○バイアス。
分類というものは常に仮定でなければなりません。
分類というものは、現状における知見の上においての分類可能なものに人工的に名前を付与したものに過ぎず。
従って、知見の拡大によって分類方法自体に誤りが見つかった場合には、分類は変更され得るものであるからです。
分類というのは決して絶対ではあってはならないものなのです。
分類の絶対化というものは、優生学における「人種の観念」や、役所における計画変更への観念的拒絶反応の素となるマインドセット、思い込みを意味します。
思い込みに囚われてしまう原因とは、問題に対しての本質的な自発的探究心、関心、意欲といった純粋さが欠落しており。多数他人や人工的権威からの評価報酬という不純な動機目的が根底にあるため。動機目的が問題解決自体ではなく、問題解決によってもたらされるであろう評価報酬(エサ)が目的であるため、問題解決自体への追究性に欠ける結果をもたらすのです。
福知山線脱線事故調査委員会のように、「面倒臭いから、途中で調査をやめる。」などという思考放棄を平気でやらかすようになり。問題はうやむやにされてしまうのです。
動機が問題自体になく、評価報酬である場合、贈賄の誘惑にも簡単に負けてしまい、自律というものが全く働かなくなるのです。そもそも他者からの評価報酬という行動バイアスが動機である以上、気分的に安心でさえあれば社会安全性や持続可能性への意識が働かなくなるのも必然的結果であり。当人は目先の金銭で満足することが出来るでしょうが、あらゆる問題は途中放棄され、社会的には負担しかもたらさない結果を生むことになるのです。
カルト宗教の信者における、盲目的信頼を純粋だと思い込むのも間違いです。集団内部における権威からの評価という抽象化された「エサ」に対する条件反射的で無意識な行動は、極めて動物的で不純な動機です。
イヌに芸を仕込むことで服従させることで、イヌは飼い主への忠誠忠実さを常に発揮させることも可能ではあります。しかし、これはあくまで飼い主への忠誠忠実な盲目性の結果の断片的抽出に過ぎず、イヌ自体の意識的選択ではありません。飼い主のしつけ方によっては残虐性を発揮することも少なくありません。
盲目であるということや、忠誠忠実であること、無思考であることは、何らイノセント「純粋」であるとは言えないのです。
他人から与えられる金銭で満足することも、これもまた「エサ」に対する条件反射的な無意識行動であり、根本的には全く同じ無意識がもたらす不純な行動なのです。
学力という抽象化された「エサ」に対する条件反射的な行動動機というものは、個人から主体的な探究心、関心、意欲を剥奪し。世間的成功という不純な動機しかもたらしません。アメリカでの映画館銃乱射事件や、秋葉原での通り魔事件を起こしたヒト達というのは、学力だけは高くても、物事を探究しようとする本質的な自発性という純粋さが欠落していたため。結果的に他人からの評価が得られなくなった途端に自暴自棄に陥り、暴走破綻へと陥った典型例だと言えるでしょう。
それはまるで、瞬間記憶テストにおいて、エサを貰えなくなったチンパンジーの行動と極めて類似しています。
多数他人やそれによって人工的に作り出された権威からの評価というものは、動物本能的な社会形成習性によってもたらされる盲目性を生み出します。目先の本能的快楽安心に意識を奪われ、意識狭窄を生み出し、自発的問題解決能力を失わせ、多数他人という世間的な評価「エサ」に対する条件反射的行動「結果」にしか誘導されなくなってしまうのです。
当人に「目的」意識がなければ、あらゆる問題解決が出来ないのは必然的結果です。
あらゆる組織体制腐敗というものも、その根源は組織を構成する個人の問題意識の欠落から生ずるものであり。現状組織への服従迎合による目先の保身が行動バイアス的に決定してしまう無意識性によって結果的に作り出されてしまうものなのです。
行動バイアスというのは気分的な好き嫌いに過ぎません。物事の判断を単なる目先の好き嫌いや安心恐怖だけで行っていれば、こそに論理検証性という理性が働かないのは必然的結果です。
