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書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

分子進化の中立説。

2012年08月26日 17時51分55秒 | 意識論関連

○分子進化の中立性。

 生物学では「分子進化の中立説。」というのがあり。「有利な突然変異が起こる確率は極めて低いため、分子進化に貢献しない。」というものである。

 生物の多くは、ある程度安定的に生存に適しているため、突然変異が生存に有利になる確率は極めて低い。

 しかし、「ある程度の安定性。」を獲得するまでには突然変異による有利な変異への淘汰が行われていなければならず。

 その後に安定的な環境下において中立的変異(生存にあまり影響を及ぼさない変異)が大半を占めていることは言えるであろう。

 ある程度安定的環境でなければ緩やかな進化変化は促されず、通常は極端な進化変化を引き起こさず、中立的変異が大半を占めるであろうことは不思議ではない。

 ウイルスのような短期間での変異進化を繰り返していれば、生物相や環境自体も短期間に変化させてしまい、安定的で緩やかな進化も出来なくなってしまう。

 生物の多くが「ある程度の安定性。」自体を獲得したことも、突然変異による進化変化の結果であることに変わりはなく、自然淘汰の仕組み自体が安定化した結果として、変異のほとんどが中立的変異になるように淘汰された結果であると言える。




 生物というのは個体における生存価だけを追求していれば種の存続に適するわけではなく、環境との調和によってある程度の種の安定性も不可欠であり。ウイルスのように突然変異を目まぐるしく行っていれば急激な環境変化に対する生存価には適するであろうが、種自体の安定性も持てないため。ウイルスはどんなに進化してもウイルス以上の何物にも進化することが出来ないのである。

 ウイルスのような目まぐるしい変異を繰り返していれば、環境に適応して異常繁殖してしまう可能性も高く、環境をも凌駕して結果的に絶滅してしまうことも少なくない。生物進化の初期においてはこうした異常繁殖と絶滅の繰り返しがあったはずであるが、それではむしろ種全体の存続には適さないため、環境との調和が可能な変異の安定性も必要なのである。

 本当の意味における「環境への適応」というのは、その場限りに「生体にとって有利」に異常繁殖する能力だけを指すのではなく、環境との調和によって安定的繁殖能力も必要であり。肉食動物と草食動物の繁殖力の違いも、それによって環境と調和し、安定的に種を存続させることができた「結果」である。

 寿命というプログラムされた個体の死も、異常繁殖の抑制として組み込まれた環境調和の結果的仕組みである。

 何でもかんでもその場限りに個体の生体にとって有利な結果だけが本質的な「環境への適応」になるわけではないのである。生物学者に限らず、意識の狭い興味の浅い者にとっては統合的な論理検証が苦手で、多数派に同調することしか出来ないから、こんな初歩的なことすら誰も自律的には気付くことが出来ないのである。

 本質的な「環境への適応」というのは、断片的な個体の生存価だけで成立するようなものではなく、生物相全体の「食物連鎖のピラミッド」などの環境システム全体とのバランスを必要とするものである。



 ヒトの社会においても、利己的な者ばかりの社会が存続維持が困難であることからも、むやみやたらとその場限りの「個体の生体にとって有利な選択」というものが、その暴走性によって社会や環境との調和維持を失い、結果的に生存価にすら適さなくなるのである。


Ende;

○調和。

 自然淘汰による環境調和であっても、所詮は結果的生存以外に淘汰が働くことはなく。個体が主体的に環境との調和を意識的に選択するような知能を獲得出来るわけではない。

 環境との調和であっても、あくまで特定環境下においての調和しか促されることはなく、本能的行動の結果としての調和というのは、特定環境下以外では簡単に調和能力を喪失することも少なくはない。

 自然選択の結果的な種の調和性というものは、ほんの僅かな環境変化に対応することが出来ずに大きな破綻を産むことも少なくはない。

 これは結果的な環境調和能力というものが万能ではなく、あくまで特定環境下においてバランスした結果に過ぎないからである。

 むしろ結果的に獲得してしまった環境との調和能力によって、急激な環境変化への対応能力を喪失しているとも言えるのであり。いかなる進化の結果であっても万能ではないのである。




 淘汰の結果である以上、それはどんなに高度で巧妙であろうと、そこには目的意識的な選択が介在する余地はなく、徹頭徹尾「結果」以上の何も導き出すことはない。

 「分子進化の中立性」であっても、全ては結果であって、所詮はダーウィンの進化論の断片に過ぎず、進化論を否定するようなものではない。

 こんな単純なことすら誰も気付かないのは、生物学者の誰も進化というものへの興味、意識、真理探究心が足りておらず、単に生物学界が論理検証の出来ない理科学系研究者のゴミ溜めにしかなっていないからである。



