○バカとは何か。
何だろう、個人の主観的好き嫌いを普遍的なマナーであるかのように威圧的に語る奴っていうのがいて。こういうバカの個人的好き嫌いで排除差別みたいのが始まるんじゃないかといつも思う。
世の中いろんな人がいて、それぞれ好き嫌いは違う。個人的に嫌とか恐いと思うのは、あくまで個人の主観的「感想」に過ぎない。
それが特定個人の気分感情を基準に、あたかも絶対的価値観であるかのように言い張る奴に対し。威圧的相手に怯えて迎合従属する習性が、ヒトという種の生物にはある。
その場限りに偉そうな相手に迎合しておけば、その場限りには波風立たせず穏便に済ますことは出来るであろうが。そうした迎合性、従属性、多数派同調バイアスというものが差別排除を暴走させるのである。
東京電力福島第一原発の危険性が放置されたのも、こうした多数派同調バイアスや迎合性がもたらした結果である。
バカなガキは「恐い」相手に従う。服従の基準がバカなので、気分的に恐いとか、偉そうといった短絡的でその場限りの感情論だけで行動が決定してしまうため。一旦イジメなどが発生すると、すぐに興奮して同調してしまうため、バカガキだけで放置しておくと、半ば自動的シーケンシャルにイジメが生ずるのである。
これは振り込め詐欺師にカモられている被害者と同様に、感情的興奮状態に陥っていると簡単に環境状況に流されてしまうのである。
「流されて」いる時点で既に個人の主体性、自律的判断選択というものが働いていない無意識状態なので、行動抑制というものが全く働かなくなるのである。
こうした無意識が作り出す「暴走」性というものは、暴動や通り魔などを含めたあらゆる「人災」の根源的原因である。
刑事罰などという理論的には何の効果も持たない社会制度がいつまでも温存されているのは、ヒトという種の生物の懲罰意識による、その場限りの気分的満足安心への依存症が働いているからである。
懲罰意識というものは意識ではない。「罰を与えておけば安心満足」という先天的な思考バイアスによる「結果」であって。意識的、論理検証的に選択された「目的」ではないからだ。
サルトルはこう述べた、「人間は即自存在でないがゆえに、即自存在化を求むる。」と。これを脳科学者の澤口俊之は「わからない」と称して拒絶したが、この拒絶も気分的満足が得られないという極めて主観的感想に基づくものであって、論理的に理解不可能性を証明したわけでも何でもなく、単に「気分が悪い話から逃避した。」だけなのである。
人は誰も産まれたデフォルト状態では自己でも人間でもない。単なるヒトという種の生物に過ぎないのである。
自分の遺伝子を自分で選択することは原理的に不可能であり、その選択不可能な遺伝子から作り出された自分の脳もまた自己選択可能性を持ち得ない。
そんな脳から出てくるあらゆる先天的本能欲望感情気分もまた、それだけでは「意思」ですらないのである。
この話を持ち出すと、短絡的なバカの多くは、「自由意思などない。」などと勝手に決め付けようとするが。これもまた決め付けることによって得られる快楽がもたらす思考バイアス、思考拘束に過ぎない。
「自己」の脳からは、様々な本能欲望感情気分といったものが生じてくるが。これらは先天的に決定されてしまっている自己選択不可能なものであって。これらを統合的に検証した上で、社会安全性や持続可能性に基づいた統合的行動選択をして、始めて「自己」の「意思」であると言えるのである。
ヒトの多くは、先天的に感情の強度程度こそが短絡的に「意識」であると、「意思」であると錯覚しているが。これは論理的根拠のない妄想に過ぎない。
こうした妄想錯覚を、それと自覚認識していないからこそ、バカげた観念がいつまでも温存されることに陥り。論理的議論というものが一切進まないという酩酊状態に陥るのである。
