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書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

地政学は関係がない

2022年05月26日 14時44分15秒 | 意識論関連

地政学リスクとは、地政学におけるリスクを指し、地理的な位置関係によって、ある特定の地域が、政治的・社会的・軍事的な緊張が高まるリスクを指します。

 

一般的には戦争のリスクは地政学によって算出されるものだと解釈されているが

実際の戦争は為政者の主観によって引き起こされるものであり 軍事力のバランスなどはほとんど影響を及ぼさない

局所的な紛争においても その原因は民族間における差別がほとんどであり 軍事力が小さいからといって紛争を引き起こさないわけでもなく 軍事力のバランスは紛争が起きる原因とはほぼ無関係である

 

戦争という殺し合いは 要は大規模な殺人や領土の略奪であって 犯罪が大規模化したものに過ぎない

武力による暴力や懲罰によって物事が「解決」するという ヒトの先天的な認知上の欠陥(錯覚)が働くことによって ヒトは戦争をすれば何かが解決すると主観的に「思って」いるから戦争が引き起こされるのである

ヒトが文明を築く以前の期間よりも 弱肉強食の殺し合い喰い合いによる遺伝的進化の過程の方が圧倒的に長いのであって ヒトであっても本能習性は祖先の生息環境による影響を色濃く反映し 懲罰的暴力で物事を「解決」しようとする習性が強力に組み込まれているのである

数億年に渡る遺伝的進化によって組み込まれた先天的本能習性というものは たかだか数千年程度の文明によって大きな進化が促されるようなものではなく ヒトという種の生物は権威と見なした対象に疑いを持たずに 他人に危害を加えてしまうものなのである

「ヒトとは そういうものである」

だが これは「考え」ではない

養老孟司はこれを「私はそう考える」と言ったが これは単なる遺伝的進化という自然現象の事実「結果」を述べているに過ぎず 「考え」でも何でもない

先天的本能習性としては スタンレー:ミルグラムによる服従心理実験でも立証されているように ヒトは権威の命令に服従し他人に危害を加えてしまうものであることが科学的に立証されているのである

権威と見なした者が「暴力で解決するぞ」と旗を振れば 同じ集団組織や民族に属する者の大半が暴力的解決に邁進するようになる

「ヒトとは そういうものである」とは言えるが これは「ヒトという種の生物」における本能習性の「結果」であって それ以外の一切の選択可能性が存在しないことの論証ではない

 

戦争とは 犯罪が大規模化したものに過ぎず 犯罪が小規模のうちに丹念な再発防止のための徹底した原因究明をしないことによって 戦争という重大犯罪にまで発展しているのである

ミャンマー政府軍が少数民族を攻撃するのは 少数民族の中の武装ゲリラによる暴力的犯行に対する対抗策としての武力攻撃である

パレスチナ武装勢力ハマスによるロケット弾攻撃があるからこそ イスラエル軍による報復攻撃の口実にされてしまうのであり

パレスチナの場合一方的にエルサレムから追い出された経緯があるとは言え 「暴力で解決」という手法は双方にとって何の紛争解決には結びつかないのである

 

小学校に乱入して銃を乱射している男に対し 警官が射殺しなければならない状況というものはあるものの

それはあくまで「現場の正義」でしかない

何人銃乱射事件の犯人を射殺しようと 死刑にしようと 銃乱射事件の根本的原因はわからず 論理客観的根拠を伴った実効性のある再発防止にはならないのであって 「現場の正義」というものは社会全体から見た場合には必ずしも安全性にとって合理性が伴わず 唯一絶対的な「正義」とは言えないのである

ウクライナ支援に関しても それは「現場の正義」であって プーチン政権の暴力に一定の歯止めをかける役割にはなるとしても そもそもプーチン政権のような透明性の欠けた腐敗組織による独裁体制が作られてしまった原因を究明しないことには 封建的独裁政権による暴力は一向になくなることはないのである

 

少数民族の武装勢力によるゲリラ戦やテロというものは 少数民族の中にいる暴力者の身勝手な正義に基づくものであり 武装の規模の大小で紛争やテロが実行されるわけではない

通り魔は自分が死刑になっても構わないと思っているから通り魔なのであって 方向性も合理性もない暴力で「主観」的に満足しようとしているから実行されるのであり 包丁一本であっても大量虐殺は引き起こされるものなのであり 軍事バランスなどの地政学は紛争が起こるかどうかとは関係がないのである

 

香港の民主化デモに便乗して暴動破壊に及んだ一部の学生や デマによる逆プロパガンダが横行したことによる「治安」の悪化が 香港警察による虐殺の口実に用いられてしまったのであり

一部の犯罪者の行動によって 民主化組織全体を標的とした攻撃への口実にされたのであり

民主化運動に便乗した暴動などの犯罪と 民主化運動組織そのものとは切り離して扱わなければならないのだが 為政者にとっては民主化組織全体を抑圧するのに都合の良い口実を作ってしまったのである

 

ウクライナにおいても 東部では親ロシア派とウクライナ側武装組織との間で以前から紛争が起きていたのであり ウクライナ側武装組織の行動の全てが犯罪的ではなかったとも言い切れないのである

香港の民主化運動ですら 便乗して暴動が引き起こされているのであるから 武装勢力の内部に親ロシア派住民に対する犯罪行為が皆無であったとは言い切れないのである

ウクライナ国内における親ロシア派住民に対する正当な扱いが必ずしも行われていなかったことが ロシア軍侵攻の口実に使われてしまったとも言えるのである

 

紛争が勃発する最初のきっかけは 主観的差別による一方的で違法な暴力によって引き起こされる

誰かが殺されたり危害を加えられたりすれば 報復的に暴力の応酬となり 紛争はどんどん過激化するようになる

本来ウクライナ人だろうがロシア人だろうが 民族的にはほぼ一緒であって 対立するような民族ではないはずであるにも関わらず 一部の暴力者間による暴力が それ以外の人達にまで被害を及ぼしてしまうことによって 紛争の拡大へと発展してしまうのである

ヒトは先天的に暴力で解決することが大好きである

「暴力はセクシー」とは 伊勢崎賢治の言葉である

相模原障害者施設津久井やまゆり園虐殺事件のような事が起きると 大衆の多くは梅沢富美男による「こんな奴は死刑にしちまぇ!」という合理性のない暴言に便乗し 同調し 満足する

主観的感情の吐露としては「言論の自由」の範疇ではあるものの 社会安全性の観点からは何の合理性も伴わぬ主張であり どんなに多数の「人気」を集めたとしても 社会安全性を蔑ろにした無責任な集団同調(エコーチェンバー)に過ぎない

ヒトは多数と同じであることに安心を感じてしまい 主観的に安心だと短絡的に「正しい」ことだと錯覚してしまうものである

論理客観的には無責任な便乗的共鳴や同調であるとしても 目先の多数によって責任が薄まるかのような感覚(錯覚)によって 安心して目先の多数派に同調することができるようになるのである

その原因は全て主観的気分や情動 「印象」や「直感」によって促される無意識なバイアス(偏り)によって 論理客観的根拠を伴った真理を見誤るようになるからである

 

 

 

Ende;


真理を大切にする意味

2022年05月26日 10時27分06秒 | 意識論関連

ノンレム睡眠中にシナプスの形成が拡大し

レム睡眠中に整理される

こうした脳神経回路の更新過程が 遺伝的進化に似ているという話なのだが

 

言っておくが遺伝的進化というものは「成功」する保証はない

遺伝的進化というものは 膨大な「失敗」も伴うものであり 現存生物種や生態系だけを見て「進化の全ては成功する」などと錯覚するのは大間違いである

これは 脳神経回路の更新においても同じであり 「寝たら脳が進化する」とは言っても 必ずしも「頭が良くなる」ように「成功」するとは限らない

遺伝的進化というものは決して万能ではない

一般大衆の観念的には 遺伝的進化さえ起これば何でも解決するかのような錯覚が促されているが これは旧来の生物学における遺伝的進化に対する「典型的な間違い」に基づいた観念に過ぎない

遺伝的進化というものは 決して都合良く起こるようなものではなく 単に「拡がりやすい」遺伝子が拡がるだけの「自然現象」なのである

脳神経回路の更新においても それは大脳辺縁系によるバイアスによって「整理」されるだけであって 主観的に気分が良くなるようには整理されるものの 論理客観的に正しい判断能力が身につく保証はない

日頃の生活において 論理客観的に真実かどうかを見極めようとしないのであれば イヌやサルのように動物的な行動へと「整理」されてしまうことも充分あり得るものである

今一度言っておく

直感(主観)というものは 学習する「正解データ」に依存する

日頃の生活で 主観的好き嫌いだけでしか物事を判断していなければ 論理客観的に物事を検証する能力は養われることはなく 断じて「頭が良くなるように進化する」ことはない

 

ヒトという種の生物でありさえすれば 人間としての行動選択が出来る保証はない

プーチンにせよヒトラーにせよ 東条英機や麻原彰晃 日本大学元理事長田中英寿なども 「ヒト」ではあるのだ

田中英寿は自分にとって都合の悪い 逆らってくる相手を権力を振りかざして左遷するなどの嫌がらせ(懲罰)による恐怖政治によって利益を得続けていたが 周囲の者が恐怖によって逆らわなくなったことによって傲慢さを助長され 「誰も俺には逆らわない」という環境に「適応」する形で破綻するまで暴走し続けたのである

誰も逆らって来ないという 環境に適応する形で脳が「進化した」とも言えるのである

虐待をされて育った子供が 大人になって自分の子供にも虐待を連鎖するのも 虐待環境に適応する形での脳の「進化」のようなものである

学力成績という一面的判定基準だけで生徒に順位序列をつけていれば 生徒は学力成績という抽象化された「脳への報酬」だけしか意識が働かなくなり 教えられたことを教えられた通りには憶え答えることができるようにはなるものの 教えられた内容に論理的齟齬 論理整合性の欠落が存在していても誰も気づかず

漫然と「学力偏差値が高いから 俺は頭が良い」などという認知科学的にも何の根拠もない身勝手な多数の大衆観念を鵜呑みにして満足するよう「学習」してしまうのである

だからこそ 遺伝的進化における「典型的な間違い」というものを「知っている」「聞いたことがある」にも関わらず 「○○のために進化した」などという合目的的進化の説明との整合性の欠落には一切気づくことができないのである

知識として「知って」いるだけであって 実際には何も「考えて」などいないのである

だから大衆の多くは遺伝的進化を万能であるかのように錯覚したままなのであり 「進化で月経の痛みがなくならないのか?」などという支離滅裂な話を平気でし始めるのである

医師免許を取得しているはずの大手町の医師であっても 「環境に適応した変異がどんどん起こる」などという荒唐無稽な非科学的観念に基づき「ウイルスは弱毒化する」などと断言することになる

その説明は支離滅裂なものであり 「SARSやMARSは毒性が強いから弱毒化しない」などと言い出したが アナウサギに対するミクソーマウイルスは当初95%にも及ぶ致死率を持ち エボラ出血熱ウイルスも70%を超える死亡率だったのである

それに対して新型コロナウイルスの死亡率は1%にも満たないともいわれており 毒性と弱毒化との相関など存在しないのである

アナウサギに対するミクソーマウイルスの弱毒化のプロセスとは たまたま弱毒変異した株種に感染したアナウサギの致死率が低いことから 強毒株よりも「拡がりやすかった」ために起きたものであり 宿主ごと大量死滅することによって 偶発的に弱毒変異した株種への収斂進化が起きただけであり 断じて「環境に適応した変異がどんどん起こる」ような都合の良いものではない

そもそも「死んだら困る」といった 後天的「都合」は遺伝的進化には影響を及ぼさないのである

日医大の客員教授もそうだが 論理的なプロセスやメカニズムを理解せずに 「一般的にウイルスは弱毒化する傾向がある」からといって「全てのウイルスは弱毒化が保証されている」かのように言い張るのは 科学者としてポンコツ過ぎて話にならない

 

既存の鼻風邪症状しか呈さないヒトコロナウイルスが弱毒進化に至るまでの過程は 本当は誰も知らないのである

遺伝的進化である以上は 変異はランダムであり「失敗(絶滅)」が伴う可能性は高く 宿主ごと絶滅した絶滅株が絶対に存在していない保証など どこにもないのである

ヒトコロナウイルスへの収斂進化の過程において 一体どれだけの犠牲が生じたのかは 死んだ個体や株種は現存していないから「わからない」のであって 「一切存在したことはない」ことの科学的証明はできないのである

 

現存生物種や 現存する生態系だけを見て あたかも自然現象である遺伝的進化が常に恒常安定性にとって都合の良い進化しか促さないかのように錯覚するのは 科学的根拠をすっ飛ばした非科学的で実証不能の観念でしかないのである

イマヌエル:カントも天体の運行が あたかも「永遠の秩序」に則った完璧なものであるかのような錯覚を抱き 自然というものが放っておけば自動的自然に恒常安定性や秩序が保たれるかのような錯覚に基づき 荒唐無稽な「叡智界」などという論理的根拠のない妄想によって衆愚や「哲学者」共の脳を麻痺させ 洗脳したが

「脳が気持ちよくなる話」が短絡的に「正しい話」や「論理客観的根拠に基づいた真理の証明」になるわけではない

 

夢によって促される「記憶の整理」とは 大脳辺縁系が気持ちよくなるように整理されるだけであって 日頃から自分の頭で物事を考え 論理客観的に検証して何が本当に正しい話なのかを見極めようとしていないのであれば 主観的に「信じたい話」しか信じないようになるだけである

 

私は糞DQNが大嫌いである

だが それは私の主観的好き嫌いに過ぎず 嫌いかどうかは糞DQNが糞DQNになる原因やプロセス過程の究明にもならなければ 当然ながら再発防止にもならず いくら糞DQNを金属バットで殴り倒しても糞DQNがいなくなることはない

それは 通り魔を何人死刑にしても通り魔事件がなくならないのと同じことである

野井良治は「主観が大事」などと言い出したが これは間違いである

直感だの主観だのといったものは あくまで学習する「正解データ」に依存するものであって 生育環境や社会環境や個人の好みに依存し一貫性や普遍性を持たない

プーチンの主観は「ウクライナやNATO諸国と対立すること」なのである

とは言え 理性だけでは「目的」は見出すことはできず 様々な情動の中から最も優先順位の高い価値観に基づいて行動選択をすることが人間性や倫理であって しかしこれは「バランス問題」ではなく 理性が情動を制御抑制していなければ実現されることはない

利己的利益なんぞ追及しても 最終的には誰しもが死ぬのであり 生き続けるに価する社会のあり方として 安全で公平な社会を求めないのであれば 「人間」としての生き方(存在としての目的)にはならないのである

 

日頃何も考えていない凡人にとっては ヒトという種の生物でありさえすれば自動的に人間性が進化によって組み込まれていて 頭で考えなくても自動的自然に人間性が発揮されるとでも「思って」いるようだが

その「主観」に論理客観的に真理であることの証拠は何もなく

ただ主観的に安心満足できるだけの身勝手な妄想でしかないのである

何も論理的に考えていない奴が いくら睡眠時間を長くしても バカは治らない

脳神経回路の「進化(比喩)」というものも 環境に適応するだけであって バカのままでも許される環境なら バカは助長され続けてバカが酷くなるだけである

イジメを傍観放置しておいた方が「身のため(利己)」である環境であれば 傍観放置こそが「正解データ」として学習してしまい 主観や直感的には「イジメを止める奴はバカだ」という結論しか出てこなくなる