 本質的意識、自発的論理検証性が欠落していれば組織が腐敗し、閉鎖的になるのは必然である。当然誰も本質的知能による論理検証も出来ず、下らない観念に基づいた論証を鵜呑みにするだけである。このような無能な研究者を科学の名のもとに公金で雇う社会的価値は全くなく、即刻生物学組織の再構築、脱構築が必要なのである。



Ende;


○平均的能力。

 ヤギが二本脚で歩いた程度のことで、先天的能力を超越したなどと言い張る生物学というのは、完全にバカの集団である。

 運動機能というのは哺乳類の場合、後天的に学習することで獲得する。それが偶発的に他の個体と異なる特異な能力を発揮したからといって、先天的に獲得可能な能力を超越することなど原理的に不可能である。

 多数の他の個体が獲得する能力だけが、その種の生物における能力可能性の全てを発揮しているわけではなく。必要な機能だけを必要なだけ獲得しているに過ぎない。

 チンパンジーの瞬間記憶能力なども、特定環境下において発揮される特異な能力であり。それが普通の環境下、状況下において発揮されないことを多数枚挙したところで、「普通の能力」だけしか先天的に獲得不可能である論証には一切ならない。

 哺乳類の脳においては、状況や環境に応じて後天的に学習する仕組みを獲得しており、これが哺乳類における環境適応能力の一端を担っている。しかし二本脚で歩く必要性や、瞬間記憶能力を発揮する必要性がなければ発揮されることはなく。逆に4本脚のヤギの多くが二本脚歩行を獲得出来ないからといって、先天的に二本脚歩行が不可能であることの論証には全くならない。

 哺乳類の能力獲得というのは先天的に全てが決定しているわけではなく、状況や環境に適応する形でエサに対する条件反射的な能力学習によって、様々な能力を獲得することが可能である。

 しかし、この「様々な能力。」といものも、所詮は先天的な獲得可能性がなければ発揮されることはなく、必要性(脳への報酬)が伴わない機能は一切学習獲得されることはない。



 どんなにたくさんの平均的能力を枚挙しても、平均的能力というものが先天的に決定していることの論証には一切ならない。平均的能力というのは平均的環境や状況においての能力獲得の結果であって、全ての能力が予め何者かの目的によって決められているわけではないのである。

 「平均的能力=先天的能力」という短絡的決め付け、マインドセット固定観念に囚われているから「ヤギの二本脚歩行」程度でヌカ喜びすることに陥るのである。これは生物学者というのはバカしかいない証拠である。

 結果的に生存してさえいれば生物として存在していることが可能なのであり、生体にとっての絶対的最適化がなされていることの証明などない。

 特定環境下や状況において絶対的最適化がされていれば、特定環境下や状況以外で生存に適さなくなるのは当然であり。予め獲得能力に余裕「幅」を獲得していることも、環境との調和において必要であると考えられる。

 生体にとっての本当の最適化とは、常に環境との調和関係なくして成立するものではなく。決して個体の生体にとってのみ有利な能力獲得だけで成立するようなものではない。

 ウイルス類が宿主という環境を破壊してしまって結果的に絶滅してしまうのと同様、あらゆる生物は環境との関係を切り離して個体の生体にとっての有利性だけでは生存に適することはないのである。

 分子生物学的な変異の中立性、生体にとって無関係な変異を許容する能力獲得であっても、その過程において試行錯誤的に何度も大絶滅を繰り返した結果であり。中立的変異の獲得によって緩やかな進化が可能となり、その結果として安定的に高度な進化も可能となったのである。

 ウイルスのようにその場限りにのべつまくなし変異を繰り返す生物の場合。その場限りに環境適応することは可能であるが、種としての安定性も持たないためにウイルス以上の何者にも進化することが出来ないのである。




 分子生物学における「変異の中立性」であっても、所詮は自然淘汰の結果として獲得した能力の一部に過ぎず、チャールズ:ダーウィンの進化論に対立するような話ではないのである。



 おいらの興味は生物学者達などに見られる文系大衆観念的な論理検証性の欠落性であって、生物学そのものではない。生物学の間違いは本来生物学権威が検証するべきものであって、手抜き怠慢をしておいて学術権威面しているのは傲慢というものである。






Ende;

あれこれ2。

2012年08月26日 17時49分32秒 | 意識論関連


○気分の問題。

 アイヒマン実験における権威への服従性、プロパガンダにおける多数迎合性、多数派同調による気分的安心感といった現象の結果として、ヒトには本能的に封建的統率行動習性が組み込まれている。

 本能習性のままにプロパガンダを鵜呑みにし、統率協調的に暴力を振るい、略奪搾取をしていた方が生物の「生体にとって好ましい行動選択。」であると言えるだろう。

 それなら時折発生する絶滅虐殺の結果として、ヒトという種の生物は自律的論理検証を拒絶し多数派同調迎合して統率的協調行動を採る者だけに淘汰されているということである。

