エゾ中村のブログ

「藤圭子」から「現代医学の功罪」まで、思いの丈を綴ります。 ・・・ From 北海道 ・・・

アイヌ人と『伊達 邦成』

2021-08-26 08:06:11 | “アイヌ文化”関連

どうして 福島県北海道に、同じ名の 伊達市 があるのか? 理由は、姉妹都市だからです! ただし、歴史がある福島県が本家で、新しい北海道が分家と言う訳でもありません。

北海道・南西部の 伊達市 は、福島県の 伊達市 と深い関係があります。 仙台藩・亘理の領主「伊達 邦成」(「伊達 政宗」の子孫)は、戊辰戦争で新・政府軍が勝利した後、領地(現・宮城県&福島県)を奪われ一族郎党 流浪の民となる運命を辿りました。 仙台藩・亘理藩が解体され 農民になるか漁民なるか、選択を余儀なくされたのです。 「伊達 邦成」は 明治政府に懇願し、家臣(250人)その家族(3000人)を連ね 蝦夷地開拓 を願い 受け入れられたそうです。 そこで辿り着いたのが、現在の北海道・南西部 伊達市(旧・伊達紋別町)でした。 今でこそ、農業 や 漁業 に適した豊かな土地ですが、当時は森林が広がる荒地だったのは想像できます。 そこで刀(武士の魂)をスコップや鍬に持ち換えた武士達が、汗水垂らし開墾に挑んだのですから、並大抵の苦労ではなかったと思います!

◎蝦夷地開拓の祖「伊達 邦成」

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(伊達市カルチャーセンターに建つ銅像)                  

「伊達 邦成」は 先住民族・アイヌ人に対し、共存共栄の道を選んだそうです。 新参者として「信義を旨とし礼儀を重んじること」を、家臣達に徹底したと言われています。 それ故に トラブルも無く、地域に溶け込んだと思います。 それに反し 明治政府(主に屯田兵)は、力による侵略でアイヌ人に不信・不満を生んだのは確かです。 思うに、徳川幕府時代から貿易による交流があった仙台藩の移住者はアイヌ人と共存し、軍事を強化した明治政府は アイヌ人を 土人 の如く扱った。 「伊達 邦成」は、廃藩置県 や 平民籍編入 で力を失った後も、地域の発展に寄与し信頼と尊敬を受けた偉人です。 蝦夷地を北海道と改名し、強権を振るいアイヌ人を差別・虐待した 明治政府の態度とは、根本的に違います!

元々、明治維新を成し遂げた政府軍は、徳川幕府の家臣です。(全ての武士が 不平不満分子ではなかった筈です) 如何して 天皇 を招いた瞬間、平穏を嫌い 軍国主義 と言う狂気に走ったのか? その後の世界侵略(戦争)は、近代史における紛れもない事実です! 安易に「徳川幕府は良かった」と 言いません。 ただし、明治・大正・昭和(戦前)の「侵略の明け暮れ」は、冗談にも評価できません。 それ以上、「明治の亡霊が宿る」 強権だけが目立つ現政権を、手放しで称賛は出来ません。 日本が世界に誇る 平和憲法 が危うい。 一度 憲法を弄ると、瞬く間 軍国主義 が目覚めます!

◎毎年8月に行われる“伊達武者祭り”

◎仙台藩の「伊達 政宗」は、会津藩と直接繋がりはなかった様です。 会津藩は 混乱の幕末期「伊達 邦成」と手を組んだ事から、明治時代 伊達市(伊達紋別町)を名乗ったと思います。 今でも、江戸時代の風情が残る街です!

札幌開拓の父『島 義勇』

2021-08-22 08:11:04 | “アイヌ文化”関連
北海道開拓史において、蝦夷地 を知り尽くした 初代判官「松浦 武四朗」が、名実ともに知られています。 残念な事に「松浦」は、蝦夷地が北海道と改名されて間もなく、開拓使判官の職を辞して故郷の三重県に 無念の帰還となりました。 思うに、アイヌ民族を無視した明治政府の強権に、遣る瀬ない不満があったと思います。 それは、次期開拓使判官を就任した「島 義勇」(1822年生まれ)にしても、似た様な経緯があると思います。 
佐賀県出身の「島」は、藩主「鍋島 直正」の家臣として実力を発揮し、蝦夷地や樺太(現・サハリン)の探検を担う任務に就いています。 その功績を明治政府が認め、北海道開拓使判官を「鍋島」の後押しもあって任命した様です。 果たして「島」の就任が適任だったのか、蝦夷地(札幌)の開拓に少々疑問が湧きます! 功績 と言うには、実績が伴っていないと感じるのです。

