エゾ中村のブログ

「藤圭子」から「現代医学の功罪」まで、思いの丈を綴ります。 ・・・ From 北海道 ・・・

津軽の魂『高橋 竹山』

2021-07-23 08:17:19 | 芸能・アイドル
1975年頃、民主音楽協会(民音)会員の友人に誘われ、札幌市の旧・厚生年金会館に向かいました。 当時、津軽三味線 のブームを巻き起こした 「高橋 竹山(ちくざん)」の独演会を 聴く為です。 開演の合図で緞帳(どんちょう)が上がると、大きなステージの中央に、三味線を抱えた紋付き袴姿の「高橋 竹山」が、小さな椅子に座っていました。 年の頃は 65歳ほどで、角ばった顔に丸刈りで、恰幅の良い オジサン に見えました。 

いよいよ演奏が始まると思いきや、張りのある声で 語り が続きました。 5分・10分・・・、自己紹介 や 昔話 が止まりません。 残念ながら 津軽弁は、殆んど理解出来ませんでした。 凡そ 30分で語り(話)が終わり、三味線の演奏が始まりました。 驚きました。 一張の三味線が、数人の合奏並みに音の広がりを醸し出すのです。 正に 魂 のバチさばきでした。 先に発売された アルバム「源流・高橋竹山の世界」で、評価が高かった 津軽じょんがら節 は、噂どうり 圧巻でした。 私も友人も、勿論 全ての観客は、終演まで 竹山の津軽三味線 に、心底 魅了されました!

「高橋 竹山」は 3歳の頃、麻疹をこじらせ 視力を失ったと聞いています。 将来を悲観した親は、幼い子を盲目の 門付(三味線や唄を芸に旅をする)を教える ボサマ に修業に出したそうです。 一通り芸を習得し、17歳で東北~北海道などに 門付 する旅に出た様です。 「竹山」が 脚光を浴びたのは、厳しい 門付 を始めて30年も過ぎた頃だと思います。 1963年、キングレコード社から、LP レコードを出版しています。 1973年、渋谷の小劇場 ジャンジャン に出演し、津軽三味線のブームを起こしました。 1977年、「竹山ひとり旅」(主演・林 隆三)モスクワ国際映画祭 に、彼の半生を描いた映画(新藤 兼人脚本・監督)を出品しています。  

1986年(75歳頃) アメリカ公演で 津軽三味線を披露し、大反響を起こしました。 普段は辛口の評価しかしない ニューヨーク・タイムズ は「まるで 魂 の探知機でもあるかの様に、聴衆の心の共振音を手探りで寄せてしまう。名匠と呼ばずして何であろう」と、最高の賛辞を贈ったと言います。 そうです。 「高橋 竹山」は、間違いなく「邦楽の巨匠」です。 「北島 三郎」が 唄った「風雪流れ旅 ♪ 破れ単衣(ひとえ)に三味線 抱けばよされよされと雪が降る泣きの十六短い指に息を吹きかけ超えて来たアイヤーアイヤー津軽八戸大湊 ♪ は、「竹山」の生き様(人生)です。 残念ながら、1998年 87歳で亡くなりました!
      
◎ 津軽三味線の第一人者 「高橋 竹山」
Photo  
余談ですが「藤 圭子」の母 & 「宇多田 ヒカル」の祖母である 旧姓・「竹山 澄子」は、女性盲人芸能者・盲御前(ごぜ)でした。 盲目の三味線奏者であり、唄(浪曲)も秀でていたと聞きます。 「竹山」と同じ 門付 で、東北~北海道を旅していた様です。 いわゆる 同業者で、姓・名に「ちくざん」と「たけやま」、何故か「竹山」が気になりました。 しかし、師弟関係は無い様です。 あるとすれば、一時期 門付のライバル関係だったかも知れません? どちらにしても、「高橋 竹山」も「竹山 澄子」(昭和の歌姫・平成の歌姫のルーツ)も 三味線だけではなく、日本人の魂 を奏でています!      

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2 コメント

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ありがとうございます (brm 2)
2020-01-02 18:26:55
普段長めの記事は苦手なのですが懐かしさいっぱいの記事に夢中で読みました。

これからもよろしくお願いいたします。
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弾く・・・ ()
2020-01-05 18:14:17
こんばんは、sparrowsさん。

久しぶりに高橋竹山さんのことを記事にしたものを拝見しましたので。
もう昔々になりましたが、東北に10年ほど住んだときに知った(まだ存命だった)竹山さんのカセットテープを求め聞いたものでした。
一方、叩くものですという、木田 林松栄さんのことも知りカセットを求め聞き比べました。
風土に根差した太棹の音色に聞きほれたことを思い出しましたのでコメントさせていただきました。
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