 平時にはこうした性質習性は「ほとんど」「概ね」発揮されることはないだろうが、環境によっては簡単に排除差別という行動は発現するのである。

 東電社員達による原発の危険性放置というものも、仲間意識という集団心理的思考バイアスによって統率的に行われたものである。

 イジメに限らずあらゆる危険性放置には、統合的な社会全体の安全性や持続可能性を無視した、目先の共感による安心の追求が根源にある。

 目先の共感による安心の追求というのは、要するに本能習性が促す無意識行動ということである。

 そして、こうした気分的安心追求というのは、何せ気分的には安心であるために無意識的危機意識/気分的恐怖感が働かないのである。

 意識的危機意識というものは、そこに自律的論理検証性が働かなければ生じることはないのである。



 本能習性による「概ね」「ほとんど」の安全性をどんなにたくさん抽出枚挙しても、それはヒトという種の生物の論理的安全性の証明にはならない。それは大多数の原発が暴走していないことの枚挙によって、原発安全性の論証であると言い張るのと全く同じである。

 ヒトの多くは自分自身に危険性があること、頭が悪い傾向があることを認識したがらない。それは本能的に気分的が悪く「嫌」な話であるからだ。

 逆に「ヒトとは社会的で安全で、頭が良いものである。」ことの蓋然性でも枚挙しておけば満足し、安心してバカに陥ることは簡単である。故に生物学の観念が温存されているのであろう。

 自然淘汰による結果的本能習性だけで「ヒト=人間」の論証をしようとする生物学の非科学性を放置しておけば、あらゆるヒトが引き起こす「人災」の根源的対策は立たない。

 ヒト引き起こすあらゆる「人災」というものは、無意識な本能習性の「結果」によって導き出されるものであり。意識的「目的」行動選択が介在しないからこその暴走の「結果」である。

 大衆に迎合する生物学や脳神経科学というのは、科学的なヒトの危険性検証を放置するものである。

 科学というのは大衆に迎合して多数人気を得ることが社会的役割ではなく、科学的に検証することこそが社会的役割なのである。科学的/論理的検証を放棄してウケ狙いに走る生物学や脳神経科学界というのは科学としても社会的役割責任を全く果たしておらず、税金の無駄遣いにしかなっていない。

 ウナギの養殖技術開発など目先の金儲けにしかならず、公的機関でやらなければならないものではない。

 ウナギが食えなくても人災や犯罪を減らすことの方が公的研究機関においては優先されなければおかしいのである。



 毎週金曜に国会議事堂前で原発廃止をヒステリックに怒鳴り散らしているが、原発を停止させることによって命の危険に曝される社会的弱者の救済策を立てることの方が先である。

 いうなれば電力会社には社会的弱者を人質にされているようなものであるから、社会的弱者の安全性を確保しないことには、単なる間接的未失殺人にしかならない。

 特定組織を糾弾しておけば気分的には満足であろうが、それでは根本的解決には全くならない。

 原発を廃炉にするためには順序、ロードマップというものが必要であり。ヒステリックに拒絶しておけばどうにかなるような短絡的最終解決法に溺れるべきではない。

 低温発電技術をもっと推進させれば、火力発電の効率をさらに向上させることも不可能ではない。どうすれば更なる節電が可能であるかは誰にでも考えることが出来るはずのものである。優先されるべきは「多数で騒ぐこと。」ではなかろう。

 個人的にも騒々しいのは大嫌いである。

 原発の代替案なら本当はいくらでもあるはずで、決して都知事が言うような感傷ではないことを証明するためにも、感情的行動よりも具体的実効性のある行動を採るべきである。

 乳幼児を炎天下にさらしておいて社会安全性もすったくれもあったものではない。

 原発さえ廃炉にしておけば社会の危険性の全てがなくなるわけではなく、むしろ感情的でヒステリックな解決策に暴走するヒトの普遍的習性の危険性というものを個人が認識することが先決であろう。



Ende;

○言語。

 言語の全てが論理的思考を促すわけではない。

 ルワンダやナチスの虐殺を扇動したラジオ放送によるプロパガンダは言語を用いたものである。養老やニーチェの文章もまた言語であり、巷で大量に交わされる論理整合性のない無駄話の類の全てには論理的思考は伴わず。ヒトというのは言語会話によって、多数他者との気分的共感による安心感を獲得して、本能的気分の満足をしているだけに過ぎない。

 ヒトの多くは自分達の不毛な会話を正当化するために、「言語=理論的思考」であるとしておきたいだけなのである。

 言語が必ずしも論理的思考を促す論証はない。ましてや自律的論理検証を促すことなど皆無に等しい。そもそも他人の文章を読んでから検証していたのでは自律でも何でもないからである。

 大衆の多く、ヒトの多くは本論を論理的には理解してはおらず。何が理論的に正しいのかを検証することは出来ないのであろう。

 文系観念上では、文章を読むことによる気分的安心感や感情的感動共感性ばかりが優先されており。文章の論理的内容理解など全く意識されてはいないのである。

 文系大衆の気分的安心感や感情的感動共感が得られなければ、ビジネスとして金儲けにつながらないばかりか。反って反感を買う可能性も高い。それは太平洋戦争の時に大阪の新聞社が反戦記事を載せた際の大衆からの不買運動に屈したのと全く同じである。

