いのちの源

こちらはあなたにいのちのマナを提供し、あなたを満腹させ、いのちの源を見つけ、一日も早く主に立ち返るように導きます。

奇跡!医学的に不妊と診断されたあと、彼女は元気な赤ちゃんを産んだ(I)

2020-05-24 23:33:03 | 賛美の心

広く明るいリビングにはベビーベッドがあって、生後六ヶ月の赤ちゃんが小さな口で小さな指をしゃぶりながら、幸せそうに横たわっていました。小慧はソファーに座り、それまで決して自分の顔を飾ることがなかった笑みを浮かべながら、その光景を見ていました。

かつて不妊だった小慧が元気な赤ちゃんを産めたのは、科学的処置や医療の結果ではありませんでした。それは神様によって彼女に与えられたいのちなのです。医療を探し求めた二年以上にわたるつらさを振り返ると、彼女は複雑な感情で一杯になりました。

奇跡!医学的に不妊と診断されたあと、彼女は元気な赤ちゃんを産んだ

二十代前半のころ、小慧は二年間交際したボーイフレンドと結婚し、結婚後は夫の愛と献身に恵まれましたが、かわいい赤ちゃんを産んで家庭を始める夢を叶えることも楽しみにしていました。しかし小慧はどうしても妊娠できず、その理由を確かめようと病院に行ったところ、医師からこう告げられました。

「先天性卵巣形成不全が治癒する可能性は極めて低いです」これはどうしても子どもを欲しがっていた小慧にとって苦痛に満ちた打撃となりました。彼女は息の下で自分にこう言いました。「どうしてこんなことになるの。子どもを産めない女なんて誰が尊敬するでしょう。子どもを産めなかったら、将来、夫はそれでも私を望むかしら。それにお義母さんも孫と会うのを心待ちにしているし」涙が頬を伝い落ちる中、小慧は後ろ向きで惨めな思いに捕らわれました。

「先生、現在の医学はとても進んでいますし、私の状態がよくなって妊娠できる可能性が低いのはわかっていますが、それでも治すために全力を尽くしたいんです。先生、お願いですから助けてください!」子どもを産む望みがすべてその医師にかかっているかのように、小慧は懇願しました。医師は最先端の赤外線加温殺菌治療を小慧に施し、薬を処方しましたが、半年間にわたる治療を行ない、三万元の費用をかけてもなお、小慧の病状は変わりませんでした。まったく改善していなかったのです。小慧はひどい無力感を覚えました。自分の病状に対して本当に治療法はないのだろうか。小慧は、必要な器具を完備し、国内最先端の技能を有する医師がいる病院で治療を試みたいと望みました。そこに必ず答えがあるはずだと考えたのです。そこで彼女は情報を集め、治療を求めて有名な国立病院へと向かいました。

しかし医師は、彼女が持ち込んだ資料に素早く目を通し、病状やこれまでの治療歴についていくつか簡単な質問をしたあと、こう言いました。「あなたはずっと生理が弱く、卵巣も数ミリほどの長さしかなくて、エストロゲンも少ないです。あなたの病歴と検査結果も、先天性卵巣形成不全という診断と一致しています。だから新たな検査は行ないません。その代わり、人工的に生理を誘発するため、人工プロゲステロンを使うことにします」しかし二ヶ月にわたる治療を経ても病状が改善することはなく、薬の副作用のせいで食欲を失いました。痛みと苦しみがひどいため、薬をとり続けることもできませんでした。しかし小慧は諦めたくはありませんでした。数多くの不妊を見事に治療した病院や医師について、インターネットの記事を読んだりテレビや広告で見たりしましたが、そのすべてを頭に思い浮かべ、次の回復例となることを夢見ました。彼女は最後の希望にかき立てられて、名の通った二つの大病院に行きました。診察のあと、有名な医師がこう言いました。「あなたのエストロゲンレベルはとても低いので、生涯にわたってホルモン補充療法を行なわなければならないでしょう。治療をやめることはできません。さもないと老化が早まります」その言葉が傷口にすり込まれた塩のようだということに、疑問の余地はありませんでした。自分の病状が生涯にわたるホルモン補充療法を必要とするとは、想像できたはずがありません。小慧は失望を覚え、医師の言葉に耳を傾けてもう半年治療を行なうしか選択肢はありませんでした。しかし再検査を行なったとき、彼女の卵巣は小さすぎるままで、成長した卵子も見られませんでした。小慧は完全に絶望しました。