◎「北海道神宮」に建てられた「島 義勇」の銅像

島義勇」は、開拓判官に就任し真っ先に訪れたのが、札幌市街を見下ろせる  円山 および 宮の森 地区だった様です。 現 北海道神宮 の高台に立ち、開拓の 青写真 を模索したそうです。 京都の街並みを参考に、札幌 を 日本一の都市にしたいと構想したのです。 無謀だったのかも知れません。 極寒の状況下で、札幌の開拓事業は困難を極めた。 一年分の予算(約7万両)を、4ヶ月で使い果たしたのです。 疑問を持った明治政府から、即座に解任を言い渡されたのですから「島」の札幌開拓に些か疑念を抱きます。 僅か 4ヶ月で、開拓使判官を解任された。 それでも、蝦夷地開拓の先駆者・「北海道札幌開拓の父」と、呼ばれるのですから不思議です! 「島」の武勇伝(活躍)は、本物だったのか?

◎ 現在の「札幌市」の街並み


明治政府による 蝦夷地開拓 および 札幌開発 は、「松浦 武四郎」「鍋島 直正」「島 義勇」の尽力により、スタート を切ったと思います。 しかし 明治政府は、アイヌ民族 を無視したまま、放漫な開拓を続けます。 少なくとも「松浦」と「島」は、政府の強行に対し 半旗を掲げた 人物だと思います。 「松浦」は、北加伊道 の命名を譲らず 「島」は、札幌 をアイヌ語の “サツポロ”(意味:乾いた広い場所)と、地名に拘った事で両者の 蝦夷地 および アイヌ民族 に対する愛着を感じます! 旧幕府軍の二人と 明治政府の考え方が、大きく違っていたのか? それであれば、多少は納得できます。  

「島 義勇」は、開拓使判官を解任された後 佐賀県に戻り、若い仲間らと 佐賀の乱 を起こし、政治犯として逮捕されています。 首謀者として、裁判の上 打首 で処刑された。 「松浦」にしろ「島」にしろ、北海道開拓 に纏わる不可解な出来事が、明治初期に連続しています。 明治時代「軍国主義」が齎した 暴走 でしょうか? 蝦夷地(札幌)開拓は、明治政府の穿った思想(強権)が、あらゆる場面で窺えます!

腸内フローラ

2021-08-20 08:28:15 | “現代医学の功罪” 関連
現代医学は、患者の腸内はあたかも花畑(フローラ)の如く、美しいイメージで腸の働きを説明しています。 しかし 腸内フローラは、単に腸内細菌の事です。 通常は、善玉菌20%・悪玉菌10%・日和見菌70%が、腸内で戦い合っていると強調し、善玉も悪玉も条件次第で80~90%の変動があるかの様に、曖昧かつ不可解な説明をしています。 それでは、何の説得力もありません。 そんな事では、医学が腸内細菌の重要性を認識しているとは思えません。 その理由は、医者や学者が挙って骨髄造血説を主張しているからです。 骨髄造血とは、骨の中で真っ赤な血が造られると言う事です。 血管が通っていないカルシウムで覆われている骨で、日々大量の血液が造られると言うのですから理解に苦しみます。 誰か、骨の中で血が造られる所を見た人がいるのでしょうか? どうして現代医学は、論拠のない骨髄造血説に拘るのか、答えは100数十年前にある様です。

◎ “腸内フローラ”イメージ


1800年代、ドイツの病理学者「ルドルフ・ウイルヒョウ」は、論文の中で骨髄造血説を発表しています。 ニワトリを使った研究で、骨髄で造血が成されたと主張し、当時の医学界から絶賛されたそうです。「ニワトリを籠に入れ エサも水も与えず、衰弱死を待って解剖した結果、造血幹細胞が骨髄内に集中し、骨中で赤血球・白血球・血小板が造られた」と言うものです。 おそらく、実験は兎も角 論文は一流だったと思います。 然らば、医学の根源は文学かと疑ってしまいます。 ある意味で、論文が優れていれば後輩達は従い、その論理が既成事実として正当化されてしまいます。 偉大な学者の仮説は、安易に否定できない医学界の師弟制度を感じます。 それでは、科学的と声高に謳う現代医学も、懐古的と揶揄されるのが当然です!