 目先の金儲けこそが人間としての価値であるならば、大衆観念に屈服して無責任なご機嫌取りをしておくことこそが人間の価値ということになるのである。

 世間から疎外されれば生存には適していないであろう。ナチスに反対したベンヤミン同様、自律的に社会的責任判断をしても生物的な「生体にとって好ましい」結果が得られる保証などない。

 それなら自分達が所属する組織の利益を優先し原発の危険性を放置した東電幹部達の選択も正当化されるのである。

 それを人間としての価値であるとするのは、あまりにバカげている。


Ende;

○らしい。

 文系大衆観念的には、人間らしい振る舞いとして相手の感情を読む、感情の動きを察するといったことを「人間性」だの「社会性」と言い張るが。相手の感情を読む能力であれば振り込め詐欺師でも可能な能力であり、なんら人間性を伴った社会性の論証にはならない。

 現状世間に迎合するだけの能力は、個体の生存には有効で、且つ平均的で安心感を与えるであろうが、それを短絡的に人間性を伴った社会性と形容するのは、論理的根拠のない実証不能の大衆観念に過ぎない。

 「らしい。」などという、あやふやな定義を持ち出すこと自体が文系大衆観念特有の論理検証性の欠落である。

 普通で平均的で多数派でありさえすれば、気分的には安心して迎合することが出来るであろうが、それを短絡的に安全性の証明であると思い込むのは論理検証性が欠落している。

 自律的論理検証性とは、個人の社会的責任判断である。自分自身が社会的責任判断を放棄しておいて、他人にだけ社会的責任を求めるのは支離滅裂で身勝手であることを、多くのヒトは自覚認識していない。



 養老孟司のように支離滅裂で無責任な発言をしていても、論理検証性のない大衆からの人気が得られれば世間的には成功することも可能である。それを生物学的に「生体にとって好ましい行動。」であるとするのであれば、如何なる無責任さも正当化されるのである。

 養老やニーチェによる支離滅裂な話というのは、読み手が気分的に安心して自分の自律的社会的責任判断を放棄することが正当化できるかのような錯覚を促すために、無思考で論理検証性の欠落した大衆から多数人気を得ることが出来るのである。

 芸術に分類される文学であるならば、どんなに論理整合性の欠落したお伽話をするのも勝手というものであるが。科学的根拠に基づいた理論であるかのように偽装された話を鵜呑みにするのは、ただのバカに過ぎない。

 どんなに気分的に安心出来るとしても、気分的安心によって思考停止に陥り呆然と実証不能の観念を鵜呑みにしている状態というのは洗脳に過ぎない。

 「洗脳」という言葉における「洗」とは、気分的にスッキリして安心している状態を指しているものであり。瞑想などによって得られる気分的快楽と同様、自律的論理検証性を失いバカになることの本能的快楽性を指すのである。

 ヒトという種の生物には、自律的論理検証を放棄してバカになることが本能的に快楽な性質があるのだ。

 こうした本能習性(気分感情)に流されないようにするのが本質的意識の役割である。

 ヒトという種の生物に、先天的に組み込まれた本能という仕組みに無意識に流されることなく、自己自身の本能習性を理解し、誤った判断をしないように自分自身で検証することによって、はじめて一人の人間であると言うことが出来るのである。


Ende;

安楽死。

2012年08月26日 17時46分58秒 | 意識論関連

○安楽死。

 安楽死というのは、当人の尊厳によって選択されるものであって、世間多数からの圧力とは無関係でなくてはならない。

 個人の尊厳よりも多数世間からの圧力を優先してしまうのは日本人特有の傾向文化であり、自発的に「生きて」いないことの現れであるとも言える。

 生きていることに尊厳を保てるかどうかは当人の判断であって、いかに多数からの圧力があっても安楽死というのは当人の意思による選択でなければならない。

 ヒトというのは本能的な社会多数迎合性行動バイアスがあるため、多数他人からの圧力に個人の行動が左右されがちなのである。

 こうした本能的社会多数迎合性行動バイアスというのは当人の意識的行動選択ではなく、単なる本能的行動バイアスに過ぎず、無意識である。

 実際には社会的圧力としては身体的障害を理由に安楽死を求めることよりも、社会的に迷惑な暴力団のや暴走族の自殺などよりも優先することはなく、世間的圧力というのは身体障害者の勝手な被害妄想に過ぎない。



Ende;