カントは理性を批判しましたが、実際には論理整合性がない観念に終わっており。むしろカントが批判しようと試みたのは、本能的欲望による利己的行動選択を根源とした理性的行動選択であって、決して純粋理性を論理的に否定出来ているわけではありません。カントの勘違いというのは、「盲目性=純粋さ。」という観念によってバイアスがかかったこじつけに終始しており、失敗に終わっているのです。
文系大衆観念者が主張したがる、「心を一つに。」とか「他人を信用しないのは心が狭い態度です。」といった話は。気分的な安心感によって本能的満足を与え、相手の思考を停止させるための典型的意識誘導の手口です。
「心が狭い。」などと規定されることによって、気分的バイアスを用いて思考を整理させ、誘導することが出来るのです。
何をもってして「心が狭い。」と言えるのか、その論理検証を放棄させ、強迫観念的な意識誘導によって相手の言うことを盲目的に信頼させているのです。意識狭窄を促されておいて「心が広い。」などということにはならないのです。
ヒトの多くは、相手から感情的に強弁されると、気分的バイアスによって迎合服従してしまう習性傾向があります。気分的に面倒臭い相手に服従迎合しておくことで、論理検証判断をパスして気分的に楽になれる選択をしがちです。
こうした行動バイアス、習性傾向を利用して意識誘導を行うのが詐欺や占いの手口です。
占い師や詐欺師というのは、基本的に権威性を演出し、上から目線で相手を服従迎合させるように「お客」の意識を誘導します。ヒトという種の生物というのは、本能的に権威からの命令には盲目的に服従する仕組みがあり。これによって統率的封建社会を結果的に形成するようになっているのです。
本能というのは、自然環境においての結果的生存の結果として遺った習性に過ぎません。どんなに結果に至るまでの複雑な説明をこじつけても、構造原理的に本能習性という無意識行動からは「結果」以上の何も抽出することは出来ないのです。
自然がもたらす結果の全てが現在の生物相において最適化される論理的根拠は全くありません。自然界というのは生物史において時折大絶滅などの大きな破綻をもたらし、決して絶対不変な安定性を持っているわけではないのです。
無意識な本能的行動の結果だけに流される以外に選択可能性が存在しない論理的証明でもあれば「人類は絶滅する。」と断言しても構わないでしょうが。ヒトには論理検証判断という意識的選択可能性が存在する以上、このような勝手な断言は科学的論証とは言うことが出来ないのです。
ヒトの子供を服従させ、集団内部の規範に従わせておけば、大人は気分的には安心で満足することが出来るでしょう。しかし、それは子供の外見上の従順さを植え付けているだけであって、子供自身に自律的な社会的責任判断能力を育んだことにはならないのです。
自律的に社会的責任判断能力がない者というのは、無責任ということです。原発が暴走しようと、子供がイジメで心に傷を負って自殺しようと、自分の利益権利さえ確保されれば構わないということです。
懲役刑というものが再犯防止にならないのも、「集団内部の規範にさえ服従させてさえおけば気分的に安心だ。」という文系大衆観念に基づいた対策しか行われていない結果です。出所後の対策を行うだけでは、本質的な個人の自律的な社会的責任判断能力をつけさせることにはならず、特に再犯率の高い幼児性愛者には原理的に効果が期待出来ないのです。
司法は自分達の権益を保守することしか考えておらず、数字上での再犯率さえ低下させておけば良いと思っているため、目先の取り繕いのような対策しか選びたがらないのです。
少年院の教師達も、精神論的な努力辛抱根性で「生徒を信頼」することで気分的に安心しているだけであって、何ら生徒の自律的な社会的責任判断能力の獲得には寄与しない、無駄な努力を繰り返しているだけなのです。教師に対する盲目的信頼を植え付け、限られた集団内部での忠誠忠実さだけを動物行動学習(無意識な刷り込み学習)させておいても、その環境における順応能力が鍛えられるだけであって、環境が変われば簡単に流される自律の欠落性を刷り込み学習させているに過ぎないのです。