小慧は呆然としながら最終検査の結果を見つめました。過去二年間、彼女は仕事で貯めた十万元をすべて治療に費やしました。また、治療のために苦しい思いをしてきたことも記憶に鮮明でした。医師の指示通りに検査を受け、薬を飲み、注射をされ、そのすべてについて細かな点までまったくおろそかにしませんでした。冬の寒さや夏の暑さの中でも予約した検査には必ず行き、どれほどの距離を旅したか、どれほど多くの血を抜かれたか、何回注射を受けたり薬を飲んだりしてきたか、思い出せないほどでした。しかし結局、彼女の病状はこれっぽっちも改善していなかったのです。その代わり、肉体的にも精神的にも疲れ果て、苦痛にさいなまれ、またホルモンを長期投与したことによる副作用のせいで、体重が元々の四十五キロから六十キロに増えました。サイズも何段階か大きくなりました。満月のようになった顔と膨れ上がった身体を鏡で見たとき、それまで経験したことのない失望を感じました。それまでずっと、医学と科学には権威があると思っていましたが、想像するほど素晴らしいものではなかったのです。その瞬間、彼女は頼るものが何もないかのように感じ、悲しみと絶望に捕らわれました。

その夜、小慧は眠ることができずにベッドの中で寝返りをうっていました。窓の外に広がる夜の暗闇を見ていると、自分が無力に感じられ、両目の端から涙が静かに枕へ流れ落ちました。

小慧の祖母はいつも孫娘への気遣いを見せていましたが、彼女の家を訪れたところ、小慧が不妊のせいでどれほど苦しみ絶望しているかを知りました。祖母は優しくこうアドバイスしました。「小慧、これまでの数年間、不妊を治すためにあなたがどれほど苦しんできたか、どんなことを経験してきたか、私はわかってますよ。あなたがそのすべてを耐えているのを見て、とても心配だったのよ」小慧は無言のまま涙がこぼれ落ちるのを我慢しました。祖母は続けました。「実は、妊娠するかどうかについて私たちに選択肢はないの。私たちも、それにお医者さんや科学もそれをコントロールすることはできなくて、神様だけがおできになるのよ。あなたは神様を信じるべきだわ。神様の御言葉は、私たちが人生で出会う問題や困難をすべて解決できるんですから」祖母の言葉に小慧は慰められ、心が穏やかになるのを感じました。

祖母はさらに続けました。「小慧、神様の御言葉を読んで、子どもを授かることについて何と言っているか見てみましょう」小慧は神様の御言葉の本を手に取って読みました。「人間の計画や幻想は完璧であるが、自分の子の人数や自分の子の容姿、能力などは自分で決められず、…人間は、自分の子孫のために一切努力を惜しまないが、最終的には、自分がもうける子の人数や、その子がどのような子であるかは、その者の計画や願望通りにはならない。貧しいながら多くの子を授かる者もいれば、裕福ながら子を授からない者もいる。娘を欲しがっていてもその願いが叶わない者や、息子を欲しがっても息子が出来ない者もいる。」

祖母はこう教えました。「神様の御言葉がそのことをどう説明しているか、はっきりわかるわね。私たちが子どもを授かるかどうか、その子が男の子か女の子か、どんな外見になるか、そして将来どんなことをするのかは、私たちにもお医者さんにもどうにもできないの。できるだけ早く子どもを産みたいと願った、あなた自身の努力を振り返りましょう。あなたは医学的な治療を求め、最先端の治療を受けるためにあらゆる大病院に行ったわね。自分にできることは何でもしたけれど、すべて無駄に終わった。小慧、私たちは人間には頼れないの。神様に頼るとき初めて、奇跡が起こるのを見られるのよ。アブラハムが百歳のとき妻のサラはもう九十歳だったけど、神様はイサクという名の息子をお与えになった。一年後、子どもを授かるなんて生物学的に無理だと私たちには思える年齢で、サラは本当にアブラハムの息子イサクを産んだのよ。神様の権威は、私たちの頭では理解できないの」。

祖母の話を聞いたあと、小慧は治療を受けた自分の経験と、あらゆる可能な方法を考えてすべての大病院に行ったものの、結局まだ妊娠できていないことを思い起こしました。小慧は神様の御言葉と祖母の教えを受け入れました。

「小慧、自分の病状をよくしようとして、これ以上問題を抱え込んではだめよ。あなたが子どもを授かると神様がお決めになったら、遅かれ早かれ妊娠するわ。ただ誠実にそれと向き合い、神様に祈って頼り、神様のご支配と運命に従いなさい。そうすれば、もう心配したり苦しんだりすることはないし、幸せに楽しく生きることができるわ」。

その瞬間、自分が子どもを授かるかどうか、あるいはいつ授かるかは、自分で計画したり準備したりできることではなく、また努力や医療によって変えられるものでもないことを、小慧は理解し始めました。祖母の助けを借りて神様への服従の祈りを唱えると、これまでにないほどのくつろぎと落ち着きを感じました。他人が自分をどう思っているか、義両親と夫が自分をどう扱うだろうか、もはや気になりませんでした。その後、彼女は子どもを授かる能力を医学に託さず神様の手に委ね、神様が指揮と采配をなさるのに任せました。彼女は自由時間に両親の家に行き、祖母と一緒に神様の御言葉を読んだり、神様を讃える賛美歌を歌ったりして、心の奥深くで神様の平和と喜びを感じました。


