○分子進化の中立性。
生物学では「分子進化の中立説。」というのがあり。「有利な突然変異が起こる確率は極めて低いため、分子進化に貢献しない。」というものである。
生物の多くは、ある程度安定的に生存に適しているため、突然変異が生存に有利になる確率は極めて低い。
しかし、「ある程度の安定性。」を獲得するまでには突然変異による有利な変異への淘汰が行われていなければならず。
その後に安定的な環境下において中立的変異(生存にあまり影響を及ぼさない変異)が大半を占めていることは言えるであろう。
ある程度安定的環境でなければ緩やかな進化変化は促されず、通常は極端な進化変化を引き起こさず、中立的変異が大半を占めるであろうことは不思議ではない。
ウイルスのような短期間での変異進化を繰り返していれば、生物相や環境自体も短期間に変化させてしまい、安定的で緩やかな進化も出来なくなってしまう。
生物の多くが「ある程度の安定性。」自体を獲得したことも、突然変異による進化変化の結果であることに変わりはなく、自然淘汰の仕組み自体が安定化した結果として、変異のほとんどが中立的変異になるように淘汰された結果であると言える。
生物というのは個体における生存価だけを追求していれば種の存続に適するわけではなく、環境との調和によってある程度の種の安定性も不可欠であり。ウイルスのように突然変異を目まぐるしく行っていれば急激な環境変化に対する生存価には適するであろうが、種自体の安定性も持てないため。ウイルスはどんなに進化してもウイルス以上の何物にも進化することが出来ないのである。
ウイルスのような目まぐるしい変異を繰り返していれば、環境に適応して異常繁殖してしまう可能性も高く、環境をも凌駕して結果的に絶滅してしまうことも少なくない。生物進化の初期においてはこうした異常繁殖と絶滅の繰り返しがあったはずであるが、それではむしろ種全体の存続には適さないため、環境との調和が可能な変異の安定性も必要なのである。
本当の意味における「環境への適応」というのは、その場限りに「生体にとって有利」に異常繁殖する能力だけを指すのではなく、環境との調和によって安定的繁殖能力も必要であり。肉食動物と草食動物の繁殖力の違いも、それによって環境と調和し、安定的に種を存続させることができた「結果」である。
寿命というプログラムされた個体の死も、異常繁殖の抑制として組み込まれた環境調和の結果的仕組みである。
何でもかんでもその場限りに個体の生体にとって有利な結果だけが本質的な「環境への適応」になるわけではないのである。生物学者に限らず、意識の狭い興味の浅い者にとっては統合的な論理検証が苦手で、多数派に同調することしか出来ないから、こんな初歩的なことすら誰も自律的には気付くことが出来ないのである。
本質的な「環境への適応」というのは、断片的な個体の生存価だけで成立するようなものではなく、生物相全体の「食物連鎖のピラミッド」などの環境システム全体とのバランスを必要とするものである。
ヒトの社会においても、利己的な者ばかりの社会が存続維持が困難であることからも、むやみやたらとその場限りの「個体の生体にとって有利な選択」というものが、その暴走性によって社会や環境との調和維持を失い、結果的に生存価にすら適さなくなるのである。
Ende;
○調和。
自然淘汰による環境調和であっても、所詮は結果的生存以外に淘汰が働くことはなく。個体が主体的に環境との調和を意識的に選択するような知能を獲得出来るわけではない。
環境との調和であっても、あくまで特定環境下においての調和しか促されることはなく、本能的行動の結果としての調和というのは、特定環境下以外では簡単に調和能力を喪失することも少なくはない。
自然選択の結果的な種の調和性というものは、ほんの僅かな環境変化に対応することが出来ずに大きな破綻を産むことも少なくはない。
これは結果的な環境調和能力というものが万能ではなく、あくまで特定環境下においてバランスした結果に過ぎないからである。
むしろ結果的に獲得してしまった環境との調和能力によって、急激な環境変化への対応能力を喪失しているとも言えるのであり。いかなる進化の結果であっても万能ではないのである。
淘汰の結果である以上、それはどんなに高度で巧妙であろうと、そこには目的意識的な選択が介在する余地はなく、徹頭徹尾「結果」以上の何も導き出すことはない。
「分子進化の中立性」であっても、全ては結果であって、所詮はダーウィンの進化論の断片に過ぎず、進化論を否定するようなものではない。