あれこれ。

2012年08月26日 17時44分51秒 | 意識論関連


○盲念

 ヒトの多くは論理的根拠を持たない観念を、信念であると錯覚する。「念」である時点で既に論理的根拠はない。

 「念」の類というのは感情気分による思考バイアスであり、思考そのものを阻害し停止させるものである。

 気分的安心を追求するあまり強迫観念的に盲念の虜になって、自律的な論理検証を放棄するというのは命懸けで地下鉄に毒ガスを撒くのと同じである。

 当人的には必死で一生懸命ではあろうが、これこそが精神の怠慢なのである。

 身体的労力に邁進しておけば、気分的には楽になり、特定の能力機能を向上させることも簡単であろう。それは瞑想の類で「心がキレイになった。」という勝手な錯覚と同様、「気分的な楽。」を短絡的に「心がキレイ。」と勘違いしているのである。

 偏差値の高い無差別殺人犯同様、エサに対する条件反射だけが行動動機の場合、エサを求めることこそが快楽であり安心であり「心がキレイ。」な純粋性だと勝手に錯覚することが出来る。故にチンパンジーの瞬間記憶能力同様、学力だけは異常に高いのである。さぞかし脳の皺も多いに違いない。高度な無意識機能を大量に行動学習(中毒)していれば脳の活性であると言い張ることも簡単である。



 誰でも理解可能な理論であれば、それは誰が思い付いてもおかしくはない。しかし、環境から与えられる報酬(エサ)に対する条件反射でしか思考できず、自律的には何も考えることのない者にとっては、「誰も考えないこと。」というのは短絡的に報酬が得られそうにないため、気分的安心が得られず意識から外そうとするのである。

 大多数の他者が考える思考パタンに対し、多数派同調バイアスと正常性バイアスを満たし、気分的安心を獲得することで思考を停止させるのである。

 故に大衆の多くは無思考なのである。

 生物学というのは東大大学院教授であっても「大勢を占めていない。」などという自律的論理検証放棄を平気で行う組織である。これは科学的検証組織としての社会的役割を一切果たしておらず、極めて怠慢である。




 多数派に同調し、気分的に安心することによって自律的論理検証を放棄する。それを文系大衆観念的には「規範意識」とか「社会性」と呼ぶのである。この思考停止こそがヒトという種が持つ最も重大な欠陥である。

 ヒトという種の生物が、一人の人間としての価値を持つためには。人間としての自律的な社会的責任判断能力が不可欠である。どんなに特定能力が高くても、自律的責任が負えないのであれば人間とは言えず、当然人間としての知能とも言えない。



 振り込め詐欺師がカモを騙す時、カモの感情を読み取り想像することによって相手を思考停止に陥れる。この能力もまた生物学上では「社会性」と呼ぶのである。

 チンパンジー同士の騙し合や、封建的ヒエラルキーによる不公平や略奪であっても生物学上では「社会性」と呼ぶ。これは生物学が個体の生存価だけを絶対的正義として取り扱うからであり、こうした生存絶対主義というのは生存という結果を目的であるとすりかえているために生ずるものであり、全く科学的論証にはならない。

 生存とは結果である。結果的に生存しているものを生物と分類しているのであって、「生物の目的は生存」であることの科学的論証は成立し得ない。ましてや個体の生存価だけを論ずれば如何なる野蛮行為であっても正当化され、調和も共存もすったくれもあったものではない。それが現在の生物学の正義なのである。

 話の表面だけを取り上げれば、生存を絶対的価値であると論じていた方が文系大衆観念を満足させ、安心させ、無批判に迎合させることが可能であろう。それなら生存にさえ適していれば、如何なる卑怯な行為も、不公平も、果ては社会を危険にさらすことであっても正当化されるのである。

 ヒトの多くは、従来の固定観念に何の疑問も持たず、論理検証もせず、「いままで通り。」でさえあれば気分的に安心する。「ヒトは、長く続くことは永遠に続くと錯覚しがち。」なのである。

 あたかも自己というものが永遠の昔から存在していて、自分の人生においての長期間変わらなかったものを永遠に変わらないものであると錯覚し、安心し、論理検証する思考を停止させ、鵜呑みにするのである。

 ヒトという種の生物には、環境から刷り込まれた固定観念を自発的には何も検証していなくても気分的安心満足によって絶対であると信じ込もうとする習性がある。

 ヒトはこの世に産まれて、今までずっと生きているため。あたかも永遠に生存することが絶対的正義であると錯覚するのである。これは脳内麻薬ドーパミンが促す「常習性」が作り出した主観的価値観である。

 「死にたくない。」ということが絶対的価値であるなら、社会安全性を蔑ろにすることも、持続可能性のないことも正当化されるのである。それは現在の生物学における「サルの正義」ではあっても、人間としての普遍的価値観には全くならない。



 科学的知見というのは人間としての知能である。人間にとっての価値を持たない価値観に基づいていて科学もすったくれもあったものではない。

 他人を欺くことをも「社会性」だと言い張る現在の生物学というのは、人間社会にとって百害あって一利ない。

 ヒトという種の生物の本能習性を断片抽出的にどんなに事後正当化しても本能習性の全てが常に社会安全性や持続可能性を保証してくれる証明など一切ないのである。生物に組み込まれた本能習性というのは全てが「結果」であり、どのような過程を経て形成されようとも、それが常に社会安全性や持続可能性を保証してくれる訳ではない。