サタンの支配を振り払い自由になる

2020-05-24 03:36:02 | 賛美の心

合肥市安徽省 黙黙

 神様を信じる前の私は、何をしようと誰にも遅れをとりたくありませんでした。他人よりも勝ち誇れるのならどんな苦難でも受け入れました。神様を受け入れた後も私の態度は変わりませんでした、なぜなら私は「苦労なくしては利益はない」という言葉を強く信じ、それが私の動機の証明に思えたからです。神様が私に真実を明らかにして下さった時、私はやっと自分がサタンの支配下で生きていた事に気づかされました。

証し

 

 少し前のこと、教会で私と共に奉仕していた姉妹が指導者のポジションにつく事になりました。その事を聞いて私は落ち込みました。私達は編集者として再任されるまでは二人とも指導者として奉仕していました。そして今その姉妹は再び指導者として無限に成長の可能性がある中で神様に仕えるのに、私は机にむかって孤独に仕事をこなすのです。こんな事をしていて私の将来はどうなるのだろうか?その一方で、「成功へは百万の道がある」という古いことわざを思い出しました。自分のやるべき事を正しくやり遂げる事によって、私自身も成功できるのです。私に必要な事は真理を求めるために、二倍の努力をするという事なのです。もしも私が説教を真理がより上手く伝わるように編集すれば、いつか指導者達は私が真理を理解している事に気付いてくれるかもしれない。そうすれば私は昇進し、未来も同じように明るくなるかもしれない。それに気付いた私は曇り空が晴れたかのように決意を新たにしました。私は仕事に没頭し、その合間には一時も気が緩まないよう、神の御言葉をひたすら読みました。

 ある日、『いのちに入ることに関する交わりと説教』の中にこのような一節を読みました。「神と真理を追い求める事を制限する全てのものはサタンの束縛の一つである。サタンの鎖の一つにでも縛られているのであれば、あなたの人生はすでに彼の支配下にある。」この言葉を聞いた後、自分自身に「私はサタンのどのような支配下で生きているのだろうか?どの毒が私が真理を追い求める事を邪魔しているのだろうか?」と聞かざるを得ませんでした。これらの問いかけをじっくり考えているうちに、自分の今の状況を思い出しました。姉妹が新たな役職についた後、私は消極的にはなりませんでした。私は更に忠実に神様の言葉を読み、神様に祈り、やるべき事を積極的に果たしました。表面上は今まで以上に懸命に真理を求めているようにも見えたが、深く分析すると、私が他人よりも遅れをとる事を受け入れることができたのは、いつかまた前に行けるという願望を抱いたからなのです。ベストの中のベストになりたいという大望が私が消極的にならなかった理由であり、より積極的に真理を求めることができたのですが、私のそのいわゆる真理を追い求めることはただの幻想であり、不純な追求だったのです。自己中心的な結果を達成するため、一瞬の追求をしようとしていたのです。私の神様と過ごした年月を思い起こしてみると、私の全ての犠牲は、「苦労なくしては利益はない」というサタンの毒によって払われたのだという事に気付きました。それによって私は見えない束縛に縛られ、卓越のために努力するようになったのです。すでにポジションがあったのにも関わらず、より高いポジションを求めていた。自分のポジションをなくしたり、前進出来なくなったら消極的にならなかった。真理を求めるために私は犠牲を払う意思があるようにも見えた。しかしながら、それは私が真理を理解し、そのために犠牲を払う意思があったからではなかったのです。単に成功するための犠牲と見せかけていただけだったのです。そこでやっと私の「苦労なくしては利益はない」というスタンスが自分の血管に流れているサタンの毒だったことを理解したのです。私は騙されていたのです。その毒が私の全ての人間らしさを奪ったのです。客観性がなく、私は傲慢で野望的だったのです。このすべてが私自身に起きた事なのです。私の野望は私の向上心の証だと思っていました。私の誰にも遅れをとりたくないという傲慢な考えは自分のモチベーションの表れだと思っていました。サタンの誤った考えを真実だと思い込み、悪い事ではなく名誉な事に見えたのです。このようにサタンに騙されて、善悪の違いがわからなくなるほど私は愚かだったのです。自分がどれだけ哀れだったのか、やっと気付いたのです。そして、どれだけサタンが狡猾で卑劣なのかも学びました。サタンはもっともらしい誤った考えを使い私達を騙して堕落させるのです。私達を迷わせ、彼の人を惑わす計画に私達は忠誠を誓うのです。これらの事は全て私達が知らぬ間に起きるのです。私達は真理を追い求めそのために犠牲を払っていると思っていても、実際は自己欺瞞の中で生きているのです。サタンの毒は本当に強力なのです!神様の啓示が無ければ、自分がサタンによって堕落させられたという真実や、彼の人を惑わす計画にも気付く事ができなかったはずです。神様の啓示が無ければ、私はそのままサタンの支配下で生き続け、そのうち私の全てがサタンに飲み込まれてしまったであろう。

