○共感。
共感は「心」ではない。
単なる共感を「心」であると言うのであれば、振り込め詐欺師集団内部での共感性も、カルト宗教の信者達の共感性も、ナチス政権下においてユダヤ人排斥に加担したドイツ人の共感性も「心」だということになる。
シエラレオネの少年ゲリラ達も、その集団内部において共感による協調性統率行動を採るのであって、共感を短絡的に人間性を伴う「心」と形容すべきではない。
共感性というのは多数派との気分的な安心感を得ることが出来るため、気分的安心感を正当化したいため、共感の全ては「心」であることにしておきたい心理的バイアスによって促される錯覚である。
イジメを放置するのは、多数派による気分的安心感によるものであり、気分的に安心であるからこそイジメは放置されるのである。
イジメが放置されるのは、多数派同調バイアスという共感性によって気分的に安心し、「さしたる問題ではない。」と無意識的に危険性を低めに見積もる正常性バイアスによって放置されるのである。
暴動というのも目先の多数派への迎合という共感性による破壊行動であり。無差別殺人における身勝手な価値観も目先の多数派への迎合によって促されるのである。
「バスジャックをやらかしたら、凄い。」などという観念は、目先のバカガキ集団内部における共感性によって作り出されるものであり、身勝手な価値観の全ては個人による主体的な検証性が介在しない故の結果である。
共感というものが常に人間としての行動を導き出す論理的根拠は存在せず、むしろ非人間的行動の根源となる主体的論理検証の欠落というものは、目先の集団内部における合理的根拠のない観念の共有/共鳴/共感によって促されるものなのである。
共感性というのは本能習性の一つに過ぎない。共感性というのは大脳辺縁系に予め組み込まれた条件反射であって、こうした無意識的な条件反射の全ても自己の意識的判断であると思い込みたいため、そう思わないと気分が悪いため、条件反射的に本能習性の全てを事後正当化しておきたいのである。
そう思っておけば気分的に安心満足を得られるため、こうした思考バイアスが発生するのである。
ヒトの多くは自分の意識の全ては常に自分自身で意識的選択によって判断しているものであると勝手に錯覚しているが、実際には意識の9割以上、場合によってはほぼ全てが固定観念に基づく無意識条件反射であり。それを無意識であるとすら、自分自身では認識しておらず。あたかも自分の意識のほとんど全ては自分自身の意識的な判断によって行っていると錯覚しているのである。
ヒトには無意識条件反射選択自体を無意識に正当化しておきたい本能的習性による思考バイアスがあり。これによってあらゆる論理検証思考は停止させられていることに、誰も気付かないのである。
「欲望=自由意思。」という錯覚も、本来自分自身による意識的選択を介さない本能欲望のままに快楽を追求することが自由であるという観念的勘違いによって促される錯覚である。本能欲望自体は自分自身による意識的選択を介しておらず、徹頭徹尾無意識である。
本能的思考バイアスによって事後的に正当化したい共感性を、短絡的に人間性を伴った「心」であるとヒトの多くは思い込んでいるのである。
感情や本能自体は自分自身では選択出来ないものであり、暴力性も利己性も全てはヒトである以上逃れられない。しかし、意識的に統合的論理検証を行うことによって、目先の感情本能に流されることなく、社会の持続可能性も、社会的責任判断も行えるようになる可能性を持つのである。
目先の集団内部の偏ったマインドセットが促す感情に流されることなく、自律的に統合的論理検証を行うことによって、はじめて人間としての「心」と言うことが出来るのである。
目先の多数派に迎合することも共感性である。これを短絡的に人間性を伴った「心」であると言い張るのは、そこに論理検証性/考えが働いていないからである。
何となく、雰囲気的に、無意識に流されているから文系大衆観念に陥るのである。
考えが成立していない以上、これをバカとしか形容することは出来ない。
Ende;