 

読書猿のようなペテン師に人気が集まるのも 大衆マスコミの大半が自分の頭で物事を考え 論理客観的根拠に基づいた真実の論証であるのかどうかを 誰も考えていないのが原因である

こうしたペテンはマルクス:ガブリエルでも養老孟司でも更科功でも山極寿一でも同じことであり ヒトの大半はバカだからこそ真実が見極められず 戦争などというバカげたことすら未だに撲滅できないのである

何が真実なのか 見分けがつかないバカには 戦争の原因も見分けがつかない

 

 


Ende;


ヒューマニエンスQ(睡眠の話)

2022年05月25日 23時40分14秒 | 意識論関連

「長く眠ることが人間たらしめる」

⇨ヒトという種の生物でありさえすれば人間であることの論証にはならない

 

うえだひろき 上田泰己

1953年 レム睡眠 ノンレム睡眠

寝返りをうつ時がノンレム睡眠

レム睡眠は目玉が動く

2つの睡眠が高度な知性を司る

覚醒時とレム睡眠では脳波が安定し ノンレム睡眠だと脳波が乱れる

○レム睡眠の役割

やまなかあきひろ 山中章弘

レム睡眠が海馬の記憶をリセットしている

MCH神経 レム睡眠中に活動

MCH神経を強めると海馬の記憶を消去すると予測されている

「睡眠は進化の大イベント」

ノンレム睡眠中にシナプス形成が促進され

レム睡眠中に整理される

遺伝的進化のプロセスとの類似

⇨遺伝的進化が必ず成功する保証はない 睡眠時間と人格の相関関係などが立証されていないのであれば科学的論証にはならない

 


○夢

古川景子

 

松田英子

「心のお掃除」

 

 

Ende;


逆洗脳への拒絶

2022年05月25日 15時48分17秒 | 意識論関連

東京電力福島第一原子力発電所においては 津波に対する脆弱性を放置し 組織の利益を優先し 自律的な社会的責任を負わない方が その環境においての「適応」にはなる

日本大学の組織内部においては 田中英寿理事長による腐敗組織体制に同調迎合忖度服従しておいた方が その組織内部においては「適応」したことになる

イジメの蔓延している学級においては イジメに加担して加害者側に回るか 傍観放置して無視する方が その学級内においては「適応」したことになり 適応できなければ死ぬ(淘汰される)のである

 

これらの淘汰圧力は 集団組織の温存や 統率的協調性による「大きな力」を発揮する上においては有利に働くが 安全性や公平性においては逆効果となる

子供達だけで放置しておくと イジメや差別は勝手に発生する

イジメや差別はヒトという種の生物の先天的本能習性であり 特定の「怖い」相手に忖度し 媚びへつらい同調迎合して服従することによって 統率的協調性をも発揮するようになるという 動物的な本能習性による行動バイアスの結果である

 

ヒトは文明を築いてから「王」を頂点とした封建的社会を構築してきた

ローマ帝国時代などでは 民衆は奴隷の殺し合いをエンターテイメントとして求め 暴君による他国への圧政こそが自分達の利益となるため 激しい戦争を繰り返してきた

それは近代になっても武力を用いた威圧こそが安全保障だと錯覚し 自国の軍隊の増強の正当性を主張し 一方で他国の軍備は「地域の安全を脅かす」などと批難するのである

現代においても 梅沢富美男が「こんな奴は死刑にしちまぇ!」と 怒鳴り散らしても衆愚人気は得られる

これらを見てもヒトというのは暴力によって誰かに懲罰的抑圧をかけていれば「解決」だと錯覚する習性が存在しているのは明らかである

ナチス政権やプーチン政権といった腐敗した独裁政権が作り出されるのも 決してドイツ人やロシア民族にのみ見られるものではなく ヒトでありさえすればカンボジアでも日本でもミャンマーでも 世界中どこでも見られるものなのである

スタンレー:ミルグラムによる服従心理実験による検証結果に対し 一般普通のヒトは「自分には関係がないことだ」「特殊な条件でのみ生ずる現象に過ぎない」と勝手に分類し 他人事として意識から外して「なかったこと」にするものである

その方が「気分が良くなる」からである

主観的に「気分が良くなる」ことだけを信用するということは つまり自分の先天的情動や 生育環境としての社会から刷り込み学習された「常識」に基づいた好き嫌い判断を 絶対的に正しいものであるという観念に基づいた行動である

 

ヒトは誰しも自分の意思で産まれてきたわけではない

自分の遺伝子も自分では選べず

その遺伝子によって作られた自分の脳も 情動を作り出す大脳辺縁系の構造も 自分の意思とは無関係に作られたものに過ぎず

生まれ育った社会や時代といった環境から刷り込み学習させられたあらゆる価値観も それだけでは何の選択可能性の論証にもならない

選択可能なのは 論理客観的根拠に基づいて どの価値観を優先するかにのみ存在するのである

安全で持続可能で 公平で平等な社会 それなしには個人の生き続ける人間としての存在価値などあり得ない

どんなに自分が置かれた環境に「適応」して利己的利益を得ようとも 最終的には必ず死ぬのであって 過剰な「適応」は結局社会を崩壊に導いてしまう無責任な行動にも陥ってしまうことになり 最終的には合理性が何もない

 

ヒトには個性というものがあり 人それぞれ能力や好き嫌いに違いがある

個人的好き嫌いだけで他人を差別してしまえば公平性は失われてしまうが 能力の違いを相互に補い合えば より安全で公平な社会を作ることも可能となるのである

ヒトは 「差別は良くない」と知りながらも 残虐な無差別殺人犯に対しては「死刑にしちまぇ!」と短絡的に「処分」すれば「解決」だと思ってしまうものである

ウクライナの刑事裁判では 最高でも終身刑だと言われているので 死刑制度は廃止されているらしい

21歳のロシア兵を終身刑にしたら ロシア兵による虐殺の原因究明や再発防止になるかと言えば ならない

論理的相関関係が何もないからだ

そもそも兵隊というのは命令に対して盲目的に忠誠忠実に服従するよう「訓練(学習)」させられているのであって 自分で物事の善悪を判断しないように訓練されているからこそ 戦争などというバカげた殺し合いにも便利に使えるのであり

それは独裁政権下におけるウクライナ武装警察が市民への実弾発砲をしたことと同じことである

ヒトには先天的に「上」と見なした対象に対する盲目的服従性が存在し これが祖先の生息環境においては「繁殖の継続」において有利に働いた結果として 遺伝子が拡がったのであって

より盲目的に権威に服従し 封建的順位序列を甘んじて受け入れる卑屈さ 権威に対する媚び諂い 「畏敬の念」 「滅私奉公」といった忠誠忠実さに対する美徳(主観的快楽)によって促されるバイアスによって ヒトは自分が属する集団組織の利益を優先することによって 個人は自律的な社会全体に対する責任判断選択を簡単に放棄する原因ともなるのである

政府に対する盲目的服従性に過ぎない特攻隊に対し 「特攻隊が命がけで戦ったから 今の平和がある」などという根拠のないこじつけをすることで「英霊」などと称した評価をしたがるが

政府が無駄に戦争を長引かせるために利用されただけの搾取のことを 都合良く解釈し過ぎである

 

宗教というものは 決して個人が自律的に社会の安全や平和 公平性や格差解消を目的としたものではなく

単に個人的 利己的に 自分の主観的気分が良くなるように盲目的に「信じたい」ことを信じているに過ぎない

宗教者は決して異教徒を受け入れず 公平や平等を望まず 差別排除による満足ばかりを求めようとするものなのである

中東由来の一神教の信者は 「神がいないのであれば 何をしても許される」などと言い出すものである

「許す」「許さない」の問題は 「許してくれる対象」ありきの話であって 自律ではなく他律の問題へのすり替えに他ならない

神の有無に関わらず 「人間」として必要なのは自律的な社会的責任判断選択であって 神の有無は人間性とは無関係である

神は所詮ヒトにとって「他人」でしかない

 

特定の個人を崇め敬って盲目的に信頼しておけば 自分の頭で物事の真偽を判断しなくても済むと そう「思って」いるからこそ実証不能の神にすがっていないといられない

そういう先天性の中毒に過ぎない

ヒトの問題は ヒトが解決しなければならないのであって 他人に過ぎぬ神に何を期待しても無駄である

ロシア人の大半がプーチン政権を支持するのも ロシア正教に基づいた宗教的盲信が背景にある

それは日本軍が天皇崇拝を利用したのと同じような手口であり ナチスが優生学を盲信したのも同じである

 

左側頭葉の一部に強力な磁気刺激を与えると 「神を感じる」と言われているが 「神を感じて」いるということは それが快楽だから「神」だと感じているのであって 気分が悪ければ「悪魔を感じる」ことになる

ヒトは哺乳類であるために 産まれてくれば初期的には「親」に頼り 服従し 好むように先天的に情動バイアスが働くように出来ている

その情動行動を促すコラムが左側頭葉の一部に組み込まれており シーケンシャルに「上」と見なした対象への服従や忖度の行動として促されるように出来ているのである

ネコはイヌのような集団統率的協調性までは発揮されないものの やはり順位序列は存在し よりケンカの強いオスの方がメスを独占できることになり これが結果的にケンカの強いオスの遺伝子が拡がることになったのである

イヌの場合にも 統率的協調行動によって獲物を捕らえたりはするものの 結局繁殖行動が出来るのは群れのボスだけであり やはりより強い個体の遺伝子だけが拡がった結果 それが生息環境において「繁殖の継続」に適したという結果でしかない

イヌやネコに限らず 草食獣でもオスはメスを巡って争い 結果的に身体が大きくケンカの強い個体への収斂進化が環境に適応したという結果を導いたのである

そして こうした暴力性はサルにもヒトにも受け継がれ 現代社会においては金儲け能力の高い個体の遺伝子が拡がりやすいという結果をもたらし より他人から効率的に資産を独占することの得意な個体変異への収斂進化を促したことで ヒトは社会格差が拡がるような利己的な世間的成功ばかりを求めるように「進化」したのである

組織が腐敗していようとも 嘘や欺瞞に満ちた独裁政権であろうとも それに忖度し服従しておいた方が その政権の中では「適応」したことにはなり 結果的にプーチンは大統領になったのである

結果的に日本大学理事長になれた田中英寿も同じであり 独裁体制というものは それを支える体制内部の個人の自律判断の欠如によって作り出されるものであり

「組織は頭から腐る」というのは 組織を構成する個人の責任逃れの「はぐらかし」や「言い訳」にしかなっていない

ナチス政権に対しても ヒトの大半はヒトラーだけが異常だったかのような「解釈」をしがちで ヒトラー一人の洗脳能力こそが異常な大量虐殺を引き起こしたかのような解釈をしようとするが 実際には組織に忠誠忠実なだけのアドルフ:アイヒマンのような無意識な部下達によって虐殺は実行されたのであり こうした組織に対する忠誠忠実さというもの 盲目的服従性というものは ヒトでありさえすれば民族国籍によらず ヒト全般に見られる先天的な認知上の欠陥によって促されるものなのである

ヒトは 一度自分が信じた相手を疑おうとはしなくなる性質がある

一度信じた過去の自分の判断が間違っていたことを認めると 自分の頭の悪さを自覚認識しなければならず それが気分的に嫌なので ヒトは「信じたい話」だけを盲目的に信じようとし続けるものなのである

洗脳というものは 洗脳されている状態の方が快楽で安心だから洗脳が成立するのであって 逆洗脳では拒絶反応を引き起こすのは必然的な現象である

カルト宗教の信者に対し 「お前さんの信じ込んでいる教祖は嘘つきだぞ」と言えば 信者は「いや そんなことはない 尊師は間違ったことなど言っていない」と突っぱねるものなのである

それは 振り込め詐欺師を信じた人が 「いや 自分は絶対に騙されてなどいない」と頑なに言い張るのと同じことであり 自己に対する客観的根拠の何もない主観的「印象」や「直感」だけが優先しているのが原因である

養老孟司は衆愚やマスコミには人気があり 著作が売れて金儲けに成功しているものの 言っている内容には論理客観的根拠は何もないのである

養老が散々主張していた「脳化社会」云々の話というのは 大衆観念に基づいた「都市対田舎」といった短絡的二元論に基づいたものであり 理論的には支離滅裂な話ばかりであり その支離滅裂さを指摘すると 今度は「私は教科書に墨を塗らされた」と称して「間違っていない本なんかないんだから 間違っていたら墨を塗れば良い」などと主張し 一切間違いを訂正しないというふてぶてしい態度を平気で採るペテン師である

酷い場合には 相手がバカだと見積もった瞬間に 「私は禁煙と書かれた看板の前でタバコを吸う ほら 私は脳化していない」などと言い出す始末である

「みなさんは電車やバスを利用するから脳化している」だの まるで電車やバスに乗ることが悪いことであるかのように言い出すなど 何の根拠もない支離滅裂な話で大衆マスコミを煙に巻いて人気を得ているに過ぎないのである

しかも 「客観的事実などない」などという 科学を根底から覆すようなデマを主張しているにも関わらず 大衆マスコミの大半はそれが異常だとは誰も思っていないのである

こうしたペテンは養老に限ったことではなく マルクス:ガブリエルにおいても マイケル:サンデルによる「トロッコ問題」においても見られるものであり 100年以上もイマヌエル:カントの「純粋理性批判」の内容が論理客観的根拠というものを飛躍した実証不能の「悟性」だの「純粋統覚」だの「叡智界」だのといったオカルトファンタジーに過ぎないことまで誰も信じて疑わなかったのである

 

ヒトの大半は 教えられたことをただ「知っている」ことを知能だと思っているが

「知っている」だけで自分の頭で考えないなら それは知能でも何でもないのである

何にも気づかない奴は どんなに知識の「量」があってもバカである

そして 学力偏差値も 学歴も 知能の論証にも 人間としての優秀さや序列の根拠にもならない

学歴と同様に 権威肩書もまた知能の論証にはならない

生物学者達が遺伝的進化についての「典型的な間違い」を 論理客観的に訂正しないのは 今まで間違った説明をし続けていた自分達の「不祥事」を黙殺隠蔽するための「はぐらかし」に他ならない

従来の生物学における遺伝的進化に対する「典型的な間違い」というものは 遺伝的進化というものが万能で目的に則った都合の良い進化を選択可能であるかのような説明の全てである

「擬態は天敵から見つからないようにするため」だとか 「天敵から逃げ切るために逃げ足が速くなるよう進化を選んだ」だとか 従来の生物学の教科書には無数の「間違い」が混入しているのである

その全てを訂正すれば 生物学者はほぼ全員無能者として職を失うであろう

それを嫌がって更科功は「生きているだけでも立派なものなのだ」などという主観を 客観的根拠の伴った科学的論証であるかのように「はぐらかし」ているのである

こうした生物学界の組織的腐敗を認識できない報道機関もまたバカの群れ 烏合の衆に過ぎない

 

 

 

Ende;


バカの人間性

2022年05月25日 13時29分48秒 | 意識論関連

山極寿一やリチャード:ドーキンスら生物学者が主張する

「ヒトには人間性が組み込まれている可能性」

というものは 「ヒトは助け合いをしなければ存続できないから 助け合いをする本能的習性が組み込まれている可能性」を述べているに過ぎない

「助け合い」というものが都合良く人間性として働く保証はなく 振り込め詐欺師集団内部で食事を驕っても 東京電力社内で「組織の利益を優先」しても それは特定集団内部における「助け合い」に過ぎず