 その時、私は神様の言葉を思い出しました。「神の家で効力者であることを喜ぶ人で、人に知られなくとも勤勉に、良心的な仕事をし、決して何かを得ようとせず、常に与える者であるのなら、その人は忠実な聖徒だと言おう。報いを求めず、ただ正直であるのだから。」(『言葉は肉において現れる』の「三つの訓戒」より)神様の言葉がどう振る舞うべきかを示してくださったのです。神様の創造物の一部として、私は無条件に神様を愛して喜んでいただき、心からやるべき事を果たすべきなのです。神様の創造物である者はこのような自覚を持つべきなのです。それを追い求める事は神様の意志に従っているのです。この日から私は真理を求めるためにベストを尽くします。その真理を頼りにサタンの欺きを見破り、支配を振り払うのです。もう私は肉体的な事は追い求めません。その代わりに苦労して誰に知られる事なくても、神様に喜んでいただくために自分のやるべき事を果たします。たとえ最後に何も残らなかったとしても、少しも後悔せずに私はやり続けます、なぜなら私は神様の小さな創造物だからです。創造主を喜ばせる事こそ私の人生の本当の目的なのです。


お茶とは沸騰させた水よりもわずかに苦いものにすぎないのでしょうか

2020-05-23 01:06:56 | 賛美の心

 私は茶店の見習いです。私は茶道を学ぶ前、お茶は沸騰させた水や他のドリンクと比べて少しにがいだけのものに過ぎないと思っていました。しかし、私は茶店で働き始めると、お茶には沢山学ぶことがあり、思っていたほど単純ではないことを知りました。

 例えば、紅茶、緑茶、黒茶、白茶、黄茶、ウーロン茶、菊花茶、そしてプーアル茶等があります。このそれぞれに独自の特別な味と効能があります。これ故に、人間は長い間お茶を飲んでいると、健康に良い異なる効果が得られます。黒茶は本質的に温かいものなので、体を温めたり、お腹の状態を整えてくれますので、冬に飲むのが適しており、お年寄りや冷え性の方に最も効果的です。緑茶は本質的に冷たく、涼しいものです。炎症を抑えることができ、リフレッシュするのに効果を発揮します。これ故、それを飲むのは夏が最適な時期です。ウーロン茶は本質的に温かく、体を温めたりお腹の調子を整える効果があるので、大抵の人が飲むのに適しています。さらに、このお茶は香りが豊かで、呑んだ後も口の中に香りが残るのでいつまでも後味が続きます。プーアル茶は黒茶の一種です。脂っこい物を食べた後は、これを飲んでお腹の中をきれいにすることができ、脂質を分解してくれるのでダイエットに効果的な特性があります。しかし、このお茶は、生茶および熟茶、といった2種類に分かれます。生茶は発酵されていないので、脂質を効果的に分解することができます。しかし、飲み過ぎるとお腹が痛くなることがあります。それに加え、味は熟茶より劣ります。従って、大抵の人は本質的に温かくてお腹の調子を整えてくれる熟茶を選んで飲まれます。

神の権威,神の主宰,創造

 私が先生の下で茶道を学び始めた時、彼女はこう仰りました:「山の湧き水は都市の汚染からかなり離れています。それは最も自然な水であり、普通の湧き水の中でも最高のものであるから、それに浸したお茶は自然と普通の湧き水に浸したものよりも美味しいのです。私たちは精製水を使ってお茶を浸しますが、山の湧き水の甘い味は出ないんです。」これを聞いた後、私はお茶を飲むことについて学ぶことが沢山あることを知りました。私の先生は私に笑顔を見せてこう言いました、「ほら、私の健康状態はどう?」健康でみなぎっている彼女を見た私は、「とても健康的です」と答えました。そして彼女は言いました、「私は以前仕事で忙しくて、お腹の調子が悪かったのよ。しかも、私生活におけるプレッシャーもあってよく不眠症になっていたの。でも、静かにお茶を味わったら、不安だった心が次第に落ち着いていったのよ。しかも、夏には緑茶を飲んで熱を解消して炎症を抑え、冬には黒茶を飲んで寒さ対策をしてお腹を温めるといった感じで季節に合わせてお茶を定期的に飲むようになったら、次第に健康を取り戻すことができたの。でも覚えておいて、お茶は夜には飲まない方がいいのよ。どうしてかって言うと、夜は私たちが寝る時間だし、お茶は頭をすっきりさせてしまうから、お茶を飲むのは逆効果なの。」この言葉を聞いて、私はお茶の葉の小片の効能と価値は本当にそれぞれの期待に応えていることを知りました。

 後に、私は友人と知り合いました。彼女はよく私たちの茶店にお茶を飲みに来ました。最初、彼女は血色が悪く、不眠症と便秘に困っていました。彼女は自分が飲むに適したお茶を選び、それをしばらく飲んだ後、血色がどんどん良くなり、彼女の容態も大幅に改善しました。その後、私もお茶を飲んでみたくなりました。私は冷え性で、指とつま先が冷たかったので、黒茶を飲むことにしました。それは私の予想以上で、しばらく経った後、私の体は以前ほど冷たくなくなり、手と足もそれほど冷たくなくなったのです。一時の間、私は頻繁に夜更かしをしていたので、道を歩いていると視界が全てぼやけてしまうことがありました。私はその時、菊花茶が視力を改善できると聞いたのでそれを飲み続けて、少しずつ就寝時間を調整しました。しばらくした後、私の視界はそれほどぼやけなくなりました。私は自らお茶の素晴らしい効能を体験したのでした。私はこういった種のお茶は薬の代わりにはならないものの、軽度の病気や慢性疾患なら適切なお茶を飲めば予防したり、治すことができると感じました。これは本当に素晴らしいことです!感嘆の吐息をもらした後、私はお茶の効能はどこから来ているのかを知りたくなりました。