その場限りに気分の良さそうな話に乗っかっておけば、それこそ酔っぱらって気分的には楽なのであろう。イジメが起きても暴力者に迎合しておいた方がそりゃ楽である。何の意思も意識も持たずにその場の「空気」に流されているからこそ社会の諸問題が一向に解決しないのである。
泥酔運転で重大事故を起こした者に対し、懲罰を与えてさえおけば気分的には満足であろう。しかし、泥酔状態で自動車を運転している奴というのは、一つの重大事故の影に何倍、何十倍、何百倍もの飲酒運転者の存在があるのであって。特定の酔っ払いだけに懲罰を与えておけば飲酒運転が無くなるという短絡的でバカみたいな話ではない。
「自律的に社会的責任判断選択を行うこと。」こそが、一人の人間としての価値を持つのであって。その場限りの快楽満足ばかりを追求「しなければならない。」ある種の病人、依存症患者が存在するからこそ、社会全体から安全性が失われることに陥るのである。
刑事罰による懲役刑というものは、具体的に自己中心依存症患者の治療には何の効果もない。そもそも治療ではなく刑罰であって、罰を与えた方の気分的満足や、それを利用した権力制度に過ぎないからだ。
「バカに罰を与えたら、バカが治った。」という症例はない。バカが治るためには、自分自身で自分の行動選択を自律的に出来るようにならなければならず。こうした行動選択を行「える」ようにするためには、(*:他律的に行「わせ」るのではない。)自分自身で自分の行動を客観視出来ない原因というものを究明し、心理的拘束、ヒステリを取り除く必要性がある。
何十年も不毛な懲役刑を与えるために税金を無駄遣いし、挙げ句の果てに出所後数週間で殺人を再犯するような制度こそが、最も効率が悪く安全性が低い。
ヒトというのは先天的に、既存の制度に気分的安心満足を持ちがちで。その安心満足には論理的根拠を必要とせずに温存維持しようとする「習性」がある。そのため何の合理性もない制度に対しても気分的に安心感を抱いてしまい、何の疑問も持たなくなる。これもまた一種の依存症であり、ドーパミンが作り出した錯覚に過ぎない。
脳内物質ドーパミンは、その常習性によって行動や思考を「整理」する。「馴れる」「ハマる」「クセになる。」といった性質の全ては、このドーパミンによって「学習」されるが。その行動整理には必ずしも合理性は必要ない。
シエラレオネのゲリラの中で子供を育てれば、残虐なゲリラにもなりうる。
ナチス政権下のドイツで育てればユダヤ人を迫害するようにもなる。
現在の日本で育てば、オウム真理教に入信するようなバカも出てくる。
何でもかんでも「学習」すれば頭が良くなると思うのは大衆観念であり錯覚妄想であって、虐待をされて育てば虐待を繰り返すようにも「学習」するものでもある。
恐怖症や依存症といったものも、ドーパミンが持つ常習性の「結果」でこそあれ。そこに個人の意識的「目的」行動選択が介在する余地はない。
大衆の多くは「自分の気分が良くなること=正しいこと。」という短絡的錯覚を鵜呑みにしているが。こうした錯覚こそが殺人犯の行動動機の自己正当化の根拠に利用されてしまうのである。
不毛な学力競争ばかり煽り立て、個人の主体性や自律といったものを蔑ろにしてきた結果が、原発の危険性をも放置するような無責任なヒトを大量生産したのである。
冒頭で取り上げた「俺様の個人的ご機嫌=社会的に正しいマナー」という短絡的決め付けも、同じ構造によって導き出されたものであろう。
刑法懲罰の厳罰化、死刑制度温存といったものも。みのもんた的に被害者の報復感情を代弁したかのような満足に浸ることによって、その場限りに多数派のご機嫌取りをしている結果に過ぎない。それが被害の再発に無効であることには誰も言及せず、ただ漫然と制度体制の維持に加担することで安心しているのである。
社会がなぜ良い方向に向かい難いのか、それは多数が自分達の過ちを認識自覚していないからである。
疲れたからおわる。
バカ相手に説明するのは徒労感しか残らない。