こんな単純なことすら誰も気付かないのは、生物学者の誰も進化というものへの興味、意識、真理探究心が足りておらず、単に生物学界が論理検証の出来ない理科学系研究者のゴミ溜めにしかなっていないからである。
本質的意識、自発的論理検証性が欠落していれば組織が腐敗し、閉鎖的になるのは必然である。当然誰も本質的知能による論理検証も出来ず、下らない観念に基づいた論証を鵜呑みにするだけである。このような無能な研究者を科学の名のもとに公金で雇う社会的価値は全くなく、即刻生物学組織の再構築、脱構築が必要なのである。
Ende;
○平均的能力。
ヤギが二本脚で歩いた程度のことで、先天的能力を超越したなどと言い張る生物学というのは、完全にバカの集団である。
運動機能というのは哺乳類の場合、後天的に学習することで獲得する。それが偶発的に他の個体と異なる特異な能力を発揮したからといって、先天的に獲得可能な能力を超越することなど原理的に不可能である。
多数の他の個体が獲得する能力だけが、その種の生物における能力可能性の全てを発揮しているわけではなく。必要な機能だけを必要なだけ獲得しているに過ぎない。
チンパンジーの瞬間記憶能力なども、特定環境下において発揮される特異な能力であり。それが普通の環境下、状況下において発揮されないことを多数枚挙したところで、「普通の能力」だけしか先天的に獲得不可能である論証には一切ならない。
哺乳類の脳においては、状況や環境に応じて後天的に学習する仕組みを獲得しており、これが哺乳類における環境適応能力の一端を担っている。しかし二本脚で歩く必要性や、瞬間記憶能力を発揮する必要性がなければ発揮されることはなく。逆に4本脚のヤギの多くが二本脚歩行を獲得出来ないからといって、先天的に二本脚歩行が不可能であることの論証には全くならない。
哺乳類の能力獲得というのは先天的に全てが決定しているわけではなく、状況や環境に適応する形でエサに対する条件反射的な能力学習によって、様々な能力を獲得することが可能である。
しかし、この「様々な能力。」といものも、所詮は先天的な獲得可能性がなければ発揮されることはなく、必要性(脳への報酬)が伴わない機能は一切学習獲得されることはない。
どんなにたくさんの平均的能力を枚挙しても、平均的能力というものが先天的に決定していることの論証には一切ならない。平均的能力というのは平均的環境や状況においての能力獲得の結果であって、全ての能力が予め何者かの目的によって決められているわけではないのである。
「平均的能力=先天的能力」という短絡的決め付け、マインドセット固定観念に囚われているから「ヤギの二本脚歩行」程度でヌカ喜びすることに陥るのである。これは生物学者というのはバカしかいない証拠である。
結果的に生存してさえいれば生物として存在していることが可能なのであり、生体にとっての絶対的最適化がなされていることの証明などない。
特定環境下や状況において絶対的最適化がされていれば、特定環境下や状況以外で生存に適さなくなるのは当然であり。予め獲得能力に余裕「幅」を獲得していることも、環境との調和において必要であると考えられる。
生体にとっての本当の最適化とは、常に環境との調和関係なくして成立するものではなく。決して個体の生体にとってのみ有利な能力獲得だけで成立するようなものではない。
ウイルス類が宿主という環境を破壊してしまって結果的に絶滅してしまうのと同様、あらゆる生物は環境との関係を切り離して個体の生体にとっての有利性だけでは生存に適することはないのである。
分子生物学的な変異の中立性、生体にとって無関係な変異を許容する能力獲得であっても、その過程において試行錯誤的に何度も大絶滅を繰り返した結果であり。中立的変異の獲得によって緩やかな進化が可能となり、その結果として安定的に高度な進化も可能となったのである。
ウイルスのようにその場限りにのべつまくなし変異を繰り返す生物の場合。その場限りに環境適応することは可能であるが、種としての安定性も持たないためにウイルス以上の何者にも進化することが出来ないのである。
分子生物学における「変異の中立性」であっても、所詮は自然淘汰の結果として獲得した能力の一部に過ぎず、チャールズ:ダーウィンの進化論に対立するような話ではないのである。
おいらの興味は生物学者達などに見られる文系大衆観念的な論理検証性の欠落性であって、生物学そのものではない。生物学の間違いは本来生物学権威が検証するべきものであって、手抜き怠慢をしておいて学術権威面しているのは傲慢というものである。
Ende;