 その後、私はこの御言葉を目にしました:「さらに、動物であるか植物であるか草であるかを問わず、万物の中には、神が造った、人体の負傷や疾病を癒やすために必要とされる植物もある。…血行を促進して血行不良を改善する植物、痛みを緩和する植物、止血する植物、麻酔効果のある植物、正常な皮膚の回復を促進する植物、鬱血を解消する植物、解毒する植物などもある。要するに、これら全ての植物を日常生活で使用できる。これらの植物は人間にとって利便性があり、人体に必要な場合のために神が用意したものである。神により人間が偶然発見できるようにされた植物もあれば、特殊な現象により発見された植物もあり、神が用意した特定の人間により発見された植物もある。そうした発見の後、人間はそれを伝えて多くの人々がそのことを知るようになる。このように、神によるこうした植物の創造には、価値と意義がある。…神は隠れて業を行った。この世界に人間が現れる前、神が人類と接する前に、神は既にこれら全てを造り終えていた。神が行った業は、全て人間と、人間の生存のためのものであり、また人間の存在のために配慮されたものであるので、人類は、神が人類のために造った、このような豊富で潤沢な物質世界で生活することができ、食料や衣料に懸念すること無く、不自由無く幸せに生活することができる。」

 全ては神に創造され、制御されていることが分かりました。神は人間を創造なさる前に、既に私たちが必要とするもの全てを用意されていたのです。神は私たちが実生活において病気に罹ることをご存知であられたので、各植物に異なる効能をお与えになり、それぞれが異なる用途および価値を持つようにされました。そうすることで、私たちの病気は様々な薬草で治療することができるのです。例えば、人によっては痰を治して咳を和らげることができたり、人によってはお腹を温めて下痢を緩和することができたり、また他の人は熱を下げて毒素を取り除くことができたり、さらにまた他の人は食物の停滞を解消して脂質を分解することができます。それらの有する効能が何であれ、私たち人間が最大の受益者なのです。これは、神の創造された植物は、大きなものであれ、小さなものあれ、それぞれが独自の価値と存在の意味を有していることを意味しています。

 実際に、植物の中に神の全能さと御知恵が込められているだけでなく、空気、光、適切な温度など私たちが存続するための環境は神によって適切な形で用意されており、私たちが好ましい環境で暮らせるようになっているのです。さらに、神が各季節に備えてくださる様々な食物や果物はやがて私たちが必要な様々な栄養素を提供してくれます。これより、私たちに対する神の愛は包括的であることが分かります:私たちの生活環境から日常の食べ物まで、神は私たちに豊富にお与えくださっています。これを受けて、私は本当に神の善良な御旨と奇跡的な創造を讃えます。私たちの回りにある木、花、魚、虫、そして鳥を注意して観測してみれば、創造主は全てのものを養っておられ、絶えず私たちに備えてくださっておられることが容易に分かります。神様、有難うございます!全ての栄光、神にあれ!


クリスチャン結婚導き:結婚相手を選ぶには

2020-05-19 11:51:45 | 賛美の心

 信仰ステーションの兄弟姉妹の皆さんへ:

 私はもう人生のパートナーを探しても好い年齢ですし、未信者の家族たちからも彼氏を見つけるようにせき立てられています。でも、私は幸せになるためにはどのようなパートナーを探すべきなのかが分かりません。結婚相手を探す話しになると、私の未信者の友達は皆「背が高くて、裕福でハンサム」もしくは「色白で、裕福で美しい」人を選びたがるのですが、彼らの間には本当の愛情はないですし、それどころかお互いをたくさん傷つけ合っています。私たちはクリスチャンとして愛と結婚をどのように考えるべきなのか、私はそれを理解したいのです。

 裕子

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 裕子姉妹へ:

 あなたのメッセージを読んだ時、私の中で多くの感情がこみ上げてきました。愛と結婚に関する話は私たちの人生において最も大切な事柄の1つであると同時に重大な節目であるとも言えるでしょう。私たちが選ぶパートナーによってこの人生が苦しくなったり、楽しくなったりすることがあります。私も神の信仰を始めるまでは、周りの友人や同僚たちと一緒にこの世のトレンドを追いかけ、豪華な結婚式を挙げることを熱望し、「背が高くて、裕福でハンサム」もしくは「色白で、裕福で美しい」 を結婚相手の条件として設定していました。私は神を信仰するようになってから初めてこの原則における真理を理解しました。私は少しですが愛と結婚に関する理解を得て、愛と結婚における選択方法を学びました。