 社会安全性や持続可能性というものは、本能習性が促す気分感情に依らず自律的に論理検証するという本質的意識の産物である。他者が作り出す環境から与えられる評価報酬(エサ)に関わらず自発的に検証するという、自発的意欲、意識、関心、興味、科学的好奇心という純粋な自発的動機がなければ社会安全性や持続可能性というものは追求されることは原理的にないのである。

 自律とは自発の中にあり、他にはないからである。



 ヒトという種の生物は、多数他者からの評価や報酬(エサ)による行動動機に流されがちである。しかしこれはヒトの動物的行動習性本能の結果に過ぎない。それがどんなに気分感情的に大きくてもである。

 「アメとムチ」という、極めて短絡的行動動機にヒトの多くは流されがちである。「流されて」いる時点でこれは無意識であることを忘れてはならない。ヒトは無意識に「流されて」いる方が精神的に楽で安心なのである。だからこそ精神の怠慢なのである。



 ヒトの多くは論理的思考を促されることに観念的拒絶反応を示すものである。

 論理検証的に思考することは、ヒトという種の生物にとって本能的に嫌なものであって、本論が多数人気を得られないのも必然であろう。

 むしろ論理整合性の欠落した、無責任な決め付けを格言風味に陳列しておいた方が文系大衆の脳を酔わせることが簡単である。「自然界は素晴らしい。」だの、「生物は素晴らしい。」だの、「人間は素晴らしい。」とでも形容しておけば大衆の脳は簡単に生物学上の観念を鵜呑みにする。

 600万人のユダヤ人を毒ガスで殺害し、地下鉄に毒ガスを撒き散らし、原発の危険性を放置し、独裁によって無差別殺人を行うヒトという種の生物の危険性を無視し、「自分だけは特別に大丈夫である。」という観念によって正常性バイアスを満足させて自己検証性を喪失しておくことが簡単に出来るのである。

 自己という「ヒト」は、初期的には「人間」ではない。無意識、すなはち自律的な統合的論理検証性なくして人間としての社会性を持ち得ないのである。

 「誰かが何とかしてくれる。」という他者依存性を発揮しておけば、他人の責任追求だけしておけば満足することが出来るであろう。それは特定他者に対する隷従性の現れである。ルサンチマン(奴隷根性、他者への恨み)とは、自律的な社会的責任判断を放棄しているからこその結果的思考傾向、思考バイアスである。

 ヒトの多くはルサンチマンを多数共有しておけば安心であろう。だからこそイジメ、差別排除というものが発生するのである。特定他者を統率協調的に攻撃しておけば本能的社会形成習性を満足させることが出来るためである。



 バカというのは、自分の一体何がバカなのかを自分では認識出来ない。論理的、具体的に自分のどこがバカなのかを認識していれば改善可能性を持ち、これはバカのままではないからである。

 バカというのは自分の過ちを事後正当化するための屁理屈をでっちあげることには異常に頭が働くものである。それは自分の気分を満足させることが出来るため、本能習性のままに実証不能の観念を事後正当化「したい。」からである。

 通り魔、無差別殺人犯の類が最終的に述べる「社会が悪い。」という言い逃れ、取り繕いをするのは。自分自身の具体的且つ論理的欠陥を無視し、意識から外し、自分の行動の結果の全てを「社会が悪い。」ことにすることで正当化出来るものであると勘違いしているからである。

 暴走族の類が「マトモに向き合ってくれる大人がいなかった。」などと言い逃れをするのも。自分自身の欠陥を無視して「マトモに向き合ってくれる大人がいない。」という他人に責任をなすりつけることで満足しているだけだからである。

 自己自身の欠陥を論理的に検証し、認識し、改善するための具体的対策を一切行わず。漫然と気分的満足ばかりを追求しているからバカが治らないのである。

 バカに対して「安心して信頼できる大人。」を提供しても、バカの根源的治療には一切ならないばかりか。むしろ頭の悪さを増長させ、益々バカに陥れるだけである。「何度裏切られても信用する。」などという精神論的努力を繰り返すだけで具体的合理性のある対策を行わないないというのは、大人としての社会的役割すら果たしておらず、反って無責任なのである。

 それは「人類の救済」と称して命懸けで毒ガスを撒き散らしているのと同じことなのである。


Ende;



○論理的根拠。

 本能習性には論理的原因はある。しかし、論理的意味があるわけではない。習性というものが形成される過程においての原因をどんなに枚挙しても、本能習性というのは原因に対する結果以上の意味などない。

 本能習性という結果自体には論理的意味はなく、全ては結果的生存という偶発性の結果に過ぎない。

 本能習性が促す行動自体には、目的選択としての論理的根拠は存在せず、「結果」以上の何も存在しないのである。



Ende;


