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書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

ドストエフスキー。

2012年08月19日 16時31分08秒 | 意識論関連

 亀山郁夫がドストエフスキーを語る時には、「共感」という気分や、「運命的」という無意識条件反射行動の話ばかりを取り上げており、何ら論理的検証はなされていない。

 無思考に気分無意識の問題だけを取り上げ、実質的効果の全く存在しない観念ばかりを哲学であると言い張ること自体が罪であることを亀山に限らず現在の哲学界は認識していない。

 気分的に共感することは短絡的に人間性の論証には全くならない。それは「ヒト」という種の生物における傾向習性に過ぎないからである。

 時代だの年齢によって変化するような価値ということは、すなはち普遍性の欠落を意味するのである。ドストエフスキーの小説というのはエンターテイメントであって、気晴らしに過ぎない。

 どんなに感情的に感動しても、それは具体的効果を持った合理性ある原因究明にも再発防止策にもつながることはなく、個人的な感動や共感を強弁しているだけで論理検証を全く放棄している現在の哲学界というのは怠慢であり無責任極まりないのである。

 公的研究機関の社会的役割として、社会持続可能性や安全性に寄与するのは当然でなくてはならない。それを放棄して個人的気分を漫然と語り続ける現在の哲学界というのは税金の無駄遣いにしかなっていない。



 以上のことからも、言語というのは必ずしも論理思考を促さず、単なる個人的な気分的高揚による満足を促すことの方が圧倒的に多いのである。認知神経科学における「言語こそが人間であることの論証。」という嘘を垂れ流して金を取る放送大学というのは詐欺ペテンに過ぎない。

 脳の左半球にあるブローカ野(発話言語野)の損傷によって言葉を失っても、短絡的に人間性喪失の証明にもならず。たとえ言葉巧みに詐欺を行えても人間性の論証にはならない。言語というのはヒトという種の生物の習性に過ぎず、人間性自体の論証とは無関係なのである。


Ende;

北野武。

2012年08月19日 16時30分13秒 | 意識論関連

○北野武。

 北野武のように、大衆観念に則って「日本の文化」云々を論じていれば大衆からウケるのは当たり前である。こうした手口は養老孟司のそれと全く同じものである。

 「文武両道」だの「小笠原流」だのといった、如何にも大衆にウケそうな話をしていれば無思考な大衆の脳を酔わせることは簡単である。

 そもそも日本の文化こそが太平洋戦争における暴走を引き起こしたのであって、無反省にも程ががある。

 北野だの養老というのは、多数派への迎合による多数からの評価が目的であって、統合的論理検証による合理性のある話をすることはない。論理整合性がないということは無責任と同義であることを忘れるべきではない。北野だの養老というのは自分の発言が間違っていたとしても、「自分の言っていることを信用信頼したお前らがバカだ。」などと言い逃れするつもりである。占い師の細木数子が「占い師の言うことなんて真に受けるんじゃないわよ。」などと言うのも同じことである。

 どんなに芸術分野での評価があるとしても、芸術というのは無責任な気分的気晴らしに過ぎない。気晴らしという気分的満足安心というのは所詮精神的ガス抜きに過ぎず、そんなものが長期的持続可能性や安全性の証明には全くならないのである。

 むしろ無責任な大衆迎合を鵜呑みにしているからこそ、効果的実効性のある論理的根拠を持った原因究明や再発防止が全く進まないのである。子供に柔道や踊りを強要してもイジメが減る合理的根拠など全くないのである。あまりにバカげていてウンザリさせられる。

 北野自身が述べるように、どんなに優れた芸術作品を作りだしても、戦争や犯罪が減る影響を及ぼすわけではない。多数大衆からの観念的評価をどんなに得ても、社会安全性には無関係なのである。

 どんなに気分的に満足しても安全性が確立されるわけではないのである。




Ende;

許容量。

2012年08月19日 16時29分21秒 | 意識論関連

○許容量。

 幼少期に他者とのコミュニケーションに苦痛を感じてしまえば、コミュニケーション自体への意欲を喪失してしまうであろう。

 更に他人との比較によって、あたかも言語学習の遅れを指摘されることによって、言語学習自体を「諦め」てしまい、一種の心的外傷として行動「学習」してしまうことに陥る。

 コミュニケーション能力に限らず、何でも他者と比較したりせずに当人の自発的意欲を伸ばすことを優先すべきであって。やたらと他者との比較による強迫観念的にあらゆる勉強を「強いて勉める」的に強制するからバカが増えるのである。