こうした特定集団内部だけに働く「助け合い」というものは 集団間における環境資源の奪い合い競争において有利に働くことで 統率協調的に他の集団を駆逐できた集団の遺伝子が拡がることになったのであって 決してヒトという種全体の存続や公平性に適する進化が促されたわけではない

生態系が弱肉強食による生態系ピラミッドを形成することで 環境との調和が成立しているのと同様

ヒトという種の生物も封建的順位序列による統率的協調性を発揮し より他の集団部族よりも武力や富を豊富に奪った集団の遺伝子の方が拡がりやすいのであり こうした環境資源の奪い合い競争において勝ち抜いた現存のヒトという種の生物に 先天的人間性が組み込まれることはないのである

 

特定の環境下においては ヒトは他人への利他的行動が見られるものの 衆人環視下において「他人から善人に見られたい」という偽善の感情が働くことで利他的行動が促されるに過ぎず

実際に社会においては「バレなきゃ何をしても許される」と思っている無責任な奴は一定数存在しているのである

地球環境の持続可能性や 社会の公平性に配慮していないにも関わらず その一方で「自分の遺伝子を遺す」だとか言っているのは 支離滅裂にも程がある

一体何の目的に基づいて自分の遺伝情報を遺すのかを全く考えていないバカの発想であり 遺伝的進化に対する異常なまでの盲目的執着でしかなく 到底科学論理的根拠が伴わない

そもそも自分では選んでいない遺伝子を遺しても そんなものは目的にも何にもなりはしないのである

リチャード:ドーキンスは「遺伝子が利己的に目的を果たそうとしている」などという非科学的妄想を述べているに過ぎず 遺伝的進化による結果に過ぎない現存生物の恒常安定性だけを見て あたかも「遺伝的進化の全ては必ず正しい結果をもたらすものである」という実証不能の観念に基づいた妄想に取り憑かれた観念を論じているに過ぎない

こうした遺伝的進化に対する万能妄想が 論理客観的に物事を検証して「考える」ことをしない衆愚マスコミにおいては あたかも「自分達ヒトという種の生物には先天的な人間性が組み込まれている優秀な存在である」かのような感覚(錯覚)を与えてしまうために 大衆迎合的に「人気」があるだけであって

実際の社会では相変わらず腐敗政権による戦争などという野蛮行為が続いているのである

ヒトの祖先は集団統率的に協調して他の部族集団を駆逐し 環境資源の奪い合い競争に勝ち抜いた集団の遺伝子が遺りやすいことで拡がったのであって ヒトは先天的に「暴力で解決」するのが大好きな生物であり だからこそ梅沢富美男のように「こんな奴は死刑にしちまぇ!」と怒鳴り散らすと共感共鳴して人気が集まるのである

ナチスによる「最終解決」も暴力によるものであり 他者と見なした集団からの暴力的略奪によって 他者以外の仲間同士における利益を優先することが かつての祖先の生息環境における「適応」だったからである

 

遺伝的進化というものは 決して必ず「成功」する保証は何もなく 無数の変異の果てに偶発的に成功した結果が現存生物や生態系として存続しているだけであって 遺伝的進化のプロセスでは膨大な「失敗」が伴う過酷なものなのである

実際に長い生物史の中では幾度もの大絶滅も起きており そもそも遺伝的進化というものは淘汰圧力という死滅や断種によってのみ促されるものであって 生態系ピラミッドも「ピラミッド」という順位序列による弱肉強食の喰い合いによってのみ成立している恒常安定性に他ならない

遺伝的進化というものは 安全性や公平性が担保されるものではなく あくまで個体や生態系全体としての恒常安定性を偶発的に獲得できた結果に過ぎず 進化の過程において幾度もの「失敗」を重ねている上に 結果的に見ても殺し合いでしか恒常安定性は獲得できていないのである

遺伝的進化というものは 目的に則って選べるようなものではなく あくまで結果的に現存生物種への収斂が起きた「自然現象」に過ぎず 都合良く安全性や平等公平性が構築されるようなものでは断じてない

ヒトがヒト同士で環境資源の奪い合い競争を続けた果てに絶滅するとしても 遺伝的進化は何もしてくれないのである

絶滅という現象もまた遺伝的進化という「自然現象」であり 何が起きようとも遺伝的進化は何も保証はしてくれない

ヒトという種の生物が 先天的にリチャード:ドーキンスや山極寿一などの生物学者共のデマや嘘を鵜呑みにして満足する習性があるとしても それもまた進化の「結果」であって 先天的にデマや嘘や間違いを信じ込む習性によって「本当の目的」を見誤ってしまうとしても 遺伝的進化はただの自然現象に過ぎず 何の保証も担保もしてはくれないのである

 

自然界においては強者が生き残る

したがってヒトにも「力」への依存性は高く 「怖い」相手には媚びへつらい 忖度し服従し 「力」にあやかろうとする習性がある

これは遺伝的進化によって結果的に組み込まれた本能であり 情動バイアスであり 主観的な安心満足によって促されるシーケンシャルな「自然現象」である

東京電力や名だたる大企業による不祥事も 日本大学による組織腐敗も ナチス政権に同調迎合忖度服従した当時のドイツ国民も その構造そのものはプーチン政権下におけるロシア人達の大多数による無意識な「社会性」によって作り出されたものと同じである

生物学界では長い間 生物学上の「社会性」というものを 「人間としての社会性」と混同し 取り違えて解釈してきたが

生物学上における「社会性」とは 単なる統率的協調性を発揮するための順位序列を形成する服従性や盲目性や 「怖い」相手に逆らわない卑屈さも含めた動物的行動習性に過ぎず

イヌにも見られる単なる「習性」であって ヒトもまた先天的には順位序列への情動が強く働き 公平や平等には配慮が働かない「習性」によって ヒトは権威への批判精神を失い盲目的に服従し 真実が何かを見極めようとはしなくなる原因となるのである

人間としての社会性とは 「個人が自律的な社会的責任を負うこと」であって 社会持続可能性や公平性に基づいた行動判断を行うことであって 主観的に「優しい気持ち」かどうかは関係がない

主観的気分というものを意識や精神の本質だと錯覚しているからこそ 道徳などという非合理で支離滅裂な屁理屈に頼ろうとするのであって 意識の大半を占める情動こそが無意識な行動バイアス(偏り)なのであって 1割にも満たぬ論理客観的検証性によって真実か嘘やデマなのかを見極められないからバカが治らないのである

学生に対しては学力偏差値競争を強いるくせに その一方では誰も自律的には論理客観的検証なんぞしないという 極めて身勝手な観念の押し付けに「安心」して邁進するという 不誠実さを ヒトの大半は主観的には何とも「思って」いないのである

 

被害者の主観的な悲しみなどを報道しておけば「再発防止」になると思っているようだが 相模原障害者施設津久井やまゆり園の被害者や遺族の情報をいくら漏洩しても 虐殺の再発防止にはならない

それは 原発事故の被害者情報が 原発事故の再発防止に何の役にも立たないのと同じである

被害者情報を垂れ流しておけば 「お涙頂戴」とばかりに大衆迎合的に視聴率や反響は多く寄せられるであろうが それは単なる同調迎合忖度に過ぎず ただの大衆迎合に過ぎない

いちいち被害者情報の詳細を漏洩しなければ被害者の心の痛みがわからない時点で想像力の乏しいバカなのであり たとえ被害者や遺族の情報を垂れ流したところで 身勝手な妄想に基づいて被害者や遺族に誹謗中傷するバカは後を絶たないのである

むしろ 被害者情報を報道すればするほど 「有名になったから 自分よりも上だ」などと称して誹謗中傷するバカを助長することにもなっているのである

小学生が酔っぱらい運転で轢き殺されたとしたら 被害者や遺族の情報よりも 社会的には加害者の無責任性の原因の方を共有することの方が 社会安全性においては重要なのである

それは「罰で解決」と済ますのではなく 加害者側の主観的「動機」にも意味はなく あくまで客観的に加害者の無責任性が発揮されるメカニズムについて論理的に検証しなければならない

何か刑事事件が起こると 短絡的に「加害者の動機の解明」だとか言っているが 「加害者側の動機」なんぞただの主観的情動に過ぎず そんなものを「解明」しても身勝手な観念が出てくるだけであって 社会的には糞の役にも立たないのである

警察権力が「動機の解明」を優先するのは 司法制度上における「判決」が目的であって 事故や事件の再発防止は司法制度上の目的ではないために 加害者の罰を決定するための加害者側の身勝手さの立証を目的としたものに過ぎない

マスコミも含めて大衆の多くは既存の司法制度を絶対的な唯一の解決策であるかのように盲信しているからこそ こうした不毛な法手続き制度ばかりが優先され続け 具体的な実効性のある事故や事件の再発防止対策が優先されなくなっているのである

役人達は ただ指示されたこと 法律規則で決められたことだけを実効しているに過ぎず 法制度上に存在しないことは一切興味を持たない

法制度上存在していないことは 「業績」にも「業務」としても評価されないため 司法というものの社会的役割としての社会安全性には全く配慮されなくなってしまうことになる

こうした盲目性というものも ヒトという種の先天的な権威服従性によって作り出されるものであり 「個人が自律的な社会的責任」を負わなくなるから 上から指示されたこと以外には興味すら持たなくなるのである

 

大衆の大半が司法刑罰に依存したがるのも 国家権力による抑圧に頼っておくことだけが安全性への唯一絶対的な対策だと主観的に「思って」安心満足するだけで 具体的実効性のある再発防止策には興味など持たないようになるのである

主観的に安心満足することによって ヒトはバカになる

これがヒトがバカになる構造であり 主観的安心満足こそが「無意識」の正体であるとは 多くのヒトは「思って」いない

本当に社会安全性にとって重要な対策とは何かを区別するのも 論理客観的根拠に基づいた判別能力が必要である

「何となく国家権力任せにしておけば安心だ」という情動バイアス パターナリズムこそが 問題の解決にとって最も大きな障害となってしまっているのである

 

百戦錬磨のプロ棋士であれば 将棋という世界においては最良の指し手が直感的にわかるのかも知れないが それが将棋という金儲けにおいて有利だからといって短絡的に人間としての優秀さの論拠になるわけでもなく

ましてや普段何も考えていない凡人の直感なんぞ糞の役にも立たないのは当たり前の話である

ロシア人の大半がプーチン政権を支持しているのも ロシア人の直感によるものであり

ナチス政権下のドイツ人がナチスを支持したのも 当時のドイツ人の直感による安心満足という脳内麻薬が作り出したバイアス(偏り)によるものである

バカは短絡的に民族国籍というレッテルだけで順位序列をつけたがるが 世の中の大半は主観的気分を意識の本質だと錯覚しているからこそバカげた腐敗独裁政権を支持してしまうのであって

「NHKだから正しい」とか 「科学研究者だから正しい」といった短絡的分類を鵜呑みにし 内容に論理整合性がないことには誰も興味を持たないから 非科学的デマがいつまでも科学的論証(真実)であるかのように扱われ続けてしまうのである

 

遺伝的進化というものは 「拡がりやすい遺伝子が拡がる」だけであって 後天的都合としての安全性や持続可能性や公平性といったものは遺伝的進化には影響を及ぼすことはなく たとえ絶滅するような「進化」が進むとしても それもまた遺伝的進化における「進化の袋小路」に過ぎず 誰も何も保証担保はしてくれないのである

ヨツコブツノゼミは 捕食者からは「喉に刺さりそうで嫌」なので拡がったが ロクロクビオトシブミのような進化は拡がる気配はない

あいつ どう考えてもマトモに飛べないだろ

遺伝的進化というものは目的も到達点もないので あくまで現状の生息環境に適応する形で 「拡がりやすい遺伝子が拡がる」以外の収斂進化は促されることはない

 

ヒトは科学技術を獲得することによって 環境資源を無駄に食い尽くす能力を獲得し 環境資源を上回る程の「異常繁殖」のことを「繁栄」などと称して まるで正しいことのように形容しているが 過剰な大量繁殖による文明規模の大きさだけではヒトという種の生物の「人間性の論証」にはならない

社会安全性や公平性に基づいた行動選択をしてこそ 「人間性の論証」になるのであって それは目先の快楽(脳内麻薬)によって促される情動バイアスに左右されることなく 論理客観的根拠に基づいて行動選択をする必要がある

「個人が自律的な社会的責任を負う」社会でなければ 社会のあらゆる諸問題は解決しないのであり これを阻害するのがヒトの先天的習性としての権威に対する盲目性というものである

ヒトという種の生物は 先天的には権威に服従し 盲目的に命令に従うだけのバカである

だからバカげたことが何度も繰り返し続けているのであって 自分という「ヒト」の先天的な認知上の欠陥を理解し 自覚し 実際の行動選択に反映させていかなければならないのである

 

戦争をなくそうとするのであれば プーチン政権のような組織腐敗した独裁政権が作り出されるプロセスやメカニズムを解明する必要がある

日本大学の組織腐敗などというものは ヤクザや暴力団のそれと全く同じものであり 組織を構成する個人の「意識」の欠如によって組織腐敗は進行し 傍観放置され温存され続けてしまうのである

子供のイジメも同じである

「社会性を身につける」などと称してイジメの蔓延する学級に馴染んでも 「人間性を伴った社会性」は身につかない

加害者側に回るか 傍観者のまま放置するか 被害者のまま自殺するかの3択にしかならない

本当の「人間としての社会性」とは 動物的に集団に馴染む能力のことではなく 集団が異常であるなら自律的な社会的責任判断選択をして 集団に抗うことも必要となるのである

学校などというのは 所詮は「学力成績を上げる」以上の何も「業績」にはならないために 子供が自殺しようがイジメが起きていようが「知ったことではない」のである

学校というのは 本来 個人の得手不得手を自覚し 何が「生徒にとって最も幸福な人生」を歩めるのかの判断基準を提供することである

「学力成績を揃える」ことは意味がない

先天的な学習障害のようなものも 極端な場合に学習障害として診断されるだけのことであって 実際には生徒の脳は千差万別でそれぞれに一定の学習障害はグラデーションやスペクトルとして存在しているのであって 学力を揃えることよりも その生徒が得意なものを伸ばし 苦手なものを他の人に頼ったり任せたりする能力をつけることの方が社会的には最も効率が良いのである

特定の成績の良い子供だけが社会を支えて評価されて「得」をする社会を目指していたからこそ 理不尽で非合理な社会格差が生じるようになっているのであって 「欲得づくの成功」なんぞをそそのかす現状の教育環境こそが社会を崩壊へと導いているのである

「これさえやっときゃ 全ては解決」であるかのような 短絡的で簡単な目標だけしか見させないようにしているからこそ 学力が高いだけのバカが大量生産されてしまうのである

バカに人間性などない

それは当たり前の話である

 

 


Ende;


バカの直感は有害である

2022年05月24日 17時39分58秒 | 意識論関連

好成績なプロ棋士は 盤面を見るだけで直感的に次の一手の良し悪しが区別できるという

直感が働いている時に活動が活発化するのが大脳基底核だと言われてるのだが 大脳基底核というのは感情ともつながりがあるので プロ棋士が指し手を選ぶ時にも 悪い手だと何となく「嫌な感じ」がしたり 良い手だと何となく「気分が良い」と感じるという

そして 棋士自身は「なぜ その指し手が有効なのか」は説明がつかないという

 