 以下は私が「背が高くて、裕福でハンサム」、という理想の条件を手にした後に私が自分の結婚生活で体験した話しです。これがあなたに助けと志を与え、あなたが愛と結婚において正しい選択をし、将来と幸せな生活に向かって素晴らしいスタートを切るきっかけになることを期待しています。

 私は婚期を迎えた時、私だけの「白馬の王子様」と出会うことを願い、友人や家族の紹介を受けて 「背が高くて、裕福でハンサム」、という理想の男性と出会いました。彼は背が高くて、ハンサムで、収入が良く、裕福な家庭の生まれでした。私の内の虚栄心はこれにとても満足し、同時に私は私たちが一緒に年を取り、残りの人生を通してお互いを愛し合っていくことも期待しました。しかし、結婚生活が始まってから5年も経たないうちに、彼は私にうんざりし始めて、全てにおいてうるさく文句を言うようになってしまいました。私が食べるものや着るものは全て彼の個人的な好みに合っていなければならず、お互いの家庭環境の不均衡が原因で、私は彼の家族と一緒にいる時は常に見下されていました。私は絶えず彼らの顔色を伺い、私が彼の気に入らないことをすると、彼は仏頂面をして、私のことを無視し、私に対してよそよそしい態度を取りました。私はこういったこと全てを我慢していましたが、彼は私の脚が短いだとか、私にもっと痩せて欲しいだとか、肌が綺麗じゃないなどと文句を言いました。私はしばらく経った後、彼にはかなり以前から裏切られていたことを知りました。

 私にとってとても辛かったのは彼が典型的な無神論者であったことで、私が神の信仰を始めると、彼は私の信仰を抑圧し、妨害してきたのです。彼は私の後を付いてまわり、私が集会に行くのを許してくれず、私に向って手を上げることすらありました。私たちは共に生活しながらも、お互いを理解し合える共通言語を既に失っていました。私たちの結婚生活は名ばかりのものだったのです。私たちはベッドを共にする他人で、私の目は涙で溢れました。あの結婚生活はこのような苦しみの中で幕を閉じました⋯⋯

 神は私を祝福してくださりました。私は神の御言葉を読んで、この側面における真理を理解し、苦しみの根源を見い出しました。私は神のこの御言葉を目にしたのです、「こうした社会動向には、それぞれに人間を継続的に退化させ、良心、人間性、理知を失わせ、人間の倫理や人格をますます低下させる邪悪な影響があり、それゆえ現在、大部分の人々に誠実さや人間性、良心、さらには理知さえ欠如している状態にまで達しているとさえ言えるほどです。それでは、そのような社会動向とは何なのでしょうか。それは裸眼では見ることが不可能です。社会動向が席巻すると、その創出者となるのはごく僅かな人たちです。その人たちは、ある種の行動を始めたり、ある種の考え方や物の見方を受け入れたりして始めます。しかし大部分の人々は、無意識のうちに、そうした社会動向に継続的に汚染され、捕らわれ、魅惑され、やがてそれを知らず知らずのうちに、無意識のうちに受け入れるようになり、それに呑み込まれて支配されるようになります。こうした社会動向で、心身の健全さが欠如し、真理とは何かを知らず、肯定的なものと否定的なものの区別が出来ない人間は、そうしたサタンに由来する社会動向や人生観、価値観を次々と進んで受け入れてしまいます。この種の人々は、どのような人生を送るべきかに関してサタンが教えることや、サタンにより『授けられた』生活の道を受け入れます。彼らには強さ、能力、またことさらに拒否する意識が欠乏しているのです」。

 私は神の御言葉から、現在の邪悪なトレンドは全てお金、力、そして地位を求めることに焦点を置いており、多くの人々に「背が高くて、裕福でハンサム」もしくは「色白で、裕福で美しい」、といった条件を結婚相手の基準として設定させているということに気が付きました。これに加え、テレビで放送されるアイドル出演のドラマや若者向けのドラマは特にこのような考えを表し、人々を惹きつけて外見や地位、そしてお金を追い求めることを重要視させています。いわゆる「愛」や「結婚」は欲の悪臭が充満しており、取引と利益の追求であふれています。こういった結婚は本質的に早い段階から腐敗しているのです。私の結婚生活は早々に終わりを迎えた理由は、私が「背が高くて、裕福でハンサム」、といった邪悪なトレンドを結婚相手に求める目標としてとらえ、富と私益を手にすることに夢中になってしまったからです。私は短期的な虚栄心を満たすことができたものの、結婚後は、価値観の違い、そして習慣、好み、求めるもの全てが大きく違ったため、仲良くするのはとても大変でした。そして、私は夫がこだわっていた「色白で、裕福で、美しい」という基準を満たしていなかったため、夫は本当に私を見下していました。これは結婚後の私たちの生活が単に不幸になるだけでなく、非常に辛いものになることを意味していました。サタンは本当にこういった邪悪なトレンドを利用して人々を傷つけ、幸せになるはずの結婚生活をありとあらゆる追加条件付きの取引と化してしまい、片方がもう片方の願望を満たせないと、二人の関係はすぐに完全に崩壊し、彼らの結婚生活は僅かな日数しか続けなくなるのです。これがサタンが人類を堕落させることによって生まれる結果なのです。