Ende;
何だろう、個人の主観的好き嫌いを普遍的なマナーであるかのように威圧的に語る奴っていうのがいて。こういうバカの個人的好き嫌いで排除差別みたいのが始まるんじゃないかといつも思う。
世の中いろんな人がいて、それぞれ好き嫌いは違う。個人的に嫌とか恐いと思うのは、あくまで個人の主観的「感想」に過ぎない。
それが特定個人の気分感情を基準に、あたかも絶対的価値観であるかのように言い張る奴に対し。威圧的相手に怯えて迎合従属する習性が、ヒトという種の生物にはある。
その場限りに偉そうな相手に迎合しておけば、その場限りには波風立たせず穏便に済ますことは出来るであろうが。そうした迎合性、従属性、多数派同調バイアスというものが差別排除を暴走させるのである。
東京電力福島第一原発の危険性が放置されたのも、こうした多数派同調バイアスや迎合性がもたらした結果である。
バカなガキは「恐い」相手に従う。服従の基準がバカなので、気分的に恐いとか、偉そうといった短絡的でその場限りの感情論だけで行動が決定してしまうため。一旦イジメなどが発生すると、すぐに興奮して同調してしまうため、バカガキだけで放置しておくと、半ば自動的シーケンシャルにイジメが生ずるのである。
これは振り込め詐欺師にカモられている被害者と同様に、感情的興奮状態に陥っていると簡単に環境状況に流されてしまうのである。
「流されて」いる時点で既に個人の主体性、自律的判断選択というものが働いていない無意識状態なので、行動抑制というものが全く働かなくなるのである。
こうした無意識が作り出す「暴走」性というものは、暴動や通り魔などを含めたあらゆる「人災」の根源的原因である。
刑事罰などという理論的には何の効果も持たない社会制度がいつまでも温存されているのは、ヒトという種の生物の懲罰意識による、その場限りの気分的満足安心への依存症が働いているからである。
懲罰意識というものは意識ではない。「罰を与えておけば安心満足」という先天的な思考バイアスによる「結果」であって。意識的、論理検証的に選択された「目的」ではないからだ。
サルトルはこう述べた、「人間は即自存在でないがゆえに、即自存在化を求むる。」と。これを脳科学者の澤口俊之は「わからない」と称して拒絶したが、この拒絶も気分的満足が得られないという極めて主観的感想に基づくものであって、論理的に理解不可能性を証明したわけでも何でもなく、単に「気分が悪い話から逃避した。」だけなのである。
人は誰も産まれたデフォルト状態では自己でも人間でもない。単なるヒトという種の生物に過ぎないのである。
自分の遺伝子を自分で選択することは原理的に不可能であり、その選択不可能な遺伝子から作り出された自分の脳もまた自己選択可能性を持ち得ない。
そんな脳から出てくるあらゆる先天的本能欲望感情気分もまた、それだけでは「意思」ですらないのである。
この話を持ち出すと、短絡的なバカの多くは、「自由意思などない。」などと勝手に決め付けようとするが。これもまた決め付けることによって得られる快楽がもたらす思考バイアス、思考拘束に過ぎない。
「自己」の脳からは、様々な本能欲望感情気分といったものが生じてくるが。これらは先天的に決定されてしまっている自己選択不可能なものであって。これらを統合的に検証した上で、社会安全性や持続可能性に基づいた統合的行動選択をして、始めて「自己」の「意思」であると言えるのである。
ヒトの多くは、先天的に感情の強度程度こそが短絡的に「意識」であると、「意思」であると錯覚しているが。これは論理的根拠のない妄想に過ぎない。
こうした妄想錯覚を、それと自覚認識していないからこそ、バカげた観念がいつまでも温存されることに陥り。論理的議論というものが一切進まないという酩酊状態に陥るのである。