 個人の主体的意欲があれば、自ずと自然に言語学習も出来るようなるはずである。短所を指摘することより長所を伸ばす教育をすべきなのである。短所長所というのは先天的な要素も少なくない、生れつき苦手なことを他者との比較を根拠に平均値にならすというのは、個人の長所を喪失させるだけである。

 「3人寄れば文殊の知恵」などと言うが、3人共能力が同じであれば「烏合の衆」に過ぎない。あくまでそれぞれに能力の違いや個性が存在してこその他者との協調に意味があるのであって、ただ強迫観念的に他者との比較競争をしても意味がない。

 日本人は他者との違いを認める大人の許容量が少な過ぎるのである。これも無意識的な観念に基づく強迫観念がヒトから許容量を喪失させている結果である。


Ende;

迷走。

2012年08月19日 16時27分36秒 | 意識論関連

○瞑想。

 瞑想を長年していると脳の処理速度が向上する。

 しかし、処理速度だけを取り上げて「頭が良くなった。」と決め付けるのはあまりに短絡的で科学的とは言えない。

 そもそも統合的論理検証というのものは処理時間を必要とするものであって、瞑想によって思考が短絡的条件反射しかしなくなっているのであれば、むしろ「頭が悪くなっている。」可能性も高い。

 短絡的に処理速度だけを知能であるというのであれば、チンパンジーの瞬間記憶能力をも知能であると言い張るのと同じことである。チンパンジーの瞬間記憶能力というのはエサに対する機械的条件反射であるからこそ異常なまでの超高速処理が可能なのであり、要するに環境から促された中毒症状であり動物的な行動学習に過ぎない。

 処理速度に限らず、学力成績というのは厳密に認知科学的根拠があるわけではなく。短絡的に一面的能力だけを取り上げて「頭が良くなった。」などと決め付けるのは科学的とは言えない。

 速読暗記能力においても、その速度をどんなに高めても内容の論理検証能力とは無関係である。速読能力が高い者がニーチェや養老の論理整合性の欠落を指摘出来るわけではなく、結局個人的好き嫌い感想しか述べられないのである。

 アイヒマン実験において短絡的に権威に服従してしまうことも、判断処理が短絡的で高速であるからであろう。論理検証が浅く条件反射的に権威に服従しているからアイヒマン実験だの振り込め詐欺師に騙されるのであって、瞑想によって自律的な統合的論理検証可能性の証明でもなければ、瞑想による処理速度向上だけを根拠に「頭が良くなった。」などと決め付けるべきではない。



 瞑想を長年やっていると大脳の皺も増えるのだというが、皺が増えたことによる具体的効果が実証されているわけではなく、単なる現象論に過ぎない。脳血流増加を短絡的に「頭が良くなる。」と言い張ったからこそ実質的効果もない脳トレ類を「頭が良くなる」ともてはやしたのであり。具体的効果も検証せずに短絡的に「皺が増えた」だの「血流量が増えた」ことを「頭が良くなった」などと扇動すべきではない。

 大脳皮質の皺というのは皮質自体の量と比例するはずであるが、頭の良さというのは量で決定するようなものではない。通り魔の脳容積が少ないとか、ノーベル賞受賞者の脳容積が多いといった証拠はなく、容積だの処理速度といった断片的現象だけを取り上げて「頭が良くなった。」などと言うべきではない。

 瞬間記憶能力を向上させたチンパンジーの脳においても大脳の皺が増えている可能性は高い。それを短絡的に「頭が良くなった。」とは言うことが出来ないのである。大脳の大部分は無意識機能を司るものであり、機械的条件反射を動物的行動学習しているだけである。考え方を変えれば無意識的条件反射行動を無駄に行動学習しているだけの可能性も否定できないのである。

 事実、オウム真理教では瞑想を修行として行っており、瞑想の危険性も否定出来ないのである。

 技術的に困難を伴う毒ガス製造が可能であるなら、恐らく脳の皺も多いのかも知れない。それのどこが「頭が良い」と言えるであろうか。

 脳の皺の増加を短絡的に「頭が良くなった。」などと大衆迎合的にウケ狙いで垂れ流すマスコミは無責任である。権威に検証して貰ったからといってそれが短絡に科学的な裏付けになると思ったら大間違いである。現在の脳科学界は生物学における結果と目的の区別も出来ないバカの集団であるため、脳科学者達には科学的検証は出来ないものであると考えるべきである。

