 番組制作者によってあてがわれたお飾りアシスタントに過ぎない
一応ニーチェとは何かを述べておけば 生物学において優生学の論拠となった進化万能論に基づいた「超人」幻想や 論理的根拠の著しく乏しい身勝手な決め付けの陳列に過ぎないゾロアスター教で大衆人気を集めているだけであり 哲学とは到底言えないただの大衆迎合に過ぎない
「闇もこちらを見ている」だとか言っているが そもそも極めて抽象的な比喩であって 見ているからどうだとか一切論じておらず 何一つ論理的応用性のない雰囲気話でしかない
◇
「人間は失敗する権利がある」松尾豊
権利かどうかは知らないが ヒトである以上失敗は避けられないものであり 小さな失敗の段階で論理的な再発防止策を構築しておくことで 取り返しのつかない重大な失敗へと発展する可能性を引き下げることにつなげられるのであって 懲罰というのは合理的分析から遠ざける観念論 精神論でしかない
◇
ダニエル:デネットは結局何も言ってないよ
Ende;
それを言うのであれば 文芸だろうと音楽だろうと報酬系のハックであることに違いはない
「報酬系のハック」とはすなはち主観的に「好き」とか「楽しい」とか「カッコイイ」という感覚の制御操作である
科学分野が芸術分野と区別される部分とは 理論に客観性が伴うかどうかであり
科学というのは論理的真理を追求するものであって 客観的普遍性が伴わなければ科学ではなくなる
これは哲学においても同様で 哲学理論は客観性が伴わなければ哲学ではなく それは単なる文芸に過ぎないのだが
現状の哲学界というのは主観に過ぎない「カッコイイ」だの「素晴らしい」だの「面白い」といった感想を根拠に人気評価をしているに過ぎず
故に「世界は存在しない」などと言い出したマルクス:ガブリエルなんぞを鵜呑みにしているのである
マイケル:サンデルによるトロッコ問題には倫理の本質が存在しないことにも誰も気付かず 大多数の「信者」達は自分の頭が良くなったかのような錯覚すら認識することなく鵜呑みにし 人気を集めている
養老孟司による非科学的オカルト観念を 哲学者の誰も批判しないことからも 現在の哲学界というのは誰一人として客観的論理検証をしないバカの集団に他ならない
原田まりるはニーチェを哲学だと勘違い錯覚しているが その根拠は「センター性がある」だの「人生を豊かにしてくれる」「カッコイイ」などという極めて主観的感想に基づいたものであり 何ら客観性を伴う論理的検証根拠が成されていない
松尾豊は電子工学が専門であるため ニーチェがどういう内容なのかを知らず 番組制作者によってあてがわれたお飾りアシスタントに過ぎない
一応ニーチェとは何かを述べておけば 生物学において優生学の論拠となった進化万能論に基づいた「超人」幻想や 論理的根拠の著しく乏しい身勝手な決め付けの陳列に過ぎないゾロアスター教で大衆人気を集めているだけであり 哲学とは到底言えないただの大衆迎合に過ぎない
「闇もこちらを見ている」だとか言っているが そもそも極めて抽象的な比喩であって 見ているからどうだとか一切論じておらず 何一つ論理的応用性のない雰囲気話でしかない
◇
「人間は失敗する権利がある」松尾豊
権利かどうかは知らないが ヒトである以上失敗は避けられないものであり 小さな失敗の段階で論理的な再発防止策を構築しておくことで 取り返しのつかない重大な失敗へと発展する可能性を引き下げることにつなげられるのであって 懲罰というのは合理的分析から遠ざける観念論 精神論でしかない
◇
ダニエル:デネットは結局何も言ってないよ
Ende;