その場限りに気分の良さそうな話に乗っかっておけば、それこそ酔っぱらって気分的には楽なのであろう。イジメが起きても暴力者に迎合しておいた方がそりゃ楽である。何の意思も意識も持たずにその場の「空気」に流されているからこそ社会の諸問題が一向に解決しないのである。
泥酔運転で重大事故を起こした者に対し、懲罰を与えてさえおけば気分的には満足であろう。しかし、泥酔状態で自動車を運転している奴というのは、一つの重大事故の影に何倍、何十倍、何百倍もの飲酒運転者の存在があるのであって。特定の酔っ払いだけに懲罰を与えておけば飲酒運転が無くなるという短絡的でバカみたいな話ではない。
「自律的に社会的責任判断選択を行うこと。」こそが、一人の人間としての価値を持つのであって。その場限りの快楽満足ばかりを追求「しなければならない。」ある種の病人、依存症患者が存在するからこそ、社会全体から安全性が失われることに陥るのである。
刑事罰による懲役刑というものは、具体的に自己中心依存症患者の治療には何の効果もない。そもそも治療ではなく刑罰であって、罰を与えた方の気分的満足や、それを利用した権力制度に過ぎないからだ。
「バカに罰を与えたら、バカが治った。」という症例はない。バカが治るためには、自分自身で自分の行動選択を自律的に出来るようにならなければならず。こうした行動選択を行「える」ようにするためには、(*:他律的に行「わせ」るのではない。)自分自身で自分の行動を客観視出来ない原因というものを究明し、心理的拘束、ヒステリを取り除く必要性がある。
何十年も不毛な懲役刑を与えるために税金を無駄遣いし、挙げ句の果てに出所後数週間で殺人を再犯するような制度こそが、最も効率が悪く安全性が低い。
ヒトというのは先天的に、既存の制度に気分的安心満足を持ちがちで。その安心満足には論理的根拠を必要とせずに温存維持しようとする「習性」がある。そのため何の合理性もない制度に対しても気分的に安心感を抱いてしまい、何の疑問も持たなくなる。これもまた一種の依存症であり、ドーパミンが作り出した錯覚に過ぎない。
脳内物質ドーパミンは、その常習性によって行動や思考を「整理」する。「馴れる」「ハマる」「クセになる。」といった性質の全ては、このドーパミンによって「学習」されるが。その行動整理には必ずしも合理性は必要ない。
シエラレオネのゲリラの中で子供を育てれば、残虐なゲリラにもなりうる。
ナチス政権下のドイツで育てればユダヤ人を迫害するようにもなる。
現在の日本で育てば、オウム真理教に入信するようなバカも出てくる。
何でもかんでも「学習」すれば頭が良くなると思うのは大衆観念であり錯覚妄想であって、虐待をされて育てば虐待を繰り返すようにも「学習」するものでもある。
恐怖症や依存症といったものも、ドーパミンが持つ常習性の「結果」でこそあれ。そこに個人の意識的「目的」行動選択が介在する余地はない。
大衆の多くは「自分の気分が良くなること=正しいこと。」という短絡的錯覚を鵜呑みにしているが。こうした錯覚こそが殺人犯の行動動機の自己正当化の根拠に利用されてしまうのである。
不毛な学力競争ばかり煽り立て、個人の主体性や自律といったものを蔑ろにしてきた結果が、原発の危険性をも放置するような無責任なヒトを大量生産したのである。
冒頭で取り上げた「俺様の個人的ご機嫌=社会的に正しいマナー」という短絡的決め付けも、同じ構造によって導き出されたものであろう。
刑法懲罰の厳罰化、死刑制度温存といったものも。みのもんた的に被害者の報復感情を代弁したかのような満足に浸ることによって、その場限りに多数派のご機嫌取りをしている結果に過ぎない。それが被害の再発に無効であることには誰も言及せず、ただ漫然と制度体制の維持に加担することで安心しているのである。
社会がなぜ良い方向に向かい難いのか、それは多数が自分達の過ちを認識自覚していないからである。
疲れたからおわる。
バカ相手に説明するのは徒労感しか残らない。
Ende;