ヒトという種の生物に「規範意識」という無意識を動物行動学習させても、無責任な者を大量生産しているだけであって、何ら社会安全性や持続可能性が確保される訳ではありません。既得権として権威性を維持するためには無責任であっても安易に服従迎合してくれる者を大量生産していた方が簡単で楽でしょうが、それは本質的な社会的要請に応えているとはいうことが出来ないのです。
生物学界も、ヒトという種の生物の危険性を無視し、何が何でも本能習性という無意識行動の「結果」の断片的枚挙だけで「ヒト=人間。」という短絡的結論に大衆マスコミを誘導しようとするばかりです。
ヒトの多くは固定観念に囚われ、努力辛抱根性的精神論さえ振り回しておけば安心することが出来るでしょう。観念に基づいた「悩み」で精神的に苦しんでおけば、あたかも深く「考え」たような錯覚に陥ることも簡単でしょう。
養老の著作を読んで「深く考えさせられた。」などと言っているヒト達というのは実際には何の考えも成立しておらず、ただ悩ましい問題を「感じた。」だけに過ぎません。もし本当に深く「考え」たのであれば養老の支離滅裂な話に疑問を持たなければおかしいからです。
こうした無駄な努力にばかり意識を奪われているからこそ、合理性のある効果的対策の存在を見失うことに陥るのです。
意識の問題というのは、限られた権威や技術者だけが必要なものではなく、全ての人に必要な素養です。本来例外は認められるようなものではないのです。
倫理というものは規範だの制度法律さえ守っておけば成り立つ訳ではなく、規範、制度法律、手続きといった「決まりごと。」に依らず、自律的に社会的責任判断を下してはじめて本当の倫理と言うことが出来るのです。
ヒトの多くは論理的根拠のない固定観念に囚われ、自分自身の行動判断を全く論理的に検証することなく判断放棄をして安心します。自律的判断というものには論理的検証に基づく根拠が必要であり、論理的検証に基づく根拠もなしに気分的安心を優先していれば、これはそもそも「自律的判断。」ですらないのです。
規範意識を植え付け、自律的判断を放棄して漫然と目先の集団内部の規範に従ってさえおけば、多くのヒトは安心で満足することが出来るでしょう。何も恐くないかも知れません。赤信号をみんなが渡っていれば自分も信号無視をしても「恐く」ないのと同様、環境に依存した安心とか恐怖といった気分でしか行動判断がなされていなければ、それは自律判断でも何でもないのです。「規範意識、みんなで従えば安心だ。」と称して思考を停止させておけば満足でしょう。
規範意識を植え付けられた者にとっては、集団の規範に則っていさえすれば社会的責任を果たしていると錯覚するでしょう。規範に従うことこそが自律的な社会的責任判断であると錯覚することも簡単でしょう。
ヒトの多くが簡単に錯覚に惑わされ、何ら自律的に論理検証をしないから、規範意識という無意識を絶対視するようになってしまうのです。
原発を暴走させた無責任な原発関係者達というのは、誰一人として法律には違反していません。法律や社会制度さえ守っておけば全てはうまくゆくわけではないのです。何ら自律的に論理検証をせずに済むのであれば、もはや人間の判断などこの世に必要ないのです。それは同時に何が起きても誰にも文句を言う権利すら存在しないことを意味します。
規範意識というものは、人々から自律的責任判断を奪い。権威に従順で、権威にとって都合の良い臣民の大量生産を促します。それは本能的社会形成習性的には気分的安心や精神的満足をも与えるでしょう。しかし、それ故に誰も自発的に「考え」なくなってしまうのです。
規範意識というものへの絶対的信頼性というものは、本能的なバイアスが働いており、それこそが個人の責任判断であるという錯覚を促します。
規範意識というものへの絶対的信頼は合理的根拠のない「神話」に過ぎないのです。
誰も自発的に「考え」ない社会が暴走破綻に至るのは必然的結果です。それは現在の生物学的にはとても「自然」な結末なのです。
Ende;