◎「ルドルフ・ウイルヒョウ」(1821~1902年)

現在 腸造血説は、一部の医者や学者が支持しています。 当然です。 食べた物は胃腸で消化し、小腸の腺毛で造血され生命を維持しているのです。 善玉菌・悪玉菌・日和見菌が、1000種類・重量1~1,5キログラム・数量600~1000兆個と、食べ物を分解・液化し生体における造血を図るのです。 “骨が血液を造る”と“腸が血液を造る”は、物理的にも論理的にも全く違います。 医学が骨髄造血に執着するのなら、あえて反論はしません。 ただし、白血病の治療  “骨髄移植”  の為なら問題です。 

“骨髄造血説” は “腸造血説”に比べ、信憑性が低い!  

腸内を活性化するのは、運動であり睡眠であり 一番重要なのは 食べる事 です。 ①ニンニク ②ショウガ ③ヨーグルト ④納豆 ⑤オリゴ糖(腸内のビフィズス菌の餌)・・・etc、食べる物は全て栄養です。 しかし、体に良い食材を定期的に摂取するのが大切です。 インド人が食べるカレー・韓国人が食べるキムチ・日本人が食べる味噌や漬物などの発酵食品、理に叶った“食”です。 健康を維持するには、体温を保ち上げる事が必要です。 体温が1℃上がれば、免疫力が 2倍増強するのです。 食事によって、腸内を常に活性化すれば、自ずから健康でいられると思います。

『徳川 慶喜』 蝦夷への想い

2021-08-18 08:26:45 | “アイヌ文化”関連
***** 最後の将軍『徳川 慶喜』が 大政奉還の後“明治政府”に宛てた“嘆願書” *****

蝦夷地(現・北海道)は、最近まで徳川家が経営して来た地で、人口は極めて少ない未開地である。 この蝦夷地のうち、どこか徳川にお預け頂いて 家来たちを土着させたい。 そうなれば、不毛の地の開拓もでき、そのうえ 徳川の家来たちの生活も安定するするのではないか、お願い致したい」 (北海道開拓史より抜粋)

戊辰戦争で大敗した『徳川 慶喜』は、新政府軍(明治政府)に軟禁される中、旧幕府軍(家来達)の行く末を案じて嘆願書を書いています。 書状において、「蝦夷地は、徳川家が経営して来た地」と認めています。 その表現は、決して“領土”・“支配地”と言っていません。 寧ろ、“貿易の地”であり“共存・共栄の地”を強調していると思います。 そんな考え方が、富国強兵(軍国主義)を目指す明治政府の思惑と大きな隔たりがあった為、『徳川 慶喜』の嘆願は受け入れられなかった。 やはり、元将軍を支持する多くの家来を蝦夷地に集結するのに、明治政府は戸惑いがあったと思います。 反乱を恐れた明治政府は、『慶喜』と部下達に農地(静岡県)を与え、輸出向けの“日本茶”を生産させた様です!
                   
 ◎大政奉還を決断した「徳川 慶喜」
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それから150年、『徳川 慶喜』(1837~1913)の想いは実現したのか? 蝦夷の先住民族・アイヌ人との“共存・共栄”は果たせたのか? 結果は、真逆です! 現在 北海道のアイヌ人は13,000人に激減し、日本の領土に化しています! それでも、2020年の東京オリンピックの成功を願い“領土”の表現を一切封印し、“北海道命名150年”と“名付け親”を強調しています。 真実でしょうか? 世界に対する安直な“目くらまし”です! 『源 頼朝』の時代から 680年続いた“武家政権”を、安易に支持する訳ではありません。 しかし、明治以降の“軍国主義”やその思想を、「日本の夜明け」と称賛する事は出来ません!

徳川幕府は、蝦夷地の開拓に様々な布石を積んでいます。 決して、銃や大砲で侵略を進めたものではありません。

◎「伊能 忠敬」と「間宮 林蔵」の測量データにより作図された「伊能図」

 
① 『伊能 忠敬』(1745~1818) 蝦夷の地図作成。

② 『間宮 林蔵』(1780~1844) 樺太(現・サハリン)探索 間宮海峡の命名。

③ 『松浦 武四郎』(1818~1888) 蝦夷地の日本語訳 「北海道」命名?
 *「松浦」は、アイヌ民族の意向を反映し「北加伊道」を主張したそうです。

『徳川 家康』の再来と言われた策士『徳川 慶喜』は、これほどの調査や実績を重ねたにも拘らず、蝦夷地に武力侵略をしなかった。 そこには、先住民族・アイヌ人との“共存・共栄”を模索していたからだと思います。 しかし 明治政府を始めとする現政府は、先住民族の処遇に対し 余りにも冷酷です。 “アイヌ人”も“琉球人”も、つい最近まで“土人”と蔑んで来たのですから? 近隣諸国や世界から、日本の政治は遅れていると揶揄されるのは当然です! 「人民による人民の為の政治」 日本の民主主義は、欧米に比べ少なくとも100年遅れているのは、偽りの無い事実です。 