 偏差値の高い無差別殺人犯の脳の皺も恐らく多いのではないだろうか、抽象化された報酬「エサ」に対する条件反射的な行動学習(中毒症状)によって獲得した無意識機能であれば、チンパンジーの瞬間記憶のような暴走的集中力を発揮するものである。無意識的な特定能力の暴走的行動学習によって大脳容積が増えても、これは反ってバカになっている可能性が高い。





Ende;

共感。

2012年08月19日 16時26分14秒 | 意識論関連

○共感。

 共感は「心」ではない。

 単なる共感を「心」であると言うのであれば、振り込め詐欺師集団内部での共感性も、カルト宗教の信者達の共感性も、ナチス政権下においてユダヤ人排斥に加担したドイツ人の共感性も「心」だということになる。

シエラレオネの少年ゲリラ達も、その集団内部において共感による協調性統率行動を採るのであって、共感を短絡的に人間性を伴う「心」と形容すべきではない。

 共感性というのは多数派との気分的な安心感を得ることが出来るため、気分的安心感を正当化したいため、共感の全ては「心」であることにしておきたい心理的バイアスによって促される錯覚である。

 イジメを放置するのは、多数派による気分的安心感によるものであり、気分的に安心であるからこそイジメは放置されるのである。

 イジメが放置されるのは、多数派同調バイアスという共感性によって気分的に安心し、「さしたる問題ではない。」と無意識的に危険性を低めに見積もる正常性バイアスによって放置されるのである。

 暴動というのも目先の多数派への迎合という共感性による破壊行動であり。無差別殺人における身勝手な価値観も目先の多数派への迎合によって促されるのである。

 「バスジャックをやらかしたら、凄い。」などという観念は、目先のバカガキ集団内部における共感性によって作り出されるものであり、身勝手な価値観の全ては個人による主体的な検証性が介在しない故の結果である。

 共感というものが常に人間としての行動を導き出す論理的根拠は存在せず、むしろ非人間的行動の根源となる主体的論理検証の欠落というものは、目先の集団内部における合理的根拠のない観念の共有/共鳴/共感によって促されるものなのである。

 共感性というのは本能習性の一つに過ぎない。共感性というのは大脳辺縁系に予め組み込まれた条件反射であって、こうした無意識的な条件反射の全ても自己の意識的判断であると思い込みたいため、そう思わないと気分が悪いため、条件反射的に本能習性の全てを事後正当化しておきたいのである。

 そう思っておけば気分的に安心満足を得られるため、こうした思考バイアスが発生するのである。



 ヒトの多くは自分の意識の全ては常に自分自身で意識的選択によって判断しているものであると勝手に錯覚しているが、実際には意識の9割以上、場合によってはほぼ全てが固定観念に基づく無意識条件反射であり。それを無意識であるとすら、自分自身では認識しておらず。あたかも自分の意識のほとんど全ては自分自身の意識的な判断によって行っていると錯覚しているのである。

 ヒトには無意識条件反射選択自体を無意識に正当化しておきたい本能的習性による思考バイアスがあり。これによってあらゆる論理検証思考は停止させられていることに、誰も気付かないのである。

 「欲望=自由意思。」という錯覚も、本来自分自身による意識的選択を介さない本能欲望のままに快楽を追求することが自由であるという観念的勘違いによって促される錯覚である。本能欲望自体は自分自身による意識的選択を介しておらず、徹頭徹尾無意識である。

 本能的思考バイアスによって事後的に正当化したい共感性を、短絡的に人間性を伴った「心」であるとヒトの多くは思い込んでいるのである。



 感情や本能自体は自分自身では選択出来ないものであり、暴力性も利己性も全てはヒトである以上逃れられない。しかし、意識的に統合的論理検証を行うことによって、目先の感情本能に流されることなく、社会の持続可能性も、社会的責任判断も行えるようになる可能性を持つのである。

 目先の集団内部の偏ったマインドセットが促す感情に流されることなく、自律的に統合的論理検証を行うことによって、はじめて人間としての「心」と言うことが出来るのである。

 目先の多数派に迎合することも共感性である。これを短絡的に人間性を伴った「心」であると言い張るのは、そこに論理検証性/考えが働いていないからである。

 何となく、雰囲気的に、無意識に流されているから文系大衆観念に陥るのである。

 考えが成立していない以上、これをバカとしか形容することは出来ない。


Ende;