スペシャルオリンピックスまで一週間

 スペシャルオリンピックス(SO)冬季世界大会の開催が一週間後にせまってきました。小泉さんも激励したり、雅子妃殿下が会場を訪れるとか訪れないとかで、世間の耳目を集めつつあります。

 が、かねてよりそこはかとなく疑念を抱いていたのは、「SOは大々的に報じられるべきスポーツイベントなのか否か」ということです。
 「知能発達障害者なのに…」という視点で彼らの競技を語る、あるいは自分が見るのは、好奇的な視点の産物であり、純粋にスポーツを語る(見る)ことにはなり得ない。見世物小屋的な行為なのではないのか、という思いがあります。一方で、彼らの競技やノンスポーツプログラムを報じること、そして私たち市民がそれに触れることは、今後知的発達障害者が参画しやすい社会を形成するのに、意義深いことなのではないかという思いもあります。

 「見せ物」なのか、「社会的意義」なのか。『多様性』という言葉に、一つの道筋を見つけました。

 私たちがSOを見る価値は、「この世にいる一人ひとりが自己の成長のために努力していることを、彼らの競技姿勢を通じて、実感すること」にあると考えます。A選手はAさんなりの、B選手はBさんなりの物差しで、成績をはかれば良い。順位は、アスリートの自己努力のための動機づけでしかなく、我々、見る側には何の意味もないのです。だからこそ、SOでは全員表彰が行われるのでしょう。

 ではコンペティティブな要素を排除しても、それがスポーツであると言えるのか? という疑問がわいてきます。しかし、それでもなお、私はアスリートが自己の精神と肉体の限界に挑み、向上を目指す限り、それはスポーツであると考えます。たとえるならば、誰に勝つわけでもなく、もくもくと高みを目指す、登山家を見るイメージです。

 SOが大会期間中、どのように報じられるか? そのありうべき姿は、グローバル・ユース・サミットを通じて、伝えられることでしょう。
 私は、日本人が勝った負けたではなく、一人ひとりのアスリートの表情、市民との交流などに、注目していきたいと考えています。
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