これはニューラルネットワーク型人工知能を用いたディープラーニングによる指し手の良し悪しを判断するのと同じものであり 

人工知能もまた理論的説明はできない

「良い指し手である確率が何%」といった結果的スコアだけで判定しているだけであって 要はヒトの脳における「何となく嫌」みたいなものと同じバイアス(偏り)に過ぎない

アメリカの一部の州で導入された犯罪予測AIは ある人が犯罪に関わるかどうかを予測できて 的中率は高いというのだが それが加害者なのか被害者なのかはわからないという理不尽なものである

Microsoft社のTwitterAIは SNS上の数多くのヘイトスピーチを「学習」する形でヘイトスピーチに便乗し始め 強制的に停止させる事態に陥った

とある企業では採用にAIを用いた場合に 過去の採用データから「学習」させた結果 その会社では女性の採用率が低かったことから 「女性である」というだけで採用スコアを低く見積もっていたことが発覚し AIによる採用判定を急遽取りやめたという

 

老練なプロ棋士の直感は 将棋の勝ち負けにおいては確かに有用性があるものの

それはあくまで「将棋の勝ち負け」において有用なだけであって 将棋で勝てるからといって 他に何かの応用性が伴う発見や発明が出来るわけでもない

しかも 直感的に指し手の良し悪しが「感じ」られる程の直感力というものは 常人には真似の出来ない特殊能力であって 凡人の直感までもが有用であることの論拠には全くならない

衆愚の大半は読書猿の言っている内容に論理的欠陥があることにも気づくことは出来ずに 気分的な安心満足感に溺れて何の疑いも持たずに鵜呑みにするだけのバカに過ぎない

衆愚の直感なんぞ 糞の役にも立たないばかりか デマや嘘でも鵜呑みにして満足し 迷惑な行為でも平気でやらかす原因でもある

 

何をもって「正解データ」とするかによって 直感は大きく変わるものである

虐待されて育った人は 虐待が「常識」となり 自分の子供にまで虐待を平気でするようにもなる

幼少期から学歴競争にさらされてきた人であれば 学歴マウントなどという幼稚な序列基準による差別に異常な執着をするようにもなる

酷い場合には慶應の「塾員」が東大大学院出身者をイジメたりするという

バカという他ない

何の問題意識も働いていないのである

 

普通一般の人は 権威と見なした相手の主張や指示を疑うことはない

なぜなら 「そういうもの」であると「常識」として刷り込み学習されているからであり 権威の主張や指示に対して盲目的に信頼しようとする情動バイアス(偏り)によって ヒトは自分で物事を考えようとはしなくなる

考えない奴のことを「バカ」という

スタンレー:ミルグラムによる服従心理実験では 普通一般の被験者達の多くが権威の命令に従い他人に危害を加えることを科学的に立証している

普通一般のヒトの直感というのは ナチス政権下であれば大半がナチスに迎合し プーチン政権下であれば大半がプーチンを盲信する

日大の田中英寿理事体制であれば 日大職員の大半が同調迎合忖度服従して腐敗体制の温存に加担する

東京電力福島第一原子力発電所であれば 原発の津波に対する脆弱性を指摘せず 組織の利益を優先して個人が自律的な社会的責任を負わない方が 社内では安穏と暮らすことが出来たため 何の批判精神もないバカだけへと淘汰圧力が働き 無責任な組織腐敗を招いたのである

利己的損得勘定においては こうした直感は有用性があると言えるだろうが 人間としては糞である

組織に迎合しておいた方が「環境適応」にはなるかも知れないが それは「繁殖の継続」においての有用性に過ぎず 人間としての価値にはならない

利己的な糞野郎が子供を育てれば 糞野郎の遺伝子が拡がることにしかならない

 

脳科学研究者共の大半は 将棋棋士の世間的成功を根拠に直感こそが常に正しい判断を導く万能なものであるかのように主張しているが 将棋棋士が世間的に金儲けに成功していても それ以外に何かの役に立つわけでもなければ 人間としての優秀さの論証にもならない

「将棋で儲けて世間的に成功したから 直感は万能だ」という話は 論理の飛躍も甚だしく 到底科学的論証とは言えない

衆愚観念上では 世間的成功や金儲けは人間としての優秀さの基準として扱われるのかも知れないが それはあまりに短絡的で幼稚な基準である

 

詐欺の電話を鵜呑みにし 「いや 自分は絶対に騙されてなどいない」と頑なに自己過信に陥ってしまったり

カルト宗教を信じ込んで地下鉄に毒ガステロをすることを「人類の救済」だと信じて疑わなかったりするようになるのは 主観的感情によるバイアス(偏り)によるものであり

彼らにとっては嘘の方が気分的に安心満足感が得られるような「学習」をしてしまっているため 直感的には嘘こそが真実だと錯覚していることに気づかなくなるのである

 

もう一度言っておこう

何をもって「正解データ」とするかによって 直感は大きく変わるものである

何をどう「学習」したのかによって バカげた嘘に安心するようにもなれば 多くの嘘を見抜けるようにもなる

嘘やデマや間違いなのか それとも論理客観的根拠に基づいた真実なのか それを区別するのは論理客観性の方である

断じて「直感」などではない

本当は何も自分では考えたこともなく ただ漫然と知識の「量」だけを知能だと勘違い錯覚しているのも それが凡人にとっては直感的には「正しい」と思い込んでいるからである

進化生物学における「典型的な間違い」も チャールズ:ダーウィンによる遺伝的進化の仕組みを説明されて理解して「知って」いたとしても その内容に間違いがあるかどうかまでは誰も考えなかったために 100年以上もの間従兄弟のフランシス:ゴルトンの優生学との間の論理的齟齬には誰も言及できなかったのである

しかも 「知って」いながら従来の生物学における説明の何が間違っているのかには未だに誰も指摘できていないのである

もうバカとしか言いようがない

 

従来の学校教育では 教えたことを教えた通りに答えれば成績になるため 学力成績という抽象化された「脳への報酬」だけが価値になってしまい 教えられた内容に間違いがあるかどうかは誰も考えないように「学習」されてしまっているのである

教師などの権威の言っていることに間違いや嘘が混入している可能性には意識が働かないように「学習」させられてしまっているからである

「脳への報酬」だけが目的になってしまえば もはや主観的気分が良くなる「信じたい話」以外には一切耳を貸さなくなる

そうなれば自己客観性も働かなくなり 論理的に検証することもしなくなるのである

当然真偽の判定はできなくなるから 東大医学部に入学できる程に学力偏差値が高くてもバカげた話を鵜呑みにするようになる

 

バカの直感というものは バカげた教育によって作り出されるのである

 

 


Ende;


選択可能性

2022年05月24日 14時25分39秒 | 意識論関連

NHKでは 脳科学者共による「自由意志は存在しない」などという主張を短絡的に鵜呑みにし そのまま放送した

「任意のタイミングでボタンを押す」という条件下においては 意識的に「ボタンを押そう」と思う前に腕を動かす筋電位が生じたことを論拠にしているのだが この一つの現象だけでヒトの行動の全てが無意識に支配されていて自由意志が全く存在しないことの論証にはならない

とある漫画家がインク壺から溢れそうになった墨汁を ウッカリ口ですすってしまったことも無意識な行動である

「つい」 「うっかり」 「無意識に」口に持っていってすすってしまった

だが 飲み込むまではいかなかったそうである

そこは間違いに気づいて抑制が働いたからである

「間違いに気づいて飲み込まなかった」ことは無意識的条件反射ではない

漫画家は 別に「墨汁を飲もう」としていたわけではなく 日常取り扱う液体の多くが飲み物であることから 液体が溢れそうになった瞬間に無意識に腕の筋電位が反射的に生じてすすってしまった

「つい」「うっかり」「無意識」に行動してしまったことに対し それが間違いかどうかを区別できれば無意識に間違った行動を採らないように対策も可能である

「間違った行動を採らないように対策が可能」という点において目的意識が存在するのであって 間違った行動を事後正当化するための「エピソード記憶」をでっち上げるから「本当の目的」を見失うのである

 

幼少期から虐待されて育った人は 自分の子供に対しても虐待を繰り返すようになる

虐待を連鎖する親の主張とは 「俺はそういう育て方しかされていない」とか「シツケの一環だ」といった屁理屈をでっちあげて自分の衝動的情動行動を事後正当化しようとする

これらの「屁理屈」というのは 当人の個人的な「常識」に基づいた価値観(好き嫌い)であって 論理客観的根拠に基づいた「正しい行動」であることの論拠にはならない

刑務所で服役している囚人の多くが幼少期からの虐待を受けているという統計的事実に基づけば 虐待というものが社会安全性に対して逆行する「正しくない行動」であることは明らかであり 実際には主観的に苛ついたから衝動的に殴っているだけであるにも関わらず その行動を事後正当化するための「エピソード記憶(嘘)」をでっち上げることで満足しようとしているのである

 

養老孟司が支離滅裂な屁理屈で大衆マスコミをはぐらかすのも 養老は「私は教科書に墨を塗らされた」などという過去の経験を持ち出して正当化しようとする

宮台真司が生徒に対して「自分で考えるのは10年早い 丸暗記しろ」と言い出した理由が「自分が教師からそう強要された」というものである

虐待の連鎖も含めて これらの屁理屈に共通するのは個人的な体験や経験を事後正当化し 認知的不協和を解消する形で合理性のない理不尽な行動や言動を継続しようとしているのである

「教科書に墨を塗らせる」ことは 教育として正しいと言えるだろうか?

「自分で考えるのは10年早い 丸暗記しろ」と強要することは教育として正しいと言えるだろうか?

「教科書に墨」の場合は幼少期であろうから 大人から強要されれば抗う余地はないとは言えるものの だからといって自分の過去の経験を論拠に発言内容に論理整合性がないことを正当化して良い理由にはならない

「自分で考えてはいけない」教育などというものがあるだろうか

借金までして授業料を支払って教わっている内容に 論理的齟齬 論理整合性が欠けていることを指摘してはいけないというのであれば これはもはや教師の独断独裁である

成績を「人質」にして教師側が一方的に身勝手な正義を振り回すというのは 封建的序列に基づいた盲目的服従を意味するものであり だからこそ日本大学のような組織腐敗の原因ともなったのである

「10年早い」と言うが その「10年」という時間に何か論理的根拠でも伴うのであろうか?

おそらく 10年間何も自分で考えなければ 自分で考えないことに慣れてしまい 何も自分では考えようとはしないバカが出来上がるだけである 実際世の中自分では何も考えないバカが大半である

脳科学研究者が「自由意志などない」と主張したからといって それを鵜呑みにして垂れ流すNHKの番組制作者も 自分では何も考えていないからであり これを野放しにしておいて受信料を一方的に徴収する権利などあろうはずがないのである

 

養老孟司は「殴られて意識を失うのも 意識が戻るのも自分では自由にならないから 自由意志はない」などと主張していたが

「ついうっかり墨汁を口ですすってしまう」など 確かに意識には自由にならない部分は多いとは言えるものの だからといって意思や意識の全てが存在しないことの科学的論拠になどならないのである

大衆マスコミの大半は 養老の言っていることを短絡的に鵜呑みにしてしまうが これもまた無意識に「つい」「うっかり」鵜呑みにしてしまっているに過ぎない

権威や肩書を持った相手に対し 疑うことに対する観念的罪悪感のようなものが働くバイアスがヒトには先天的に存在しているために ヒトは権威の主張や指示を盲目的に信じ込んでいた方が安心満足感が得られるため ヒトは自分で物事を考えなくなりバカになる

ヒトは 「自分よりも上」と見なした権威肩書の主張や指示には逆らいたくない先天的本能習性が存在しているからこそ スタンレー:ミルグラムによる服従心理実験のような結果が実証されているのである

 

「滅私奉公」などと称して なにがしかに対する忠誠忠実に服従することに対し ヒトは先天的に美徳を「感じ」る性質がある

美徳とは 要するに脳が快楽を感じて行動に偏りを促す先天的な本能習性による行動バイアスに過ぎない

スケベヲヤヂが水着グラビアを見たがるのも それを「美しい」と思う快楽による行動バイアスであり 痴漢やスカートの中の盗撮なども それが快楽だからこそ行われているのである

スカートの中なら桃月なしこたそだのまりちゅうだのがInstagramで自分から投げてきているんだから それで満足しろよと思うのだが

満員の埼京線で痴漢をやらかすブレーキの効かないバカが後を絶たない

それは自分の頭で考えて行動を選択できていないからである

窃盗症中毒と同じで 痴漢にも中毒性があるらしく 何度捕まっても同じ様に繰り返すようである

大脳辺縁系によって促される情動の強度程度だけで行動が決定してしまい まるで脳の快楽中枢に電極を埋め込まれたネズミのように同じ行動を繰り返す

しかも 止めることができない

学術権威の主張を鵜呑みにして安心していることも 構造的には同じことである

教えられたことを 教えられた通りに答えられれば成績になり 教えられた内容に論理整合性が欠落していたとしても それを指摘すると教師のご機嫌を損ねて「10年早い」などと考えることを放棄させられる「教育」だからこそ 論理整合性のない荒唐無稽なデマや嘘でも鵜呑みにする「学力成績が高いだけのバカ」が世の中の大半を占めてしまっているのである

学歴マウントなどという合理性のない序列や差別が企業に蔓延しているのも 「学歴=知能=人間としての優位性」であるかのような根拠のない観念を鵜呑みにしているバカが多すぎるからである

 

自分の頭で論理客観的に物事を考え何が真理で何が嘘なのかが判断できればバカは治る

自分の頭がどのようなメカニズム構造によってバカに陥るのかを理解し自覚認識していれば バカにはならずに済むのである

これは学力偏差値とは無関係である

先天的に学習障害のようなものがあって 文字が読むことも書くことも苦痛な人や 自閉症と診断されて発話言語が苦手であれば 学力成績が低いのは必然的な結果だが それは脳機能としては入出力機能の障害に過ぎず 主処理としての論理思考能力とは関係がない

言語能力に長けて言葉巧みに他人を騙させたとしても それを自律的に抑制できないペテン師や ペテン師の嘘が見抜けないからバカなのであって 学力偏差値は無関係である

東大医学部の学生が どうしてオウム真理教なんぞを信じ込んだのかについての検証は実際には全くされていない

原因がわかっていないからこそ 何の応用も効かず 日大の組織腐敗やプーチン政権のような封建的独裁体制が出来上がってしまうことに対する歯止めが全く効かないのである

 

 


Ende;


巨人妄想

2022年05月23日 12時42分46秒 | 意識論関連

ヒトはどうしても目の前の多数と同じであることに安心してしまう性質があり

オウム真理教などのカルト宗教であっても 教団内部の多数が信じている話に同調しておいた方が安心することができる

一度こうした価値観を「学習」して「慣れて」しまうと そもそもが「慣れ」とは脳の常習性が作り出した「中毒」であるため 簡単に盲目性となって論理客観性というものを喪失してしまう原因ともなる

振り込め詐欺に騙される人の多くは 「相手の話し方が丁寧だった」などという主観的印象で物事を判断している

論理的に考えれば電話でキャッシュカードの暗証番号なんぞ聞いてきたり 「ATMに行ってください」などと言い出した時点で詐欺確定なのだが そうした自己客観性が主観的印象によって簡単に失われてしまうものなのである

ロシア人の多くがプーチン政権によるあからさまなデマやプロパガンダを信じようとするのも 主観的印象が優先しているからである

 