『徳川 慶喜』が、明治政府に嘆願した蝦夷地開拓の願いが実現していれば、現在の北海道の状況もアイヌ民族の処遇も、大きく変わっていたと思います。

邦画選『 その人は昔 』

2021-08-16 08:17:30 | 芸能・アイドル

映画 『 その人は昔 』を、覚えている方は少ないと思います。 上映は 1967年ですから、半世紀前の映画です。 実は、私も忘れていました。 偶々 YouTubeで「舟木 一夫」の楽曲を検索すると、映画「その人は昔」が予告欄で紹介されていました。 意外にも 抽入歌は10曲ほどあり、順番に楽曲とサンプル動画を閲覧している内に、当時の記憶が蘇って来たのです。 「その人は昔」 それは、異色の邦画でした。

歌手「舟木 一夫」が デビューして間もなく、初の主演と話題になった映画でした。 ヒット曲 高校 3年生 を映画化したストーリーと思っていましたが、内容は全く違うものでした。 青春恋愛物語 ではなく、むしろ 社会問題 がテーマの様でした。 また、主演が「舟木 一夫」にも関わらず、共演の「内藤 洋子」が目立った 悲劇 でもあり ロマンチック な、素晴らしい映画でした。

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映画 『 その人は昔 』 1967年公開

* 監督 松山 善三 

* 主演 舟木 一夫 (歌手・22歳)

* 共演 内藤 洋子 (女優・16歳)

(ストーリーは、私の記憶です。 間違いや勘違いは、多々あると思います)

北海道・日高地方で、漁師の家に生まれた「舟木」と 競走馬を飼育する家に生まれた「内藤」が、東京に夢を求め 駆け落ち(逃避行)同然の旅立ちが始まりでした。 「舟木」は 印刷会社に・「内藤」は 喫茶店に、住み込みの仕事は簡単に見つかりました。 若い二人は 休みの日に合い、将来の夢を語っていました。 しかし 東京と言う魔性は、純粋な「内藤」の心を襲って来ました。 妻子ある男に騙され、身も心も傷付いてしまったのです。 それを知った「舟木」は、一緒に故郷に帰り再出発しようと説得しようとしました。 その話し合いをする日「舟木」は、印刷機に手を挟まれ怪我をし、待ち合わせの場所に行く事が出来なくなりました。 何時間も待った「内藤」は、「舟木」に愛想を尽かされたと勘違いし、悲しみの余り東京湾で入水自殺してしまいました。・・・ 「内藤」の死を知った「舟木」は、お骨を抱いて一人北海道に帰る決断をしました。 故郷に着く寸前「舟木」は 幻 を見たのです。 昔「内藤」が世話をしていた 白馬 に乗り、列車を追って「舟木」に微笑む、天使の様な彼女の 幻 でした。 そこで「内藤」が歌う「白馬のルンナ」が流れます。

♪  ルンナ・月の浜辺のルンナ・・・ ルンナ・星を見つめてルンナ・・・ ルンナ・お伽話をしましょう・・  

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映画のストーリーは、至って単純でした。 しかし、挿入曲が良かった。 「舟木 一夫」は 勿論「内藤 洋子」の爽やかな歌声が、映画のイメージを盛り上げたと思います。 特に 終盤の「白馬のルンナ」は、素晴らしく 胸を打ちました。  中学生時代の私には、天使の歌声 に聞こた美しい楽曲でした。

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どうしてなのでしょうか? その後、「舟木 一夫」の活躍は度々目撃しても「内藤 洋子」の噂は聞こえません! 確か、現在 70歳の筈です。 そう言えば、女優の「喜多嶋 舞」が「内藤 洋子」の娘と聞いた事があります。(多少、面影がある?)  

私は 子供の頃から、数多く映画を観て来ました。 ただし「エディ・マーフィー」主演・監督の「星の王子様・ニューヨークに行く」(1988年上映)を最後に、映画館に行く事を止めました。 「余りにもくだらない」「観る価値が無い」と、呆れたからです。 正直 ハリウッド映画が、嫌になりました。 昨今の 特撮 や コンピューター・グラフィック、確かに迫力は有ります。 しかし、私は称賛できません。 本当は「映画好き なのですが」