 この挫折と失敗を理由に、私は結婚におけるサタンの観点に頼るのを止め、結婚相手を探す上で 「背が高くて、裕福でハンサム」もしくは「色白で、裕福で美しい」、という条件を基準とする世のトレンドに従うのも止めました。代わりに、私は真理の原則に従ってそれを熟考し、それに取り組みました。

 その後、私は『命の成長のための説教シリーズ』にこう書かれているのを目にしました、「ではお伺いしますが、結婚相手を探す上で最も大切なことは何だと思いますか?最も大切なことはその人がどのような道を歩み、どのような人であるかです。あなたはその人と異なる道を歩んでいたら、同じベッドの上で寝ていても、違う夢を見ながら残りの人生を過ごすことになるでしょう。それで幸せだと言えるでしょうか?共通言語を持たずして、幸せにはなれません。例えば、真理を追い求める姉妹がいて、その夫は富を追い求めているとしましょう。真理を追い求める人が富を追い求める人と共に人生を歩めると思いますか?その二人は共通言語を持っているでしょうか?夫は帰宅すると、『今日はまた金儲けをする方法を発見したぞ』、と言います。ですが姉妹は、『今日はもう少し真理が理解できたわ』、と言います。分かりますよね?二人は同じ道を歩んでいないので、こういった事を口にするとたんに、気持が離れていってしまうのです。これ故に、結婚相手を選ぶにあたって、何を最優先するべきでしょう?肝心なのは同じ理想と信仰を持つ人を選ぶということです。そうしたら、同じ理想と信仰を持つという土台に加え、その他には何を選ぶ必要があるでしょう?自分と類似の人間性を持つ人を選びましょう。あなたが善良な人間性を持っていたとしても、人間性の乏しい人を選んでしまったら、将来確実にたくさん口論をすることになり、意見の衝突を起こすでしょう。あなたの人間性がさほど善良でなかったとしても、善良な人間性を持つ人を選べば、その人はあなたにとって有益な存在となり、思いやりを持ってあなたと接してくれるでしょう。これが大切なことであり、こういった側面を全て考慮しなければなりません。その人があなたにとって最も適切な人であるかどうかを知るためには、神に祈る必要があります。しばらく祈りを捧げてみて、何にも邪魔されず、心がとても穏やかになり、祈り探求することで全てが順調に、問題なく進むのであれば、それはその結婚があなたにとって十分ふさわしいものであることを示しています。それから、兄弟姉妹たちにその結婚を承認してもらってください。全員が『あなた達は本当にお似合いです』、と言って、その結婚が適切だと感じてくれたら、それを承認してくれるでしょう。お分かりでしょうか、神は私たちの魂の内に平安、承認、そして円滑な道をお与えくださったのです。これは素晴らしいことであり、いのちの運命を決定し得ることなのです。」

 私はこの交流より、結婚相手を探す時は、自分と同じ信仰と心を持つ人を探すことだけが神の御心に則しているということを知りました。それは何故かと言うと、その二人は共通言語を持ち、同じ目標に向かっているからです。弱気で否定的になっている時は、お互いを助け支え合い、困難やジレンマに遭遇する時は、お互いを勇気づけ慰め合い、一緒に神を頼りにしながら神の証を立てることができるのです。このような相手を持つことは、私たち信者にとってはいのちに入る上で有益なことです。私の教会の友人の1人で正にこれに当てはまる人がいます。彼女と彼女の夫は共に信者であり、二人は共通言語を持ち、神のために積極的に働き、労力を費やし、福音を伝導し、神の証言を立てています。彼らは理解できない真理に遭遇すると、一緒に話し合い、お互いの弱い所を強化し合うことができます。困難に遭遇すれば、お互いを勇気づけ合い、助け合い、そして支え合うことができています。家庭内での触れ合いにおいても、彼らはお互いを助け合い、愛し合う気持ち、ならびに寛大な心と寛容さを見せ合っているのです。彼らは生活の中で主の御言葉を実践の原則としています。彼らは家庭がもたらす最高の幸せの中を生きているのです。ヨブの妻がしたことを振り返ってみましょう。ヨブが試練を受けてもだえ苦しんでいた時、彼の妻は神を頼るようにと彼を励まさなかったどころか、「あなたはなおも堅く保って、自分を全うするのですか。神をのろって死になさい」(ヨブ記2章9節)、と言って彼をあざけりました。失敗に終わった私自身の結婚生活は私にとって大きな教訓にもなりました。明らかに、同じ心を持った結婚相手を見つけることは絶対に重要なことなのです。聖書にもこう書かれています、「ふたりの者がもし約束しなかったなら、一緒に歩くだろうか」(アモス書3章3節)。 結婚相手を見つけるための1要素として、相手が共通の信仰と同じ心を持っている人であるということがあり、もう1つは、これについて神に祈り、たんさん探求するということです。しばらくの間、これについて神に祈り、聖霊からの検認が得られるかどうかを確認してみてください。心の中で平安を感じるのであれば、それは聖霊の検認を得ているということです。あなたの兄弟姉妹たち全員がお似合いだと言えば、それは神の御采配によるものということです。そのような結婚のみが神に祝され、幸せな日々をもたらすことができます。