動物の行動は基本的には「怖いか 怖くない(安心)か」といった主観的情動によって決定するものである

スズメなどが集団で一斉に同じ方向に飛び立つ習性も それが安心だからであって 必ずしも合理的とは言えない行動であり そもそもスズメは自分の行動を合理的に考えて選択しているわけではなく 気分的に不安に陥った瞬間に衝動的に飛び立っているだけであって 本能習性のおもむくままに走っている自転車の直前を横切るのである

ネコもよくやる

道端にいるネコが 自転車や自動車で近付いた瞬間に直前を横切るという行動が良く見られる

ネコの主観的目線からは 直前になるまで距離感がつかめないという事情があるにせよ ネコはどうしても近づいてから急に直前を横切るという行動をしがちなものなのである

自転車や自動車が目の前に来て 大きく見えたことで逃走本能バイアスが働き 衝動的に前を横切る

前じゃなくても良くね? と思うのだが ネコというのはどうしても前を横切りたいらしいのだ

シカも 線路上で列車の前照灯の強い光に照らされると 光をジッと見つめて動かなくなる習性があって これが事故の大きな要因となっている

ネコやシカの祖先が 一体どのような生息環境によってこうした先天的習性が組み込まれてしまったのかは知らないが 先天的な本能習性自体は合理性の有無に関わらず 選択はできないものである

「欲望そのものは 欲することができない」のである

ミニスカートの女子が足を上げようものなら 衝動的に下からスカートの中を覗きこもうとしてしまうのがスケベハゲヲヤヂの先天的習性というものである

だからといって「先天的本能には抗えない」わけではない

ネコやチンパンジーやカブトムシじゃねぇんだから

「うわー 見えそうだー」と思いながらも目をそらしたりすることは可能である

時折ついウッカリ見てしまうこともあるかも知れないが

それこそが「無意識」というものである

半分寝ぼけてたり 飲酒で酩酊状態なら良くあることである

酔っぱらいによる迷惑行為というものは官僚でもやらかすことがあって 時折警察官による不祥事として報道されることもあるが 実際には公務員以外の酔っぱらいによる迷惑行為の方が圧倒的に多い可能性があるのだが そこには報道バイアスというものが働いて 警官や教師の不祥事ばかりが報道されていると考えるべきであろう

私はエタノールやニコチンで脳を麻痺させようと思ったことがないので 何でわざわざ酩酊状態になるまで酒を飲もうとするのかが理解できないのだが よっぽど生きて世界を直視することが苦痛なのではないかと不憫に思ってしまう

こうした酔っぱらいによる迷惑行為も問題ではあるのだが

酒で酔っ払って酩酊状態でもなければ 寝起きで寝ぼけているわけでもないのに嘘やデマを信じ込んで間違った行動に陥ることも ヒトには見られることがある

スタンレー:ミルグラムによる服従心理実験の被験者も 別に酔っ払っていたわけでも 寝ぼけていたわけでもないのに権威の指示に従って他人に危害を加えてしまったのである

多くのヒトは こうした出来事を「他人事だ」と思うことによって「自分には関係がない話だな」という分類をしたがる傾向が強いが これもまた「正常性バイアス」という情動(欲望)によって促される錯覚の一種なのである

 


「利他的行動習性が一面的であると言うのであれば 特定環境下で見られた暴力性や盲目性であっても ヒトの先天的危険性の論証とは言えないのではないか」などと言い出すバカがいて呆れた

トラックのタイヤが走行中に外れて歩行者などに激突して死亡する事故が稀だからといって これを無視して良い理由にはならない

トラックというものが社会の物流においてどれだけ貢献しているとしても 回避可能な危険性を放置しておいて良い理由には全くならないのである

原発がどんなに安価な電力を供給できるとしても 暴走して放射能をぶちまける可能性を無視して良いわけがないのである

服従心理実験環境という あまり普段は体験しないような状況であるとしても 権威の指示に唯々諾々と従ってしまいがちな習性がヒトには普遍的に存在することの立証としては充分なものである

実際の社会においても 日本大学のような田中英寿理事長による腐敗した独裁体制に多くの職員が従ってしまったことや

イマヌエル:カントの「純粋理性批判」の内容に100年以上も誰も疑問を挟まなかったことも

進化生物学上の誤謬が長年傍観放置された上に いくら説明しても「○○のために進化した」といった説明がなくならないのは 知識として「知って」はいても それが実際に生物学上の説明においてどこがどう間違っているのかまでには考えが全く及んでいないのである

遺伝的進化というものは 決して都合良く選べるようなものではなく 生息環境に適応して「繁殖の継続」に適した個体や 「拡がりやすい遺伝子」が拡がるだけである

平気で嘘をついて無責任に誰とでもヤリまくって子供を作っていた方が遺伝子は「拡がりやすい」のであって 誠実に一人の配偶者にしか興味を示さない男の遺伝子は「拡がりにくい」のであり 決して人間性に適した個体種への収斂など起きないのである

ヒトの祖先が環境資源の奪い合い競争に勝ち抜いた結果として ヒトにも統率的協調性による暴力的独占の習性が受け継がれてしまっているが これもまた現代社会にとって合理性のある行動習性を先天的に持った個体種への収斂進化が促されるメカニズムは存在しないのである

イヌもサルもヒトも 先天的には平等が嫌いで ヒトは論理客観的根拠に基づいた論説よりも主観的に安心満足感が得られる話ばかりを盲目的に信頼したがるものなのである

「ヒトは信じたい話だけを 信じようとする」と言うが 「信じたい」かどうかは主観的印象だけで決定しており 話の内容に論理客観的根拠がある真実かどうかは自分の頭で考えて真偽を判定しているわけではない

いくら強く「思って」も むしろ その「思い」込みによってヒトは嘘やデマや間違いを簡単に鵜呑みにして非合理な行動判断に陥るものなのである

 

ヒトの多く 大衆マスコミは「学校の勉強をすれば 頭が良くなる」と思っている

学校で教えていることというのは 何か認知科学的に内容が精査されていて 学力偏差値が上がることで短絡的に「頭が良くなる」ものだと勝手に錯覚しているが この主観的錯覚(印象)に便乗する形で読書猿は「学校の勉強は認知的ワクチンだから 勉強をすればデマや嘘には騙されなくなる」などという根拠のないデマで衆愚人気を集めているのである

「ヒトを騙そうとする者にとって カモを見つけるのは簡単」なのである

東大医学部に入れる程学力偏差値が高くてもオウム真理教に騙されることはあることからも 学力偏差値というものは認知的ワクチンとしては全く機能しないことが立証されているのであり 読書猿の言っていることの方がむしろデマなのである

ヒトという種の生物は ここ数万年はほとんど進化していない

数万年前のヒトであっても 現代人であっても 先天的な形質や習性自体は同じなのである

科学や哲学といった真理(本当のこと)に対する知識がされ始めたのはここ数千年と考えられ ヒトの進化の過程においては「ごく最近」の出来事であって そんな短い期間で それ以前に組み込まれた先天的本能習性に影響を及ぼす程の「進化」が起きるわけもなければ そもそも遺伝的進化のアルゴリズムの中には人間性が組み込まれるような仕組みも存在しないのである

 

私は 「どうせお前らバカなんだから 自分で考えたりせずに俺の言っていることを盲目的に信じておけば良いんだ」とは言っていない

むしろ読書猿だの養老孟司やマルクス:ガブリエルの方が遠回しにそうそそのかしているのであって 騙されている方の認識がバカだと騙されていることにすら気づかない

私は 自分の先天的な頭の悪さ(認知的欠陥)を論理的に理解し 自覚することによって より多くの人がデマや嘘に騙されないようにしないと社会安全保障上重大な欠陥になる危険性を述べているのである

主観的に「気分が悪い」などの個人的情動こそが「意識の9割を占める無意識」の正体であって 振り込め詐欺師に騙されている人のように「いや 自分は絶対に騙されてなどいない」という頑なな情動バイアスこそがデマや嘘を鵜呑みにしてしまう根源的原因なのである

私は別に「ウクライナに武器供与をするな」とは言っているわけではなく

「ウクライナに武器供与をしているだけでは プーチン政権のような腐敗した独裁政権が出来上がる構造は判らない」と言っているのであり

火事が起きているのに「消火をするな」と言っているのではなく 「消火だけをしても火事の原因は判らない」と言っているようなものである

火事が起きる度に消火能力を自慢されても 火事の原因究明や再発防止をしなければ被害がなくならないのである

プーチン政権のような腐敗した独裁政権というものは 歴史上幾度も繰り返してきたものであり それを「普通のこと」だと称して「仕方ない」だの「ヒトとはそういうものだ(養老孟司)」などと根本原因を究明しなくなるヒトの精神的怠惰を批判しているのである

「できそうにないことは やらない方が良い(フリードリヒ:ニーチェ)」などという怠惰をそそのかすような「迷言」を 哲学だと勘違いして安心満足しているバカが多すぎるから ヒトの先天的な認知上の欠陥を誰も自覚しなくなってしまうのである

ニーチェは大学でも「哲学」として教えているのであって これは社会的には極めて不適切なペテンであり 授業料を返還しなければならない程の不祥事でもある

「哲学書」と分類されている書籍を読んで鵜呑みにしていれば「俺は哲学を学んだ」と勘違いしているバカは多いが 内容に論理客観的根拠や証拠が本当に伴っているかどうかを「考え」ていない時点で それは「哲学」でも何でもないのである

バカな学術権威は「我々は巨人の肩の上から世界を眺めている」などと称して古典を正当化したがるが ニーチェやカントやプラトンが間違えることの一切ない「巨人」であることの論理客観的根拠が存在するかどうかを「考え」ないように誘導するための「はぐらかし」に他ならない

多くのヒトが主観的に「巨人だ」と思っているからといって その「数」は論理客観的な真理の論拠にはならないのである

ヒトは他人との関係性に順位序列のレッテルを貼りたがる習性があるため 「巨人」などと称して「絶対に何も間違えてなどいない」と盲目的に信用しようとすることで安心満足する習性を利用したペテンである

スタンレー:ミルグラムの「服従心理実験」を読んだ者の中には 根拠も示さずに「それでも権威に服従しない社会は崩壊する」などと決めつけ それに同意同調するバカが大半である

ヒトは権威など盲目的に信頼する対象がいることに安心満足しようとする先天的習性があり その欲望(思考バイアス)の究極が宗教的な「神」として盲目的信仰をすることで脳が満足するのである

宗教者が神が実証不能であることを拒絶したがるのは 神が存在していることにしていないと不安になる中毒症状による禁断症状に過ぎない

これが哲学において発揮されてしまうから 盲目的に古典を信用し続けることで満足しようとすることに陥り 本当は何も「考え」ていないにも関わらず カントによる実証不能の「叡智界」までもが「哲学」として分類されたまま傍観放置され続けているのである

本当は「巨人」などいないのであり ヒトである以上は誰しも間違う可能性が存在しているのであって 間違いを間違いだと気づくことができなくなる原因こそが 特定の「権威」に対する盲目的信頼によって自分の頭で物事を考え検証しなくなる(バカになって何もわからなくなる)根本原因なのである

「平等や公平性が重要」などと言いながら その一方では誰かを盲目的に信頼して疑うことをしなくなるというマルチスタンダードを平気でやらかしている頭の悪さを自覚すべきである

 

 ◇

「法の支配」というものも 所詮は腐敗した独裁体制下においては独裁者の都合の良いようにでっち上げられるものでもあり 本当に重要なのは「法手続き」の方ではなく 「透明性」や客観的「合理性」の方なのである

学校での理不尽で合理性のない校則が長年温存され続けているのも 校則の決定判断における透明性がなく 教師による勝手な主観的印象だけで独断的に決めつけてしまうから問題なのである

法制度というものに対して「人類の財産だ」などと形容して法手続きを万能であるかのように正当化形容したがるのは 法手続き上での利権を持った法曹界の主張であって 決して法手続きというものは万能などではない

法律の主旨を逸脱した運用をすれば 「薪ストーブの灰を肥料として売ったら犯罪」にもされてしまうのであって 運用をする権力側の匙加減でどうにでも解釈可能な都合の良い運用が可能な法手続きが万能な訳がない

 

 

 

Ende;


バカの自覚

2022年05月22日 15時57分37秒 | 意識論関連

ウクライナでロシア軍兵士の裁判が行われているんだけど

二十歳かそこらの徴兵された兵隊なんてのは 振り込め詐欺で喩えれば「受け子」「出し子」みたいなもんなんで

いくら「トカゲの尻尾」を裁判にかけても黒幕を止めることにはならない

 

軍隊が厳しい訓練をするのは 兵隊が上官の命令に唯々諾々と盲目的服従をするよう「行動学習」させるためであって

戦車兵をどんなに鍛えても ジャベリンミサイル一発で丸焦げにされて終わりである

戦争で有利かどうかは兵器のクオリティにほとんどが依存しており 勇敢なポーランド騎兵隊がナチス機械化部隊にボロ負けしたことからも 「勇敢」であることは戦争での勝ち負けにはほとんど影響しない

 

かつてウクライナでも 独裁政権下においては市民への実弾発砲が行われたこともあり 兵隊や警察官個人の自律的な倫理的行動判断がなければ腐敗した政権を支えてしまう原因にもなる

 

ヒトという種の生物には 先天的に「上」と見なした対象相手の指示や命令などに疑いを持たずに唯々諾々と鵜呑みにする盲目性というものが存在していて これは進化的には哺乳類の「親」に対する情動行動が集団の中に発展したものであり これを生物学上では「社会性」と呼んでいる

「社会性」とは言うものの これはあくまで統率的協調行動を促すだけの単なる動物的行動バイアスに過ぎず 人間性を伴うようなものではない

イジメにおいて統率協調性が発揮されても 振り込め詐欺でも組織腐敗においても 統率協調性はむしろ個人の自律的な社会的責任判断選択を喪失させる非人間性として働くことの方が多いのである

なぜ 人間性として働くことが非常に稀なのかと言えば それは本能習性というものが無意識で目的がないからである

本能習性というものは 遺伝的進化の過程で「拡がり易い性質」が結果的に遺ったに過ぎず 別に合理的目的があって進化したわけではない

暴力的な腐敗組織に同調迎合忖度服従したところで 社会的責任には適さないが 祖先の生息環境下における環境資源の奪い合い競争を勝ち抜くためには必要であったという「結果」であって それが現代の人間社会において方向性のない暴走を招いているとしても 人間性にとって適した行動習性として働くようにはならない

遺伝的進化というものは あくまで自然現象の「結果」であって 都合良くあらゆる環境条件にとって合理的に進化が起きるわけではない

田島木綿子が言うような「急激な環境変化が起きた時だけ生ずる変異」などというものは科学的には何一つ証明されておらず 変異は環境によらず常に起きているものであって 急激な環境変化に適応できなければ絶滅するだけの話に過ぎない

イヌが その先天的な習性としての「社会性」を発揮することによって 統率協調的に獲物を捕らえることに有利に働くとしても それは所詮「野犬の群れ」に過ぎず 決して人間性としての社会性として働くわけではない

それはチンパンジーでも一緒で チンパンジーは特定環境であれば平穏に暮らしているものの ひとたび環境資源が枯渇すると集団統率的にヒヒやゴリラをも殺害する凶暴な野獣に過ぎない

にも関わらず 松沢哲郎は「チンパンジーの先天的行動習性から人間としての社会性を立証できるかも知れない」などと言い出し 衆愚マスコミはこれを短絡的に鵜呑みにし 「できたら素晴らしいですね」などと称賛し 終いには文化功労賞まで獲っているのである

