亀山郁夫がドストエフスキーを語る時には、「共感」という気分や、「運命的」という無意識条件反射行動の話ばかりを取り上げており、何ら論理的検証はなされていない。
無思考に気分無意識の問題だけを取り上げ、実質的効果の全く存在しない観念ばかりを哲学であると言い張ること自体が罪であることを亀山に限らず現在の哲学界は認識していない。
気分的に共感することは短絡的に人間性の論証には全くならない。それは「ヒト」という種の生物における傾向習性に過ぎないからである。
時代だの年齢によって変化するような価値ということは、すなはち普遍性の欠落を意味するのである。ドストエフスキーの小説というのはエンターテイメントであって、気晴らしに過ぎない。
どんなに感情的に感動しても、それは具体的効果を持った合理性ある原因究明にも再発防止策にもつながることはなく、個人的な感動や共感を強弁しているだけで論理検証を全く放棄している現在の哲学界というのは怠慢であり無責任極まりないのである。
公的研究機関の社会的役割として、社会持続可能性や安全性に寄与するのは当然でなくてはならない。それを放棄して個人的気分を漫然と語り続ける現在の哲学界というのは税金の無駄遣いにしかなっていない。
以上のことからも、言語というのは必ずしも論理思考を促さず、単なる個人的な気分的高揚による満足を促すことの方が圧倒的に多いのである。認知神経科学における「言語こそが人間であることの論証。」という嘘を垂れ流して金を取る放送大学というのは詐欺ペテンに過ぎない。
脳の左半球にあるブローカ野(発話言語野)の損傷によって言葉を失っても、短絡的に人間性喪失の証明にもならず。たとえ言葉巧みに詐欺を行えても人間性の論証にはならない。言語というのはヒトという種の生物の習性に過ぎず、人間性自体の論証とは無関係なのである。
Ende;