○本質的自発性。

 学力試験に限らず、あらゆる能力試験というのは、認知科学的な本質的知能の証明を伴わない断片的能力試験に過ぎない。

 そもそも認知科学においては、何が本質的知能であるかすらも認識していないのである。




 人間としての本質的知能とは、統合的な視点に基づいた自律的論理検証性である。

 たとえ「論理的思考能力」と名付けられた試験であっても、与えられた問題を解くことによる評価を目的とした思考である限り、これには「自律」性が根本的に欠落しており。与えられた問題以外には意識が働かない意識狭窄性が伴い、統合的視点も欠落する。

 数学が得意であっても、養老孟司やニーチェ、カントの純粋理性批判や生物学における論理整合性の欠落を指摘出来るわけではない。

 数学でどんなに論理的思考が出来るとしても、それは数学における特定能力に過ぎず。それこそ成績評価を目的として獲得した能力であるならば、これはチンパンジーの瞬間記憶能力やスキナー箱のネズミと変わりはないのである。

 特定能力であっても、ないよりはマシだと「思う」であろうが。実際には環境依存的に獲得した特定能力というのは常に環境に依存し、評価(エサ)を与える他者の存在が常に必要であり。評価(エサ)が得られそうにない問題に対しては自発的には全く感心を示すことはなく。更には環境から評価(エサ)が充分に得られなくなると無差別殺人などの方向性のない報復に走ることにも陥る危険なものでもある。

 本質的な自発性に基づく純粋な行為によって、自己の精神を充足させることが出来る者の場合。環境からの評価や報酬に依存することは原理的になく。また、目先の評価に関わらず問題への自発的思考も働くようにもなる。

 純粋に思考することを目的としていれば、意識の狭窄性は生じることはなく、結果的に統合的論理思考も可能になるのである。

 思考の深さというのは、当人の感心の高さ、意識の高さによって促されるものであり。評価報酬というエサでつられた断片的能力試験では推し測ることは出来ないものである。そもそも解答が用意された試験問題自体に自発的感心が働かないのは当たり前であって、誰にも答の判らない問題に挑むためには本質的な自発性が不可欠なのである。

 ノーベル賞受賞者の中には、時折学生時代に学力成績の低い者がいるが。これは予め評価可能な解答が用意された問題に対しての意欲が働かないためであり。試験の成績が悪くても決して能力自体が低いわけではないのである。



 偏差値の高い無差別殺人犯やテロリストというのは、その行動に自発的な論理検証性が伴わないことが原因である。

 他者という環境から与えられる評価(エサ)に対する条件反射的な特定能力獲得というのは、その能力を獲得することによって評価(エサ)という快楽が得られるからに過ぎず。行動原理自体に自律が伴わない。

 環境依存的に快楽を提供されることでしか思考や行動が伴わない状態であれば、自律が伴わないのは必然的結果である。

 自律というものは自己の感情や気分だけで思考や行動が決定せず、自律的に自己の行動選択を客観的に論理検証することである。

 科学的客観性というものは、自発的好奇心によって結果的に自律思考が成立するものであって。他者からの評価報酬でしか思考や行動が働かない者には不可能な能力なのである。

 生物学者や哲学者の多くが木偶の坊なのは、学力は高いにも関わらず自発的論理検証が出来ない奴らの逃げ道として利用されているためである。

 香山リカのように、「他に仕事が無かった。」程度の理由で学者になった者であれば、自発的好奇心や科学的客観性、論理検証性が働かないのは当たり前である。どんなに大衆から「人気」を得ても、学力が高くても、学者としてはポンコツなのである。



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社会防衛。

2012年08月26日 17時43分50秒 | 意識論関連

○社会防衛。

 多数派で同調しておけば気分的に安心であるため、ヒトの多くは多数派で共感しておくことが余程安心なのかも知れないが。その気分的行動バイアスに流されているからこそ論理的根拠のある合理的安全性を見失うことになるのである。

 特定個人を悪者として扱い、多数で糾弾攻撃しておけば気分的には安心なのであろう。故に刑法などという実効性の乏しい制度手続きが漫然と大金を投じて温存されているのである。

 罰というのは与える方の気分的満足に過ぎない。

 社会防衛の立場から見れば、危険人物を安全性が担保されるまで社会から隔離しておくことが必要である。しかし、刑罰というのは犯罪者の危険性を取り除くことを意図しておらず。司法は服役者の再犯について全く考慮にいれず、責任を持たない。

 司法は大衆のご機嫌取りとして科料罰の程度を決定しているだけであって、犯罪者の危険性そのものについては何ら合理性のある対策を取らない。

 出所後の再犯防止対策というのは、小手先の対策によって刑法の持つ根本的問題点を放置するための取り繕いに過ぎない。司法は自分達の既得権益を守るために刑法自体の無効性を隠蔽しているのである。