茶番も甚だしい

当時の京大総長が山極寿一であり 山極は「ヒトには先天的に人間性が組み込まれているはずだ」などという これまた科学的には何の根拠もないデマで衆愚人気を集めていたペテン師である

その一方で 「安倍政権はゴリラと一緒で忖度だらけだ」などというトンチンカンな批判をしているのである

「忖度」とは 先天的習性である

ゴリラでもヒトでもイヌでも見られる先天的習性であり 主観的に「上」と見なした対象に媚へつらい服従することへの快楽が 行動バイアスとして先天的に組み込まれているために発揮されるものである

にも関わらず「ヒトには先天的に人間性が組み込まれているはずだ」などという話は支離滅裂にも程がある

完全に国民をおちょくっているのである

しかし 大半の衆愚は「自分がおちょくられている」とは思ってもいないのである

これを「バカ」と言わずに何と形容するのかは 私は知らない

 

スタンレー:ミルグラムによる服従心理実験において 「普通一般のヒト」には普遍的に権威に服従して他人に危害までも加えてしまう性質があることを科学的に「立証」しているのである

つまり ヒトというのは権威の言っていることを盲目的に信じ込む先天的習性が存在し 自分の頭で「何が本当に最も重要なのか」を考えようとはしないものなのである

ヒトは権威の前では簡単にバカになる

カルト宗教の教祖であろうと ISILであろうと ロシア政権であろうと 日大では田中英寿理事長に服従忖度し 東京電力では原発の津波に対する脆弱性を放置した

電話口で「警察です」と言われれば鵜呑みにしてキャッシュカードや暗証番号を教えてしまうものなのである

これらの「失敗」に対して 衆愚は「自分には関係のないことだ」と思い込み 「自分だけは絶対誰にも騙されてなどいない」と信じ込む傲慢さを発揮し 権威の批判に対して条件反射的に拒絶反応を示して耳を一切貸さなくなる

イマヌエル:カントの「純粋理性批判」の内容が 実証不能の謎の「叡智界」を結論している妄想ファンタジーに過ぎないことを ヒトは100年以上も理解認識せずに「近代哲学の最高峰」などという形容詞を鵜呑みにしてきたのである

恐ろしいことに かの科学哲学者カール:ライムンド:ポパーまでもが称賛したという

論理客観的に証明されない話は科学でも哲学でもない

それはそもそも「真理(本当のこと)」ではないからだ

にも関わらず ヒトは主観的に安心満足感が得られてしまうと その主観的安心満足感によって問題意識を見失い 何かが解決したかのように錯覚して思考停止に陥るバカが大半である

 

養老孟司はこう言った

「殴られて気を失うのも 意識が戻るのも自由にならないから 意識に自由などない」と

意識というものには自由にならない部分と 自由になる部分の両方があり 一面的側面だけを採り上げて「意識の全ては自由になどならない」とか「自由意志など存在しない」ことの論証には全くならない

むしろ 殴られて朦朧としているわけでも 酔っ払って酩酊状態なわけでもないのに 東京大学名誉教授という権威肩書の言っている内容を自分の頭では一切検証することなく盲目的に鵜呑みにし 忖度することで安心しようとする卑屈さによって ヒトは簡単にバカになるのである

「自分の頭で物事を考えない」ヤツのことを 何と形容するかは今まで何度も言ってきたことである

ロシア人の多くがプーチン政権を疑わないのも

ドイツ人の大半がナチスに賛同したのも

彼らが特別にキチガイだったわけではなく ヒトとは主観的に安心できる権威などを疑いたがらない先天的習性によってバカになっているのであり これはヒトである以上は誰にでもどの国や民族でも起きうる現象である

 

「意識の9割は無意識」と言うと 「無意識だったら意識には影響がない」と思っているバカがいるが

これこそが大間違いというものである

9割を占める「根拠のない常識」や「先天的行動バイアス」に基づいた主観的好き嫌いによる情動が行動判断を無意識にしてしまうのであって 意識の中の何が無意識で 何が本当の意識なのかを見極められないからバカが治らない

本当の意識が何なのかは 論理客観的根拠に基づいて検証区別されるものであり 情動の強度程度による拒絶反応こそが真実を見えなくしてしまう根源的原因なのである

それこそ振り込め詐欺の電話を鵜呑みしていれば 「いや 自分は絶対に騙されてなどいない」と頑なに拒絶するであろう

その「頑なさ」という情動こそが無意識であり 真実を見えなくしている原因なのである

そうなればもはや意識の10割が無意識に支配されている状態であるから 何にも「自由」などならなくなるのである

二十歳かそこらの兵隊が 上官の命令に唯々諾々と従い民間人を虐殺するのも 過酷な訓練(一種の虐待)を事後正当化する形で命令に服従している自分が正常だと「思わ」されているからこそ ヒトは戦場では残虐行為が蔓延するのである

虐待が連鎖するのは 暴力に対する恐怖心によって服従せざるを得ない環境に「慣れ」てしまい 封建的順位序列関係を受け入れてしまった既存の自己の価値観を事後正当化し 認知的不協和を解消する形で同じような虐待行動を無意識に連鎖するようになるからである

虐待を連鎖している親は 頑なに「俺はそういう育て方しかされていない」「シツケの一環だ」と言い張って自分の行動を正当化しようとするものであり 情動が行動を支配しているからこそ虐待のような非合理な行動を止めることができなくなるのである

「養老孟司先生を信じている自分は 絶対に間違ってなどいない」と思っているバカが世の中の大半のようだが 多数という「数」は養老の言っている内容を一切担保しないのである

生物学者は未だに「進化的に正しい行動」などというものが存在するかのように主張しているが 進化に目的が存在していない以上「進化的に正しい行動」など存在しないのである

世の中の大半は 遺伝的進化というもののメカニズムやアルゴリズムを「知って」はいるとしても それは「知って」いるだけであって 遺伝的進化における生物学上の旧来の説明の何が間違いなのかは誰も指摘できないのである

「知って」いるだけで 何の応用も効かないのである

それは「自分の頭で考えて」いないからである

だから未だに「進化で月経の痛みがなくならないのかしら」などという荒唐無稽でトンチンカンなことを言い出すバカがいなくならないのである

 

どういうわけか物理工学系研究者の大半は「専門外」と称して生物学上の誤謬については誰も言及したがらない

同じ大学であれば他の学部で間違ったことを教えていることを傍観放置しておいて良いわけがないのだが

「面倒臭いことには関わりたくない」という事なかれ主義を発揮して 徹底した傍観放置を継続しているのである

教育者がこうした無責任な傍観放置をしていれば 当然ながら生徒達は社会に出てから無責任な傍観放置が「常識」となってしまうことになるのである

「世の中は 所詮そういうものだ」という諦観によって 考えないようにしておけば安心満足であるため ヒトは問題を見ないようにすることで「問題盲」は生ずるのである

ヒトは諦めると満足するのである

諦めてしまえば自分には責任がなくなると「思って」いるからである

その諦めというものを正当化するのに都合が良い話が フリードリヒ:ニーチェの言う「できそうにないことは やらない方が良い」という迷言である

ニーチェなどの虚無主義に衆愚人気があるのは 「諦め」や「根拠のない決めつけ」をしておいた方が 何も考えたくない衆愚が気分的に安心満足感が得られるのが原因である

 

 


Ende;


「考える」か「考えない」かはあなた次第です

2022年05月20日 17時40分27秒 | 意識論関連

ヒトという種の生物は異質なものに拒否反応を示します

この拒否反応というものには特に合理性はなくて 単に「慣れていない」ために生ずる主観的感覚に過ぎません

 

ドーパミンは その常習性によって思考や行動を「整理」します

「整理」とは言っても あくまで「単純化させている」だけであって 「整理」された思考は根拠のない間違った「常識」や「因習」への執着も作り出すものでもあります

 

ヒトが立って歩く時 重心が傾いた方の足を踏ん張ったり 上半身を傾けたりしてバランスをとろうとしますが

これが二輪車に乗った場合にはバランスを崩す原因ともなってしまいます

二輪車に乗った場合には 車体と身体の軸は動かさない方が車体が安定します

けれど 右に倒れそうになると ヒトって反射的に右足を踏ん張ってバランスをとろうとしてしまうのですが これが二輪車ではバランスを崩す大きな要因になってしまう

ヒトは大抵の場合 二輪車に乗っている時間よりも自分の足で立って歩いていることの方が時間的に長いですから どうしても足で立つ時のバランスのとりかたが無意識に優先してしまう

「脳が整理されている」というのは このように無意識な行動や動作への単純化であって 普段二足歩行する際には便利なんですが いざ二輪車に乗った場合などでは逆に良くない反射的動作も作り出してしまう

意識的に身体の軸と車体の軸を崩さないようにしておかないと うまくバランスがとれなくなる

自分の足で歩くときと 二輪車に乗った時では別のバランスのとり方を「学習」し 使い分けられるようにしないといけない

足で歩く時のバランスのとり方しか「学習」していない場合には 二輪車でバランスをとろうとしてもダメで それぞれのバランスのとり方を「学習」して 脳を切り替えないといけない

 

甥っ子が自転車の練習をしていた時に やっぱりどうしても傾いた方向に上半身を傾けることを繰り返してしまっていて 全然乗れなかったんですね

そこで 他の子が乗っている姿をよく見るように促し 自転車の軸と身体の軸が同じになるようにすればバランスがとれるよと教えたら 急に乗れるようになった

スラックライン的なものに乗る時にも 傾いた方に身体の上半身を傾けてバランスをとるんですが これは二輪車には通用しない

身体が憶えた「常識」的動作が 二輪車では通用しない

こうした無意識な反射的動作を「学習」するのが ドーパミンが持つ常習性の役割なのです

 

「お茶くみは女子社員の仕事」といった根拠のない「常識」に対し 長い間ヒトの大半は問題意識すら持ちませんでした

ドーパミンというのは「安心物質」とも呼ばれ 主観的安心感や満足感を作り出すものでもあるため 一度間違った「常識」を「学習」してしまうと 意識して「あれ 何だかおかしいな」と思わない限りは「会社ってそういうものだ」と諦め鵜呑みにし安心して何も疑問に思わないようになってしまう

 

ヒトがなぜ死ぬことに対して嫌な感情を持つのかといえば ヒトはこの世に産まれてきてからずっと「生きて」いるために 「生きて」いる状態に「慣れ」ているために「死にたくない」と思うようになる

それでは永遠に生きる合理的な意味があるのかと言えば 別にないんですね

これからやってみたいこと 実現したいことがあれば 死なずに生き続けてみたいとも思うんでしょうけども 単に「今までずっと生きていた」ことによる主観的な死への恐怖心というものには何の合理性もないんですね

「死にたくないから 生きている」だけならサルでもイヌでもネズミでもヨシノボリでも一緒であって 別に生きてさえいれば何でも「立派」でも「正解」なわけでもない

自律的な社会的責任判断選択をせずに 自分が利己的に生き続けることのための行動選択には そもそも「人間として生きて」いない以上は単なる「生物的生存」には合理性なんぞないんですね

他人を殺してまで生き延びたとして その人生は人間として豊かだと言えますか? って話ですよ

原発の津波に対する脆弱性を傍観放置しておいて 原発事故で甚大な被害を引き起こしてまで組織に迎合することが 「人間」としての人生として意味があるんですか? って話ですよ

ヒトという種の生物としては生きているとしても 「人間」としては死んだも同然だったら その人生は糞でしかありませんよ

自分にとっても 他人にとってもね

とは言っても サヴァイバーズギルドのような罪悪感を感じているからといって人間として意味がないわけではない

そもそもサヴァイバーズギルドというものは主観的な「感覚」に過ぎず 合理性のない「錯覚」でしかないからです

養老孟司のように「私のような人間が 生きて ここにいて 相済みません」という「感覚」をいくら主張しても それは主観であって合理的根拠がなく 謙虚でも何でもなくて ただの卑屈でしかない

養老は平気で無責任なことを言い出して人気を得ることしか頭にありません

養老は 他人からの評価だけが目的で 社会安全性とか公平性といったものには何の興味もないデクノボウに過ぎないのです

論理整合性のな無責任は話で多数人気を集めて利己的利益を得ることしかしていないからこそ 養老は「生きて ここにいて 相済みません」などという自己肯定感の低い観念に苛まされて続けることになる

評価承認欲求中毒というのは 窃盗症と同じようなものであって 窃盗症なら周りの人から批難されますが 養老の場合はいい加減なことを言えば大衆から人気が出て金にもなりますから もはや誰にもどうにもならずに ずっと無責任な話をし続けることになる

これって 実はプーチンなどの腐敗独裁体制が出来上がるメカニズムと同じなんですね

日本大学の中では 田中英寿理事長やその幹部達に同調迎合忖度服従しておいた方が 理事長側も 服従している側にもメリットがありますから 誰にも止められなくなって暴走的に組織腐敗が進行することになる

権力者のワガママが通る組織体制が一度出来てしまうと 独裁者はワガママに対する歯止めがかからなくなり 破綻するまで暴走的に組織腐敗は進行することになる

「組織は頭から腐る」なんて言ってた人がいましたが これは嘘で 組織腐敗というものは 組織が腐敗しているのに組織を構成している大多数の服従者によっても組織腐敗が進行する原因となっている

ヒトラー1人が悪いんじゃなくて ヒトラー体制に迎合同調忖度服従している組織の多数によってナチスは作られたんですよ

「頭」だけに責任をなすりつけておけば自分達が無罪だと思っていること自体がとんでもない大嘘であり はぐらかしに過ぎない

 

生物学界や哲学界における論理的根拠のない非科学的デマが蔓延しているのに対して 私は今まで幾つも指摘批判してきましたが いくら説明しても生物学界や哲学界のデマが全然なくならないのは 多くのヒトが自分の主観的印象だけで判断していて 論理的には何も理解していないためです

遺伝的進化というものは 決して全てが成功する保証がないものであり 断じて都合良く進化が促されるものでもありませんが 大衆マスコミの大半 実際にはほぼ全員が何も理解しておらず 更科功のように「生きているだけでも立派」などという主観的感想までもが進化生物学の科学的論証であるかのように扱われている

タレントの千秋が 遠藤章造との間に子供をもうけたことに対して事後正当化の屁理屈を主張していたことがありましたが これは自分が既に選択した行動を正当化することによって あたかも自分が先天的に優秀な存在であるかのように錯覚して満足するための無意識な「エピソード記憶」に過ぎず 何の論理科学的根拠にもなりません

それでもなを ヒトは自分が先天的に優秀な存在で 自分が主観的に思ったり感じたりしたことの全ては常に正しいものであるという自己過信に溺れようとする先天的習性があるために 山極寿一が言うような「ヒトには先天的に人間性が組み込まれているはずだ」などという 実際には何の論理的根拠もないデマに衆愚人気が集まるようになる

衆愚やマスコミの多数決や人気は 別に科学的論拠にはなりません

リチャード:ドーキンスの「利己的な遺伝子」などというファンタジー妄想に衆愚人気が長年あるのも 科学的論拠が伴っているわけではなく ただ読んだヒトが気分的に安心満足感を得られるから多数人気があるだけであって 仲間内での利他的行動をいくら抽出してきても仲間以外への差別排除や暴力性の反証には全くならないのです

 