 上述した交流があなたの助けになることを願っています。神の御言葉は私たちが進むべき道を照らす光であり、幸福につながる道路標識のようなものです。神の祝福は、神の御言葉の原則に従って実践してのみ得ることができます。幸せをもたらす結婚相手を探すにあたって、あなたに神の御恵みがありますように。

 信仰ステーション


私は誘惑を振り払って正直になることを実践しました

2020-05-18 19:16:08 | 賛美の心

 ある日、私は体育の授業の後、空腹を満たそうと自動販売機に食べ物を買いに行きました。私はスロットに5ドル札を入れて、1ドルのスナックを購入、そして「お釣り」という印のあるボタンを押しました。その直後、沢山の小銭が落ちる音が聞こえました。私はビックリしてしばらくそこに立ち尽くしました。小銭を取り出してみると、およそ20ドル近くもあったのです。その時、私は欲張りなことを思いつきました:「この小銭を頂戴したら好きな物が買えるかもしれないな。」しかし、その時こう思いました:「いや、それは駄目だ。お金を取っても誰にもバレないだろうけど、神は全てを観察しておられる。神は正直な人を好まれるから。そんなことしたら正直で立派な人になれない。」しばらく躊躇した後、私は余分なお金を自分の先生に手渡すことにしました。その時、私の友達の1人がやって来て、このことを話すとこういって僕のことを笑いました、「お前は本当に馬鹿だなあ。お金が欲しくなかいなら俺にくれよ。」私は彼の言葉を聞いてこう思いました:「私はキリスト教徒だから、主の教えに従って行動するべきなんだ。これがキリスト教徒の行動規範だから。神に喜んでいただける限り、他人から愚か者だと思われても関係ないよ。」そして、私は余分な小銭を先生に手渡すと、先生は正直だと褒めてくれた上に感謝もしてくれました。今回正直になることを実践した私は平安と喜びを感じました。

クリスチャン証,誠実,神の言葉

 その後、私はまた他の試練に直面しました。ある夜、私の母が夕食を買うために私をファストフードレストランに連れていってくれました。私は白米と塩味のベイクドチキンを注文しましたが、白米は売り切れだと言われました。「フライドポテトか他の物はいかがでしょうか?」、とウェイトレスが私に申し訳なさそうに聞いてきました。そして私は白米をフライトポテトに変更しました。私がメニューを見ると、「白米と塩味のベイクドチキンが8ドル、塩味のベイクドチキンが5.5ドル、そしてフライドポテト一人前が3ドル」と書いてあるのを目にしました。私はこう思いました:「今白米をフライドポテトに変更したから、合計で8.5ドル、てことはウェイトレスにあと50セント渡さなきゃいけないな。でも英語上手く喋れないしなあ。途中で言葉が詰まったらどうしよう。まあとにかく、たったの50セントだから、わざわざ彼女に渡さなくてもいいだろう。それに、彼女は払うように言ってこなかったし。」こう考えた時、私は心の中で罪悪感を感じました:「これって詐欺になるのかな?それに、ファーストフードレストランで働くのは彼女にとって楽じゃないだろうしなあ。払わないわけにはいかないよ」こう考えた私は彼女にあと50セント支払うことにしました。自分の食べ物を取りに行った時、私は彼女に50セントを渡してこう言いました、「これ残りの50セントです、塩味のベイクドチキンとフライドポテト一人前の合計は白米と塩味のベイクドチキンの合計より50セント高いんで。」こう言った後、私は自分の英語の流暢さに驚きました。その瞬間、ウェイトレスは私にこう言いました、「いえ、その必要はありません。」私が彼女を説得してお金を受け取ってもらおうと口を開く前に彼女は続けてこう言いました、「申し訳ありません、私が間違っていました。」「大丈夫ですよ」、と私は返事しました。「有難うございます。」そしてウェイトレスは私に微笑みかけてくれました。

 この2つはささいな出来事でしたが、私にとってはとても有意義であり、私はこれを通じてこの理解に至りました:私たちの生活において、サタンの誘惑はいつでも私たちに降りかかってくる可能性があります。しかし、主の教えに従って正直な人を実践している限り、私たちは心の中で平安と喜びを感じるでしょう。聖書にはこう記されています、「偽りを言うくちびるは主に憎まれ、真実を行う者は彼に喜ばれる。」(箴言12:22)。主は正直な人を愛されます。私たちは主の要件に従いながら見せかけなしに喋り、行動してのみ、主に求めていただくことができます。将来、私は主の御言葉を実践することにさらなる努力を費やし、主の御名前の栄光を讃えるために正直な子になります。