 「組織の利益を優先し、社会安全性を無視。」とは、原発事故調査委員会における東電の利己性を述べたものである。

 危険人物を社会から隔離することと、犯罪者に罰を与えて気分的に満足することは趣旨が全く異なるものである。危険人物の危険性を放置したまま罰だけ与えて気分的に満足し、社会に解放してしまうのが刑法制度の問題点である。その根本的問題点を放置したまま、小手先の再犯防止対策だけでごまかそうとするのは、司法による「組織の利益優先」という身勝手なごまかしである。

 社会防衛の立場からすれば、とりたてて危険性のない人物を刑務所に監禁する必要性はなく。逆に法律には触れていなくても危険性が高い人物であれば隔離或は監視しておく必要性がある。

 なにより重要なのは、危険人物というものが、なぜ他のヒトと異なり危険なのかを論理的に原因究明し、再犯の危険性を取り除くための対策を立てることである。これは司法刑罰とは無関係なものである。

 社会安全性を優先するためには、気分的満足を得るだけの司法刑罰そのものの問題点を認識し、ヒトという種の生物が持つ危険性について検証し、合理性のある対策を立てることが必要なのである。それを司法は自分達の既得権益を優先せんがために放棄しているのである。

 こうした司法の怠慢を許しているのは、大衆マスコミ代議士がバカで無思考だからである。

 犯罪者がなぜ犯罪を犯すのか、組織犯罪というものにおける封建的統率がどのように形成されるのか、そういったことを科学的に検証する必要性がある。目先の対策にばかり意識を奪われ、意識狭窄状態に陥っているからこそ検察聴取のビデオ記録公開が進まないのである。

 組織犯罪というのは、動物本能的な社会形成習性によって統率的協調行動を促すヒトの習性によるものであり、一種の洗脳マインドセットである。

 オウム教団事件においてはマインドコントロールだとされているが、東電同様に集団的マインドセットによる無意識的集団暴走であることに変わりはない。教祖には意識的「目的」がなかった故の「暴走」なのである。

 暴力団に限らず、組織犯罪というものは、要は誰にも意識的「目的」がないまま服従迎合する本能のままに行動した結果として暴走的に反社会行動に陥るのであって、その無意識性、自律的論理検証性の欠落こそが問題なのである。検察聴取を非公開にしておけばどうにかなるというようなバカみたいな話は不要である。ここにも検察による組織的隠蔽が働いている可能性がある。

 組織の不透明性というものは、組織が腐敗している証拠である。統合的な観点から見て、社会全体における持続的安全性の確立を優先するためには、機械的に刑法だけを優先しておけば全ては解決するような簡単な話ではない。

 オウム教団事件なども含めた組織的犯罪というものの科学的「真実」を解明せずに、ただ漫然と現象の結果だけを取り上げ極刑にしているというのは司法の手抜きである。

 司法従事者であれば、こう反論するであろう。「司法とは、制度上そういうものである。」と。これは制度という決まり事への機械的条件反射行動を正当化するための言い逃れに過ぎず、制度を理由に社会的役割を放棄して許されるという勝手な思い込み、マインドセットに他ならない。

 そもそもヒトの意識的目的行動と、動物的行動学習の結果を厳密に区別しない生物学や認知神経科学、社会心理学や哲学の手抜きが背景にある。

 社会全体の利益を考えずに、偏った組織の利益だけを優先する盲目性というものは、動物本能的な封建的社会を無意識に形成して安心してしまう習性があるからだ。組織の利益を優先しておけば、その組織内部における自分の地位権利が保全できるという利己性、組織依存性こそがあらゆる「人災」の根源にある。

 無差別殺人犯であっても、社会全体という組織への依存が根源にあり、社会への報復という感情的短絡最終解決しか頭が働かないからこその無差別殺人である。自律的に社会安全性を求めていれば無差別殺人などという無意味な行為に走るわけがないのだ。

 単なる事象の重大さだけでなく、あらゆる事象において共通するヒトの習性傾向について検証しなければ、本質的な犯罪抑止対策には全くならない。これを妨害するあらゆる公的組織もまた、反社会的組織と言わざるを得ない。

 SQ的に「自分は社会的責任意識が高い」などと思い込んでいれば気分的には満足であろう。しかしそれはオウム教団が「人類の救済」だと思い込んでいたのと何ら変わりはないのである。

 バカであれば合理性のある社会安全性を追求しなくても、気分的に安心であれば地下鉄に毒ガスを撒き散らしておくことこそが「人類の救済」なのである。司法や生物学の怠慢を放置するというのは、現在の社会制度の問題点を無視し、放置し、社会的責任を放棄しているのと等価であることを認識すべきである。

 何も「考え」ずに、愚かであることは罪なのである。

 理性を持たないことは気分的に楽であろうが、それをイノセントであると「思う」のは錯覚に過ぎない。






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