イヌって ヒトを差別するんですね

弘中彩香アナも子供の頃の体験で話してました

イヌには本能としての「社会性」がありますから 統率的協調性を発揮するための本能として 「上」と見なした相手に盲目的に服従し 同時に「下」と見なした相手には暴力的に服従を強要する

イヌというのは平等が大嫌いなんですよ

こうした習性はヒトにもあって ナチス政権下のドイツ人は「自分達ゲルマン民族は先天的に優秀だ」という観念に基づき ユダヤ人を差別迫害することで優越感に溺れて安心満足できることで ナチス政権という腐敗組織の暴走に同調した

「怖い権威に逆らうことで損をすること」を バカは「バカだ」と主観的に思うわけです

バカが主観的に「思って」いることが 本当に「バカ」であることの論拠にはなりません

暴力的独裁体制に逆らえば 左遷などの嫌がらせをされたり 場合によっては殺されたりしますから 自分が利己的に「生きるため」には独裁体制組織に迎合同調忖度服従しておくことの方が「賢い」ことになってしまう

「権威に逆らうなんて 損をするし バカだ」と 主観的には「思う」わけです

だから誰も権威を疑いもしなければ 批判も全く理解しようともしなくなる

そうやって組織腐敗は傍観放置されることになる

権威などの「上」が大好きで その反対として権威を批判する者を「下」とみなして耳を貸さなくなる そういう思考のバイアスが先天的に組み込まれているために ヒトは簡単に腐敗組織に迎合同調忖度服従し 何の疑問も持たなくなる

主観的に「好き」で安心満足感が得られる相手には何の疑問も持たず その主観的に「好き」な権威肩書を持った相手に対する批判に対しては 観念的嫌悪感だけで「バカだ」とか「変人」といったレッテルを貼り付け 一切内容も理解していないのに無視する

だからヒトは洗脳されることになる

洗脳状態であれば それは安心で満足ですよ 安心満足こそが洗脳の原因ですからね

多数が信じ込んでいる相手を一緒になって信じていれば そりゃ安心満足でしょうよ

しかし その「多数」というものは 権威肩書の主張に論理客観的根拠や証拠が伴っていることの保証には全くならない

カール:ライムンド:ポパーの言う「白いスワン」の喩えですよ

ポパーは一説によればイマヌエル:カントを評価していたらしいですが ポパーとてヒトですから間違えることもあるんでしょうよ

ポパーが評価していたとしても カントの主張には論理客観的根拠が伴っておらず ただの勝手な決めつけによる妄想ファンタジーに過ぎないことは 論理客観的に「考え」れば誰でもわかる話です

「考え」なきゃわかりませんよ なにせ100年以上も誰も疑ったことのない話ですから 主観的印象としては安心満足感があるからこそ 100年以上も誰も疑わずに 論理客観的根拠に基づいた「真理」だと錯覚していた

「大多数が間違えるわけがない」と「思って」いるかも知れませんけど 「数」は論拠にはなりません

天動説が信じ込まれていた時代には 地動説は「火炙り」にされたんですよ

錬金錬成術だって科学だと錯覚していたし 宇宙というものは永劫に不変なものだと「思われて」いた

遺伝的進化についても 衆愚マスコミの大多数は進化さえすれば何でも解決するものだと錯覚していて 「進化で月経の痛みがなくならないのかしら」などという優生思想に基づいたトンチンカンな話に誰も疑問を持たない

進化さえ起きればウイルスだって全部弱毒化するものだと錯覚している

そりゃアナウサギに対するミクソーマウイルスみたいに当初95%も死滅すれば弱毒株への収斂が起きてもおかしくはないですけどね

そんなんヒトで起きたら地獄ですよ マリウポリどころじゃない

エボラでも弱毒化は起きてますけど 充分地獄ですよ

そもそも遺伝的進化が生ずるためには 環境に適さない変異個体の全てが死滅(殺害)するなり断種するなりの淘汰圧力が必要であって 淘汰圧力さえ働ければ数世代でも「品種改良」という進化は起きうるものでもあるのです

実際に家畜やペットや農作物は出来ていますから ヒトでも可能ではありますよ だとしたら進化(品種改良)で「月経の痛みがなくなる」ように断種政策でもかましますか?

そういう無知こそがフランシス:ゴルトンの優生学に対する論理反証を130年以上も誰も指摘してこなかった原因でもあるのです

遺伝的進化に頼って先天性の色素性乾皮症を撲滅するというのであれば 断種すれば良いだけのことですよ そんな話を信じているから「頭おかしい」と言っているんですよ

ヒトという種の生物は 先天的に平等が嫌いで 自分の頭で物事を論理客観的に考え 真実がどこにあるのかを見極められないバカだからこそ 科学や哲学の考え方が必要なのであって 生物学や哲学がこれをできておらず 荒唐無稽なデマや嘘や大間違いが蔓延したまま マスコミ衆愚が肩書権威を鵜呑みにしているから 誤謬(間違い)が全く訂正周知されない

それが原因で安全保障など社会安全性のための抜本的対策が遅れたとしても それは私の責任ではありませんよ

ロシアだってゴルバチョフ時代には政権透明性が確保され 独裁にはならなかったでしょ 地政学リスクなんてのは為政者次第でどうにでも変わるものであって 「ヒト」の先天的危険性を理解しないことには安全保障もスッタクレもあったもんじゃぁありませんよ

たとえプーチンを暗殺しても 独裁腐敗体制が作り出される根源的原因を理解していなければ 何度でも独裁政権は繰り返しますよ

それは通り魔死刑にしても通り魔事件がなくならないのと同じ構図です

罰を与えて安心満足するだけで論理客観的な根本的原因究明や再発防止までやらないと あらゆる「人災」は繰り返すことになるのです

「それでも良い」と言うのであれば オラ知らん

 

とてもじゃないが面倒看切れないっす

 

 

 

Ende;


ヒトはルッキズムが9割

2022年05月19日 17時10分51秒 | 意識論関連

「ルッキズムは良くない」だとか言いながら

その一方で「人は見た目が9割」だとか言っているヤツが多くてうんざりする

 

見た目の印象で他人をランク付けするのが間違いの素であって 振り込め詐欺なんてのは電話だからこそ見た目がわからず 「話し方が丁寧だった」などという主観的印象で信じ込んで騙される

要は 主観的印象だけで物事を判断するのが間違いの素なのであって 養老孟司だのマルクス:ガブリエルの言っている内容が支離滅裂で荒唐無稽な嘘だらけであっても 主観的に安心満足感さえ与えられれば鵜呑みにして騙される

「見た目」とか「話し方が丁寧」とか「権威肩書」といった主観的印象なんてのは 大脳辺縁系によって促されるバイアス(脳電位)に過ぎず そうした無意識な脳の偏りやゆらぎを鵜呑みにしているから「無意識」だと言えるのである

個人的に好きな「見た目」とか「話し方」はあるだろう

それはあっても構わないのだが そんな主観的印象だけで物事を判断しているから何が正しいのかを論理客観的に「考え」なくなってバカになる

 

主観的印象とか好みといったものは個人的な好き嫌いの範疇であって 社会的に「正しい」かどうかの論理客観的な根拠には全くならない

女子社員にお茶くみ強制しておいてもバカだと安心なのかも知れないが それこそが無意識というものである

自分の中の価値観の中で どれが個人的な好き嫌いなのか どれが社会的に正しい判断なのかを区別するために理性が必要となる

理性というのは 論理客観的検証性のことですよ 略して理性という

個人的に好きな人が間違ったことを言うこともあれば

逆に個人的には大嫌いなヤツが正しいことを言うこともある

正しいのか 間違いなのか その判断に主観的印象が混入しちゃうから真偽の判断を間違えてしまうことになる

フリードリヒ:ニーチェって時折ブームになって人気が出ることがあるんだが ニーチェの言っている内容というのは基準や根拠が曖昧で 読み手が勝手に都合良くこじつけられるために気分的な安心満足感が得られて人気があるだけで 論理的根拠のある真実を見極めるためのものではなく ただの大衆迎合に過ぎない

「信念は真理の敵」だとか言っているが 信念の全てが真理ではないわけではなく 信念そのものに論理客観的な真理に基づいているかどうかが問題であって 根拠のない身勝手な正義を信念だと主観的に「思って」いるからテロだの通り魔だの戦争だの「懲罰で解決」になってしまう

「暴力や懲罰は解決にならない」という大前提を逸脱しているから 間違った信念に酔いしれ溺れてしまうのであって 論理客観的に根拠のある社会安全性とか公平性に基づいた信念がないからおかしなことになってしまう

「信念は真理の敵」なのではなくて 間違った信念を持つから間違った行動に陥るのであって 正しい信念を持つことは正しい行動選択の源であって 信念を持つこと自体を批判しているニーチェはトンチンカンなのである

ニーチェなんてのはそもそも虚無主義者であって 物事を論理客観的に追及するのが面倒臭いと思っているから 根拠もない勝手な決めつけをしているのであって そういう短絡的で精神的怠惰を促すような話の方が衆愚には人気が得られやすいわけですよ

バカは バカの言っている内容の方が満足感が得られる

それは 暴走族同士で共感共鳴しているのと同じことです

主観的に満足できさえすれば 安心して信用して鵜呑みにする

ヒトという種の生物は 先天的にバカになるように出来ている

バカになることで統率協調性を発揮して「大きな力」も発揮することができますから 結果的にバカになる習性を持った遺伝子だけが拡がりやすくなって遺ったわけです

何せバカなので 地球環境を破壊するほど「大きな力」を発揮して自滅の道を突き進んでいる

「自律」っていうのは他人に頼らず「自分で判断する」ことです

でもね 自分の主観的印象自体は自分では選べない

では どうやって本当に正しいことを「自分で判断する」ことができるのかと言えば それが「論理客観的証拠や根拠に基づいた判断」というわけです

ヒト(動物)としての意識は情動行動も含めたものですが 人間としての意識の本質とは情動に左右されることのない理性によって発揮されるのであって 何が理性で何が情動なのかを区別するのもまた理性なわけですよ

暴走族は 暴走族同士で共鳴共感していれば安心満足できるからこそ 暴走族になる

非常識な行動を常識にしているから迷惑行為で方向性も合理性もないマウンティングをかけて優越感を勝手に妄想している

養老孟司だのマルクス:ガブリエルだのを多数で信じて共感共鳴していても それが養老やガブリエルの言っている内容が真実であることの論証にはならない

科学や哲学といった 「真理(本当のこと)」というのは 多数決で決定するものではなく あくまで論理客観的根拠に基づいて見極めなければならない

私のこた嫌いでも何でも構いませんが アンタが主観的に嫌いかどうかは真偽の論拠にゃならんのですよ

それは 私の個人的好き嫌いであっても同じことです

同性愛者に対して 私はオッサン同士の同性愛が主観的に嫌いで 若い女子同士で愛し合っているのは何か萌へてしまうんですが 理論的には同性愛であることに違いはありませんから 社会的には平等に扱わないとおかしなことになる

誰であれ 主観的好き嫌いはあっても構わないけど それが短絡的に社会正義になってしまうとおかしなことになる

そこを区別するのも 結局理性なんですね

主観に過ぎない情動が優先するから自己客観性も失われてしまう

 

 


Ende;


解決策の真理

2022年05月18日 12時36分29秒 | 意識論関連

全裸で包丁振り回して他人に危害を加えている薬物中毒の男がいたら そりゃ鈍器のようなもので殴り倒して鋼鉄製の檻にでも隔離しておかなければならないでしょう

でも それは「現場の正義」でしかありません

 

同じヒトという種の生物でありながら 人間としては機能しない状態のバカがどうして出てきてしまうのでしょうか?

「大半のヒトは 衆人環視下などの特定環境においてはバカげた行動をしないから ヒトには先天的に人間性が組み込まれている」などと主張するバカもいますが 特定環境下でしか発揮されないということは 同時に「別の環境では人間性が発揮される保証はない」ことも意味します

確かに大半のヒトは残虐行為はしませんが 社会安全の観点からは「一つの重大事象の陰には無数の小さな事象が隠れている」ことを前提にし 「ヒヤリ・ハット」の段階から丹念に対処対応をしてゆく必要があるのです

 

子供が言うことをきかないからといって殴って服従させておけば「簡単」ではあります

ヒトも所詮動物ですから 怖い相手には逆らいたくないので 「勝てそうにない相手」には逆らわずに唯々諾々と服従し その服従している自分を事後正当化するための屁理屈(エピソード記憶)をでっち上げて満足しようとします

こうした「こじつけ論法」のことを 心理学では「合理化」と形容しますが 論理客観的合理性があるわけではなく 単に主観的気分としての安心満足をするための非合理な屁理屈でしかありません

「合理化できた」かのような「錯覚」に過ぎないのです

 

親から暴力的虐待を受けて育った子供は 大人になって自分の子供に対しても暴力的虐待を「連鎖」します

これは 「自分が殴られて育った」ことを観念的に事後正当化しているために 「自分は正しい だから 殴られて育つことも正しい」という自己過信による屁理屈をでっち上げているからです

暴力的威圧をしてくる大人というのは少なからず存在しますが 「数」は正当性の論拠にはなりません

現行の司法警察もまた国家権力による威圧が正当化されていますが 既存の法手続きの全てに論理客観的合理性が伴う保証が存在しているわけでもないのです

「迷惑者はザラにいる」からといって迷惑行為が正当化できるわけではないのと同じことです

 

ヒトの大半が衆人環視環境下においては「悪いこと」をしないのは 自律的に社会的責任判断をしているわけではなく 「多数の人前で悪いことをするのが怖い」からに過ぎず 単に自己保身感情に基づいて他律的抑圧に屈しているに過ぎません

だからこそ 一旦暴動が起きたりすると便乗して暴徒化する民衆というのが大量に出てくることになるのです

ナチス政権下においてドイツ人の多くがユダヤ人迫害に便乗したのも 差別迫害を多数がし始めたことによって その「数」に便乗して差別迫害が過激化暴走したのであって ヒトの大半は自分の頭で物事を考え判断などしておらず 目の前の多数に同調迎合する形でしか善悪の判断をしていない一つの証拠です

こうした現象は 学校でのイジメでも 原発の危険性放置をするような東京電力や 日本大学における腐敗組織に迎合してしまう「組織体質」においても同じ原因によるものであり 「組織の利益を優先し 個人が自律的な社会的責任を負わなかった」ことこそが 原発事故のような重大事象への発展の根本原因なのです

これはプーチン政権の組織腐敗においても同じことが原因です

戦争と原発事故は無関係だと「思う」ヒトもいるかもしれませんが ヒトが引き起こしている「人災」であることに違いはなく 根本原因は「ヒト」に存在しているのであって 「ヒト」が原因で引き起こされているから「人災」というのです

 

ヒトは 主観的に気に入らない相手を殴ると満足します

DV男が散々暴れた後にセロトニンが分泌されて満足し 急に涙流して優しくなったりすることもあります

ヒトの大半は大量虐殺犯に死刑判決が下ると安心満足します

こうした情動行動を「人間性」だと勘違いしているヒトは非常に多いですが その「数」もまた「人間性」の論証には全くなりません

人間性の本質とは 「個人が自律的な社会的責任を負う(畑村洋太郎)」ための判断選択に存在するのであって 単なる個人の主観的情動だけで無意識に行動選択していても人間性の論証にはならないのです

通り魔を死刑にしても 通り魔事件はなくなりません

アメリカでの銃乱射事件でも同じです

ですから 「死刑で解決」だとみなして再発防止のための徹底した原因究明にまで言及しないというのは 「他に被害が出ても知ったことではない」と言っているのと同じことであり 社会人として無責任な判断でもあるのです

しかし 現状では大半のヒトが「死刑で解決」だと見なして誰も刑法制度の欠陥については言及しませんから 多数に同調しておけば社会的無責任が薄まるような「感覚(錯覚)」によって 安心して傍観放置しておくことの方が民主主義的多数決によって合理的な社会安全のための取り組みが傍観放置されてしまっているのです

民主主義制度を導入している以上は 国民の半数以上がバカであれば「バカ主義」にしか陥りません

北朝鮮の軍国主義というのも 太平洋戦争終結までの日本の軍事政権のそれとほぼ全く同じものであり 日本人の大半は日本政府がかつて加害者であったことすらも忘れて北朝鮮を批難しても辻褄が合わないのです

ヒトであれば民族国籍に関わらず 軍事政権などによる封建的な統率協調性や盲目性を発揮して暴力的解決に陥る危険性が存在しており これは祖先の生息環境における環境資源の奪い合い競争に勝ち抜いてきた結果的なヒトの先天的本能習性として組み込まれた行動バイアスが原因であって ヒトには先天的に暴力的差別をしたがる民族浄化バイアスとして働く「人間としての先天的欠陥」が存在しているのです

子供だけで放置しておくと 勝手にイジメが始まってしまうのも ヒトの「人間としての先天的欠陥」によるものであり 子供の幼稚な主観だけで行動させておけば自動的自然にイジメや差別排除は起きるものなのです

 

他人を主観だけで誹謗中傷しておくと 「面白い」ものです

葬式の最中に坊主の頭にハエが止まると「笑って」しまう

しかし 「笑って」しまうとか「面白い」からといって それが短絡的に「自分が望んでいること」だとは言えません

「欲望そのものは欲することができない」からです

イジメをしていると「面白い」ものであり 複数で弱いものイジメをしていると仲間意識による「共感」が働くことによって より満足感を得ることができるため 一種の中毒性がイジメにはあるのです

他人に対して嫌がらせをしていれば 嫌がる相手との比較においては自分の方が優位に立てているという優越感覚が働くため 「集団で個人を誹謗中傷している卑劣な自分の姿」に対する自己客観性が働かなければ イジメは本能習性という自然現象として引き起こされるものなのです

暴走族が「誰にも俺たちを止めることはできない」などと言い出すのは 「俺は他人の迷惑になど配慮が出来ない糞野郎だ」という決めつけが根底にはあり

「自分は絶対に変わらない」という諦めによって ヒトは自信過剰な慢心によって満足しようとするのです

「諦め」ることというのは思考停止の満足感であって 論理客観的に不可能であることの根拠があるわけでもないのに勝手な主観で決め付けているだけに過ぎないのです

虚無主義というのは自己客観的行動判断選択を放棄するための逃避であって 外見的には強がっていますが 実際には「自分に負けている」弱さを正当化しているに過ぎません

 

自分から主体的に「生きよう」としていない者にとっては 社会や世界は「与えられただけ」の消極的生存でしかありませんから 他者から与えられる「脳への報酬」に不足を感じてしまえば 簡単に社会に対する報復的暴力をするようになります

プーチン程の物質的な富や権力を獲得していても 国際社会から嫌がられれば不満に陥り 暴力による解決にしか陥らなくなるものであって

自分の脳内麻薬を自給自足できないバカの欲望というのは合理性や際限というものが全く働かなくなるものなのです

 

加藤英明は「爬虫類バカ」だとも言えますし 千住真理子は「ストラディヴァリウスに呪われている」ようにしか見えません

いわば自分のバカを何に使うかの選択を間違え 他人との比較競争や権威からの評価承認だけでしか自分の脳を満たせなくなると「迷惑なバカ」になるのです

「博士ちゃん」達というのは 自分のバカさを個人の主観的な楽しみとして自覚して脳内麻薬が自給自足できているからこそ イジメなんぞをしている暇もなくなるのです

他人に迷惑をかけたがるバカというのは 他人に迷惑をかけていないと自分で自分を肯定することができない精神の穴を自覚したくないが故の逃避として 必死になって他人に迷惑をかけようとするのであり 暴走族の暴走行為というものが何の誰の得にもならない非合理な行動であるのに必死になって邁進するのは それ以外の何の楽しみも知らない無知によるものなのです

 

元暴走族だった人が 洋菓子作りの楽しみに目覚めてケーキ職人になって更生した事例というのがありました

本当に楽しいと思えて 熱中できることがあれば ヒトは人間としての行動選択「も」できるようになるのです

 

幼女の身体に興味を持つのも 欲望である以上は選択することはできませんが その欲望を何に使うかは選択可能性があるわけです

通りすがりの女子中学生を強姦しても エスカレーターで女子高生のスカートの中を撮影しても それは何の優越にもならず ただの迷惑者でしかありません

動画などを売れば金にはなるかも知れませんが 卑劣なことで金儲けをしている自分に対する自己肯定感を益々失い 自分自身の良心の呵責からは逃れることも出来ず 麻薬中毒患者のように卑劣な行為を繰り返す迷惑者のバカから脱することができなくなるのです

それはまるで 脳の快楽中枢に電極を埋め込まれたネズミが 電極に電流を流すスイッチを必死になって押し続ける状態と何ら違いはありません

大脳辺縁系によって促される欲望の「脳電位」の奴隷には自由などないのです

程度の差こそあれ 「刑法判決で解決だ」と思っている衆愚の満足も 所詮は同じ構造であり 社会安全性を優先して犯罪者の無責任性のメカニズム原因を究明するためには 自分も含めた「ヒト」の認知上の欠陥について自覚する必要があるのです

 

 

 

Ende;


ニコマコス倫理学 (ソクラテス)

2022年05月16日 23時09分49秒 | 意識論関連

「魂とは完全な徳に基づくものである」

魂? 完全な徳?

根拠はどこにあるんだ?

「決めつけが少ない」(伊集院光)

一番重要な部分が決めつけだろ

「人間の本性」

? その基準こそがキモやろが

 

 

中庸 バランス問題 程よい

原発の危険性を放置すべきかどうかに中庸は存在しない

倫理には絶対的判断というものが存在するのであって 何でもかんでもバランス問題にすれば「ナチスに適度に迎合する」ことも正当化可能となるのである

そんな曖昧な倫理なんぞねぇだろ

 

 

Ende;


問題盲

2022年05月16日 14時52分06秒 | 意識論関連

「答えのない問題」というものは一種類ではない

単に気分的に悩ましいだけで 論理客観的には答えなんぞ出しようもない 「絶対に答えが出てこないことが立証可能な問題」というのもあれば

「まだ誰も何がなのかはおろか そもそも正解が存在するのかどうかもわからない問題」というものもある

正解にたどりつくために必要な情報や知見自体が不足している場合や 単に「まだ誰も論理客観的には考えてすらいない」場合もある

つまり「まだ答えが見つかっていない問題」の場合には 答えが見つかる可能性が残されているが

気分的に悩ましいだけの問題の場合には答え自体が存在してないのであり そもそもそんな問題自体が論理客観的には「命題」ですらないのである

「トロッコ問題」が倫理的に役に立たないのは 命題自体が主観的に悩ましいだけであって そもそも倫理的責任が介在する命題ではないからである

「死んだ人数」だけで物事を判断するのであれば 死んでいなければ飲酒運転であっても事故さえ起こさなければ倫理に適ってしまうことになるのである

法手続き的な懲罰というものも意味を為さない なぜなら「バレなければ責任を問われない」からである

この世の全ての人の行動の全てを把握できるわけもなく しかもプライバシーも存在している以上は誰にもわからず無責任な「悪いこと」は可能なのである

原発事故であっても 津波に襲われて事故になるまでは非常用電源が津波に弱い地下にしかなかった無責任性も問われることはなかったのである

また 実際に刑罰による抑圧をしたところで 自律の欠落した無責任な者にとっては 「女子中学生を誘拐監禁することなど 高価な美術品を盗むよりは罪が軽いと思った」などと言い出す始末である

飲酒運転によって小学生を死傷させた大型トラック運転手においても 警察に捕まって厳しい取り調べを受けて嫌な気持ちになったから「反省」しているだけであって 飲酒運転に対する罪悪感よりも 目先の欲望の方が勝っていたから事故になるまで飲酒運転を続けたのである

 

他人から促されるまでは問題だとすら「思って」いない

それは 振り込め詐欺に騙されているにも関わらず頑なに「いや 自分は絶対に騙されてなどいない」と言い張る人の「思い込み」と同じものであって 実際に目の前に物的証拠を見せられても「理解」しているわけではなく 「皆が言っているから」観念的に認めているに過ぎない

犯罪者の多くが懲役刑を終えて出所しても凡(およ)そ半数(英国では70%以上)が再犯してしまうのも 自分がなぜ無責任な犯罪を犯しているのかを理解していないことや そもそも無責任であることの何が悪いのかも理解してないのが原因である

刑務所の中だけなら 外見上反省しているかのような態度を採ることは可能であり だからこそ「へずまりゅう」は釈放後に「俺の涙はヨダレと一緒」などと称して司法裁判を愚弄しているのである

釈放されれば何を言っても「言論の自由」であり どんなに司法を冒涜しても罪に問われることはないのである

司法による法手続きというものは その程度の抑止力しか持っておらず 本人の自律の有無に関しては「思想信条の自由」の範疇として扱われてしまっているのである

自律的な社会的責任については 本人の意識の問題であって 法的に抑圧してどうにかなるものではない

基本的な理想としては 国民の全てが自律的に社会的責任判断選択を行うことが必要であって 国民が社会的責任を負わないのであれば役人もまた負うことはなくなるのである

警察権力任せにしておいても国民の自律を促すことにおいては逆効果であって 逆に国民が警察権力に依存しているが故に警察もまた厳罰化にばかり頼る施策しかしなくなるのである

こうした相互依存的な責任のなすりつけ合い制度だからこそ 論理客観的な犯罪の原因究明や再発防止のための施策がほとんど進まないのである

「ほとんど」は進まないのだが 少しづつは進んでいる

それは 現場の警察官や 窃盗症治療に携わる医師などの当事者の中に問題意識を持った人もいるからであって 

「意識」なくしてあらゆる問題は解決しないのである

 

ヒトの大半は 他人から考えを促されなければ何が問題なのかすら自分では見つけることすらしないバカである

警察官も大半は自分の「業績」にしか興味はなく 警察としての社会的役割や「本当の目的」に基づいた行動選択など興味がないバカが大半である

道路交通法違反は現行犯でしか逮捕出来ないとか 整備不良は陸運局による検査が必要だとか そういった手続きの穴を理由に暴走族やルーレット族は放置されているのである

暴走族なんぞやらかすバカが なぜ自律的な責任判断をしないのかについてまで徹底的に言及しなければならないのであって これは国家権力による抑圧ではなく 学術研究機関による調査が優先しなければならない

航空機事故や原発事故であれば学術研究が優先されるが こうした方法論は犯罪においても応用可能なものであり 漫然と犯罪者の「刑事責任能力」を問うても 司法手続き上では懲罰の判決や民事による賠償金の金額しか算出しないのである

 

何が問題なのか見えていない「問題盲」の状態だからこそ 実効性のある論理客観的根拠に基づいた合理的施策がほとんど進まず 傍観放置状態が変わらないのである

問題自体が見えていないのであれば 問題に対する答えの有無に関わらず何もわからないのは当然の話である

それはもはや「痴呆状態」とも言えるものである

 

 

Ende;


考えないヒト

2022年05月16日 11時58分52秒 | 意識論関連

マイケル:サンデルは認知行動療法的手法で 学生に「どうして そう思うのですか?」という問いかけによって 学生に考えを促しているのである

他人から促されないと考えないのであれば 考えを促されなければ自分からは何も考えようとはしなくなる

本来であれば サンデルなどの他人から促されなくとも日頃から自分の頭で物事を検証判断することが「意識」として重要なのであって 促されてから考えていたのでは本質的には自発性ではない

それは「やる気スイッチ」的に他人から煽られている意欲に過ぎず カルト宗教の教祖に「やる気スイッチ」を押されてしまえば地下鉄に毒ガスを撒き散らすバカにもなり得るのである

 

養老孟司の言っている内容の論理整合性の著しい欠落については 誰も「本当に間違っていないと言えますか」とは考えを促さない

促されていないことは 誰も考えもしないのである

更科功のような生物学権威による説明についても チャールズ:ダーウィンによる遺伝的進化のメカニズム説明をした直後に 「生きていること自体が目的」だの「生きているだけでも立派なものなのだ」などといった支離滅裂で主観に基づいた話であっても 衆愚マスコミの大半は 話の内容に論理整合性が抜け落ちていることには誰も気づかない

マルクス:ガブリエルが「世界は存在しない」だとか「時間は無限に分割すればなくなる」などといった荒唐無稽なデマを言っていても ヒトの大半は何の疑問も持たずに簡単に鵜呑みにし 「新時代の哲学」などと称した哲学界の称賛に疑問を持たない

イマヌエル:カントの「純粋理性批判」についても 哲学権威が「近代哲学の最高峰」などと称賛していれば 大衆マスコミの誰も異論を挟まなかったのである

 

振り込め詐欺に騙された場合には 警察という権力や 家族から騙されたことを告げられることで 騙されたことをやむなく認めているだけであって 気分的に落ち込むだけで なぜ騙されたのかについての論理客観的原因については何の自覚もないため 何度でも騙されることを繰り返すのである

学術権威の肩書を持った者の言っている内容に間違いや嘘が混入していても 衆愚マスコミのほぼ全員は間違いや嘘には気づかない

多数が気づかなければ その多数によってもたらされる気分的安心感によって どこがどう間違っているのかなど 興味すら持たないのである

フランシス:ゴルトンの優生学に対する論理反証は 遺伝的進化に目的が存在せず 決して都合良く進化が選べるようなものではないことを理解していれば 中学生であっても説明可能なものである

実際には小学生でもできるようである

バカなタレントが「進化で月経の痛みがなくならないのかしら」などと言い出すのも 遺伝的進化というものを論理的には誰も理解していない証拠である

こうした予測に対し 生物学者共は「進化には何千万年もかかる」などという間違った説明をしているが 農作物や家畜の「品種改良」は数十年単位で可能なものであって 淘汰圧力さえかければヒトでも「品種改良」は可能なものである

いわずものがなヒトを「品種改良」するなどということは人権を無視した野蛮行為である

遺伝的進化という自然現象の恐ろしさを理解していないからこそ 「進化で何でも解決するんじゃないだろうか」という妄想観念が働き これが優生思想という凶悪な人権侵害の施策を推し進めた原因なのである

ある病理診断医を弁護してきたバカが 「そんなの皆知っている」などと言ってきたことがあるが 知識として「知って」はいても 論理客観的には「理解」していないからこそ 遺伝的進化における「典型的な間違い」が一向に訂正周知されないのである

NHKの番組制作者達も 同じ様に「知って」はいても 論理客観的に「理解」しているわけではないために 何が間違いで 何が正しいのかを自律的には誰も判断すらしないのである

こうした状態を無意識でバカだと言っているのである

生物学権威の説明を鵜呑みにしておけば主観的には安心満足で 間違っていても責任は全て権威が負ってくれるとでも「思って」いるのであろうが

そうした「感覚(錯覚)」こそが自律的な社会的責任判断選択能力を不具にしてしまう原因なのである

 

腹が減ったので昼飯だ

 

 

 

Ende;